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2012年04月29日 イイね!

ピッコロ・ヴィンテージ考<2>

ピッコロ・ヴィンテージ考<2>いきなり何かのキャッチフレーズみたいに出されても、ということですが、
古いクルマの趣味や道楽とその定義と言うのは、たしかに曖昧なものである。
私が子供の頃、1970年頃を思い出してみると、10年前の60年頃の車どころか、5年前でもものすごく古い車に見えた。
ギャランGTOからコルト800や1100Fの時代。
初代セリカから観音クラウンなんて、15年くらい間が開くので大変な旧車であった。

クラシックカーのイベントが盛り上がり始めたのは、82、3年頃ではなかったか。
JCCAのニューイヤーミーティングは、まだ雑誌に取り上げられていなかった。
フレンチブルーは車山で無く、まだ前身の関東の湘南地方で、ルノー16の好きな
人たちが集まって、発起していたのではなかったか。
ルノー16という車は、それは非常に味わい深い「ぶさいくな」車だ。
「この車を理解出来ないようじゃ、(半可通だね)」というスタンスで
宣伝スポークスマンを努めたのは、今は亡き伊丹十三(一三時代)である。

著名人でこの車にのめり込んだのは、カーグラフィック編集部の大川悠である。
私も、後のフォロワーであるが、ルノー16には唸らさせられていた質である。
それはシトロエンBXという概念がある。
あれはルノー16の不細工さ(フランスでしか通じない「美学」)をカッコ良く
すると、「こうでござい」の多用途5ドアハッチバックではないだろうか。
私も、ある時にこれに気づいたのである。
BXの初期型、いわゆるボビンメーターで当然5速マニュアル、しかもパワステ
のついた85年型に乗りながら、かつて見慣れた「変な車」であったルノー16の
完成度にやっと遅れて気づき「犬神に取り憑かれたように」ルノー16を
捜したが、もうその頃は、日本中のどこにも、その姿は無かった。

その数年前に、高雄から小浜に抜ける国道162号線「周山街道」の京都側山中に
1台捨ててあったのを思い出し、そこまで捜しに見に行ったというアホぶりである。
そういう阿呆を一度や二度くらいしてから、「旧いクルマは良いですな」と
言ってもらいたい(笑)。
そうそう、話が脱線したが、ルノー16とシムカ1100は、シトロエンBXの原点である。
もちろん、GSやCXも似ているが、リアはなだらかだが、もともと開かなかったはずである。
そう言う意味で言うと、プジョー104の5ドアハッチも良い。
最高にデザインの良い小型5ドアハッチであり、AXの比ではない。
開いたところが画になるという意味である。


話が長くなったが、ルノー16は日本において因縁を残した車でもある。
大川悠がある時からこの車に付いて、あまり語りたがらなくなったのである。
それはもう、よくある内輪もめや学生運動気分の論争が高じた揚句の何か
があったのではないか。
カー・ディレッタントであった伊丹十三が一三から十三に名前を変え、
俳優から映画監督に転身するまでの数年間、沈黙があった。
「お葬式」で再デビューし、冒頭のシティーターボとBLミニが雨の夜並走する
シーンに、「この人クルマ好きなんだな」と瞬間理解したが、何のことはない。
私が若くて知らなかっただけであり、60年代は有名な超エンスーだったのである。
この沈黙の数年間に、伊丹も何かがあった(具体的には東和映画社オーナー家
令嬢だった川喜田との離婚、女優宮本との再婚)などの歴史である。

さて、やっと83年に戻る。復活ミッレミリアがイタリアで始まり、カーグラフィックに
紹介された時に、私も強いショックを受けた。やるんだったら、ここまでだなと。
実は彼の地での復活は1977年なのだが、凡庸なる私の記憶が足りなかったら
申し訳ない。カラーグラフで現地からの記事が送稿され、F1やサファリラリー等と
同じ扱いになったのは、おそらく1982年か83年でなかったか。
これには私も狂喜した一人である。
日本で神戸のモンテミリアが85年から始まったが、インターネットの無い時代の
文化の影響力、伝達力というのはこのようなものである。
今は反対に、ネットは冷めた(コールド)シニカルなものの見方も伝える。
この「ホット」とか「コールド」というコンセプトが判らなかったら、マクルーハンの
本を読むと良い。
マクルーハン理論は後に一旦毀誉褒貶されたが、僕は自分の勘では、今でも
読んでおく本だと思う。


