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2012年02月29日 イイね!

いま、せかい、僕らがたっているこのちきゅう

いま、せかい、僕らがたっているこのちきゅう







何を書いても自由というのは、案外むずかしい。
だから悲観論から始める人は、いまの時代大変多い。
孤独、貧困、世界同時不況というように。
きっと17世紀や18世紀にも、そんな問題を思っていた人はその時代に
たくさんいたのではないか。

20世紀のことは大体知っているのだが、19世紀となると
おぼろげである。
その19世紀に自動車が作られ、100年以上走っている。
それを偉大と思うか、当たり前と思うか。
ここでまた違って来る。

クルマは自由に走れるからどこへでもいける。
でも、今の時代の自由は、管理や監視された自由なのだと考えられる。
自動車というのはナンバーが着いているので登録された自由だと
考えよう。
それに手を出さない人、縁の無い人も、選択の自由である。
お金も懸からないし交通機関の発達した都会に住むのは
権利である。

その権利とはなんであるかというと、田舎から出て来た父親や
祖父が建ててくれた家土地に住むだけの選択である。
私のように自分が当該世代で、田舎にまだ家が残っているような
人も多い。
流動する民というのは、自然や環境に寄る影響が多い。
そのときに人はいろんなことに遭遇し、ものを見て想像する。

自動車の発明は、移動への憧れ、移動の自由を体得したものと
いうことが、ようやくわかってくる。
電車に乗ろうと思えば、時刻を調べて切符を買って移動せねばならない。
自動車なら、基本インフラの税金や所有のための投資をすれば
あとはガソリン代くらいである。

高速道路代がかかると言うが、無料の道を走って行けばよい。
これも選択である。
でもみんな前提というものを当たり前のように信じて生きるばかり。
前提をちょっとでもいじれば、年金額の増減や銀行預金利率のさじかげんで
「もう生きられない」と不平ばかり言う。
生活保護を受けているものさえ、権利要求にはいちばんうるさい。

どうしてみんなこんなに受け身になってしまったのだろう。
クルマがあれば、新しい街に行き、新しい発見があるというのに。
クルマを手に入れるまでのプロセスが、平坦になり、面白くなくなって
しまったからだろうか。
退行する人間の思考や行動にはきっと理由がある。
それをまた悲観論のひと言で片付けたくはないなあ。

何度も言うが、新しい機会や、出会いや、夢や、発想が出て来なくては。
人間、人類の原動力なんて、案外それなのである。
クルマの発明と、長い時間に発展したその進化系の面白さ。
そのどうでもいいデティールが面白く、いろんなクルマに乗り比べてきた。

面白くもなんともない、車に乗って生きる人生を選ぶのも自由だ。
でもそんな選択はきっとクルマなんて要らない、無くても良いという
選択につながっていく。
無難な生き方をしなさいと、両親に言われ続けてきたわけでもないのに。

あなたにとって、この年、この春、この3月は何の意味があるのだろう。
新しいシャツを着て、新しい化粧をして、明日はちょっと
遠回りをして、新しいルートを走ってみようではないか。
人間を動かしているのは、好奇心という名のエンジンなのである。



Posted at 2012/02/29 09:08:24 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2012年02月25日 イイね!

愛車遍歴1980ー2012

盟友ぶーちゃんから「愛車遍歴」って番組が面白いよ、と
しきりにコールがかかる。
今のワシは BSどころか地上波も見られぬ環境ゆえ、
それは御免講じているのだが、「おぎやはぎ」のふたりは
1971年生まれらしい。
「スーパーカー世代の最後のひっかかり」を口実に、紹介するのは
年上中心、例えば京本や東儀のご両人は私とおなじ’59年生まれだから
大体乗って来たクルマがわかる。

私もいっちょ、やってみるか。

1980年 20才 コルトランサー1600GSL2ドア(昭和49年式 A73)



画像はここからお借りしました。

1985年 25才 トヨタセリカ2000GTリフトバック(昭和50年式 RA25)



週2回、夜間にジャズピを習いに行っていたので、キーボードを運ぶのにどうしてもクルマが必要に。
画像はここから拝借。色は一緒です。

1987年 27才 フィアット850クーペ(GBC100 1971年モデル)


現在も使用中。

1990年 31才 シトロエンBX1.6TRS (1985年モデル)


妻と二人暮らしになったのを機に。
元色は白だった。

1993年 33才 フィアット131スーパーミラフィオーリ (1980モデル)



BXを交通事故で失い、傷心の後遺のあとに出合いと
東南アジア出張で自動車道開眼。
この辺りよりブルースな人生に。(笑)

1995年 35才 シトロエンGS1220クラブ (1979年モデル)



