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kotaroのブログ一覧

2012年04月18日 イイね!

スーパーカーの来ない旧車行事<続>

スーパーカーの来ない旧車行事<続>長くなりましたので、2つに分けます。

趣味と言うのは何のためにするのか。
敢えて目的はないのですが、後から考えると
人の心や、身に付いた人徳のようなものを
少しずつ豊かにして行く。そんなものではないでしょうか。

もの心の着いたときより、小3くらいで切手収集に
目覚めたあたりから、僕はこれで一生やっていこうと、
決心していました。


道を究めんとすれば、最初モノに行き着きます。
モノが手に入れたければ、等価交換という方法か
カネによって入手するしかない。
よく、すごく頑張っている人のお話を聞く機会があります。

でも私はお金のない子供時代から、趣味の道について
考えました。ずるいことや悪いことをして手に入れたいものを
手に入れても、それは曇ってしまうのです。
マイダスの腕ではありませんが、ゴールドに狂っても
仕方ありません。
それならどうしたら良いかというと、真に欲しいものが
出て来るまで自分を育ててじっくり待つのです。
でも真に欲しいものというのが、一番難しい。それが
何かと言うのが普通判らないからです。
ランボルギーニ・カウンタックなのか、ディノ206なのか。
そんな判り易いものが「欲しい」というのは或る意味微笑ましいのでしょう。

私のように20代でフィアット850クーペに出会えてずっと
乗り続けるということは、いろんな幸運とその後の姿勢の
面で、示唆的な意味があります。
できれば田中むねよしのボルナツより、柳むねよし(宗悦)
の「蒐集物語」の方を、読んで欲しいですね(笑)。


さて米子の話題に戻りましょう。

2007−2008のポンテに参加して、一番の収穫は、岡山県の
真庭郡に、市制移行の時に「光栄ある孤立」を守り通した
新庄村という桃源郷のような村があることを知りました。
ぶーちゃんと「あそこは良かったねえ」と反芻したくらいです。

ポンテ終了後も、後番組のバリオストラーダと言う自主開催の
アングラ劇が2年続きましたが、3回は持たず、昨年は有志で
ツーリングドライブするだけという程度に止まりました。
岡山県下は別に、山陽新聞が何とか事業にしろ!とスーパーカーを
持って来て、なんかやっているようです。
それはチビッコのアトラクションならいざ知らず。ヒストリックカーを
大掛かりに連ねて走る意味は、まだ美作の地では、文化に至って
いないのだろうと思われます。

失礼かもしれませんが、辛い意見と言うのはこういうものなのです。
近接した香川県にかかる、小豆島のヴィンテージイベントの存在が
昨年まであり、これも田舎のエゴ剥き出し合いのひとつでした。
調整が出来ないから、勝手に春に同じような趣旨のイベントが
バッティングする。大阪出発点のラフェスタ・プリマヴェーラという
イベントも、神戸時代のポンテの翌週でした。
これって両方出ている人は2週連続の精神的自慰ですよね。



1999から2008までのポンテペルレは、一つの時代を創りました。
後半はかなり自主開催色が強く、神戸市とJTBが離れていきました。
でも私は後半を評価しています。

2008年頃からの混乱にうんざりしていた私は、昨年から米子に
遊びに行くことに決めました。
春先には以前は神戸の「ちっちゃいくるま」などの国産小排気量の
イベントがあったのですが、フィアットフェスタも6月に代わり、
春の「番組」が無くなったと言うことが大きいです。



昨年は、鳥取で海側に出てしまい、そこから西の海に沈む夕陽を
追いかけながら、ひたすら倉吉、大山の山麓、米子と走り抜きました。



そして親しくなった旧友の家に泊めてもらい、歓待を受けました。
今年は開催時期も4月になり、桜の見られる季節が重なりました。
あの時の岡山県下のコースが、ちょうどその時期であったことを
思い出させてくれます。




