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kotaroのブログ一覧

2012年06月15日 イイね!

菊池武夫の本

菊池武夫の本ゲンパツとかセーカツホゴとか、
キタナい話題ばっかりの
えー加減にせいよ!の今のニッポン。
どうしてこんな国になっちゃったんだろう。
人間は口にする話題や、選んだ職業、
生き方でずいぶん人生に
影響を受けると思う。
という訳で、私はしばらく、敢えて
そう言う話題はやめて行こうと思う。

買って来たのはこれ、
デザイナーのキクチタケオの本である。
カッコイイデザイン装丁だが、値段も2500円+税する。
それと久々にマガジンハウスらしい本なのがうれしい。
どこにいっちゃたんだろう、昔の日本の「気前の良さ」は。
ぽん、と買いましたよ。
タケ先生(ウチの嫁はんの会社では社内用語でそう呼んでいた)
の本ですから。

メンズは女性ファッションの1割以下という事実。
その中で50年近くトップを走って来たデザイナーの人生観や
生活感。
わかります?
人と同じ方向を向かない男こそ、男だと思う。

外車だけが走っていて、
「クルマに人が乗せられている」ような人を
よく見掛けるが、本当にそういうカッコ悪いことに
ならないようにするには、どんなことに気付かなければ
いけないか。
この本を読んで学習して欲しい。

口先だけでカッコいいシニアになれる訳が無い。

今の日本人、格好悪過ぎるよ。
このおじさん、スーツを着ていく習慣が減っている現実も
うんと安いファストファッションの世界のことも弁えている。
それでも敢えて男性ファッションの、現場にこだわっている訳だ。

仕事上や嫁はんの手前、プリウスを買おうなんて考えてるアナタ、
それは絶対止めた方が良いですよ!!!




Posted at 2012/06/15 03:27:53 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | 日記
2012年06月13日 イイね!

つかれちゃった♪

つかれちゃった♪











クルマの話は、やめにして、
きょうはのんびりーっとアイドル特集デイ。



投稿映像は綺麗だけど、それにしても非道いハンドルネームだこと。

殆ど全員誰の何という曲かわかるし、

夾雑物的に入っているおニャン子クラブでも
顔と名前と、もしかしたら会員番号まで覚えているのは
恥ずかしいけど、そういう暇な時期だったのだろう。

今やムスメがこんな年頃。
こんなに可愛かったら人生グレなかった(爆)。

80年代が20代だから、10代というのは1970年代。
その頃のアイドルで、この人は途中から劇的綺麗になった。



このショートカット時代というのは、76年以降の終盤だと思う。
初期はこんなに垢抜けない道産子だった。
所属はコント55号と同じ浅井企画。



歌は下手だし、ルックスもぼんやりだろう。
それが髪を切ったあたりから、あれよあれよと綺麗になった。
その直前の、松本隆(詞)、財津和夫(チューリップ、曲)
松任谷正隆(ティンパンアレー、編曲)の佳曲がこれ。



私は、これで発奮しました。都会の大学に行かんとあかんねーっと。
田舎でくすぶっちゃいけないと(爆笑)。

この人も綺麗だった。



たまにテレビで歌うと、イメージ狂って、「どてっ」という
くらい下手だったけど、何と言っても綺麗だね。

未だにこの人の出身地というだけで、岐阜の長良川の
デビューした頃の情景が出て来るし、今でも岐阜県が好きなのは
岡田奈々ひとりのすごい効果だと思う。

この青春の坂道は「明星」募集ソングで、年に1回くらい
読者投稿の詞をプロが改作して、青春ソングとしてレコード化する
企画が当時あった。
へそまがりな高校生の私でも、結構好きな企画でした。



歌で売れなかった奈々ちゃんにやっとヒットが出たので、
次の作品も青春ソングになり、この曲だったと思う。
1976年の夏でしたね。

詞世界は松本隆なのだけど、ずいぶん阿久悠っぽい。(男っぽい)
いま読んでいると、若者って、計算するよりハートで生きていたと思うし
その言葉のひとつひとつが大事な人生を押さえているよね。
この歳になってもボクは生き方がこっちだなあ。