僕の愛車は若草色だった。
震災遭遇。好きなことを生きているうちにやらねば、と
悪い方向に都合良く解釈。クルマアウトローの道に入って行く。

1995年 36才 タルボサンバカブリオレ (1983年モデル)



GSに飽き足らず年末に発見、GSを下取りに出して購入する。
12月の名神で持って帰って来る際、閉め方の判らない幌が全開。
真冬の空の下をオープンで帰って来る。笑いが止まらない。
人生で一番楽しかったクルマだと思う。

1997年 38才 ローバーP6サルーン3.5L (1975年モデル)



10年くらい前から乗りたいと思っていた憧れのクルマ。
維持は大変だったけれど、英国的とは何であるか、いつも考えてハンドルを握った。
今は大変綺麗になっているが、僕が乗っていたときはこの車のようにやれていた。

1999年 40才 オペルカデット1.6GL3ドア (1989年モデル)



拾い物のクルマであるが、リア斜め後方から見た姿が
なかなか良かった。
よく停まった。この車から妻が車の運転をしなくなった(泣)。

2006年 46才 フィアットリトモ・アバルト125TC (1982年モデル)



久々の増車。前期型。
写真はノーマルのリトモで私のは2.0ツインカムモデルであった。
サンバと同じ頃から好きな車で、非常に良い状態のものを発見。
でも乗りこなせなかった。体力的な限界も痛感。

2010年 51才 スズキアルト(平成15年式)



自動車を卒業した叔母からもらった。
6000キロしか走っていなかった。名義は妻の愛車で登録。

2011年 52才 フィアット850スパイダー (GBS100 1970年モデル)



久々の、趣味の自動車。リトモを手放し850二台体制に。


          ◇

以上のように変わったクルマばかり乗り続けて来た。
「愛車遍歴をたどれば、人生が見えて来る」
華麗な人生ではないが、味わい深い車が多い。

この他に真剣購入を考えたものに、オースチン(ローバー)モンテゴのワゴンとか、
掘り出し物のシトロエンCXに何度か、モンテゴターボも東京まで見に行った。
数年前は東北までフォードタウナスを見に行ったことも。
北欧車も乗りたいなあ。Vの365とか。
たぶんこのあとも、地味で、面白いクルマを安く乗り継いでいくのであろう。
ただ近年随分ペースは落ち着いて来た。


つくづくお目出度い半生だと思う。
今ではネットのおかげで、情報や関心が共有できるので、友もいる。
クルマ無くして人生無し。
そこまで言い切れるとは、思っていないけれど、
誰かが「面白い」と思ってくれるなら、もうちょっと乗り続けたい、
走っていたい。だけなのである。






Posted at 2012/02/25 12:22:49 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年02月22日 イイね!

続鉄道少年(初めての筑豊探訪記)

続鉄道少年(初めての筑豊探訪記)またまた鉄道の思い出に戻る。

生まれて初めて子供だけで鉄道旅行をしたのは、多分中1のときで、中3の姉を伴い、大分と小倉の間を日帰り往復した。
乗ったのは気動車急行「フェニックス」か何かで、キハ58の室内と広い窓の思い出がある。これは家族で大分ー宮崎を旅行した時にも利用した。



さてこの写真は、先の記事と同年(昭和48年)7月、先の城野付近のSL撮影で舞い上がった子供心に火が付き、同クラスメートに連れて行ってもらい、初の筑豊地区を訪ねて行った日の最初に写したコマ、急行「天草」のDD51と先頭の指定ハ座のスハフ43+スロ62+オロネ10、+ハネたちずらりという往年の旧客急行豪華編成である。

所属は名ナコ(名古屋客車区)であり、天草は唯一の筑豊線回り寝台急行。呉線回りの「安芸」はもう無かったが、昔は地方にもそれなりの一流の家庭があり、それらの名士たちが上京するための列車の需要があった頃の一コマである。筑豊の直方や飯塚にもセメント企業の麻生や元石炭関係の三井や三菱、住友といった企業の重役、それに類する人の家があったのである。
隣に半分反射して映っているのは伊田線のキハ58+28の2連で色がカナリヤイエローの修学旅行用の800番台である。


これは懐かしい。筑豊の鉄道拠点都市、直方のシンボル、大型の石炭搭載機である。
この真下にSLの9600やD51とD60、少し前はC55にD50、昭和40年頃はC51が下に駐泊して石炭のご飯をいっぱい詰め込んでいたのである。
昭和49年12月にSL全廃後いち早く解体撤去されたので写真があまり残っていない。
こんな一コマも写していたのは後で判明したが非常に嬉しい。