そうして迎えた15日当日朝、米子の町にある旧米子市庁舎と
現在使われていない、村野藤吾という建築家の作品である
公会堂を見て来ました。





昭和初期の旧市庁舎は、その頃の町の勢いと、少し気負った国威
掲揚の背伸び感が感じられ、反対に、にっこりしてしまいます。
戦後昭和30年代前半の公会堂には、村野藤吾という一流建築家に
依頼した市民の「あすなろ」感が詰まっており、何とかこの建築を
再生して欲しいと思いました。しかし耐震基準や、老朽化の問題は
明るい時間に初めてみて、はっきり感じました。
取り壊して造り変える以上の費用がかかっても、この建築が残される
価値はあるかもしれませんが、建築家はボランティアではありません。
安藤忠雄級の建築家に全面改装を発注できないと、このユニークな
表現主義の建物は、生き返らないと思います。
それだけに負担はどうするか。チボリをつぶしてしまった倉敷市と
米子は、格の似た、准県庁所在地級の町なのです。



会場に着きました。旗が崎地区にある米子自動車学校は
公会堂と同じ時期の昭和30年代の前半に設立されたそうです。
国道9号線が舗装化され、山陰の動脈が完備されました。

昭和36年には、山陰本線に特急「まつかぜ」が走り始めます。
米子は鉄道管理局のある町になりました。山陰線東半分を担当する福知山とともに
中部と西部は米鉄が責任を持ち、特急を走らせられるだけの「市」に昇格したのです。
市内の後藤駅横には、真新しい「まつかぜ」用のキハ80系や急行用58系を
整備出来る後藤工場が近代化され、「まつかぜ」には食堂車も連結されました。
高校を卒業する地元の女性は、食堂車のウェィトレスとして働くことを夢見、
工業高校、高専の生徒らは、後藤工で新しい時代のディーゼルカーを整備したい
と勉強に励みます。
1本の特急列車というスジが走り出すことで、東京や大阪という都会に出て行ける
という直接の影響だけでなく、雇用から町のプライド上昇まで、夢の広がる幸せな
時代でした。僕の好きな鉄道の物語は、こういった人文科学的な歴史性なのです。

反対にいま、一番足りないものは、夢であり、希望であり、プライドであります。
特急列車に何かがあってはならないと、管理局長も、駅長も、保線区員、工場の
技術者も、食堂車の女性従業員も「自分の職場」では、責任を持って働きます。
働くことが、ぼやけた目的性の行為に墜ちたために、日本は原発事故をはじめ
のたうち回っているのではないでしょうか。



おりしも昭和40年ころには、全国を“巡業し”テレビ放映のありがたさを知らしめた
NHKテレビの「ふるさとの歌祭り」が米子から中継されたのを見た記憶があります。
きっとあの会場は完成して数年の、米子市公会堂だったのでしょう。
宮田輝のファンだった少年は、「よなご」という地名をその時から覚えて、
家に何時も置いてあった時刻表で、その位置を確認したものです。

あと、大山山麓の母里や法勝寺方面まで出ていた、法勝寺電鉄が昭和42年頃に
ひっそりと消えて行きます。法勝寺電鉄は晩年、米子発祥の日ノ丸自動車の
鉄道部門でした。
鳥取には、大阪と複本社制を敷く日本交通と日ノ丸自動車という名前だけ聞いたら、
どこの会社かというような、壮大な名前のバス会社が2社あります。
イベント会場の鳥取自動車学校も、バス運転手の需要も設立目的の一つで、特に鳥取は
高速道発達以前から、ロングラン路線の運行には意欲的で、鉄道の好敵手であったこと
(今も)ということを、付け加えておきます。

ところでこういった、地方都市での旧車のイベントに、本当に相応しいのは、
懐かしい昭和の時代の国産車なのかもしれません。
しかし、これが難しいもので、都会だとびっくりされる、パブリカやスバル360に
しても、地方だと「ほんのちょっと前まで、ゴロゴロ見掛けた」ということで
イベントのアトラクションにならないのかもしれません。

では何を持って来るのがよいか。
岡山が単純にスーパーカーというのなら、山陰鳥取の意地で、渋めの外国車を
集めてくる。偶然こうなったのかと考えさせられました。



実はこういったエキゾチィックな外国車趣味は、一旦都会に出て行き
また故郷に戻って来た、昭和40年代生まれくらいの人たちの共通項なのでは
ないかと思うのです。
「山陰にあるアルファ全部が来ている(笑)」といった関係者のコメント
だけではなく、元々地方出身者である私の外国車趣味も、大学生でいた京都から
始まっています。