79年に1年遅れで僕はやっと大学生になったのだけれど最早
70年代型アイドルの時代は終わっていた。アイドルの賞味期限
切れかけた岡田奈々(20歳)メイクも濃くしてイメチェンして
世に出したけど全く売れなかったラストに近い1曲。



この曲の、「ドン、ドン」って入って来る間奏の、場末のディスコ
ビートが大好きです。もう2バース回してくれたらサイコー!
なんだけど、アナログシングルレコードは、分秒を伸ばせない所以の
ばっちりアレンジですよ(笑)。
当時は殆ど秘密の歌だったのに、21世紀のユーチューブに
4つくらい載っている(笑)。

私のクルマの中には、こういったモロでない方の歌謡曲ディスコが
よく掛かっています。
クルマの4輪をギアとトルクで制御しながら、横滑りかける時には
やっぱりロックよりデスコサウンドですよ。

こういうのも知っているかな。



77年秋だったと思う。岩崎宏美の名作LP「パンドラの小箱の
オープニング曲。筒美京平サウンド全開のディスコナンバー。
黒っぽいのは、ツインドラムスなんだよね。

筒美京平のディスコナンバーと言ったらこれでしょう。




後の売れっ子になるまで、音楽的には苦労しましたが、
デビューした時は13才。神戸の東灘出身で、私の一つ後輩クンが
同級生と言っていました。


それでは、今夜はこのあたりで、終わりにしましょう。

オヤスミナサイ。

最後はこれでも聴いてケロ。


Posted at 2012/06/13 02:20:32 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2012年06月12日 イイね!

2012年前半シーズンを振り返る

2012年前半シーズンを振り返る梅雨に日本列島が入り、エアコンのない旧車には
辛い季節になりました。
しかし日曜日に走ったが、20℃くらいの夕方なら
まだまだ暑くもなく、シュルッとクルマで野山を
駆け回るのは楽しい物です。
さあ今年の前半を個人的なことから、自動車社会や、
世の中の全般まで見比べていくことにしましょう。



1月はNYMの大変寒い寒波の中の開催と、850クーペの東上から始まりました。
今年は会場ではあまり多くの人と賀詞を交換できませんでしたが、長く続いている
行事だけに、個人的にも意義有るものに成長していました。



年々成長しているクラブブースの楽しみ方。しかし一方では仲間うちのはしゃぎも
目立ち、問題は見学者の中に、いろいろなクルマへの思いを持った人を、どう取り
込んで行くことではないでしょうか。近年気になることは、「閉鎖回路」的なネット
型の盛り上がりを日曜日にはどうやってオープンにしていくのか。人付き合いの下手
になった現代人のコミュニケーション能力の達成と、やっぱり普及だと思います。

私も850クラブというのが東京で発足して数年になりますが、あと2台一緒にでませ
んかと呼びかけましたが、用心深い人たちの警戒心を解くことが出来ませんでした。
自分自身にとっても、突破できない壁であったようです。




春は名のみの、彼岸の墓参りは850スパイダーを久しぶりにフェリーに乗せて九州に
行ってみました。



北九州のイデオートに立ち寄りましたが、事前連絡しておらず、ドンに愛車を披露
することままならず。みんから友達にもいきなり連絡しましたが、相手のことも
思いやり不足で失敗いたしました。気を付けないといけないのですが、偶然性に
重ねられて行く部分も有り、一期一会は慎重や慇懃過ぎても堅苦しいものです。
私は「フリー」な人間ですので、企業トップにはなれません。しかし悪意や裏の計算
もありません。どこぞで遭遇したら声をかけて下されば、響き合う音の流れるタイプ
です。



4月の最初は別のSNS系が母体の、六甲アズーリに急きょ参加しました。
大変楽しかったです。この時に声を掛けてくれた124スパイダーの友人とは
つい先日のフィアットフェスタで、関東まで長駆、いっしょに遠征しました。
世界の自動車ファンも、このようなノリ(スタンス)できっと盛り上がって
いるのだと思います。