さてクラシックカーというのは、60年代や70年では、戦前の車。今で言う
サイクルフェンダーで、ヘッドライトが独立した「埋め込み」以前の車を
言っていたと思う。だからロータス7やモーガンは現行生産車でもその外形は
充分資格ありで、イギリス人の古典的ファッションの「平気さ」にはびっくり
していたのが、あの頃の日本人ではないか。
今は驚かなくなったのは、小国民が立派に精神的に成長した証である。

ヴィンテージという言葉が使われ始めたのは80年代後半であろう。
私の1971年フィアットのクーペが、いろんなクラシックカーのイベントに
「キリ」で出られることが判ったときは嬉しかった。
80年代において日本のクラシックカー、今で言う旧車は117クーペ
ハンドメイド、SRまでのオープンカーフェアレディ、ホンダのS800まで、
トヨタは2000GTとS800、マツダのコスモスポーツ、こんなところでは
なかったか。
TE27のレビン・トレノ、箱の時代のスカイラインGTRやケンメリのRは
今でいうところのネオヒストリックに近かった。

もう一度思い出して説明書きしておくと、クラシックカー、ヒストリックカー
ヴィンテージカーという言葉に絶対的な定義などないのである。
その時代、時点から溯って「あれはどう、これはどう」という言い表しであり
もしかしたら「商売」している人が「ヴィンテージ」という耳慣れない
耳新しい言葉を用い始めたのかもしれない。


クラシックと言うのは古い、僕は好んで旧いという表記を用いますが
時間軸においての過去のことで、その間隔(パース、遠近法的に)
が開いていると思って下さい。
ヒストリックというのは、歴史的なということですが、「記録より記憶に残る
名選手」というような言い回しがあります。車もこれに該たると思います。
ではヴィンテージとは、というと、やはり日本人の耳に慣れ親しんだのは
ワインにおいての、文化の普及による使用からでしょう。

日本人は「家と畳は新しい方が良い」と20年前はよく言っていました。
この言葉の裏には、例えば若い妻をもらった時とかの、官能やセックス(性)
のニュアンス、また日本人の潔癖性的な体質も含まれていました。
それは例の、お宮を20年ごとに新造する習慣です。
ところが今や畳の家も少なくなりました。
車も4、5年で買い替え、極端にいうと初年度2年車検の時代でさえ
車検が来るまでに買い替えることが、「いさぎよい」。ええ格好しいの人なら
その言葉を吐くことの快感までが含まれていました。

長期の不景気というのも正答でなく、この経済成長しないデフレ時代のなか
旧い物の価値が見出されてきました。
ヴィンテージカーという概念には、まだ舶来信仰も含まれているようです。
レギュレーション的に、大層なクルマのイベント、(元のポンテ・ペルレや
コッパ・デ・小海とか、近年のラ・フェスタ・ミッレ・ミリアとか、ルマン・クラシックとか)
この辺に出ることの嬉しさとおこがましさについて、考えてみましょう。

近年やたらと日本人が使うようになった言葉(概念)の一つに
ノブリス・オブリージュ(noblesse oblige)「高貴なる犠牲(精神)」というのがあります。
私はこの言葉を徳大寺有恒が90年頃に書いた「ダンディトーク2」
『英国車の精神』という本で覚えました。割あい早い方ではないでしょうか。
その後、新聞社あたりの論説委員やジョンブルを気取った人たちが使う使う。
夜間のバーでレディを口説く時にも出て来そうなくらい、言葉の値打ちが
下がりました。まだ使っている人いますね、ここぞというときに(笑)、俺は知ってるゾと。

で、何のハナシだったっけ。ヴィンテージカーに乗っている人、乗ろうと思う人、
俺のクルマは「ヴィンテージ」と思う人は、この言葉は、大事なんじゃないかなあ。
ここなのです。ヴィンテージの本質は。
匿名希望をもじって「有名希望」っていうからかいがありますね。
昔はすごいクルマに乗る人は、ある程度名を隠していた。
もっと昔は芸能人の愛車紹介とか、輸入車ディーラーがあまりに高価なため
その普及の一環として三船敏郎が乗っているとか、例に挙げた伊丹も皮肉屋ですが
そのジャンルに入ると思います。