そんな中に秘めた情熱とでも言いましょうか。抑えた渋めの通好みというのは、
最初の章に書いた、主催中心人物の方の趣味、ベータトレヴィ好きというあたりに
実に反映していると思うのです。
裏日本という言葉が差別的と言いますが、私は禁欲的な快楽主義とでもいうような
松江の松平不昧公を出したような、山陰的な渋い通好みの枯山水が好きです。

ちょっと長くなった項でしたが、以上のような分析が私の山陰研究であります。
また何か感じることがありましたら、感想をお聞かせ頂くと、幸いです。


Posted at 2012/04/18 03:29:31 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2012年04月17日 イイね!

スーパーカーの来ない旧車行事

スーパーカーの来ない旧車行事








鳥取から戻りました。
往復500キロちょっとの旅は、鳥取県米子市で、
ランチアトレヴィ、ヴォルメクスに乗られる熱心な
一人のエンスージアストに逢うためと、お互いの
親交や友情の確認のような、一日でした。

そもそもの出会いは、2008年に私と紺の豚氏が出場した
スーパーイベント、「ポンテ・ペルレ」の一行が
大名行列よろしく岡山県の山間部の旧い宿場に
立ち寄ったことから始まります。



このときにローバーP6と、フィアット850クーペという、
有名でない2台の渋い旧車がこの休憩ポイントに相次いで
同時にゴールインしたところに遭遇し、ベンツ190SLや
フェラーリ275GTといった並みいる超エンスー車たちより、
「こっちのほうに」深く感銘した一人の通好みなクルマ好きが
マイブログに記事を投稿したことから、この物語は始まったのでした。


さて、続きを書きましょう。


エンスー道の松竹梅でいうと、ローバーが竹、フィアットは梅くらい
なのですが、この2台は元々私が90年代に乗っていた愛車群です。
2007年にはポンテにフィアットでエントリーし、出場する予定で
あったものが、4月22日は統一地方選挙の開票日と重なり、全員出勤を
強制されて、泣く泣く日曜日の休み予定を取りやめ、盟友紺の豚氏に
譲渡したローバーでピンチヒッターに立ってもらい、私はローバーの
コドライバーとなり、日曜日の朝、岡山から新幹線で大阪に戻り出勤しました。

エントリーに16万もするクラシックカーイベントに出る人は皆、
特別に優雅な人生を送られていると思われますが、当時の私は
年収もありましたが、このような胃の痛くなるような“タッチ&ゴー”
の綱渡りをして、特別なイベントを迎えていたわけです。
しかし考えようによれば、遊び一つでもそれだけマジ(真剣)だった
というのは、今だから笑える裏話です。しかし会社に対しては
腸が煮えくり返っていました(笑)。

翌年の春は、統一選挙もなく、穏やかにエントリー。しかしこの
年から盟友は家族とイベントに出場するという、本来のスタンスで
楽しまれることを決意。現在に至ります。
私はいつも苦虫を噛み潰したような顔をして、元愛車の後ろを
追いかけます。この年のフィアットのコンデションは酷かった。
板金全塗装は完了していたのですが、クラッチ不良で高速の
入り口で、坂を上がらない(汗)。

本当に心で泣いていました。ひとりで12万ですからね。
それでも3速や4速でトルクかかからないなら、上り坂も走れると
わかり、気を取り直して「ラリー」を続行しました。精神的に開き
直るとタフで、完投するピッチャーのタイプですから。


そんなビッグイベントの方で、後ろから黙々と着いて行く平凡な
2台ですが、この2台のクルマは縁がありますから、いったい
どんな言葉を交わしながら、一緒に走っていたのでしょう。
その不思議なオーラに気づいた一人の山陰から来ていたエンスー
マンは、やっぱり独特の電波をキャッチされたのでしょう。
このころのポンテは、芸能人のチャラチャラしたお祭り感は排除され
骨太の硬派なイベントに成長しておりました。特に倉敷市は
市長より偉い大原家の配慮で、特別美観地区を通行させるという
もってない待遇で一堂を迎えてくれました。