自動車雑誌について、ここで言いますと、対価、バリューフォーマネーに見合う
情報の価値や、趣味の提案や発案力が低下しています。これでは売れないのも
無理はありません。編集者の能力も、一般マニアでイベントを立ち上げる人より
劣っています。メディアのツール性ばかりに溺れて、人間能力が低下すれば
何かのはずみで、ネットのような武器を一般人が持てば、“主従逆転”が起きても
不思議は、ありません。
近年すごく心苦しいと思うのは、NYMみたいな古いイベントでいまだに
メディアジャーナリストが「審査員」して回って来ていますが、審査されている
のはあなた方ですよ、って、どうして気付かないのでしょうか。




4月の第2週は、友人の個人的繋がりで鳥取のイベントへ。
このあたりから忙しくなりましたが、何とかこなせています。
地方イベントの参加する楽しみは、友達作りのコツでしょうか。
この中心人物とは、もう6年以上前のポンテペルレの大名行列で、岡山の山間
の古い宿場町に愛車を並べたことから始まっています。
10万級のイベントに出ることは、普段一緒に遊ばないクラスのクルマ乗りと
知り合える機会にもなりますが、私は堅苦しいのは、一切ダメ。
もし今後、私が多少有名になっても、堺正章さんや西田ひかる夫妻と「お友達」
申請はないでしょう。掛布雅之の例もありますが、人寄せパンダと趣味の神様
は仲良くしてくれないものなのです。案外、真面目に趣味の道というのは遊ん
でいると時々思いがけない、ご褒美をくださるものなのです。



昨年の暮れから話題になった86を、少し見掛けるようになりました。
これね、乗っているのは中年ばかりという声も聞かれます。
その昔、スカイラインのジャパンくらいの時代の頃、結構新車は高いものでし
た。ところが購買層のなかに意外と若い20代が案外いる。これホントの話です。
それを可能にしたのは自動車ローンなんだけど、私は方式が嫌いで、組まない
(人生の先の部分を「売る」のが嫌だったから)方でしたが、考えてみると
80年代というのは、人間や時代も、将来においてまあ、200万のクルマに
支払い総額300万のローン組ませてみても、何とかコイツは払い続けることが
可能だろう(回収リスクはゼロでないが)という時代だったのです。

これが経済に於ける剰余価値と言うか、不確定だけど、遊びや変動の部分だ
ったのです。大蔵(財務)省や日銀に、私の高校のレベルの人は行ったり
しますが、彼らの仕事はこの部分をオペレートすれば、どのくらい景気が
良くなるのか、といったことを、極楽とんぼのように浮世を飛んでいる私の
ような友人に聞いて「まあ〜いいんじゃない」と言われれば真面目に聞いて
よし、変動相場の調整だ、というふうにやってきたのが、昔の経済でした。
今は老人の年金みたいに増えもせず、遊びもせず、1円でも減ろう物なら
悲鳴が出るような社会に半分なっています。

レバレッジ(てこ原理)とか、金融ITのような高度理論で、一方で時代の
先端を奔ってるつもりの人もいてますが、実際ローン組ませても「たぶん
途中で(仕事クビになって)駄目だろう」の人ワンサカでは、経済は回り
ません。ローンのハードルを下げたら回収率が悪くなり過ぎてアメリカの
馬鹿の二の舞になりますし、投資や資本と言うものは、人間や企業の成長
性にお金を預けるものなのです。

社会の枯渇や硬直性について考えると、今一番見かけ上の回収率が高いのは
ナマポです。ナマポから住宅費をとったり医療費をかけるのは国が払うので
取りっぱぐれがありません。でもこれは元々税金で人の金だし、ナマポは
成長どころかガン細胞みたいなものだから、貧困ビジネスって土台無理が
あります。人間のことを悪く言っているのじゃありません。経済の見方の
説明です。

若い人が、ちよっと無理してスカイラインや、写真好きなら、ゼンザブロ
ニカや、時にはハッセルブラッドを買っていた時代があったということは、
裏返すと、最初から「本格」を知ることにより、より高次な世界に行くこと
が実現可能であったと言う時代の説明なのです。
よく本格派と昔は言いましたが、そういうことで人間は「上には上があるの
だなあ」とベンキョーしてきたわけです。ああハチロク、オナニーマシンに
終わらないで欲しいもの。



