
長くなりましたので、2つに分けます。
趣味と言うのは何のためにするのか。
敢えて目的はないのですが、後から考えると
人の心や、身に付いた人徳のようなものを
少しずつ豊かにして行く。そんなものではないでしょうか。
もの心の着いたときより、小3くらいで切手収集に
目覚めたあたりから、僕はこれで一生やっていこうと、
決心していました。
道を究めんとすれば、最初モノに行き着きます。
モノが手に入れたければ、等価交換という方法か
カネによって入手するしかない。
よく、すごく頑張っている人のお話を聞く機会があります。
でも私はお金のない子供時代から、趣味の道について
考えました。ずるいことや悪いことをして手に入れたいものを
手に入れても、それは曇ってしまうのです。
マイダスの腕ではありませんが、ゴールドに狂っても
仕方ありません。
それならどうしたら良いかというと、真に欲しいものが
出て来るまで自分を育ててじっくり待つのです。
でも真に欲しいものというのが、一番難しい。それが
何かと言うのが普通判らないからです。
ランボルギーニ・カウンタックなのか、ディノ206なのか。
そんな判り易いものが「欲しい」というのは或る意味微笑ましいのでしょう。
私のように20代でフィアット850クーペに出会えてずっと
乗り続けるということは、いろんな幸運とその後の姿勢の
面で、示唆的な意味があります。
できれば田中むねよしのボルナツより、柳むねよし(宗悦)
の「蒐集物語」の方を、読んで欲しいですね(笑)。
さて米子の話題に戻りましょう。
2007−2008のポンテに参加して、一番の収穫は、岡山県の
真庭郡に、市制移行の時に「光栄ある孤立」を守り通した
新庄村という桃源郷のような村があることを知りました。
ぶーちゃんと「あそこは良かったねえ」と反芻したくらいです。
ポンテ終了後も、後番組のバリオストラーダと言う自主開催の
アングラ劇が2年続きましたが、3回は持たず、昨年は有志で
ツーリングドライブするだけという程度に止まりました。
岡山県下は別に、山陽新聞が何とか事業にしろ!とスーパーカーを
持って来て、なんかやっているようです。
それはチビッコのアトラクションならいざ知らず。ヒストリックカーを
大掛かりに連ねて走る意味は、まだ美作の地では、文化に至って
いないのだろうと思われます。
失礼かもしれませんが、辛い意見と言うのはこういうものなのです。
近接した香川県にかかる、小豆島のヴィンテージイベントの存在が
昨年まであり、これも田舎のエゴ剥き出し合いのひとつでした。
調整が出来ないから、勝手に春に同じような趣旨のイベントが
バッティングする。大阪出発点のラフェスタ・プリマヴェーラという
イベントも、神戸時代のポンテの翌週でした。
これって両方出ている人は2週連続の精神的自慰ですよね。
1999から2008までのポンテペルレは、一つの時代を創りました。
後半はかなり自主開催色が強く、神戸市とJTBが離れていきました。
でも私は後半を評価しています。
2008年頃からの混乱にうんざりしていた私は、昨年から米子に
遊びに行くことに決めました。
春先には以前は神戸の「ちっちゃいくるま」などの国産小排気量の
イベントがあったのですが、フィアットフェスタも6月に代わり、
春の「番組」が無くなったと言うことが大きいです。
昨年は、鳥取で海側に出てしまい、そこから西の海に沈む夕陽を
追いかけながら、ひたすら倉吉、大山の山麓、米子と走り抜きました。
そして親しくなった旧友の家に泊めてもらい、歓待を受けました。
今年は開催時期も4月になり、桜の見られる季節が重なりました。
あの時の岡山県下のコースが、ちょうどその時期であったことを
思い出させてくれます。
そうして迎えた15日当日朝、米子の町にある旧米子市庁舎と
現在使われていない、村野藤吾という建築家の作品である
公会堂を見て来ました。
昭和初期の旧市庁舎は、その頃の町の勢いと、少し気負った国威
掲揚の背伸び感が感じられ、反対に、にっこりしてしまいます。
戦後昭和30年代前半の公会堂には、村野藤吾という一流建築家に
依頼した市民の「あすなろ」感が詰まっており、何とかこの建築を
再生して欲しいと思いました。しかし耐震基準や、老朽化の問題は
明るい時間に初めてみて、はっきり感じました。
取り壊して造り変える以上の費用がかかっても、この建築が残される
