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kotaroのブログ一覧

2011年12月22日 イイね!

愛車GP2011

愛車GP2011じつは、
こっそりエコカー部門で
エントリーしていたりして。

皆様の有り難い「一票」はこちらから。
Posted at 2011/12/22 06:54:07 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2011年12月20日 イイね!

幸せのゆくえと将軍様の死

幸せのゆくえと将軍様の死





2011年は、2000年からのゼロ年代が終わりを
感じさせた1年になりました。
カダフィの暴殺、ビンラディンの虐殺、そして最後は
北朝鮮の金正日の死去と、「はあーっ、あいつもいなくなったか」
の年の瀬を感じています。1年前に、この3独裁型リーダーがいない
世界のことを考えた人がいたでしょうか。

思えば「拉致問題」というパンドラの箱の蓋を、小泉純一郎が
開けてみせ、その前のブッシュJr大統領就任直後の2001年秋の
9.11NY空襲で、2000年代は大動乱の10年が始まったことを
思い出しました。

1989年の東欧のビロード革命で、東西ドイツの統合含め
91年のソ連の解体まで、世界のドミノゲームは大きく色分けが
変わりました。あれから20年ですが、10年刻みで国際情勢は、
刻一刻と大きく変わっていることが判ります。

ところが日本だけは、20年前はバブルと、それを滑り落ちる
ことが始まったことだけを強調し、何も世界のことが判っていませんでした。
今回の動乱にも、国内災害と、その後の混乱である原発汚染に
眼が行き過ぎて、殆ど他の国外のことが見えていないと思います。

円高が最高値を突破しているのも、どこかで繋がっているのですが
国内のことにあまりに関心が集中し、あれだけの自然災害と、その「後遺症」
ですから、無理は無いのですが、こんな時にこそしっかり世界全体を見渡せる
人物が出て来て欲しい。できれば政治家や偉い学者や、国際的な作家に
期待したいのですが。



朝鮮民主主義人民共和国の金総書記というのは、ある角度から見れば
本当に格好の、不満材料の多い人たちにとっての攻撃の対象となる
標的でした。特に日本人が多数連れて行かれた拉致事件という、こういった
不幸な歴史の記憶すべき事件を通じて、すごくわかりやすい悪役だったと思います。
私は、まったく北朝鮮のひいきでもありません。
相対的にものを観る、ということを少し考えてみる訓練も要るという例として
きょうはたまたま、ある国の支配者が死んだニュースが入って来たので
取り上げただけです。

小泉電撃訪朝のことを覚えておられますか。
2002年9月17日、日本の首相はほぼ丸腰で、北朝鮮の平壌に乗り込み
今回亡くなった金総書記と歴史的会談をしました。歴史が動く瞬間とは
このことで、前年のツインタワーの惨景とは違う意味で、仕事場で感動を
覚えたものです。この日の日記に「9月の頭と言うのは夏がようやく終わり、
楽しい秋の始まりを予感させる歳時記であったのが、21世紀に入ると何とも
緊張感の多い季節になったものよ」と書きました。

それまでの金ちゃん評から言えば「やくざの事務所に丸腰で殴り込みに
行くようなもの」となります。「平壌宣言」を結び、世界の孤立国の扉を
開けさせた。私は小泉は凄いと身震いしました。
1ヶ月後の10月15日に、蓮池薫氏ら5人が帰国した時の熱狂もすごいもの
でした。

あれから9年以上が経ち、その後の日本人拉致被害者の帰還は向こうで生まれた
家族を除いて捗っていません。
あの時の普通一般の人の認識はこうだったのではないか。
「あんなひどい国に無理矢理連れて行かれて、(なんて可哀相な)ことだろう」
それは本当にそうなのですが、世論マスコミはそれまでも、北朝鮮は不幸のかたまり。
民衆は苦労し痩せ細り、脱北者のみじめな映像が流れると、なんてあの人たちは
気の毒なのでしょうと。 それはほとんど間違っていないと思います。
それでもそうしたニュースが流れる度に、悪いのは金正日個人で、だからこう。
あれもこう、といったものの考え方や見方が支配的になればなるほど、僕は
不全感のような「?」、そうなんだろうけど、そこまで日本は言えるほど幸せな国
なのだろうかと、ひとり疑問を呈して夜更けの酒場で自問自答していました。