5月は臨時で門司の、ネオヒストリックカーのイベントを見て来ました。
少し前の記事ですが、まだ結構読まれています。「古いナベに、シチューの
材料を足すような」に私の願いが込められています。



そして6月は、ワンメイクの19回目のフィアットフェスタを見て来ました。
来場車の減少もありますが、均衡のバランス取れれば、来年も続けて欲しいし
ローバーやオペルより一時期地味であった日本のフィアットが、これだけ
ファンが長持ちするのは、いろんな要因があるからだと思います。
かつては、80年代、
入門編(パンダ、もしくはアウトビアンキA112)
中級編(リトモアバルト130TC)
上級編(ランチアデルタ4WD)
とステップアップして行く人が、たくさんいてました。
特に、A112ーリトモアバルトーデルタ
といった流れは太い、説得力のある、クルマ好きの一つの流派でした。
これにウーノターボも絡んでいたと思います。

時代が20年経つと、ヒエラルキーや上下先輩でなく、各車種が等距離に
置かれて、見ることが出来るようになったのはないでしょうか。
ベクトルの逆も有りで、小さなクルマに戻って行くもよし。
だってかつてのステップアップ論でいくと、最後は学習塾のように
「フェラーリ」しか答えがなかったのですから。

今は楽でしょう。勉強しすぎなくても叱られないし、整備の対応力は
習熟度がずっと上がって、東京や関西以外の地方でも、イタ車のコンデション
はぐっと、良くなりました。
私のような「ティーチャー」も各地におりますし。

さあ、今年の後半に向かって、次の課題を考えて行くことに
しましょうか。


Posted at 2012/06/12 03:42:42 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2012年06月09日 イイね!

33年目の北陸縦貫走破 ー驀走1300キロ最終章ー

33年目の北陸縦貫走破 ー驀走1300キロ最終章ー1979年夏と言えば、私は九州から上京し、京都の
大学に入った年のことである。
お金もバイトもないのに、2つの自動車旅行をして
いる。
ひとつが、大阪南港までフェリーで出て来た高校
時代の友人と4泊くらいキャンプ泊しながら、山陰
を5日間かけて北九州まで帰ったこと。
もう一つは中学のつれがホンダZで北陸に行きたい
と言うので、またも九州からフェリーに乗り、京都
の下宿を出発、北陸や能登半島、新潟県境まで走って
再び富山に戻り、最後は岐阜に出た。

その時に、能登半島の輪島の海岸や、山中山代温泉の奥の山の中で野宿したり、
滑川付近の宿屋に泊まったりしながら最終日は、庄川に沿って合掌造の集落や
御母衣ダムの淋しい山道を通り、北濃、美濃白鳥に夕方に出て郡上八幡に夜
泊まろうと主張したのだが、つれが夜通し走ることを主張し、一瞬憮然とした
が、真夜中のうちに京都についた。高速は北陸はないし、東海北陸道も全く無い。
名神も乗らずに何キロ走ったのだろう。

今回の旅の最終は、それ以来の、相倉や白川郷の合掌建築の村探訪、庄川峡に
沿った国道の旅になった。個人的には懐かしくてしようがない。



その前に朝起きて、友人と昨夜から泊まっている南砺市の高窪という村の建物と
風景が気になってしようがないので、散歩に出た。これらの写真を見て驚くだろう。
1軒1軒の家の大きさが半端でない。







散歩から帰って朝飯を食べながら、この村は昔から何をしていた所なのかを
聞いたのだが、はっきりと教えてくれない。それでも農協の貯蓄で1、2位の
高所得だったという。元々が福光町の一部で、小さな城下でもある。城下の外れ
の隠れ里は、元々加賀忍軍の忍びの里だったのではないだろうか。耕地も少ないの
に特別の石高が下知されていたのか、女将さんは思わせぶりな微笑みしか返してくれない。



宿の中には⇅こんなものが置いてあるしなあ。



朝風呂を諦め、早起きしたのだから早立ちする。まだ8時になる前である。
同行のT3氏に少し借りて支払いを済ます。日曜の宿は北陸の名湯旅館を最初、
予定していたのに、この旅館の安さに彼は笑っていた。ニンニン。



