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kotaroのブログ一覧

2012年07月21日 イイね!

残り時間は、短いか

残り時間は、短いか











いまの仕事を離れて、前の会社の上司らの
「卒業生」集まりの飲み会に泊まり掛けで参加してきた。
会場はいつもの京都の南禅寺。昔の新聞社の保養所である。
いまは手放して、他企業の経営になるが、コネで安く泊まれる。
参加者は71才から、60才になったばかりまで。
私(来週で53)をのぞくと「退役軍人」の飲み会だが
始まった頃は部長が現役だった頃だから、90年代の終わりかけ。
現役の人はもうほとんどいないし、泊まらずに帰った一人だけだ。

この集まりは楽しいので、多少の用事が重なっても参加するように
している。御本尊の最年長のK元部長は、今でも鋭く面白い人で
飲みながら、独特の節で、人生や、社会や、歴史から関西のいま、
東京の中枢のことまで、飽きもせず、夜中の一時まで、解説と
朗々と面白おかしく、語り、私はトークの相手を一晩中している。

「右寄りのS新聞」と書いてしまえば、どこのことだか想像もつく
人もあるだろう。K元部長は、決して偏狭な国家観論者でなく、
私と丁々発止で、グループ夕刊紙の1面を作った時代のことを楽しく
今でも覚えていてくれている。その才能は、「天まで届け」という
大家族ドラマの原作作者であり、鮎釣りのことから中年ライダー記、
本業の新聞作りでも、「社内をるんるん散歩している間に、その日の
1面を全部描いている」と凡庸な同僚たちの舌を巻かせた鋭い嗅覚、
それでいて、汗臭く無い、スマートで洒脱なおじさんだったのである。

凡庸な同僚たちと言っても、その辺の人たちからみれば何倍も博識な
プロの物書きの山脈である。その中でいかに、嚢中の錐であるためには
常に感性を磨き、まじめだけでは売れない、即売の世界でも生きて行くには
ほんとうに、人が憧れるようなエンターテイメントな人生を、飛び抜けずに
一見平々凡々のようで、実は凄い中身なんだ、というような生き方を
絶えず実践してきたことであろう。

私の好きなおじさん、このひと言だけであるが、海千山千、生き馬の目を抜く
業界の中で、自分だけ繁栄するタイプはいるが、周囲に爽やかな風を漂わす
ような生き方はなかなかできない。
怒る時には怖い方であったが、何に怒っているか。仕事の出来の甘さに
怒られている人には、気の毒であったが、私は横で怒られている中閑管理職
とは全く違う、気持ちで聞いていた。

二年前に退職した私について、辛い諫言もある。これ以上落ちてもらっては
「何をしとるんだ」という発破も飛ぶであろう。
しかし会話と議論の中で、私が錆びたりせずにサバイバルをしていることに
甘いかもしれないが、感づいてくれていたと思う。午前を回った室内での
酒汲みに最後まで、付き合いきれたことに、今の私の「程度」を見たのでは
ないか。

暑く湿った7月の京都の朝。恩人を乗せた小さな軽自動車は、次々と「元上司」
たちを駅や街角で下ろし、最後に西陣の中に有る部長宅の古い家屋に横づけた。
走り出した軽は、ほんとうに身軽になったように軽快になった。
かなりの人たちと一晩の面白いが緊張のある時間を終えて、私はまた1年
齢をとったことを感じた。
元気者の広告部時代の先輩がガンであることを告白した。
道理で夜中にいつものような元気なところがなかったわけだが、私は少し
そんな気もしていた。

60に成って定年して1年、これから、と言う時に、というご本人の気持ちが
わかる。気弱になり、嘱託の仕事も延長しないようなことを言っていた。
しかし最後に下ろした元部長は、意味深なことも言った。
「彼の奥さんも病気なんだ」と。そして60才前後で見つかるガンやガンに
似た症候群。この辺は昔と違って早期発見し治療することも出来ると。

