
友人の紺の豚さんが、信貴生駒SLで待ってるぜというので、
日曜日は久しぶりに850で奈良方面へ出かけることにした。
真夏の日中というのは、エアコンの着いた車でも
そう走りたいものでない。だが時々クルマは走らせないと
調子が落ちて来るものなのである。
近畿道を摂津南で降りて163のトンネルを抜けてしまい
峠道へUターン。今度は阪奈道方面へ、山の中を走る。
六甲山や北摂、京都の郊外辺りの山道に比べると
情趣にとぼしい。
これは大阪や奈良の人に責任があるのだろうか。
スカイラインに入って1900円も取られて走っていると
特にその感が募る。
東大阪の大人(タイジン)、司馬遼太郎も諦めていたが
元々の風景はそんなに悪くなかったはずだ。
戦後にこのあたりを開発した、近鉄の資本に多少の責も
あるように思える。
多分昭和40年前後には「間に合わせで良い」と思ったの
だろう。
陳腐なレジャー施設には引力も無く、現代の高性能な
クルマを走らせるには、道路が旧態過ぎる。
無理をすれば6年前みたいな大事故も起きる。
私のような昭和40年代の車でそのままの性能で走るのが
乙なところではなかろうか。
大分遅くなって到着したので、皆さんは先に帰られて
最後の方に登場したローバー620の試運転に来られていた
東大阪のギャルソンガレージの御当主とお話をする。
少し若い方なので、私のような極端に古い車を日常で
使うと言うことに質問がいくつか出た。
これは多少の無理もある。特にきょうのように暑い日は
大変だ。
この後の昼下がりはうだるようなドライブになったのだが、
それは後述する。
ギャルソンさんと別れて、1900円も払って勿体なかったので
信貴山下方面に出る。
車は少ない。それからこの付近の区間は昔、戦前には電車が
走っていて、戦時金属供出で廃線になり、戦後観光道路になった
経緯がある。
途中で一休みしたあたりの光景が、良かったのでブログヘッダーの
背景画像に使ってみた。
奈良の王寺に降りて行く普通の道を通らずに、柏原方面と書かれた
標識の方へ車を進める。
途中で河内堅上という場所を通った。関西本線の駅は今時でいう
秘境駅の風情があるが、本来の集落は遠く、山間にある砦の
要塞のような村だ。
太平記の好きな人なら、この辺りに居った土豪の楠木正成が
後醍醐天皇に呼応して、鎌倉政権末期から足利時代の半ばまで
さながらタリバンや、アルカイダのように権力に反抗したことを
覚えているだろう。
彼らは中世、「悪党」と呼ばれ、中央集権を簡単に許さなかった。
悪とはワルの意味でなく、「強い」という肯定的な意味である。
いやいや、今の世の中には頼もしいワルも居なくなりましたな。
さて、こんなところで今でも続いている正成当時から?の村祭り
などを通りすがりに見物しながら、葡萄畑のなか、のんびり
昼の焼肉宴会などやっている農民らのホリデーを横目に眺めて
ああ、南大阪はラテンだなあとつくづく合点する。
昔、河内ワインの工場あたりへ出撃した頃が懐かしい。
「南仏、プロバンス」ならぬ「南河、プロパンガスな12ヶ月」
と銘打ったおポンチな小説でも書こうかと、移住を考えていた
こともあったのである。
さて、25号線まで出てしまい、すっかり下界の暑さに参りそう
になる。
藤井寺に家族の親戚があるので、寄らせてもらい水でも
浴びたいが、電話に出ない。出かけているのであろう。
もう堪らず、「藤井寺食堂」なる例の定食チェーンの店に
飛び込み、鯖と茄子と、オクラをおかずに摂って昼食ご飯に
する。
ここでやっと生き返った心地になった。まだ食欲が少し残って
いたから、焼き鯖の美味に本当に救われた。もちろん脱水
した分は補給する。
藤井寺の義母にも会えなかったので、ここからこの暑い中、車を
どう進めるか。
大堀三宅から阪神高速に乗っちまえば、数十分後には池田に帰れる。
しかし池田に帰ってもエアコンはない(爆笑)。
最初の目的の一つ、帝塚山の私設ギャラリーできょうスタートの
写真講座卒業生発表会でも見にいったろう。
そこで大堀から長吉長原に出て、南港線を我孫子筋まで西に行く。
走っていましたがアツカッタなあ。
姫松あたりで少し道に迷うが、その前にここの交差点に出た時は
少し衝撃を受けた。
30数年前、銀行強盗が立て篭り、犠牲者と追い詰められた人間
が、「二度と口に出来ない」状況に陥った現場である。
まだ建て替えられてなかったのか。銀行の統廃合や支店閉鎖も
多い中、この銀行には他にも地場の磁力があるのだろうか。
主犯の梅川昭美は篭城3日目に射殺された。
その年の4月に、関西に出て来た私は、4年後に新聞社に入り
当時の現場を知る記者やカメラマンに何度もこの時の話を聞いた。
僕らは今、のほほんとクルマを運転し、ブログなんぞに泡沫(うたかた)
の記などを書いているが、リアル(現実)というのは、そこら中に
転がっているものなのです。
※ ※ ※
帝塚山のギャラリーは、行ったことがあるのに少し迷ってしまった。
路面電車の通りにほぼ面しているのだが、ワンブロック先に
停めてしまったようだ。
見慣れぬ色の路面電車が走ってくる。何だっけこの色、
と少し考えて思い出した。昭和40年代の都電色である。
少し黄色がきつい気がするが、阪堺線と東京都交通局で
今年、交換祝賀を行った記念に、それぞれの昔の色に
合わせて塗り変えた記念車輛である。
写真展は、知人が開催したモノクロ講座の卒業記念
展覧会で、銘々が作品の前でギャラリートークをした。
若い女性が半分くらい。
モノクロのアナログ写真にいま、こういった若い人が入って来る。
彼ら(彼女ら)は、同音異口に、「最後の銀塩写真に触れられる
チャンスだったから、入ったんです。」と、のたまわった。
僕自身は写真を始めた時は、当然白黒のフィルム写真からで
せっせと40年近く、撮り続けて来た。
今でも抛擲していない。フィルム写真も保存性や表現性に
価値を見出しているから続けている。
一通りのレセプションが終わり、やっと夕刻の風の吹き始めた
ころ、車に戻って最後の訪問地へ向かった。
もう大丈夫だ。ガソリンを入れてやり、すこぶる快調な愛車で
国道を軽快に飛ばして行く。
開け放った窓と、角度を付けた三角窓から風がびゅんびゅん
入って来る。
(旧くても)シャキッとしたクルマに乗れば、気持ちや生き方まで
背筋を伸ばしたくなる。
このことに気が付くまで、古い車をだましだまし乗り続けた
長い日々は、何のためにあったのであろう。
人間は何のために生きているのか、その答えは簡単には
見つからない。
ただしんどさや苦しさは、越えられそうなものなのかは、
歳をとると見分けられるようになる。
旧い車と付き合って、四半世紀を超えた今、益々愉しと
思うためには、もう少しの痩せ我慢と、自己研鑽が要るのではと、
この暑い夏の1日、じりじりと感じていたのであった。