散居村である。知ってるかなあ。砺波地方ならではの美しい日本風景に心が和む。
福光から井波に行きかけたが、コースを取り直して城端(じょうはな)を抜けると
ここからは、延々と上り道になる。越中五箇山に向かう城端からの旧往還である。

動画で先行する850クーペを同行車が押さえてくれている。



峠の頂上に五箇山トンネルが有り、それを抜けると同じ越中と言っても、実質
別の国である。しかし昨夜の宿のひとは、このあたりまで食べられる山菜を
摘みに来るらしい。雪山が見えて来ると、郷に入ったことを知らされる。



庄川沿いの南下する国道と合流し、一気に走ろうかと思ったがT3氏のたって
の希望で「世界遺産」の合掌造集落を見て行くことにした。まずは相倉の集落である。





アヤメであろうか。こんな風景に出会うのが日本の旅であろう。





相倉の先には菅沼の集落もある。こちらは駐車場が開門前で、立ち寄らなかった。
トンネルが連続して、富山と岐阜の県の表示が4回くらいころころ入れ替わる。
カーナビを持っていたら、五月蝿いだろう。

白川郷の道の駅で小休憩する。今年最高の紫外線の強さだ。
帽子とブルーカラードの眼鏡で、体への直接影響を和らげてる私だが、
同行の友人は、屋根無しで強い光線を浴びて、大丈夫なのだろうか。
アイスクリームが朝から美味しい。



白川郷到着。ここは集まっている家屋の軒数も100近いし、観光基盤の
ベースも桁が違う。一度は見ておく価値はあるのだが、少しずつ記者の目で
感想を書く前に、写真を見て欲しい。







33年前にホンダZで来た時は、重要文化財であったが、いまは世界遺産に昇格
している。その頃は雨上がりの峠を下りると、すぐに村が見えて白川郷に着いた
ことが、わかった。33年間に国道は村を迂回するように付け替えられた。
これは「配慮」というものか。多用途の大型駐車場も川向こうを切り拓いて
作られた。しかし村内には公共と民間の駐車場が混在していることの問題を
後で、住人から聞かされることになる。




気が付くと、お昼前である。村内で食べて行くことにして、カレーセットの
文字が出ていた「落人」という1軒の合掌造の家に入る。中は表の初夏の炎天が
他所のことのように涼しい。何も気付かなければ「冷房が入っている」と
勘違いしそうなくらいで、私が感心してみせると、他の客が主人に確かめて
驚いていた。その客人が四国の善通寺から来た親子連れであると判ると、ご主人が
隣の家に来ているお嫁さんの出身が同じ所で、たちまち客の一行の父親と彼女の
母親とが知り合いという所まで突き止めた。さらに隣家の奥さんまで呼んで来た。



こういうリレーションを皆さんはどう思うだろう。私もこのご主人に感じは近い。
私の母がボケる前はもっとだったかな。苗字と出身で大体の親戚を突き止めるのが
彼女の趣味だった。



ただ、私の妻は大阪の人だが、こういう「類推」を非常に嫌う。
出自や家柄で人間性まで決められてたまるかという、反発心があるからである。
そう言うとき以前は「ああどうせ俺は田舎の出身よ」と開き直っていたから
妻はもっと激高していた。もうそんな無益なリアクションは止めてしまったが
今は隣家のお嫁さんを優しく気遣いつつ、この村に歓迎した村人たちの
結いの心を大切にしたい。
傾斜の強い屋根の下には、何世紀も生き延びて来た、家族たちの物語が今も
息づいているからである。



「御馳走になりました」と民家を出る。四国の一行とまだ、奥さんと子供が
話していた。外に出るとまた、初夏の強い日射しが、若い緑を色濃くさせるように
降り注いでいた。

どこかの家先でこんなレストア中の軽自動車を見つける。33年前はこんな車で
我らも旅をしてここに辿り着いた。今は国際的な観光地になり、確かに有名になった。
あの頃は土の畦道ばかりだったのに、家と家の間にもアスファルトが敷き詰められ
どの民家も、民宿か何か商業目的な用途を前面に出すようになってしまった。

