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2011年11月08日 イイね!

洪水の季節、タイを遠く思う

洪水の季節、タイを遠く思うバンコクが水没寸前である。
私は1993年5月に仕事で一度訪問したことがある。
実は生まれ初めての海外旅行はこの時で、
33歳にもなって、何度も海外に出張に行っている妻に、呆れられるような
慰められるような出発であった。

それも仕方ない。
学生時代の最後くらいに、親からカネを借りてでも海外に行く友もいた。
私は国内都道府県を全部旅したことも無いのに、流行りだといって
尻軽にCMに乗せられるくらいならと言って、敬遠していたのである。

まあケチだから、負け惜しみと減らず口だけは人一倍言い返すが、
実際のところは、飛行機に乗って、知らない国に行くのが怖かったのかもしれない。
嫌だ嫌だと言いながら、未知の世界に連れて行かれて、人生が変わる。
人間はそんな面白い変化もあるから面白い。

この時の旅は私の目を大きく開けさせてくれた。
とくに古いヨーロッパ車の天国はアジアにもあることを知った。



バンコク「王宮」に来ていた素晴らしいコンデションのPeugeot404 
このとき初めて実物を見た。気品のある白の貴公子然としていました。


私もこの後に乗ることになるFIAT131Milafiori テールランプの小さいトランクに小段の付いた前期型


ダルマ初代セリカも「若者のクルマ」として健在であった。ストライプが南国を印象づける。


今夜は古いネガを出してきて、スキャンして皆様にお目にかけることにしよう。
説明は要らない。


興奮の出会いであったFIAT1100
1960年代に入ってからのモデルである。

最初はブルーバードかと思ったのよ。


広い通りをバスは飛ばす。小豆色のPeugeot504が元気に走っている。

この頃は、朝の6時から始まるラッシュアワーは、まだ高架の高速道路も地下鉄もなく
大変な様相を呈していた。
唯一の別交通機関として、水上バスが人気を集めていた頃であった。

バンコクの5月は乾期が終わり、そろそろ雨期の始まる頃である。
もう朝の早い時間に雨がきていた。そしてその雨は、日が高くなる頃には
すっかり綺麗に上がるのである。
あたかも前夜の汚れた人間たちの所行を、仏様の慈悲が洗い流してくれるかのように。


サムロ(トゥクトゥク)が走る。人と、市場で買い出した野菜を乗せて。


雨上がりのハイウェイを、ひときわ大きなマフラー音を立てて走っていたコルチナ。
日本でもロータスコルチナがブームになる前で、珍しい英国車の生の走りっぷりに
ノックアウトされそうだった。大分ポンコツの個体だったと思う。


友人が日本でも乗っていたFIAT128 4door 明るいクリームの個体が
雨上がりの街を喜んで飛んでいるカナリアのよう。出会えたことに感謝。


国産旧車も負けていない。

これは初代カローラのクーペとして登場したスプリンター。

向こうの車線に一瞬スバルff−1の1300Gらしきクルマが見えた。

カローラ70系のハッチバックだろう。
バンのような中途半端なデザインだったが、2T−Gを積んだレビンもあったことは
覚えておるだろうか。
それにしてもこの踏切。これが人口800万人のタイの首都の鉄道の有様なのである。


最後の方は平凡な風景をお目にかける。

コロナが雨の街に停まっている。奥には社長さんのベンツがある。
どこの国にでもあるオフィスの風景。


スコールの街。雨宿りを待つ人たち。
ドアと屋根に囲まれた今のクルマより、サムロの荷台で雨に打たれて、旅したい。


朝の街。ワーゲン。そして通勤バスを待つ普通の風景。

いまこの町が浸水の危機に刻一刻と襲われている。
チャオプラヤ川の河口に開けた東南アジアの都市に、水が多いのは仕方がないとしても
地球にこんな危機が迫っている。
私たちは今年、地震のあとに未曾有の津波に襲われた。
悲しむ暇も無く何かが起きるのは日常だ。
そして僕らは、ちっぽけな人生の中で、せいぜいクルマに乗るのを
楽しみとして、生きている。
タイの国の中でも、沢山のクルマが走っている。
この18年前の映像のような旧車たちは殆ど残っていないであろう。
イマージン、何かを思っていただければ幸いである。
それぞれの感想があり、そして明日も僕らはクルマに乗るだろう。
彼の国の、クルマとクルマ好きたちのために、
何かを共有したい。

kotaro
Posted at 2011/11/08 22:38:07 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2011年11月06日 イイね!