今回金が死んだことで、風化したとはいえ、その論法はまだ通用するのか。
日本も卵や肉が食えないような貧困ではありませんが、随分みじめになりました。
日本には自由がありますか?、というとカギカッコ付きの「自由」しかない。
北の全体主義を笑っているけど、あなたたちみんなプリウス乗っている。
これ全体主義違うあるか。こんなこと言っているとまた家族から止めて下さい
と怒られるのがオチですが、笑えない時代は当分続きそうです。

私は北の関係者ではありませんので。ほんとうに横田恵さんがいきているのなら
悪役金さんの亡くなった折りに上手いこと見つかって出て来て欲しい。
まだお母さんも生きておられますからね。
金も本当はそれを望んでいたかもしれない。天国から罪滅ぼしができればと。
それでも「体制国家」というものが、とくに小泉の交渉後半に北朝鮮のメンツ
を立てられなかったことは大きいと思います。

あと仮にどんな「悪い奴」であっても、国家元首が亡くなったという時に
きちんとした言葉を表せるように。日本の総理の身の振りに思います。
戦国時代の戦の大将は、生き死にを覚悟した相手に対しきちんと評価した。
いっぱしの男であったからです。韓国に対しても見苦しくないようにして
欲しい。来年は世界がまた、ぐるりと動くことでしょう。








Posted at 2011/12/20 14:22:48 | トラックバック(0) | 思うこと | 日記
2011年12月17日 イイね!

今年を振り返って、の残り

今年を振り返って、の残り









しんどい企画も最後の3テーマになりました。
それでは残りをいってみましょう。
3番目にこの企画をやっているところに飛び込んで来た
高速道路のフェラーリ8台他の多重事故の余波に着いて考えてみます。


事故の経緯と、その後のとくに「みんから」で起きた反応について
考えてみましょう。
必要以上の反応が起きたな、というのが私の見解です。
この事故の誘因となった運転手の方には、私は個人的な興味はありません。
みんからに属していた方が、ツアーの仲間にいたかということも
確率論から言えば十分あり得る話で、別に驚くことではありません。

それよりはこの自動車SNSで、“トゥイッター”現象にちかい
一斉反応が起きたことが、特徴めいたことではなかったかと思います。
事故や事故の原因を起こした運転についての批判が第一報。
フェラーリオーナーという「階層」に対する意見、しばらくすると
各自のサイトで取り上げた個人の見解について、普段は常連以外は
書き込まないところでも、多数のコメントがつきました。
そこでの意見の対立や、個人的な思いはいろいろとあると思います。

大きく分けて、フェラーリ擁護派とアンチ・フェラーリ派に分かれ
驚いたのは、「匿名」サイトを立ち上げて、持論を展開される方や
あちこちの個人サイトに、個人的な「思い」を「印刷」のように
足跡を残されて行く人が現れると、今度はそれに対し
「マルチポストはマナー違反」という意見も。

私はどちらにも、ここでは軍配を上げかねます。
ただ言えていることは、「民主主義」のルールを巡って、(その中で)
自論を出来るだけ多くの人に読んでもらい、反応を知りたいという
欲求があるとすれば、インターネットの時代になり、それが個人的に
可能になった。その方法論を巡る争いとでも言えるのではないでしょうか。

敢えて民主主義という言葉を使ったのは、かつての左翼的な方々の中には
民衆は自分らより(たぶん)劣っている。だから彼らを啓蒙しなければいけない
という考えがあったかと思います。実際にインテリという言葉もありました。
その時代から半世紀以上が過ぎて、先進国の一員になった日本で、インテリ層は
消えて、指導的なことをすることは非常に困難になりました。
しかし先進国の日本で、中国の壁新聞のような論争が起きることに私は
興味を覚えます。

中国では壁新聞の流れが、そのままネットに移行した、これも推論や暴論に
近いかもしれませんが、日本はその土壌があまりなかったのですが、ネットの
時代になり、閉じられていた蓋が開かれたのかもしれません。
そこで想起して欲しいのは、今回の事故をめぐる展開は、今年の3月11日から
あとに起きた現象と、どこが似ていて、どこが違っていたかということです。

あの時は、「この非常時に」という意見や空気が、あっという間にネット空間を
支配しました。
普段、怠惰な人生を送っている人ほど、リアクションが強いのかな、と
少し冷めた眼で見てしまいそうになったほどです。
半年以上が過ぎて今でも悲しい思いをしている人がいる一方で、
大半のサイトは普通の状態に、表面的には戻っています。