さあ、堺マチャアキと一緒のイベントに出るとか、やっぱイタリア本国の
ミッレミリアに空輸して出ないと、出た気がしないねなんて言っている人には
このノブリスオブリージュが重くのしかかります。
スーパーヴィンテージというのは、1本100万円のワインのことなのか、
車で言えばどのくらいのクラスを指すのか、それは思う方次第だと思います。

そこでもう一回ここで話を転回させましょう。船でいう舵取りを反転させて
みようと思います。ピッコロヴィンテージというコンセプトを提示したのは、
若い人、後進の育成を考えてです。お金があるから高級イベントに出るだけ
では、ノーブルな人たちにとり、痛くも痒くもないことに終わってしまいます。


そろそろ最終章です。
850のクーペとかスパイダー、英国車ならMG−Bやミジェットというのは
比較的長命で、長く作られた以上に愛されました。今でもウレタンバンパーの
MGはヴィンテージの範疇に容れたくないという抵抗心はとてもよくわかります。
コンバージョンで外して原型に戻すのもあり。124スパイダーでも見掛けます。
私は友人がウレタンのミジェット、左ハンドルに乗り始めたときに1980年頃
日英自動車が入れたスタイルはこれであった。だから決して引け目はないと。
これで乗りなさいと。
ものには「有り難がり」という思想があります。なぜありがたいのかというと
在ることが難い、数が少ない、珍しいということからきています。

ただ知識と言うのは、比較の対照があっての貴重さ(カウント)です。
レアなクルマをカルトカーと言って持て囃すのも一瞬ありました。
文筆とマス媒体は親和なようで、一線は画しているのです。
さてピッコロなヴィンテージ、入門編のヴィンテージカーは、もうちょっと
見直されてもいいのでは、ないでしょうか。雑誌はネタで売るためにもっと
もっと、稀少で珍しいクルマを取り上げたがります。
まだ企画室NEKOであった頃のスクランブルカーマガジンは、普通の車より
ちょっと珍しいクルマや、街に生息する気になる車を紹介していました。
品川5ナンバーのトライアンフ・ビッテスなんて、僕も本当にフェイヴァリットな
記事でした。

いま、ベテランや、こういった旧いクルマを持つことは、自慢するより
一寸したクルマの修理に、汗をかく、若い人たちに楽しさを教えて行く。
このときのような場面に遭遇したら、どうするか。
いま僕らが求められていることは、傲岸になることでも、変に襟を正すことでもなく、
シンプルに車の面白さと、車に乗ると言うことの社会的責任性。
こんなふうに無謀な運転で悲しい事故が相次いだ時にこそ、その意味を正しく
伝えて行くことではないでしょうか。

ピッコロヴィンテージというジャンルはまだありませんが、志は誰よりも
ノブレス・オブリージュでありたいと、思っています。









Posted at 2012/04/29 06:48:41 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年04月27日 イイね!

ピッコロ・ヴィンテージ考<1>

ピッコロ・ヴィンテージ考<1>キャリアばかり中途半端に四半世紀を超えたが
私は“スーパー・ヴィンテージ”に乗ったことがない。
特に「オーナーとして」である。
27歳でフィアット850に乗り始め、入門編としては申し分のない
人生をスタート出来た。
そして約10年後には、38歳で、ローバーP6をこれも運良く
岐阜の好事家の方から譲ってもらえた。
ちなみに850は1987年当時で72万円。
ローバーは97年に個人売買で68万円である。
この間に結婚もして、収入も増え、3人の子供に恵まれた。

いまは52才である。
早く隠居してしまったので、収入はもう無い。
それでもトントンの生活ができれば、850クーペの方に
乗り続けたいと思う。
ローバー以降、やはりもう少し旧い車、特に英国車の
古いやつを随分考えた時期があった。
まずはMGのTFやTDといったところから、サンビーム系とか
200万くらいまでのクルマは、照準に入った時期もあった。