この日の一番の大冒険は、直方の次の勝野まで行き、そこから宮田線に乗って終点の筑前宮田(現宮若市の中心、鉄道は既に廃線)まで足を伸ばしたことである。

そこに何が待っていたかというと、炭坑の専用鉄道の珍しいSLたちである。



貝島の「大コッペル」と呼ばれた貝島炭鉱専用鉄道の、ドイツコッペル社製Cタンク、31号機。



ロッドの溝に赤い色が入れられ美しい。SLブーム以降被写体になることが多くなったので、意識してやっていたのかもしれない。でも筑豊はとにかく煤けてあまり綺麗な町ではなかった。

その中で、掃き溜めの鶴みたいな飯塚と直方の一部の金持ちたちが住む町や住宅があった。そんな所に住むのは東京からきた高給サラリーマンの家族で、「数年間の赴任」というのを我慢すれば後に出世。僕らのいた北九州の学校にもそういった「落下傘子弟」たちがいて、僕らは遊びに行った家庭で見たことも無いチェロといった楽器や、外車に遭遇したものである。



旋回窓を開け、夏の風を入れながら、筑前宮田をバック運転で発車する31号機牽く空の貨物列車。
いいなあこんな風景。遠くに見える明治時代に立った竪坑の煉瓦煙突。右下の崖の下に少し見える煤けた炭坑住宅。これがみんな昭和48年の真実だったのである。

僕らはこんな風景を見ながら、かつ賑わう小倉の街角や、たまに上京する東京の銀座の繁栄をみて育った。いつしかジャーナリストになろうと少年の心に芽生えた幼い憧れは、社会的矛盾を抱えた昭和の少年の日記だったのである。



夏のひかりに晒されて炎天下を行く貨物列車。荒涼たる風景の下を歩く中2少年。

「筑豊は怖い所」という忠告も、ものかわ、冒険少年は奥地にある炭坑の現場に向かって歩いていくのであった。まるで引き寄せられるかのように。



しばらく行くと、反対側から違う形の機関車がやってきた。
サイドに付けられた大型水タンクの形状から「弁当箱」のあだ名を持つアメリカのアルコ製タンク機関車22号機だ。前と後ろに変な控えの貨車が着いているが、これは機関車のバッファー式連結器を自動連結器の着いた貨車に連結する為の「カプラーアダプター」なのである。

コンピュータ機器ならいざしらず、こんな面白い機械が着いた機関車もいたのである。



終点の大之浦六鉱にはこんなものが残っていた。昔の通勤輸送に使った客車の車体である。
木造車体の客車を見るのはこれが初めてで、国鉄線路上には昭和20年代まで木造車があったことは知っていたが、胸のボルテージがひときわ高鳴る出合いの瞬間であった。



この日のとどめは、大之浦六鉱から石炭を積み込んだ貨物列車が発車するシーンをお目にかける。
夏の一日、多分日曜日だったと思うが、当時の炭坑には休みがなかったと思う。
働く男たち。こういう人たち、坑内作業の作業員たち、全ての人たちの労働という貴重な仕事の上に日本の成長と繁栄が、信じられていた。

この年の秋、暮れには石油ショックが勃発し、北九州の住宅街でもトイレの紙が無くなるという騒ぎが起こった。僕はラジオを聴きながら、大好きな桜田淳子に胸をときめかせ、その年がゆっくりと暮れようとしていた。

1973年という年は三菱ランサーが1月に出て、そろそろ本格化する排気ガス規制が目の前にやって来ていた。
デビューしたランサーGSRが国際ラリーで大活躍して、この時代のラリーカー、ランチアフルヴィアから、ストラトス、アルピーヌA110、フィアット124ラリーといったファナティックな車が好きな中年は多い。だがこの時代の日本の現実を知りつつ、歴史のおさらいの勉強をしてみるの良いのではないか。

僕はクルマが好きだが、現実から浮いた趣味は嫌いだ。
その辺りが上っ面な記事を書いているだけのライターとは違う。
鉄道の写真ばかり載せても、ブログ読者が増えることはないだろうが、たまにはこういった「検証的」な記事も書いてみたい。
新聞社奉職26年だった男の、本心である。






Posted at 2012/02/22 05:51:38 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2012年02月19日 イイね!

鳥肌楽器

イイクルマって何だろうと考えていた。

そこで出て来た一つの答えが
鳥肌モンの演奏を聴くとき、やっぱ、楽器の比重は大きいなと
いうことである。

これは渡辺香津美の演奏なのだが、
1979年頃のKYLYN時代から聴き始めていた。



この当時からムチャクチャ巧い。
BCリッチでしょうね。
相方のベースは元ミカバンドの小原礼、タンクトップでkbを弾いているのは、
龍一くんである。のちに結婚した矢野顕子も若い!