私もこれには別に呆れてもいません。自身が95年の時に被災者で
あり、自分の一家が復旧すると、災害状況のひどい地区には
気を遣いながらも、自分たちの「日常」を取り戻すことに、一心不乱に
なったからです。


次に、フェラーリのオーナーたちはなぜ、“群れる”のでしょう。
特に赤い色のが集まると、目立ちます。
別に独り、一台で走っていても良いのですが、そういうときの
視線と言うのが結構きついというか、複雑な意識をしてまで
特別な車に乗りたくはない、という意見の人もいるでしょう。

自営業の経営者には、ベンツに乗れる身分であってもクラウン
という人が、以前は結構いてました。
得意先回りをするのに、一人勝ちで儲けているように思われたくない
というのが、理由です。
名コピーの「いつかはクラウン」の中に、日本的な出世意欲と
裏腹に、外車に行かない堅実という禁欲さも含まれると思うのです。

優雅な車が列を連ねて編隊飛行をするはずでした。
多分大半の参加者は、そのくらいの気持ちで、後ろを付いて行った
ことと思います。

それがあのような大きな事故で世間に知れ渡ってしまった。
車が見場が良ければ、惨めさもそれだけ大きいことでしょう。
あの事故で、フェラーリを降りる方もいるのではと、思います。
ネットSNSで、あちこちに論陣を張られた方は、「フェラーリに
乗ることの正当性」を訴えたかったのだと、思います。

もう、フェラーリ幻想の時代ではありません。
仲間と連れもてないと、フェラーリデビューできないような
脆弱な感情の持ち主は、今回の一件で懲りてしまったと思います。

結局のところ、新聞やテレビでは2、3日で話題性が終熄したのに
交流サイトで突出した話題になったことにより、バナークリックが
異常に増え、儲かったのは運営会社だけだったのかもしれません。

3.11以降、私の聴くFMラジオでは、「カービューの無料愛車査定」
のCMが随分と回数が増え、耳に撞くようになりました。
ネットの無人格性のおかげで、中途半端な「意見」を運営会社が
吐く場面はありません。
漁父の利とまでは申し上げませんが、結論は、携帯電話内のゲーム
と同じように、踊るユーザー、ほくそ笑むのは誰?
なのでしょうね。































Posted at 2011/12/17 08:52:06 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2011年12月14日 イイね!

ダイハツ、推定1977年のカタログから

ダイハツ、推定1977年のカタログから大掃除の時季である。

勤め先の地下倉庫のゴミの整理手伝いをを買って出て、
廃棄書類の山のなかから
こんなものを、つい見つけてしまった。






中から出て来たのは、小川知子のシャルマンだぁ。



懐かしいなあ。10才若い方には、ピンと来ないが小川は調べると
1949年生まれだから、この頃はいくつだったのだろう。
ヒット歌手として活躍したのは昭和42、3年頃だった。



自動車カタログに、この時代は「何年何月現在」と記載されていない。
価格の上昇が、物価と同じで、予期できない時代でもあったからであろう。
おそらくはシャルマンが出て来たのは、石油ショックのあとだから、
昭和50年代の前半も初期の頃。



年代を推定するのに、今回軽自動車の排気量変更の事実が役に立った。
これは、曖昧に記憶していたのであるが、1970年頃を最初のピークを迎えた
360ccの軽自動車は、やがて売れ行きにも頭打ちを迎えた。
理由はいくつかある。
国民の生活が向上し、贅沢になるのに「軽」はあまりにショボかったことがある。

新モデル開発で、一時期はメインのファミリーユース以外に、各社がずらりと別設定の
ボディを新造したスポーツモデルを出していた時代がある。
ホンダはZ
ダイハツはフェローマックス・ハードトップ
スズキはフロンテクーペ
三菱はスキッパー
やらなかったのは、堅実路線のスバルとシャンテで後発復活したマツダだけだ。

この競争は、買う方にはウレシいチョイスだったが、各メーカーが体力消耗して
数年でラインナップから消えた。
本格のフロンテクーペ→セルボを維持したスズキは、根性のある会社であっただろう。
軽の排気量が大きくなった理由の最大は、安全基準の向上と、排気ガス対策で
各自動車がパワーダウンを余儀なくされたことがある。