北国の便り

北国の便り札幌からMさんが関西に来られた。
2008年9月にお会いして以来、3年ぶりである。
医師として、この週末は学会の発表が神戸である。
その合間を縫い、是非お会いしましょうと先日電話があったのである。

Mさんの自動車趣味のことは、私以上に広くて長い。
誰でも納得出来ることから書くと、1983年に、3年落ちのフィアットX1/9を
購入され、ありとあらゆる研究をされた。
その研究を1991年に創刊したばかりの「Oldtimer」の翌年の14号に
これまでに無く詳しい日本向けのX1/9の記事をまとめられた。

私は、当時のこの記事を読んで、手紙を差し上げた。
ネットで今もあちこちのブログにコメントを書くのと動機は同じである。
それから何年か、手紙のやり取りが続き、その後は年賀状の時代に成る。
忙しい医師の仕事を選ばれたMさんは、道内の各地を勤務医として
歴職し、一時期はお互いの年賀状も途絶えた。

しかし彼は最初に買ったX1/9を今でも乗っておられる。
ナンバーは一貫していないが、28年を過ぎている。
そして彼が立ち上げたフィアットX1/9のクラブは、北の地に帰った後も
今も続いている。

昨夜は、大阪の自動車メーカーに勤められる、同級生のご友人もご一緒になった。
デザイン部におられたこともあり、話題は自然と自動車のデザイン論になった。
ご友人が「彼は医者の道よりデザイナーに成って欲しいくらいの才能があった」
と言われて、日本人の普通の会話ではなく、ここはイタリアなんだと思った。
僕ら日本人に今一番足りないことは情熱である。

それとあとは、恵まれた環境にあることへの、リスペクトである。
北海道のMさんは、「今年はまだ、11月でも凍ってないのですよ」と言う。
関東周辺に行くことの多いご友人は、「こっちは山道をアップダウンするコース
がいくらでもある」この道はX1/9向き、この道はMG−Bあたりだと。
今住んでいる池田のことを非常に愛しておられるのがわかる。
しかし自動車愛、自動車好きが会社に多くいるかというと、疑問を呈された。

3人で夜景を見に、大阪発動機製造の自慢のタント1号車に乗り六甲山に上がる。
話のネタは尽きず、山を下りてから泊まられるホテルのバーでもっともっと話は
続いた。



写真は2008年当時、札幌で乗っておられたフィアット128ラリー/ジャンニーニである。
X1/9は128の形式番号が共通なのである。
非常に奥の深い話が続いた。
英国製オープンカーは「スポーツカー」であり、イタリア製の屋根無しクルマは
「ナンパの道具」で、着座位置とサイドのベルトラインの高さについての考察。
このあたりは友人氏の言説である。
朝の早いMさんと別れてから、池田に帰る夜道の車の中でも、自動車デザイン論、機能論、
パッケージング論は続いた。

こんなにアツく自動車を語ったのはいつ以来だろう。
昨日の「フォーラム」参加者の感想である。
春に「ちっちゃいクルマ」の前夜祭の居酒屋談義の時にも、ベテランの自動車会社の
友人からこの言葉が漏れていた。

私は自分の役割は「触媒」だと思っている。
私に関わった人が、化学反応や変化をして、それで変われたら。
普段の日々で没入した人たちに、まだ面白いことがあるのではないかと思わせ、
それが人間が日々生きる新しい糧と成れば良いと思う。

ここの所よく文章を書いているなと思う。
鬱にならぬよう、無理に躁状態になっているのかもしれない。

北の大地の秋はもう終わり、長い冬がくる。
MG−Bに乗られる友人氏と知り合い、北海道ー大阪にまた面白いリンクができた。
飲み干したアルコールの軽い酔いの向こうに見えたものは、
これまでのお互いの人生と、この先への託したい思いなのかもしれない。

私の850シリーズで、いつかは北の大地を走ってみよう。






Posted at 2011/11/06 11:17:42 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2011年11月05日 イイね!