今の私の齢のころ、この部長は2時まで飲んで、会社に帰ってきて、夜勤組
のベッドで寝ていた。そして朝8時から仕事をするのである。真剣に。
一度ポリープが見つかりちょっと入院したことがあったが、すぐに復帰した。
私はその頃、この人長生きしないのでは、と思ったが、こうして53の小僧を
相手に深夜の1時まで昨夜も健在なところを見せてくれた。

新聞屋の飲み会と言うのは、奥が深い。何のプロフェショナルと言っても
医者でもないが、洞察力だけは異常に強い。
60歳前後で病気になって、世をはかなんで生きるか。
そこで弱ってしまわずに、生き続けるヒントをもらった気がする。
たとえ愛する家族を失っても、ポキンと折れないためには。
自分が生きて、続ける仕事があると、そういう状況を作っていくことでは
ないのだろうか。

走り出した窓に、やがて叩き付けるような大粒の雨が降り出し、
シャワーのように降り込んできたが、私は窓をわざと全開にして、
スコールの中、歌を歌いながら、ホームタウンに帰ってきた。

雨が上がり、私は午後からのボランティアの仕事に就いた。
さあ、人生は、もうひと頑張り。





Posted at 2012/07/21 19:28:19 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2012年07月18日 イイね!

平成街角風景

平成街角風景暑い季節になってきました。

梅雨明けに、初クマゼミ。



先日撮った風景などで、本日は、アラカルト。



豊中山手の風景です。



工場で、復活した「不動アルファ」
内装もいま修理して、売り物になる時をめざします。



アルファスパイダーと850クーペ



これも売り物だと思いますが、工場のアシ車のひとつ。
軽スマートと。



駅までの送り迎えによく乗せてもらう
今のプント。これも軽度のトラブルで不動だったのを
引き取ったとか。



きょうはおやっさんが居なかったので、工場の実務を担当する
息子さんとクルマのエンジンについて、長談義。議題に上ったのは
工場にあった、この本です。
http://motorfan-i.com/special/20110930/
フィアットのファイアエンジンが20数年、VWのターボ加給エンジンは
実に1975年スタートとか。

なんで旧いエンジンが良いのかというと、耐久性が今の最新のより
コストをギリギリに削って無いので、マージンが残されていると言う
話になり、彼は10代の頃から親父譲りのポート研磨、面研、スワール
効果のためのザラザラ仕上げなど、実験と実践を踏みながら、
試行錯誤もしてきたそうです。

私の850が、ノーマルなのにダテに速いのは、こういう工場で
エンジン重整備とバランスを取っているからでしょう。




緑地公園ー江坂ー東三国を結ぶ、昔の細い道を抜けます。



途中に有るベスパ系ショップに、こんなものがありました。
サムロ、もしくはトゥクトゥクという、タイやインドネシアで
走っていた三輪タクシー。

この車のルーツは日本から輸出された、ダイハツのミゼットだと
言われています。改造して「世界いち小さい」乗り合い自動車に
仕立てたとか。
‘聖地’池田に近いこのあたり、こういうのが凱旋しても、いいのでしょう。



三国付近で川を渡ります。気分はアイコ♪




東三国はもう、大阪市です。
この付近に、トキワ倉庫という貸し倉庫があります。
「トキワ荘」をもじってるのかな?