価値はあるかもしれませんが、建築家はボランティアではありません。
安藤忠雄級の建築家に全面改装を発注できないと、このユニークな
表現主義の建物は、生き返らないと思います。
それだけに負担はどうするか。チボリをつぶしてしまった倉敷市と
米子は、格の似た、准県庁所在地級の町なのです。



会場に着きました。旗が崎地区にある米子自動車学校は
公会堂と同じ時期の昭和30年代の前半に設立されたそうです。
国道9号線が舗装化され、山陰の動脈が完備されました。
昭和36年には、山陰本線に特急「まつかぜ」が走り始めます。
米子は鉄道管理局のある町になりました。山陰線東半分を担当する福知山とともに
中部と西部は米鉄が責任を持ち、特急を走らせられるだけの「市」に昇格したのです。
市内の後藤駅横には、真新しい「まつかぜ」用のキハ80系や急行用58系を
整備出来る後藤工場が近代化され、「まつかぜ」には食堂車も連結されました。
高校を卒業する地元の女性は、食堂車のウェィトレスとして働くことを夢見、
工業高校、高専の生徒らは、後藤工で新しい時代のディーゼルカーを整備したい
と勉強に励みます。
1本の特急列車というスジが走り出すことで、東京や大阪という都会に出て行ける
という直接の影響だけでなく、雇用から町のプライド上昇まで、夢の広がる幸せな
時代でした。僕の好きな鉄道の物語は、こういった人文科学的な歴史性なのです。
反対にいま、一番足りないものは、夢であり、希望であり、プライドであります。
特急列車に何かがあってはならないと、管理局長も、駅長も、保線区員、工場の
技術者も、食堂車の女性従業員も「自分の職場」では、責任を持って働きます。
働くことが、ぼやけた目的性の行為に墜ちたために、日本は原発事故をはじめ
のたうち回っているのではないでしょうか。
おりしも昭和40年ころには、全国を“巡業し”テレビ放映のありがたさを知らしめた
NHKテレビの「ふるさとの歌祭り」が米子から中継されたのを見た記憶があります。
きっとあの会場は完成して数年の、米子市公会堂だったのでしょう。
宮田輝のファンだった少年は、「よなご」という地名をその時から覚えて、
家に何時も置いてあった時刻表で、その位置を確認したものです。
あと、大山山麓の母里や法勝寺方面まで出ていた、法勝寺電鉄が昭和42年頃に
ひっそりと消えて行きます。法勝寺電鉄は晩年、米子発祥の日ノ丸自動車の
鉄道部門でした。
鳥取には、大阪と複本社制を敷く日本交通と日ノ丸自動車という名前だけ聞いたら、
どこの会社かというような、壮大な名前のバス会社が2社あります。
イベント会場の鳥取自動車学校も、バス運転手の需要も設立目的の一つで、特に鳥取は
高速道発達以前から、ロングラン路線の運行には意欲的で、鉄道の好敵手であったこと
(今も)ということを、付け加えておきます。
ところでこういった、地方都市での旧車のイベントに、本当に相応しいのは、
懐かしい昭和の時代の国産車なのかもしれません。
しかし、これが難しいもので、都会だとびっくりされる、パブリカやスバル360に
しても、地方だと「ほんのちょっと前まで、ゴロゴロ見掛けた」ということで
イベントのアトラクションにならないのかもしれません。
では何を持って来るのがよいか。
岡山が単純にスーパーカーというのなら、山陰鳥取の意地で、渋めの外国車を
集めてくる。偶然こうなったのかと考えさせられました。
実はこういったエキゾチィックな外国車趣味は、一旦都会に出て行き
また故郷に戻って来た、昭和40年代生まれくらいの人たちの共通項なのでは
ないかと思うのです。
「山陰にあるアルファ全部が来ている(笑)」といった関係者のコメント
だけではなく、元々地方出身者である私の外国車趣味も、大学生でいた京都から
始まっています。
そんな中に秘めた情熱とでも言いましょうか。抑えた渋めの通好みというのは、
最初の章に書いた、主催中心人物の方の趣味、ベータトレヴィ好きというあたりに
実に反映していると思うのです。
裏日本という言葉が差別的と言いますが、私は禁欲的な快楽主義とでもいうような
松江の松平不昧公を出したような、山陰的な渋い通好みの枯山水が好きです。

ちょっと長くなった項でしたが、以上のような分析が私の山陰研究であります。
また何か感じることがありましたら、感想をお聞かせ頂くと、幸いです。