30年ロマンス、

今日はクルマのお話は、ちょっと休憩。
先日、岩崎良美さんが結婚された。
ヒロリン、ヨシリンの姉妹歌手と世代の重なる我らは、
50才での結婚を心から祝いたい。

彼女は1980年のデビュー。松田聖子と同期だ。
3歳上の宏美姉さんが1975年に「デュエット(二重唱)」で
16歳で世に出たのに比べると、芸能界デビューの噂はその前から
あったが、満を持してというより、おっとりした芸能界入りだった。



これが18歳の時の彼女。
「偉大なる姉」を持つ岩崎家3姉妹の末っ娘ゆえ、何かと比較されたこともあった。

姉宏美のプロ意識の強さは、同世代のライバルたちの中でも
並大抵でなかった。同学年だけでも、これだけいる。
山口百恵、森昌子、桜田淳子、伊藤咲子、黒木真由美、西川峰子…
とびきりのカワイ娘ちゃんや美人でなく、「歌一本」で
生き残ったヒロリンはプロ中のプロ、日本を代表する女性歌手だと思う。

その宏美さんの3歳下の妹は、普通の子だなあと思う。
でもそこがいいんだよなあ。
大事にされた、育ちの良いお嬢さんと言う感じで。



安井かずみー加藤和彦のヨーロピアンロマン調のナンバー
「愛してモナムール」1982年から

何ともこういう雰囲気が好きですね。この娘はハマトラのセンスで
知られていましたが、ボーダーのシャツも似合うし、こういった
“デートの定番ファッション”のときの髪型と服装も上品で、グーです。

しかし芸能界という巨大な不思議な世界の中で、来年、明日と
仕事があるかと言うと、これは自分で生き残る如かない。
アイドル歌手の賞味期限は数年で、下手したら1年で消えて行きます。
こんなお嬢さん歌手が、、とハラハラしながら男たちは見守るのですが
必死に応援しているようで、時々突然「清純派だったあの娘が!」と
GOROやプレイボーイでヌードになってしまい、「え”えっ」「うわあ”」
と叫びながら下半身のリビドーには抗える分けもなく、“使って”しまい
ヒトリ下宿で罪悪感に懺悔うなだれるのです。

ナンノ話ですっけ? しかしヨシリンは本物のお嬢で、そんな肉体(もの)
を売りにすることもなく、31年間タンタンと芸能活動して来られました。
彼女を普通語る時に引き合いに出るのは、唯一の大ヒット、この曲でしょう。


1985年の姉妹メドレーから(岩崎良美「タッチ」〜岩崎宏美「決心」)

姐さんコウェエ(汗)
りょう か天海祐希みたいなオッソロしいオーラが立ち上ってます。
それは何故かというと、ヒロリンのトレードマークの黒髪おかっぱを
この時代は、掻き揚げてイメージを変えているからです。

岩崎宏美のおかっぱと言うと漫画の「コータローまかり通る」の中の
登場人物、棒術の達人如月賢次がこの髪型でいつもコータローに
「ヒロミちゃん!」と呼ばれて、憤激すると増々強くなると言う
キャラであったことを思い出します。

ということで、時代は一気に飛んで、21世紀。
最近の映像です。
歌っているのは何故かデビュー曲の「赤と黒」
ボッサ・ノヴァ調にしたためています。



半世紀の大台、いろんなことを感じますが、いやー歌手というのは
本当にいいもんですねえ。歌を歌い続けることで、人を元気や勇気
付けることが出来る訳で。
実は私も、往年のレコード時代のLPとシングルは全部中古で集めています。
昔から暇だなあと思いつつ、大本命は買わず、いつも穴馬か本線の
裏ばかり、狙っているうちにここまで来てしまいました。

それではサヨナラ、サヨナラ、と往年の名調子で最後にもう一回
デビュー曲を見比べてください。
長いおつきあい、ありがとうございました(^^)



発掘された1980年の映像、直訳の英訳詞がいいですね。
これであなたも80年代車の虜に。なるわけないか。
Posted at 2011/11/05 11:25:32 | トラックバック(0) | うんちく | 趣味
2011年11月04日 イイね!