お目当てのイタリア飯店がお休みでした。
仕方がないので、豊中方面に戻ることに。東三国と三国の間の風景。



おっMR2だ。(2代目も減りました)



江坂の蔵人に出る手前に、長いこと初代プントが放置されています。



放置、駐禁処分のタグが風化して、侘びしいノーマルプント。
色も退化しました。この頃は水性塗料で、ホント持ちませんでした。
90年代車のフィアットはとくに。



誰も手を出さずに、このまま朽ちていくのだろう。
少し乗りたいキハアリマスガ(苦笑)。



東豊中まで戻って、先日紹介記事を書いた、ハンバーガー
のお店で食べることにしました。


翌日の茨木のバーベキューに、お休みだったイタ飯店の店主さんも
愛車で一家で来られていました。臨時休業?何だったんだろう。



おまけ。
緑地公園から豊中上野付近に出るあたり。
ものすごいコンデションの2代目FFファミリアと遭遇。
信号で並んだのですが、どちらのクルマも堅気のクルマでないので
こっそり隠し撮り。
すげー、ぼろんぼろんのオーラが! 北摂にはたまにこういう
じーさんぐるまが居りまする(苦)。

Posted at 2012/07/18 07:57:52 | トラックバック(0) | 街角の目撃車 | クルマ
2012年07月15日 イイね!

体調不良(夏バテというもの)

体調不良(夏バテというもの)誕生日まで、カウントダウンと言うのに
体と精神と心の状態が急速に悪化しています。
苦しいのですが、53になろうかというオッサンを
誰かが構う訳でなく「自分でなんとかしい」という
処方箋しかありません。
暑さに昨日から負けております。
その数日前からの湿気にも弱っていました。
入院できるような病気でもなく、病気も自慢できる
ようなものではありません。
しんどいですね。
食欲がかなりありません。
このままやがて朽ちて果てるのか。
うーん、解決策は、自分で探して来ないと
どうしょうも、ありませんですね。
Posted at 2012/07/15 21:05:09 | トラックバック(0) | 思うこと | 暮らし/家族
2012年07月13日 イイね!

扶養家族

扶養家族人の反対のことをする人が好きだ。
意見が反対で、普通人の逆の行為・行動をとる人が。

今ちょっと前に大騒ぎしていた
扶養親族のことについて思う。

アレルギーや、頭に血が昇って、日本中の国民が
ものすごい抵抗感を示した(と思う)。
「扶養できませんか」
お役所のひとことにである。

言っていることに間違いはない。
ただ猛烈にみんな抵抗が有る。言われたくないことを
お上が言い出したことにである。

「イマジネーション(想像力)の欠如」と公務員の冷酷さを
嘆いてみせた文化人がいた。私はちょっとがっくりきた。
小市民だなあと、思う。

「え、俺で良いの?」おでのような貧乏人が
扶養能力者に認めてくれたとは(笑)。これくらい
あってもいいのではないか。

私は少し前まで、何台も車を所有していた。
ただ持っているだけでなく、車検を通し、任意保険は
1台分少なくして、絶えず入れ替えしながら乗っていた。
そう、何台ものクルマを「扶養」していたのである。

扶養って、どうなのよ。家族が多い方が楽しい。
このくらいの豪毅な人や考えもあってもいいのでは。
わたし、3人子供を育て、4台くらいのクルマに
乗っていたのである。
ひとりじゃ扶養しきれないから、妻がフルタイム、
私もフルタイムに働きながら、なんとかやってました。

最近は50歳も過ぎて数年になるので、いささか
リタイア気味であるが、その分、ブログをたくさん書いてみたり
いろんなことをやっている。それでも不完全燃焼だ。

今度は社会活動や、社会奉仕、その年齢になった。
下宿生を抱えるホームステイとか、人の世話をする仕事を
やっている人も一種の「扶養業」だ。

クルマが好きなら旧い車を維持してやればよい。
範囲が広げられるなら、何台か持てるだけ乗ってやれば良い。
税金が、保険がネックなら、みんなで社会運動して旧車の意味を
考え、意義を訴え、維持のために必要経費を下げるよう、働きかける。
そういう機運が、ずっと生まれて来ないかと待っていたが、
なかなかそこまでは、成長や成熟が来ない。