私は英国の自動車雑誌は早い時期から読んでいた。
イギリスの自動車好きたちは、どんな嗜好と考え方で
どんな生活をしているか。
特にマスコミに勤めていた頃は、80年代的な生活ライフの提案で
「これからは趣味の時代」、「英国型クラブ社会の実現を!」というのが
私の謳い文句だった。
90年代いっぱいまで、幻想的と言われようと、私はことあるごとに
ひとに夢を説いていた方である。


いまはどうかというと、それは現実を見て生きている。
だが、同年代の友人たちの間では、私の「ドリーマー」ぶりで
多くの人に影響と、少しの迷惑(笑)をかけてきた。
友人らをヒストリックなクルマの世界に次々と足を入れさせて
しまったからである。


「趣味とは何であるか」
すごく優秀な理解者たちは、自分の身の丈で、いろんな夢を
実現して行った。
わたしはね、そこで自分がスーパーヴィンテージにいかなくても
それに相応しい人がそれに乗ればよいし、「何でもかんでも」
欲しがらなくても、いいんじゃないか。

そこから私は夢から覚めつつ、自分の行く末を模索するようになった。
日本も長い模索の時期に入った。
クルマ趣味の世界は、この不景気と言われた「失われた20年」の
間に反対にもの凄く成長、いや成熟したと思う。
国内でも普通にアルピーヌA110やルノー8ゴルディーニ、
ロータスエランあたりが、見られるようになったことである。

かつて「スカイライン2000GTR」や「フェアレディZ432、240Z」と
言っていた男たちが、管理職世代になり年収や可処分所得が
増えると、「そのへんが4,500万もするんなら、こっちだな」と
輸入物のヴィンテージカーに夢中になるようになったからである。

私はそういう社会の動きも敏感に感じていた。
ハコスカにそれだけの大枚(とくにGTRなどの人気車)を積み上げる
のは、かつてバブルの頃にホンダS800が極上で350万とか
ヨタ8でさえ250万していたのと同じ、「単純な判り易い人気傾向」
と思ったからである。
ここで軌道修正した、ロータス&アルピーヌ組は一見偉い。
ほんとうのツーリングカーとは、という自動車の年輪とか成熟といった
足回り一つの味を突き詰めて行くのに、どれだけ時間と試行錯誤を
積んで行ったかということが、理解(わ)かれば成長である。

しかし私はもう一枚違う考え方をここに敷く。
それはロータス&アルピーヌの時代、日本はすごく後進国であった。
その時代にそんなことが「判っていた」人間は式場荘吉とか伊丹十三
(当時は一三)とか、一握りの特権階級人たちであった。
その頃はニキビ面の芋兄ちゃんたちがいま、「功成り遂げて」MBや
フェラーリ乗り回しているのであるが、やはり「エランだ、110だ」と
言うのは少し烏滸がましくはないであろうか。

MBや勲章フェラーリとあまり変わらないのである。
特に近年、外国から旧い車=ヴィンテージを引っぱって来て、
何も知らない人が乗るのが、僕は耐えられない。
だから、僕のこれまで乗って来た輸入車は、実はすべて当時から
日本に生息する「ディーラーカー」なのである。
どこが違うんやねん!と言われれば、帰化した帰化人であることと
「取って付けたような」輸入車に乗るのは、何か足元が地に付いて
いないようで、気に沿わないのである。
これまでの長い日本生活で、維持管理に苦心された先輩オーナー
らへのデディケーションもある。

むかし昔、大滝詠一らの「はっぴいえんど」は「はいからはくち」と
いう面白い歌を歌っていた。「ハイカラ白痴」とは俺のことかと
外車キチガイ謂い、ではないが、鹿鳴館の時代から、新しいものに
すぐに飛びつくことは、白眼視された。
最近ではクルマに限らず時計やカメラも「古くて新しい」ものにすぐ
飛びつく傾向がある。

ということで、きょうも文章が長くなってしまった。
ピッコロヴィンテージについて、私が言いたいことは、後半に
書くことにする。to be cotenued





Posted at 2012/04/27 22:08:02 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2012年04月25日 イイね!