ところがポンテ終了後のたしか翌週の選挙で、若い女性市長が
当選すると「チボリパーク」を廃園してしまいました。その年の
12月で倉敷市の夢の園は消えてしまい、翌年からポンテも無くなり、
倉敷ー津山ー久世(真庭)ー新庄村といった、往年の素晴らしいコースも
過去の歴史に消えてしまった訳です。



さて、ここで物語は終わっていなかったのです。
途方も無くエネルギーを使う(金も)、「ポンテ・ペルレ」から帰って来た
2人は、大阪のどこかで反省会と称して、こじんまりと飲み会をします。
「おお、(ワシらの2台を)ブログに取り上げていた人がいたねえ」
奇特な人やねえ。敦賀のT君(ランチアデルタの初期ボディのHFに乗る)
が最初に気づいたようですなあ。

そんな噂話をしているうちに、熱心なランチア党の紺の豚氏は、その年の
秋の兵庫のCGデイでブログの主と会うという、出会いを演出、わたしも
リトモ125で顔を出すことにいたしました。




この時は、ローバーが特別賞を取り、松任谷正隆さんから特別な
コメントもいただいたと思います。
私の時代には、維持に汲々としていた名車ですが、ようやく花開いた
といえましょう。
それからこの時は、前述の敦賀のTさんも、愛車の三菱ジープで
駆けつけてくれました。

そして知り合いになった鳥取の貴人(奇人?)とはお互いの愛車の
インプレッションを交歓し
、友達になったと言う訳です。


Posted at 2012/04/17 07:29:15 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年04月15日 イイね!

米子の朝

米子の朝昨日の夜に、山道を越えて走ってきました。
今日は天気も晴れが一日続きそうです。

旅先の宿で朝を迎えるのは、人生何100回以上あるかわかりませんが、清々しいものです。

こんなふうにやり直しの朝が、迎えられたら(笑)。

新しい出会いと素晴らしきホリデーに、感謝致しましょう!

それでは、行って来ます。
Posted at 2012/04/15 06:25:44 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2012年04月14日 イイね!

イベント前夜

イベント前夜















今年2回目のイベント出撃の前夜である。
1月のNYMから間が開いているので、そう考える。
先週のアズーリから1週間と1日。
馬のレースで言うと「叩き2走目」になる。
桜花賞の次は皐月賞レースだなあと
今夜の入った立ち飲みで隣のオヤジが読んでいた
スポーツ新聞に目を落としながら、考えていた。

今度は遠出で昨年も参加した鳥取県米子市まで
日曜日にクルマを走らせることになる。
昨年よりは参加車両も増えているだろうし、
フライヤー(最近は宣伝チラシのことを、そういうのですね)
も事前に配っているし、個人的に間接的に受け取った
チラシ、ポスターを、豊中の自動車工場や、
北九州の工場までに渡してPRを依頼している。

最初の依頼主はそこまでは知らないだろうけれど
頼まれたり、引き受けたりしたら、そこまできちっと
するのが、男の流儀だ。敢えてこちらから
「どこそこに頼みました」とはレスポンスしていない。
大体においてイベントは成功するであろうと予想している。

長いこと、「マス」の世界でコミュニケーションの
仕事をしていた。
そこは、こんなふうに一般の人たちがツールを持てるように
なる以前からの話である。
だからある程度、話題を流したり、人がどのように反応するかで
このイベントや企画はいけるなあとか、こりゃあ多分駄目だな
というのは観測できる。
人が人を動かすのは、基本は熱意であるからである。

クルマのサンデーイベントが常態化して長い。
オフ会という言葉もすっかり定着した。
それ以前からあった老舗のイベントも、工夫のあるところは
生きながらえているし、下火になったのもある。
思い付きで、風呂敷を広げたが、1回でコケルのもあるし、
数回やっているうちに、最初の動機からどんどん離れておかしくなって
飛んでいった方向の判らぬロケットみたいなのもあった。