民法の「扶養」にこれだけ抵抗のある世の中だったら、
社会の流れを大きく変えることに、やはり困難が伴うのか。
人間とクルマはそりゃちがうだろう。クルマは好きで乗ってる
し、私のように誰も乗らないクルマに、「私が乗らなければ
誰が乗る」といったような「勘違いした義務感」を持つ人間も
それほどはいないだろう。

余裕がなければ趣味なんかできませんよ、という外野の声に
私は「余裕は作るもの、時間がなければ時間は作る」、と称して
よく遊んで来た。
話は変わるが、犬や猫に煩悩丸出しで振り回されて、家族の
ようにペログリするくらいなら、人間を扶養してやれよと思う。
私、動物は好きだが、実に今の時代はけったいだと感じる。

ということで、今は850 1台。
子供は半分成人して妻のところ。
このオッサン、なんていい加減な奴、とお怒りはさておいて、
次は孫かなあ、くらいの感覚で、長屋暮らしを見物にくる
大学生の長女に、珍しい本やレコード類を貸し出しながら
次の遊びについて考えている。

扶養の次は、影響や感化。その次は自分というものを
媒介にして周囲に化学変化を起こさせて、昇華させてなにか
面白いことができればなあ、と思っている。
地域や空間、リンクしている人や物。
扶養と言うのは、されてる側からみるとサスペンドだと思う。
その人たちがインディペンド(独立、自立)できるまで
扶養や助力してやる。でも日本人に自立の概念より
猫犬の愛玩扶養のようなコンセプトの方が、好きなんだろうな。
はっはっは、
何となく世相が見えてきました。

もうちょっと、ニンゲンシャカイとクルマシャカイを
良くしていってみよう。


Posted at 2012/07/13 06:18:14 | トラックバック(0) | 古家ぶる~す | クルマ
2012年07月11日 イイね!

或る「小倉日記」伝。

或る「小倉日記」伝。きょうは少し、思い出めいた記述を綴ってみたい。
46年前の1966年春、私は父の仕事に伴い、産声挙げて
まもない北九州市と言うところに転入した。

この全国で7番目の政令指定都市になった100万都市は
小倉、八幡に門司、戸畑、若松の隣接する5都市が合併。
川崎や、千葉と言った都市圏の従属型や、札幌、博多に
仙台、広島と言った地方の雄らが仲間入りするより先陣
を切って、産業の勃興と上昇の機運を背景に戦後初に
誕生した新興都市だったのである。

4大工業地帯の一つとも言われた工業+経済力を背景に、
全国に名の通った大企業の本社があり、多くの新聞社が
九州本社を設置。新設のテレビ局も当時は開設されたのである。

福岡(博多)より北九州の方が、何年間か経済力が大きかった、
そのプライドは、瞬間風速みたいなものであっても、地元に
生き続ける人々には、大きな誇りと勇気、そして活力となったものである。

実際、転入間もない頃、私は小学校に入ったばかりであったが
八幡の中心地である中央町や春の町に、母に手を引かれて買い物に
よく通った。その頃はお昼休みでも3交替の工員(労働者)が
町に溢れ、今と違って彼らも決して低賃金でなくすごく元気があった。
経済水準や、町に勢いが有った頃と言うのは、どこの町でも
3丁目の夕陽のように、家庭のひとつひとつに大きな希望があった
のである。私はその街角で、母と姉と子犬と暮らし、近所のお婆さんや
奥さんたちに可愛がられた。父親は夜遅く、酔っぱらって帰るのが
普通で、朝早くから製鉄所関連の会社に出かけていた。



そんな北九州の思い出は、昭和41ー44の槻田小時代、前半は清田町
の古い家屋、後半は到津(いとうづ)にあった戦前の社宅で母が
「庭付きの戸建てに住む奥様」にやっとなれた今でいう「リア充」
な期間にとどめを刺す。
我家に初めて、「ステレオ装置」が来て、ついに姉のためにピアノが
購入されて、ピアノを弾く娘の横で、母は中流上流の夢を見ながら、
趣味の洋裁で作った変な服ばかり私たちに着させて、せっせと家庭料理
から、洋菓子作りと、目まぐるしいホームドラマのようであった。
でも子供心にも、実に面白い時代であったのだよ。