森先生からの手紙

森先生からの手紙









2004年頃、妙見山でお会いして以来の
親交になる亀岡トライアルランドの森先生の
奥様から、私信を昨日いただいていたことに
気が付いた。

昨日まで4日間のラフェスタ・プリマベーラで
ゴール目前の時点で、発信されたようである。
公式レースで、サイトにも名前が載っているので
敢えて隠したり伏せたりはしません。

http://www.lafesta-primavera.com/2012/index.html



春が来た。
私淑する森先生の家を、またこの季節に
探訪してみたいものである。




Posted at 2012/04/25 12:41:04 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年04月24日 イイね!

鉄道にむせぶ夜

鉄道にむせぶ夜ついつい昔の鉄道の話に、浸り込んでしまう。
遠い遠い思い出の中のセピア色の記憶。
生まれて初めて九州に引っ越した、小1直前の山陽線の西下の旅、
広島駅で、母方の祖父が短い停車時間に迎えてくれた。
華やかな181系特急の時代。
「つばめ」「はと」に乗られるのは、無上の待遇で九州に送り出してくれて
未踏の地、北九州で待っていてくれた父。
全てが懐かしい。





九州と言うのは文化も、生活も、鉄道も違っていた、遠い遠い
異国の地であった。

そんな所で高校を卒業するまで住んで、いろんなものを見て来た。
中でも、関門間の接続と、機関車の付け替えは懐かしい。
鉄道黄金時代の残り香が、そこここに漂っていた。
EF30の回送4重連。

夕方4時に下関を発ち、東京へ毎夜旅立つあさかぜ1号の晴れ姿。

山陰の長く、静かな日本海の旅を誘う客車列車。幡生という駅が、
山陽路から分かれる長い長い旅路の始まりであった。





山陽線を行く、戦後の明るいサンシャインであった80系“湘南”電車。
今も小月付近には蓮畑の池がわずかに残っている。






また山陰の話題に戻ろう。

旅情あふれる往年の室内音を聴きながら、大阪ー博多間、784.8kmを
昭和60年3月13日まで毎日駆け抜けた特急「まつかぜ」のことを偲んで下さい。


この列車は、昭和36年10月1日改正で、全国に誕生した1D列車
(キハ80系を使用したディーゼル特急、当時日本中の幹線の殆どは
「非電化」であった。山陽線でさえ全線電化は39年)
として、北から「おおぞら」「白鳥」「つばさ」「かもめ」(かもめは客車列車の高速化)
「まつかぜ」らが一斉に羽ばたいた。

前年の「はつかり」の試行錯誤を教訓に、美しい姉妹たちは、日本中の東京ー
名古屋ー大阪以外の区間を貫き、北海道の「おおぞら」、青森ー大阪間の裏日本
1000km以上をつなぐ「白鳥」(一部は信越線回りで長野ー上野まで足を延ばした)、
羽越路の「つばさ」、山陽路から長崎まで健脚の定期便となった「かもめ」と共に
日本の近代化のために、それまで特急が走ったことの無い、地方幹線を舞台に
主役を演じることになった。




彼女らは、それぞれが列車としてのキャラクターを持っていたと思う。
北海道の大地の下を走る明るい性格の「おおぞら」、日本海縦貫線を駆ける
演歌的な日本美人「白鳥」、西日本の発展を車窓にまざまざと見せつける
高度経済成長型の「かもめ」、それらに比べると、一番地味な路線を走りながら
西日本の日本海を爽やかに走破したのが「まつかぜ」であった。



「まつかぜ」は山陰線の全区間通しの運転期間は24年で一番早く打ち切られた。
あとの殆どの列車が新幹線に昇格したり、今も残っているのに対し、儚気な美人で
あったが、短い幸せの時間が今とても愛おしい。
私が写した昭和60年2月と言うのは、あとひと月で食堂車含め米子から西の区間
は廃止になる直前である。

前夜に京都で現役学生の追い出しコンパで酒を飲み、酔った勢いで「よし鳥取まで
廃止になる夜行に乗ろう」と周遊券を買い、朝は倉吉駅で二日酔いの顔を洗い
廃止になる倉吉線の始発に乗り、折り返して来てから、鈍行ですることもなく大阪まで
のんびり戻ることになった。
その時に居組駅(鳥取県)で単線のため列車交換待ちをしていたところ、大阪8時発の
5D「まつかぜ1号」がタイフォンの音も軽やかに雪の山峡の駅を駆け抜けて行った。
そのシーンを連続で、たまたま持っていたオリンパスOM1と50mmレンズで運良く
捉えることができたのが、お見せする写真なのである。