中兵庫クラシックカーフェスティバル

中兵庫クラシックカーフェスティバル昨年はエントリー後、開催直前に、出かけた遠出で
愛車のエンジンを焼いてしまい、キャンセルいたしました。

今年は捲土重来、楽しんできました。

秋のこの時期というのは、あちこちで催しが重なります。
心置きなく楽しんできたのですが、帰ってくるとやっぱり
不安定な気分になってしまう。

それは今年がそういう年なのでしょうか。

朝の往路は池田から春日まで高速に乗りました。
早速初代の赤テールのセリカGTの黄色に遭遇し
渋滞時間中に並んで走ります。




西紀のパーキングに停めようと思ったら、一気にスローダウン
し過ぎて、エンスト。その後セルモーターが一瞬回らなくなり
周囲にいた旧車乗りたちに押してもらいました。
ありがとうございました。

トラブルらしいトラブルはそれだけでしたが、まもなく会場到着。
このイベントも13回目。
元々、丹波市に合併前の春日町の「農民文化祭」の付帯行事の
一端でした。
市町村合併で春日地区の文化祭が行われなくなったり、
メイン会場の場所が、道の駅に変わったり、変遷がありました。

今年は従来通りの場所で、隣接の文化祭も開かれました。



しかし行政の市からの補助は無くなったということを、主催の方は
話しておられました。

どうも私の文章は硬くていけません。
しかし2000年に初参加したときは、こんな感じだったのだよね。

あれから11年が経てば、周囲が変わるのも普通だけれど、
車も私もとりあえず元気でやってこれたのは、幸福なのでしょう。

今年のエントリーから気になったのを写真で紹介。

KP61のバンです。



池田産、フェローマックスハードトップ。
気になったアルミは、最初のミラにオプションであった10インチものと
友人が教えていただきました。

何となく楽しい友人たち。



こんな感じで楽しい一日でした。
Posted at 2011/11/04 07:19:47 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2011年11月03日 イイね!

ランサーGSLストーリー

ランサーGSLストーリー今年のCGデイで、三菱ランサーが初代と2台目のEXが2台、私が気づいた時点で3台ほどやって来ていた。

その後に屋内で二玄社、いまは(株)カーグラフィックなのですが、旧出版部の書籍類を2割引で売っていたので、じっくり眺めておりました。
その中にシリーズ特集のコーナーに、欧米の名車に対抗して、三菱ランサーとスバルインプレッサの冊子がありました。

残念ながら、インプはレガシーが上級にあるので、その前身のレオーネ時代やスバルff1000からの時代のことは含まれず。その代わり「ランエボ」から語られることの多い、ランサーは嬉しいことに、当然ですが、1973年の初代モデルと、2台目EX、特に会場にも来ていた「ランタボ」と呼ばれた2代目ターボ車のことも、本に乗っていました。

日本人は妙なエンスー知識には反応するのに、自分の
国の車の歴史を、どうも疎かに見下しているような。
こういう時には元右翼新聞だったせいではありませんが、
妙に愛国心まで行きませんが、義侠心が湧いて来ます。
ベストカーを読んでいても、ミツモトが一番まともなジャーナリズム
性を持っていると、私は感心します。


ところで初代ランサーの登場した頃というのは、三菱は
まだ三菱重工自動車部から、三菱自動車になって数年でした。
大体、コルトの時代は三菱重工、ギャランが出た頃から
独立メーカーになったと覚えていてください。

無骨な旧コルトから、白鳥のように脱皮したギャランへの
変化は大きかったです。
成功したモデルのギャランはA2(2はギリシャ文字)に
GSというスポーツモデルがあり、これが人気を集めました。
1500ccからスタートしたギャランはスポーツクーペモデルの
GTOを出すと、排気量を1600ccに統一します。

人気の高まったGTOというのは、セリカ初代と登場時期が同じで
天地真理と小柳ルミ子、山口百恵と桜田淳子のように
ライバル視されて、よく比較されたものです。
若者にとり、1600ccというのは魔力を持った憧れの排気量でした。