昼食をとった店の主人が嘆いたように、田んぼを潰して駐車場にする。現金収入が
入るのを止めさせるのは、至難のことである。



ナショナルトラストの看板もみかけたが、この場所を真の世界遺産に押し上げるなら
田んぼに戻せる所は自然に戻して、あとはアスファルトを剥がしてもっと自然の道に
近い方法を捜して欲しい。石畳が似合わないのなら、現代の技術で、出来るだけ昔の
風景に返して欲しいものである。外国から訪ねて来る人たちに、日本人はちょんまげで
革靴を履くような国民でないと、理解してもらいたいからである。



村全体を俯瞰できる丘に上がる。喧噪が嘘の様にそこにあった。さあ行こうか2台の
クルマよ。旅もそろそろ終わりに近い。
あとは岐阜県側を御母衣ダムに沿って下がる。





流石に旅に疲れて来た。ちょうどそのとき、そろそろ高速に乗ろうかと
検討中の私のクルマの前を黒い物が駆け抜けた。
えっ、クマ?
長らく自動車を運転して、キツネ、タヌキ、シカ、カモシカにイノシシにサルと
大抵の野生動物には遭遇して来たが、クマは初めてだ。

詳しいシーンは、私の後ろを巡航中のT3さんの車載カメラが、撮影してくれているので
それをご覧になって、いただけると幸いである。
時間にして3分6秒目あたりかな。

白鳥で高速についに乗る。しかし体力の消耗激しく、運転中に眠気を
催すので、古城山のパーキングでストップし、7時までに帰りたいT3氏と
ここで旅の道中を、別にすることに決める。
私は高速を下り、休み休み帰ることにした。
美濃から再び156号線に乗り、関で長良川沿いの道を取る。岐阜の市内、
金華山の裾のトンネルを抜けて、少し迷って北方町、池田町方面に出て
関ヶ原に抜ける道が広くなっていたので、21号線を走っているつもりが
長浜に抜ける365を走っていたので、伊吹山ドライブウエイ入り口の先で
分かれて、近江長岡駅に出てみた。



駅前を北国街道が走っている。



曾良と分かれた芭蕉の旅の最後に相応しいではないか。
諏訪の湖から佐久に抜けて、妙義榛名の山裾通り上越国境へ。
越後から越中への長い海沿いの道。そして美濃を過ぎくれば
北国の街道も近江に辿り着く。



醒ケ井の古い町並みを抜けるときに、あっと言いそうになる古い宿場の町並みも
残っていた。
米原から余力を残し名神に乗り、池田に帰り着いたのは夜の7時半過ぎであった。
1300キロ余りを走り抜いた愛車の健体と、同行の友の友情に感謝したい。
長旅の記事を読んでいただきました、皆様ありがとうございました。





Posted at 2012/06/09 01:47:00 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年06月06日 イイね!

驀走1300キロ -2012 FIAT FESTA at MINAKAMI-

驀走1300キロ -2012 FIAT FESTA at MINAKAMI-昨日の夜半、宴会の途中から激しい雨になった。
雨は、朝に上がったが、表に停めた車にこびりついた
小昆虫の屍骸をすっかり洗い流してくれたであろうか。
水上に来たのは、今回で2回目である。
2010年のフィアットフェスタのときの印象は、関東の
外れだということ。
朝の散歩の跡で、もう一度温泉に入り、少し冷えた
体を温めた。





旅館の壁に貼ってあった観光ポスターにニヤリ。
この女性は、たしか下仁田の出身だったなあ。



朝食後、ひと呼吸置いて出発した。私はまだ眠気が残っている。



30分ほどで奥地のスキー場を借りた会場に到着する。
今年は結論から言うと、一昨年の半分以下だったのではないか。
その中で、気を吐いていたサークルは、X1/9のランナバウトである。
コマ写真でご覧あれ。