たとえば小豆島なんかがそうだ。
実行者の、個人や団体や、目論みのある地元組織などに
イベント屋や自動車を売りたいものなどがくっついて、立ち上げる。
宣伝する。アドバルーンをあげる。雑誌に広告をだす。
広告(お金)が動けば、雑誌は姿勢が変わり、記事を割くだけでなく
営業の人間も動き出す。
お金にハイエナのように群がる人が一方で居て、趣味のクルマに
乗る人物にもいろいろな思惑がかかったりする。
有名人という商売で生きている人は、自分の価値が判っている。
自分が出れば、どれだけの見返りがあるのか。その分水嶺が
判っている人は、生き馬の目を抜く芸能界で、落っこちない。
反対に落っこちてしまった元野球スターの例もあった。

私は、一般人、個人でありながら、ずっとそんな例を、ある程度の
距離で見て来た人間で、冷ややかでありながら、ときにアツく語ったり
もする不思議な人間だ。
こんな人間はあまりいないだろう。
理解出来ない人は理解出来ないし、クルマの世界で有名かといえば
もっと(人間自身の才能でなくて)、クルマのおかげで有名な人は
いくらでもいる。
そういうのを淡々と客観的に見ることもできるし、ビギナーにも優しい。
また私に対して(敵は作らない方であるが)ライバル心を持って
対している人もいるだろう。良い意味での対抗心は、お互いが向上する
から、私は歓迎する。

26年間、ふるい1台のフィアットに乗り続けた男は、
こんなふうにイベント前夜に、もの事を考えている。
さあ、日の西に沈む山陰の国に、友は待っているであろう。
クルマと、このカラダが大丈夫なうちは、
また明日も、疾り続けようでは、ないか!


















Posted at 2012/04/14 05:32:24 | トラックバック(0) | 思うこと | 旅行/地域
2012年04月11日 イイね!

井上鑑と80年代モーターシーン

井上鑑と80年代モーターシーン













オールマイティーの天才と言うのは突然登場することがある。

80年代が面白くてしようがなかったのは、その幕開け期に
松田聖子(とその世界を創った人たち)とか、野球でいえば2軍から
1軍に上げてみたところ、あれよあれよで3冠王を取ったロッテの落合
とか面白い人が次々と出て来たことがある。
YMOの3人衆と電子ゲーム音という人も居るだろうし、ウオークマンの
発明だ、ビートたけしに糸井重里と、何を取り上げても、今の時代より
ずっと面白い。

イチローのような努力型天才に比べると、何もかもがエピキュリアンな
人たちであふれていたのが80年代の特徴だ。その中でもこの人はすごく
面白い。
いぶし銀みたいな存在ではなく、嚢中の錐のように才能が突き出して
いたのが井上鑑(アキラ)だ。





サウンドだけであるが、グラヴィテーションズ(引力)のシングルと写真の
「予言者の夢」という内容の濃いアルバムを引っさげて登場したマルチ
ソングライターである。

それでは横浜ゴム・アスペックのCM、いってみましょうか。




1980年、81年頃というと、まだ外車は夢のような存在であった。
E21、初代BMW3シリーズのイメージと憧れを徹底的に印象づけたのは
横浜ゴムのラジアルタイヤ、アスペックのCMと宣伝広告である。

豊田とか、日産とか、漢字をイメージするメーカー名に、カローラとか
サニーとか60年代風のカタカナ外国語の車名の組み合わせも、何だか
ダサく感じていた。
父ちゃんのクルマとか、そんな雰囲気だね。そこに出て来たのがBMWで
ある。

男の子たちは「バイエルン・モーター・ヴァルケ」とその語源をさり気なく
憶えて披露したり、ただの3シリーズ、「シリーズ」という単純な
ネーミングに新しさとカッコ良さを覚えたのであった。
「320i」って何だよ? 3シリーズ、次の20は2000cc、iは
インジェクションの意味。

へえー、西ドイツ人って、知的だなあ、とみんな感心したり、言葉の虚飾を
排した自動車の名前に、何でも良いからマイカーさえ持てればという、
時代を卒業したかった人々は、このクルマが「海の向こうから」到来した
ことに飛びついたのであろう。
日本人の舶来信仰は可愛らしい(笑)。


アキラさんの話に戻ろう。
1953年生まれだから、この頃は20代後半。スタジオミュージシャンと
いう職業が脚光を浴び出した頃である。
音楽理論と実演の出来る人は、鉄板で、数々のソングのアレンジに頭角を
現していた。