日本人の生活力が付いて来たのが1970年の大阪万博からで、
360ccの軽自動車も沢山うまれましたが、サニーやカローラといった
ベーシックな「マイカー」も、家庭を持って、定年まで勤められるような
倒産しない会社に就職出来たお父さんたちにとり、最大の「家族への
プレゼント」だったのです。
この文脈が理解出来る人は、反対に今が年金とか不安定な社会に
なっている状況が、よくわかるでしょう。

ランサーに戻りましょう。
三菱は360ccのミニカの上が、いきなり1500から1600クラスの
ギャランになってしまった時期があり、当然、サニー、カローラ、
ファミリアの対抗馬を急いで用意する必要が有りました。
1973年、年末に石油ショックが始まる年に、ランサーは生まれました。
「鉄騎兵」のネームイメージの勇ましさより、2灯で丸いボディは
三菱車にしてはデザインが変わったなという第一印象でした。

直線基調の旧ギャラン、GTO派には受けないデザインでしたが
窮屈な小型スポーツクーペのFTOの失敗の反省もあったのでしょう。
全長4mながら、トランクと4ドア、2ドアを持つセダン型ボディ、
そして2ドアはクーペにも見える、デザインバランスの良いセダンでした。
この頃は、27レビン、トレノで知られる2代目カローラでも、
クーペとは別モデルの2ドアセダンが、残っていたのですよ。
サニーも4代目の310まで、2ドアセダンがありました。
カローラも70系まで、驚くような質素な2ドアセダンがありました。

ランサーは1200ccと1400(実際は1450cc程度)が中心で
当初の最高級モデルは、1600のサターン4G32型エンジンを
積んだGSLモデルでした。
GSLには2ドアと4ドアがありますが、一番最初の最初は2ドア
のみであったと思います。



全長4m、車重810kg、出力1600ccで100PS、(グロス表示)
パワーウエイトレシオが、8.1というのは、知る人ぞ知る
「隠れたスポーツカー」だったのです。
これにこの年の秋に、ツインキャブの“ホットチューン”、GSRが
加わります。
GSRは、110PSで車重はわずかに増えて815kg。しかし
ラリーフィールドを意識したLSD(リミテッドスリップデフ)を搭載した
完璧なラリーマシーンでした。
今日の三菱の“エヴォリューション”志向はここから始まるわけです。

こんくそ!レビン、トレノ「イーター」だったGSRは、ビートルズより
「俺はローリングストンーズ派」みたいな若者に受けました。
体制的なトヨタより、違うものを選ぶ。ニッサンのスカイラインや
ブルーバード、サニーというのもあり、マツダのサバンナもワイルドな
時代でした。

男たちは「俺の旗」を揚げて、街を改造した自慢の愛車で走り回り
ナウでボインなネエちゃん目当てに(ハクいスケという言い方もあった)
今で言う「ナンパ」をしに、夜の街に繰り出していたわけです。
仕事が終わったら即クルマ!、「クソ」、「メシ」みたいなノリだったのです。
ええやろ(笑)

でも三菱車のランサー1600というのは、全くオンナに受けない
通好みの渋い選択。それも判りやすいGSRでなく、なんでGSLなの!!
という風に、アンビヴァレンスな感性を持った小生は、最初に乗る
クルマは、何にしよう。フェローマックスハードトップの40馬力GXLか
このランサーで考えていました。
もう80年目前でしたから、当然中古車でっせ。



生まれて始めて所有できた、一番最初のクルマから、
こだわりにこだわって、中古車屋泣かせの激レアモデルを捜して
もらったのです。電話をかけさせまくって。
あんたらとは年季がちゃいまっせ(馬鹿)。

もう諦めかかっていたころ、年末に中古車屋から、
三菱の工場の隅に、下取り車で廃車も考えてた49年式
モデルがありましたと電話がありました。
一週間で全塗して、赤に塗り替えてもらい、翌年の正月
目出たく私は念願の、ランサー1600GSL 2ドア、排ガス
未対策モデル、オーナーとなったのでした。


Posted at 2011/11/03 02:02:01 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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