素晴らしい鉄道旅行の忘れられない一瞬。
こんなことがあるのだから、カメラはいつも持ってなくちゃいけないし、人間は好奇心の
アンテナや牙を研いでいないといけない。
居組で「あっ『まつかぜ』が来る!」と言って座席のモケットの上に時刻表を放り出し、
車外に松籟のように、駆け出した私のことを同席の友人らは笑ったが、私のお陰で
この貴重な「まつかぜ」のラストラン近い雄姿が見られたのである。

テツを嗤っちゃ、イケナイゼ。

なつかしい時刻表のページを見ながら、3号車、食堂車の室内音など
思い出していただければ、筆者として冥利に尽きる。











Posted at 2012/04/24 00:11:33 | トラックバック(0) | 鉄100% | 趣味
2012年04月21日 イイね!

雑誌NAVIはなぜなくなったのか

雑誌NAVIはなぜなくなったのか








2010年春の休刊から、もう2年になります。

雑誌NAVIが、二玄社というカーグラフィックを出している
出版社から創刊されたのは、1984年の初夏でした。
私が大学を出た翌年のことです。

実はここは書道関係の書籍が主な仕事の、地味な専業の
出版社だったのですが、1960年代前半の自動車雑誌がわずか
だった頃に、いろんな経緯からカーグラフィックを引き受ける
ことになりました。
それから20年が経ち、めきめきカーグラフィックは分厚い雑誌に
なりました。
広告がいっぱい付いたからです。

昔は編集と広告の仕事は、コミュニケーションのリレーションでも
水と油の、“階層分離”した仕事で、マスの仕事に入社しても
全く別部門に配属されたものでした。
今はどうなんだろうなあと、僕は思います。

ネットや、ウェブという仕事で、厳密な線引きや、「この情報は
『紐付き』(お金が後ろについている、作為的な情報であること)
だから、一般取材記事とは、扱いを別にしなくては」という
厳密な区別、もっというと弁別を行う必要や、僕らの頃のような
仕事のジレンマは、それ程無いのではないでしょうか。

1980年代の前半は、とにかく広告の踊った時代でした。
糸井重里や林真理子らの才能はコピーライターというカタカナ
職業への憧れとなり、電通とか博報堂といった名前だけ聞いたら
何の会社?という企業が、一番カッコ良い仕事のように、もて
囃されました。

この時代を駆け抜けた、同期の戦士たちとは、機会があれば
語ってみたいものです。僕は編集だけが、ジャーナリズムとも
思いませんし、優れた人はどんな仕事の中からでも、その本質が
見抜けていると思います。

さて、NAVIという雑誌は、カーグラフィック編集部の中でも、
小林彰太郎という抜きん出た才能の次に、優れた編集資質のある
大川悠を中心にして創刊されました。
高島鎮雄というディレッタントのお手本もおられますが、何か新しい
ものを創るなら、大川だろうなという、見解だったのだと思います。

それと、これだけCG本体に附いて来る広告が多いのは
きっと新しいウオンツが、自動車そのものの産業以外にあるの
だろうと、鋭い感覚の人たちは、読んでいました。
それが80年代の「何か生まれて来る」流れだったと思います。


2010年の春に、NAVIは突然休刊しました。事実上は廃刊で、また
時代が変われば、出すであろうかというのは、ファン心理です。
なぜNAVIは、まだ売れているのに、止めたのだろうか。
結構固定読者や、かつてのNAVI信奉者から、いろんな声も
出ましたし、ショックだったという反応も多いと思います。

実際の元編集部員であった小沢コージの手記を丁寧によむと
大川の跡を継いだ鈴木正文編集長時代のことが「事件」として
特にウイキなどでは書かれていますが、僕はマスコミでは当たり前
の出来事だと思います。あのフランスの核実験に対してフランス車
でデモをやるというハシャギは、殆どノリ、思い付きレベルに近いの
ですが(私もやりたかった^^;)、2012年の今から見ると、どうしても
醒めてしまうの感は否めません。