たとえばこんな曲とか



で、これで一躍音楽プロデューサーとして名をあげました。

ルビーの指環でなく、きょうはこっちを聴いてみましょう。



横浜ゴムのアスペックというタイヤは、モータースポーツ本命派の人には
当時アドバンというブランドがあり、人気を博しましたが、とにかく
この頃はまだ走り屋=街道レーサー=暴走族=警察が出てくる、といった
一般人の認識が強く、実際、アドバンは族にはもの凄い人気がありました。

そりゃー良からんだろうというわけで、もうちょっとソフトなスポーツ
ブランドを出して来たのが、アスペックです。

都会派、知性的、オトナのクルマ好きに、という位置づけであったので、
横浜銀蝿、ウ○コ座り、シャコタンハの字大好き!といった人たちとの
マーケットの棲み分けが図られました。

CMイメージはどうしよう、といったら、この人が良いのでは、と
電通マンかどこかの企画営業員が、東芝EMIに属していた、井上鑑を
出して来たと思います。
僕も当時は、マスコミのそういった仕事もしましたので、今よりずっと
楽しい仕事が多かったと記憶します。

特筆すべきは井上鑑自身が、結構モータースポーツの世界が好きであり
自分のソロアルバムに、コンセプトを入れたいと願った曲が2つあります。

ユベスキューレ




これは当時一部の人しか知らなかったWRCの舞台、「1000湖ラリー」の
世界を歌ったものです。間違えても10000(万)じゃ、ありませんからね。
ミルピステ、ミルマスカラス。💦



ウオーターロールのFIAT131が空を跳ぶシーンが彷彿しますが、これは
マルク・アレンがモデルなんでしょうね。
オムニバス形式で映像をお届けいたしましょう。



1981年同ラリーのメモリアル。
5分過ぎに幻のランサーEX WRCが出て来ますが、これはシムカ
(タルボット)ークライスラールートで出場に漕ぎ着けましたって、
知っていました?。
東本昌平の「SS」に出てくるスタリオンWRCに繋がる楽しい夢でした。

こうして当時のサンビーム・タルボットや、エスコートラリーの走りっぷり
が卓上で見られるなんて、30年前は想像もつきません。
もうチョット懐かしい、1973年の映像も見てみましょう。



こういう映像を見ていると、今の私たちの生活やカーライフは、もう
ちょっと昔のことをレスペクトしてみても良いのでは、という気になります。
当たり前に快適な環境を受け入れているだけでは、つまらない人生に感動も
無いままに、生きているという気がしませんか。

当時のボルボやサーブに交じって、日本代表のZやギャランが気を吐いて
います。

さて、もうひとつの「サファリ オスティナート」という曲は、ユーチューブには
見当たりませんでした。これは世界一速い婦人と謂われた、ミシェル・
ムートンのことを取り上げた曲です。i-tuneで、触りは聞くことが
出来ました。

(追記)その後見つかりました。



なんといっても、彼女と言えば、ラリー・クワトロですね。




あの頃は、カッコイイお姉さんでしたが、今もカッコいいです。





ということで、井上鑑と80年代、クルマと音楽、社会の動きも
ずっとしなやかに一つの話題を追いかけて行くことが楽しかった
時代のことを、きょうは書きました。

一番今と違うことは、中間コストのカットだと思うのです。
当時は全く不可能に近かったユーチューブのようなツールで、昔の北欧の
ラリーのシーンも見られる一方、憧れや夢に対して、疑似体験してしまう
程度で入り口で帰ってしまうことも多いと思います。

こういう報告(レポート)をパソコンを使い、他人の2次情報を掻き集める
ことで、こういったところに書いて、ある程度の人数に読んでもらい、
満足感を得ることも可能になりました。

しかし私の基本は、前回の記事に書いたように、実際に昔の車を今運転して
同じような時代のディーノや328を追いかけ回すことが、面白いのです。

「知ってる」だけじゃ、どうかな?。
もう少し、クルマというものを使って、どう遊ぶか。

そしてパソコンツールを通じて、啓蒙みたいなことを若い人にも伝えて行く。
こんなところで、もう少し頑張ってみようと思います。



Posted at 2012/04/11 13:17:11 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

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中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
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