軽自動車のプレートが、小型の360cc時代の物から、現在の標準サイズ、黄色い物に
なったのが、昭和50年(1975)年1月で、排気量が550ccまで可能になったのが
昭和51年(1976)年1月からである。
可能と言ったのは、各社は本格的な新エンジンの開発が間に合わず、ボアアップなどで
いったん、「500cc」という時期が少しの間、あったのである。
このカタログを読むと、550とあるので、軽の規格変更もようやく落ち着いた、
1977年かと推定したのは、そのためである。
しかしよく見ると、軽商用車のハイゼットは、360cc時代の幅の狭いボディのままだと
いうのが窺えて興味深い。

さてこの封筒の中には、こんなパンフレットも入っていた。
ダイハツの企業案内、紹介である。



この表紙の安物のペンションのような建物の前に、最新のモデル、シャルマンが誇らし気に
並べられている。

中を見ると、仲雅美かウルトラマンの団次郎のような前髪カットをした、工芸デザイナーが
得意げに仕事中である。楽しいね♪



この会社案内1枚送られて、入社を希望した若者も、そろそろ定年を迎えていることであろう。
もうとっくに違う世界に行かれた方もあるかもしれない。

福利厚生をうたったページと写真。
この中にある右下の端から2つめの「健康保険会館」はまだ阪急池田駅の南側に
残っているが、古さは隠せない。この頃は最新の、自慢の施設であったのであろう。



最後の裏表紙は、またミス・シャルマンの小川に登場してもらおう。
小川知子は広島市生まれで、血が繋がっていないが、秋山という家系に繋がる
遠い遠い親戚ではないかということを、母に聞いたことが有る。
もう確認する術も無いのだが、調べてみるとシャルマンと小川に着いて
濃く語っているサイトも発見した。時間があったら見てみてください。



大掃除の手を止めさせてしまい、大変失礼いたしました。





Posted at 2011/12/14 12:57:02 | うんちく | クルマ
2011年12月12日 イイね!

12月の高雄サンデーミーティング

12月の高雄サンデーミーティング東北の震災で、3月と4月が飛んだ、
今年の高雄ミーティングが終了した。
なんで直接の影響の無い関西が、2ヶ月休んだのか
理由は計りかねるが、5月に再開した2011年の初回は
参加無料のオフミであったのが、カンパを募るということで
特別に1000円徴収された。
手製のステッカーが配られたそうだが、いつも遅めに
到着する私の着いた頃には、ステッカーも無く、白黒の
コピー1枚(2.5センチ×5センチ程度)を領収代わりにもらってそれだけ。

「愛は地球を救う」という某テレビの24時間テレビが始まったのは
ニッパチといい、営業局の数字が上がらぬ8月対策であった
らしいのだが、私はチャリティーという言葉を聞くと、
子供の頃からまず疑う。

師走である。
寒いから出て行くのはどうしようと、思った。
それでも家の中を久しぶりに掃除機を掛けて(ドイツのミーレ製)
こたつからでて、850スパイダーの初お披露目で、
京都まで出かけてみることにした。

9時くらいに始動したので、着いたのが11時くらい。
普段は11時半までは、公式開会中であるのが
もう解散式をやっていた。
寒いからだろう。
それでも下界は、ましな日で、雪も散らつかずに最後の
茶色くなる手前の紅葉が楽しめた。
嵐山も、帰りの奥能勢の山々も美しかった。

着くと、このイベントで、友達になった、のんび君からいきなりプレゼント。
いつもの「うまい棒」でなく、
850スパイダーの透視図である。
これは嬉しかった。

そのあと次々帰っていく参加車を見送っていると
大分遅れてアルピーヌ310の知っている人が来られた。
「遅刻」「遅刻」と笑っておられたが、こういう日は
夏や初夏なら、早朝も気持ち良いが、開会時刻も解散時刻も
少し繰り下げたら良いのに、と個人的に思った。

このあと2時間近く、のんび君の乗って来たホンダS600や
私のフィアット850スパイダーの助手席乗り比べをやったり、
くだらないギャグ話を付き合ってくれて、久しぶりに腹の底から
大笑いをした。

歳末にヒマなのは、私らくらいだろうと、同調してくれたが
彼のクルマ友達としての、付き合いの良さに
本当に感謝する。

大池横の大会場では、先週「フロムセブン」が開かれたが
今週は「とにかくスカイラインを並べてみよう」が開かれており
遠くの各地からの参加も含めて、150台くらいのニッサン
スカイラインが並んでいた。