KYLYNはYMOの活動と前後して出来た夢のような、ジャズとロックの
クロスオーバー部分である。



これはカシオペア全盛期よりあとの映像だろう。オリジナルから
桜井が抜けて成瀬(カルメンマキ&OZ)が入っている。
野呂一生も下手ではないが、香津美のアドリブに移ると息を飲む。
セミアコのESのようなモデルを弾いている。

下のコメントで音楽ファンがケンカしているのも面白い。


これはもうちょっと下がった2010年のライブから。もう香津美も
55歳以上だろう。髪も髭も白くて老眼が(苦笑)進んでいるが
メイドインジャパンの代表は健在だ。
ギターは割と新しい。


マーカス・ミラーにマイク・マイニエリだよ。これは本当に聴きたかった。
枯れてきているが香津美の掻き揚げていく演奏からダウンストロークに
入る部分は巧い。マイク・マイニエリ。日本人には人気の無いジャズ
バイブラフォン奏者であるが、私は好きで、「ワンダーラスト」も持っている。

マーカスのベースラインの移動法はジャコパスからヒントを得ているという
コメントに唸った。
天才ジャコの脳味噌のICチップでもどこかに残っていないか(泣き)。

                   ◇

というわけで、旧い車は楽器のようなもので、演奏している時の
弦のしなりとか、指の滑り、すべてがトータルに結果に結びついている。
僕らが車に乗る時も、「楽器を鳴らす」ようなものではないだろうか。
古い楽器も新しい楽器も、「いい音が出る」までには、練習と鳴らし込み
が必要である。

特に欧米の中古車を乗られる皆さんには、半年一年程度で諦めずに
もう少し乗っているうちにある日突然、車の本当の良さが判る瞬間がある。
開眼というのかな。クルマの状態もほどほど良くなり始めると、本来の
良い味が出て、そこから先は多少の欠点も眼をつぶり相思相愛に
近くなるのである。
多分そんな時には「楽器」も良い音を出して周りの人もうらやみ振り返る
のである。

きょうは寒いのでこんな短い記事であるが、何かのカーライフの参考に
なれば、幸いである。












Posted at 2012/02/19 15:09:35 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | 音楽/映画/テレビ
2012年02月15日 イイね!

鉄道写真1971−1973

鉄道写真1971−1973









きょうは鉄ネタ。
はるちこさん、盟友紺豚氏はじめ、少年時代に鉄道好きであった
と想像される男性は多い。
初めからウケそうな話題を持って来るのは、私の本意とする
ところでないが、かなり希少な40年前の写真なら、観覧される
方々にも、少しくらいの感興を残すかもしれないと、昨日あげた
大分時代の自動車写真に続いて、拙ブログにて公開しよう。



これが一番古い。大分駅構内の入れ換え作業をするC58。
大分区のカマは皆、非常に美しいコンデションであった。
昭和47年頃より一番最初の写真、DE10にその役目を追われて
次々と引退していく様は、小学生の私にも寂しく映った。



一転して昭和48年3月に北九州市に3年ぶりに帰ってきた。
その春浅い日に、建設中の関門橋と、海峡の風景を見に父と門司港から
下関を歩いた。
これは門司港ー門司間で写したD51。
大型の蒸汽に心が騒いだ一瞬。中2になる直前のこと。



下関で写した153系急行「山陽」 なんとまだ冷房改造する直前の姿である。
これは珍しい。


引っ越していったのは今の南小倉。新設南小倉中、第二期生にあたり
早速クラスメートと、近くにある日豊線と日田彦山線を分岐する城野駅で
日田彦山線のD51貨物を撮りに出かけた。
嬉しいカラー写真デビューの日である。



城野を出ると日田彦山線は切り通しを抜けて石田に向かう。
城野から分岐する以前は、東小倉(廃止)から妙見を経て、石田に出ていた。
ここは新設の分岐区間で、こんなシーンであったが、40年間の間に家が
建ち並び、すっかり過去の風景になってしまった。



同じところから。
遠くに写し損ねて走り去るSLの煙が立ち上る。しかしこんな写真も
今見ると味がある。
同じ場所から日豊線のシーンを遠望する。



暫く待つと待望のSLがやってきた。ナメクジだ!(註、半流線型ドームを持つ
初期のD51)。門司区の宝物、D5110号機である。





今度は反対側から、空の貨車を回送した下り貨物列車がやってくる。
初めて見る門デフ機(註、除煙板の下部を切り欠いた軽快なカマ、小倉工場
オリジナルデザイン)に、「カッコええな〜」とうっとり、一発で惚れてしまう。





この日最後の一コマ。足立山をバックに快走するD51。
これ以上はフィルムが惜しいのと、ほかのコトで遊びたいので
とめ。
人生最良の日々と言いたいが、新設の中学では、暴力がふきあれ(笑)
授業中止もしょっ中。
そんなスクールデイが、転校していった先で
始まったのであった。


Posted at 2012/02/15 20:30:46 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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