昭和44年、父に初の海外出張の命令が出て、私たちは板付(福岡空港、
当時は博多からかなり離れた草っぱらの中に存在した)まで見送りに
行き、部下や同僚たちと壮行したのである。
「頭の良い『坊ちゃん』」と呼ばれた私は、さぞかし母の自慢であった
のかもしれないが、厳し過ぎないくらいに、自由に、ただ玩具などは
与えられすぎずに育った。武家の家風というものが、禁欲的だが能力は
自分で伸ばすというふうに決められていた。私は本を読むのと、外の野原
を歩いて動植物の名を覚え、特性を知るのに没頭した。「もやしくん」
だったのかもしれないが、行動力は次第に身に付けて行ったのである。




話は全く転回する。
小倉の町に奈良崎産婦人科と言う医院がある。
そこのドクターは日本中に名の知られた、鉄道マニアであった。
奈良崎博保さん、この名前を鉄道趣味に明け暮れた、中学高校の頃、
頭に意識しない日は、少なかった。そのくらい枕元に置いている
鉄道雑誌に、古くから奈良崎さんの名前は載っていたのである。

つい先日、奈良崎さんが亡くなった報を聞いた。実は私に取り、
趣味界の泰斗でもあるが、ある時に出身高校の大先輩に
当たることを知った。思いを重ねて数十年、面会面識のチャンスも
自分で動かなければ、故郷を遠く離れてしまい、叶わないだろうと、
思い切って数年前に手紙を書いてみた。

まだ仕事が忙しい頃であったので、妻が電話があったことを伝えて
くれたがかけられない。半月後くらいの日曜日朝に電話が有り、
恐縮しながら自己紹介しつつお話しさせていただいた。次に小倉に
帰る際は、お会いさせてくださいと。しかし面会は叶わなかった。
私の忙しさもあったが、やがて加齢のために体調を崩され、一度だけ
こちらから掛けてみたが、もう気配的に失礼だろうと察し諦めた。
それ以来数年になる。

私はいろんな幸運をつかんできた。もちろんその中には自助努力で
念願を達した物もいくつも有るが、今回のように叶わなかった夢の
方が数多いかもしれない。



青春のリグレットというユーミンの詞曲になるうたがある。
あれは恋愛の歌と言ってしまえばそこまでだが、憧れという若い夢を
折ってしまわずに、育てて行ければ、人生は面白いことがあとから
きっと付いて来る。
あの頃の九州の混雑した熱気の中で、一人の者はギターをかき鳴らし
東京へ出て行っただろうし、普通に都会の大学に行ってサラリーマンの
生き方を歩んだ者もたくさんいただろう。
その夢を運んできたのは、電波や文化もあったが、実際に人を動かしたのは
鉄道が大きい。

今は新幹線がトンネルを抜けたら小倉に到着するが、かつては下関で
機関車を「関門トンネル専用機」に付け替え、出た場所の門司でさらに
「九州島内用」に付け替えてわずか5分走ると、北九州の首都、小倉に
停車したものである。
2004年にイスタンブールからパリまで列車を乗り継いで4日間の旅を
したことがあった。国境に付く度に、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーの
検問を通らねばならない。
機関車もその度に付け替わるが、乗っている客車は“スルーで”運転される。
私は何だか懐かしい気分で遠い日の夢を見ていた。

小倉と言う、ありふれた町の思い出を書いてみた。
そんな気になったのも、一人の方が亡くなったことへのレクイエムと
私の心の中にうずくまる、去りやらぬメランコリーのようなものが
いつまでも引き摺っているのかもしれないと、思った。








Posted at 2012/07/11 09:21:27 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | 趣味

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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