全部が同クラブのクルマではないと思うが、これだけ集まると
壮観である。特に1300の時代は、私のクーペの直ぐ後だ。
その頃のフィアットという車の親しまれ方が、想像できるであろうか。
西武からバトンタッチされたロイヤルが頑張って、この車の人気を
不動の物にした。
品質的には「もうひとつ」の感がある1970年代のフィアットをここまで
ポピュラーにしたのは、若い人にも乗れそうな、親しみやすさと
X1/9という車のコンセプトの素晴らしさ+女性にもモテそうなカッコ
良さである。

この車の整備は、当時のロイヤルは苦慮した。
この時代、石油ショックもあったし、排ガス規制もあった。
私の大好きだった、今は無きロイヤルモータース直営の大阪の整備工場
の初代代表の人には、若い頃、一方ならないお世話になった。
私のフィアット好きは、この恩人がなくては始まらない。
日本に入ったX1/9の第1号車を横浜の税関から受け取り、青山にあった
ロイヤルのショールームまで運転して回送したのもこの方である。
私の手元には、門外不出だが、日本に入った最初の100台の
顧客リストがある。
このコマ写真の1番下の白は、初代登録S49年。63年に一旦車検を切り
20年間眠っていたという。
ナンバープレートは一度も切っていないようなので、このファイルに
ある車だろうと思う。
車の趣味とは三位一体で、本体の維持、走る技術と身体力、そして蘊蓄や
資料の収集である。

41年間、一度も長期間車検を切っていない私のクーペは、稀に見る個体
だと言うことの説明は要らないと思う。それは持って生まれた運だったのかも
しれない。もの事を大事にするというのは、余計な説法は要らない。
ただこの遠い会場まで無事に走れたことの喜びを、一番誇っているのは
私より愛馬である850クーペの方だということを、知っていただければ幸いである。

                ◆

午後2時前に、少し早めに会場を後にした。
今日の宿が、遠い富山県の予定だからである。
水上のインターまで関西勢2台に関東の2台の124スパイダーの
最も初期の1600cc時代のが、着いて来て見送ってくれた。
もちろん西欧自動車のディーラー車であろう。
1968と69モデルという。



これは嬉しかった。私の850も西欧(西武)ものであるから、僚友と
再会できたのも、フェスタに来た功徳である。
スタンドで4台並べてちょっとした記念撮影。車は長く乗り続ける
ものである。





関越道に乗り、新潟県を目指す。その前にトンネル入り口手前にある
サービスエリアで、簡単な打合せして、この後の休憩ポイントなどを決める。
狭い休憩所に車が犇めいている。
きっとイタリアやフランスの国境トンネル付近でも、こんな風景が展開して
いるのであろう。



湯沢を通過。異常なリゾートバブルの代(よすが)を一瞬視てしまう。
空を突くような高層ホテルに人が満員になったこともあったのだろうか。



長岡ジャンクションで進路を北陸道富山方面へ。
新潟県に車で足を入れるのは1979年夏の旅以来だから、33年ぶりか。
その時は友人のホンダZ360である。

米山で休憩。



当時8号線を走った親不知の難所も、高速のトンネルでは味気ない。
糸魚川付近の工場群。



黒部滑川区間で建設中の北陸新幹線の工事区間と並走する。
完成すれば、富山東京間は5時間くらいになるのであろう。



立山が見えて来た。あと一息だ。



小矢部で高速からゲットアウト。エンジンをシェイクダウンしながら南砺市の
高窪という村にある鄙びた1軒宿温泉まで、ゆっくりと走って行く。
宿のある村の遠景が見えた時は嬉しかったなあ。それと一本道が細くて
日暮れ前に辿り着けたことは、この日一番の幸運である。



同行の友人が動画で撮影した、高窪鉱泉までの道。



宿は古いが、情緒はたっぷり。江戸時代以来のこの地方の隠れ家的な
温泉地だったようだ。
女将が心尽くしの山菜料理を天ぷらにしてくれた。





これで1泊2食で7000円である。
寝る前に、部屋の窓を開けて蛙の大合唱を聴こうとしたら、
一匹の蛙が部屋の中に飛び込んで来た。



風流や蛙と寝たり月の宿


Posted at 2012/06/06 12:49:31 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
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愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
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