あの時の編集部員が二つに分かれたという事件(後で知りましたが)、
やっぱり居づらくなったのか、鈴木編集長が部下と新潮社のENGINE
創刊に行ってしまったことなどが、雑誌の活力を弱らせてしまったと
いう意見も、よく見掛けます。
しかし92年頃の湾岸戦争の時には、田中康夫らは、作家連盟として
「反対」の意思表示をしていました。その直後の鈴木の行動は、
「あり」じゃなかったかなあ、と僕は思うのです。
元アカとか、その辺の殴り書き(ウイキ)は、感情がこもっていますので
僕はウイキを読んで、プルプル来る人はアホやと思っています。

右や左のバイアスの話はやめましょう。
しかし凡庸な人ばかりが、次々と編集子(エディター)になって、
雑誌は面白くなくなりました。大川、鈴木時代の遺産で喰ってるなあ
というのは、僕ら読者にも判っていたし、徳大寺さんも「仕事だから」
と出て来ているが、編集部、編集室の空気(テンション)が下がってくると
惰性でやっているのも、疲れて来ます。
よく10年持ったなあと、僕は反対に思いました。


雑誌は創りたいから作る、作りたい人がいるから、出すのであって
90年代のバブル(懐収入の増加)で、高価な生活を維持する為に
媒体(いやな言葉ですが広告用語です。いまは「メディア」といいます)
を出し続けるというのは、知らしたいことがあって、本をつくるのとは
全く逆で、まさに本末転倒です。
今の日本が退屈で、面白くなくなったのは、贅沢な生活を維持する為に
働くのが、「当たり前」になってしまったからなのでは、ないでしょうか。


さて、ここからが、新しい(笑)、僕の独自論です。
NAVIはなぜ、止めてしまったのか。もう少しリニューアルすれば
何とか続いたのではないか、という現実論的な意見に反論しましょう。


あれは、廃刊休刊でなく、「解散」なんです。バンドやセッションと同じ。
つまり、その昔の「はっぴいえんど」や「ティンパンアレー」と同じように
考えてみてください。
細野や大滝に当たるのが、鈴木や大川氏であって、小沢コージのような
若い才能も、顔を出しております。
古くは松本葉が、初期の大貫妙子のようにいてましたが、松本は
3代目編集長の小川文夫の姉妹の友達ではなかったかな。

外部のスタッフ、寄稿者というのは、セッションのひとりひとりのプレーヤーです。
楽器の代わりの才能を持つ。
その辺のところを理解出来なく、サラリーマン的や、ネットの文字だけを見て
判断する人たちが、あまりにもつまらない解釈をし過ぎています。これは
現代の弊害です。頭だけでもの事を考えていては駄目です。日本のいちばん
行き詰まっている原因の一つでしょう。

もっともっと、もの事は、遊び感覚的に捉えないと、良いものは生まれません。
NAVIはね、良い音を出していたバンドだったのです。
「ええ感じ」というのは白熱のセッションがヒートアップして、お金を払って
見に行った観衆も場の空気に包まれて、このライブっていくらだっけ?というのを
忘れさせるような、恍惚感のときを指すのです。

だから、もうこの辺で、止めようか、という「天の声」は痛いくらい判りました。
カッコ悪くなっちゃうくらいなら、解散した方が「伝説」になる。
そんな感じの幕引きだったなあ、と僕は感じたのでした。

ちくしょう、なんて東京的な発想なんだ! 当時の僕は舌を打ちました。
あれから2年が経ちます。もう皆、NAVIのことなど、あったことすら忘れているでしょう。
それで良いのです。
自動車に乗ること自体が、どういじっても「クール」になりにくいなら
ゴリゴリの特化した趣味や、知識オタクに走るのも一つですが、
私も「エンスー」という言葉に感じられた、本来の義のエンスージアストを
揶揄った80年代的な諧謔感、上滑りな快走感が好きでした。

この感覚、今の20代、30代前半の方には、チョット判りにくいかもしれません。
僕のブログを読みながら、面白いコメントをいただければ、幸いです。









Posted at 2012/04/21 04:27:44 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/01 18:15:22
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
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