その中にはオリジナルの綺麗なのも、笑える改造車。
アニメステッカーの痛車まで、いろんなスカイラインが
並べられていた。
箱スカは数台。ケンメリは無し。ジャパンが今は結構“刺さる”
鉄仮面31も少ないが、営業車用の(バンワゴンがあった)
丸4灯グリルのコンバージョンを発見。
ふたりでクルマうんちくでつっこみ大会。

私の方が年上で、ハコスカくらいから新車で覚えている。
ジャパンは免許を取り、新車で買って乗る同級生もいた。
GT-ESとGT-EXの違い。
日産のターボ車の出た順番は、430セドが一番最初で
次がブルーバード、満を持してのスカイラインだった。
この頃の日産は元気だったし、面白かったなあ。

突っ込みどころ満載の、スカイライン祭り。
この中に1台ラングレーが交じっていたら面白いですね。
のんび君が面白いことをいう。
「宮崎勤の愛車か、」 (のんび君絶句)
角2のジャパン顔で、Sバッジの代わりにLが着いていたっけ。
いや、ローレルスピリットもいいですね。
そんなオフ会、誰が来るんだと、ずっと爆笑しっぱなしであった。

高雄の旧車会は、悪くはない。
芦屋のヨットハーバーあたりで開かれる、フェラーリオーナー
ばかりの「スカした」ランチ会の雰囲気。
(彼らは「お馬さん」オーナーと称して、決して不用意なことを言わない)
それに比べれば、まだ人間的に暖かいものを感じるし
若い蘭陵王君らのような、新人たちのクルマ好きの萌芽や
伸びる部分がいくつも感じられる。

しかしこのスカイライン祭りのような、「祭り」の
感覚が薄いと思う。
何でだろう、と思うのは「祭り」の中に「ビジネス」が入って来ている
と、時々感じるからである。

のんび君も僕も、やれたクルマが大好きである。
旧車は、ピカピカに乗らなくてもいいじゃないか。
7000回転でキーキー回るホンダツインカムの音を
久しぶりに聴いたあと、僕のフィアットへ。
どうや?と訊くと、「このどろーっとしたOhvのフィーリング、
堪りませんね」と、ウレシイ応答が。

いま見つけたプジョー205の安いオートマ5ドアの話をすると
「欲しい」という。カッコ良いGTiの最終1.9あたりより
これだよな、というと、そう、そう、と答えてくれる。
それは身の丈で似合うクルマについて、いつも考えているからだ。


駐車場に戻って、2台の古いオープンを並べていると、
エンスーが帰ったあとの一般駐車客が次々と質問や
「車見せて」に来る。
そう、「高雄」の浮いている部分と緊張や警戒心が結界を
作ってしまっているのである。クルマってそれでいいんだろうか。

赤い初代Aクラスが近くに停まって、元若かったお姉さんが降りて来た。
お手洗い目的の筈が、僕らに話しかけて来る。
ある程度の車の知識もありそうだ、雑談途中に「どう、こういうの」と
勧めると「10年これ(ベンツA160)に乗るのが精いっぱい」と
笑っている。助手席では、歳をとられたお母さんが寂しそうな微笑みで
ずっとこちらを見られている。

こういうナンパって、好きだなあ。

上品そうで嫌みのない元お姉さんの暮らしぶりを勝手に想像する。
連れて来た手入れの良いプードル。
降りて来られないお母さんは、もう体が自由に動かないのかも
しれない。寒いこともあるし。
私も10年前に、認知症の母を、タルボサンバに乗せて、「転地療法」
で九州のあちこちの温泉地に行ったことを、思い出していた。

友と別れて、高雄のドライブウェイを抜けて、162号に出ると、
数台前に、リヤウインドウにリースを飾った、彼女の
赤いAクラスが走っているのに気が付いた。
中川で彼女は側道に入り、京見峠を通って市内に帰るのだろう。
多分独身の、彼女にもきっと素敵なクリスマスが、ありますように。

ああクルマっていいなあと思った、寒い日曜の午後だった。
私の心にも、少し暖かいものが、流れていたのは、
寒さのせいばかりでは、ないだろう。




Posted at 2011/12/12 06:47:49 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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