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kotaroのブログ一覧

2012年11月24日 イイね!

3連休だけどね

3連休だけどね昨日は夕刻からミラを運転。171で池田→西宮と行かずに
176で宝塚を過ぎて、生瀬の先で左折し、船坂まで駆け
上がってから甲陽園に出ました。

久しぶりにツマガリのケーキを買い、娘たち家族への
プレゼントしました。

店の外にクリスマスの電飾。昔を思い出し感慨に耽ります。


ところでクルマの中で音楽を聴いたり、聞かなかったりする
のですが、\2Kミラはまだ、カセットデッキが残っていました。



私は最近カセット音源で、十分かと思いまだ数100本以上残っている
1980年代までの音楽シーンを聴くことにしました。
いずれ老後になったら、ここに帰ってくるだろうと棄ててなかったの
です(笑)。

ユーミンや山下達郎なら今でも手に入りますが、貴重なライヴ音源も
沢山エアチェックしています。
ジャズはNHKのセッション’79辺りから。ナベサダのマイディアライフも、
かなり録ってます。

あと80年代アイドルは、阿呆みたいにマイナーなのも集めていました。

それからね。家内に無情に否定された谷山浩子を何十年かぶりに聴いて、
やっぱりイイと思いました。クライなあ(爆)。

ほんなわけで、今日もミラに乗って「カセットでGo!」してきますわ。
ほな。

Posted at 2012/11/24 10:49:34 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | 日記
2012年11月23日 イイね!

長く乗ることに秘訣はあるのか

長く乗ることに秘訣はあるのか巡り会った1台のクルマを、長く乗る。
10年で一人前、20年以上はさすがに少なくなってきます。
今まで、私もこのことを、特に意識しませんでしたが、
これだけ毎日のように、文章を書いているなら、たまには
長く乗り続ける意味について、語りましょう。

自動車を売る立場の人には、申し訳ありませんが、同じ
クルマに長く乗れた方が、私は楽と思うタイプです。
850に出会った時はショックでした。セリカ2000GTから
乗り換えたのは、変わったものに乗りたかった好奇心と、
セリカが私には、荷が重いと感じられていました。

あれっ、何なの、これ!で乗り初めて今年で満26年。
今は27年目に入るのですね。あらためてビックリ!

私が物持ちが良いのと、真の保守的(コンサバティブ)な
所が強いのと、単に貧乏症の、めんどくさがりだけ、なの
かもしれません。
特別な家の子でもなく、同じ住宅で保管し続けているの
でもない。
この辺が理由になっているのは、京都や「品」ナンバーの
オールドタイマーなどには、ありそうです。

ただこの車を手に入れてからの人生は、ずっと関西に
住み続けてきました。
それも考えると、面白い偶然です。
単純な要素が沢山重なってこういう面白い現象が、
起きるのでしょう。
だんだん広がってきましたが、旧いイタリア車を維持する
土壌が、昔から関西にあったこと。
特に京都には、旧い物が息づく「地霊」の力があります。

今は地方でも旧車は維持可能になりましたが、70年代、
80年代には技術と文化がありませんでした。
北九州のイデオートが、九州に出来た90年代には、私は
故郷に夜明けが来たように喜びました。

国産車と外車の維持は、逆輸入文化みたいなもので、
僕も外国雑誌をせっせと読んだ日々があります。

旧い日本車が省みられるようになった経緯は、外車の
旧いのに乗る人たちの影響が大で、元々箱スカやホンダや
トヨタのS800に乗り続ける人がいたのが、裾野が広がった
のです。
さてクルマはね、維持するファクトリーというと大袈裟ですが、
工場(掛かり付け医)の存在と乗ってる方のオーナーの考えや
姿勢、それらが上手く行くと長く維持出来ます。

勿論中心軸はオーナーで車の個体、状態も大きく影響が
あります。
でもね、結局のところはオーナーが、そのクルマを好きか、
満足しているかに尽きると思うのです。
そろそろ終わりますが、オーナーの成長も要るということを、
最後に付け加えておきます。
Posted at 2012/11/23 06:28:09 | トラックバック(1) | オンザカー | クルマ
2012年11月22日 イイね!

モノローグ 人はなぜ旅をするのでしょう

モノローグ 人はなぜ旅をするのでしょう今回の九州広域の旅のずっと前に、
高3か浪人の春に、九州一周の旅を、
友人のホンダZでしています。

調べて見ると大学に合格して、入学直前の
昭和54年(1979)年3月12日の夜間に出発して
16日の遅くに家に帰り着いている。

詳細な日記を書いており、読み返してみた。
33年間の時間は経っているが、普通に読める
文章を書いている。

私は免許を取る前で助手席オンリーだが、その気楽さもあり、
旅の記録をつけたのだろうか。

今回のダイハツミラの九州旅行は、いつもの850クーペで、
なかった。
非常にドメスティック(内国的)な色彩が強い旅になった。

今回の旅日記を、読んでコメントを複数もらった中に、2010年
3月の寒かった雪の九州旅行をされた、よし丸さんのことが
印象に残った。

彼は85年生まれだから25歳の旅です。

お供をしたのは、ウーノの前に乗られていたアルファ145である。

このアルファが彼の最初の愛車で、学生時代からほぼ5年間
乗られたことを知りました。

例えば、両手に花というか、収入も家庭も幸福で、というときは、
あまり旅をしないのじゃないか。

家族旅行は大切な行事だが、私は予定を決めないので、恋愛が
消えてから妻は一緒に旅をしなくなった。

子供たちには、旅の楽しさをいっぱい教えてやった。

昨年は、長男と野麦峠への850スパイダーでツーリング。今年は
次女と広島旅行、それから夏に長女と淡路島まで850クーペで、
遊びに行ってきた。


幸福の尺度なんて、本人がそう思えば、そうなんであって、本当は
判らない。

酒のように幸福に酔えるか? それは違うと思う。

なんで旅をしたのか、迷いがあるからそうしたのだろう。

Posted at 2012/11/22 10:56:04 | トラックバック(0) | モブログ
2012年11月21日 イイね!

旅愁~人吉から阿蘇、再び航路へ

旅愁~人吉から阿蘇、再び航路へ人吉に着いたのは、予定より早く夕方の5時過ぎ、
日没前であった。

JR人吉駅の観光案内所がまだ開いており、宿はそこで
紹介されたところを1回の電話で予約できた。

夕食もこの時間からの宿泊なのにOKに、少し驚いた。






さて夕刻の日暮れ前に、町に進入する際に気になった社森に行ってみた。
青井阿蘇神社と言う。



桧皮葺の社殿は本州では、珍しいがこの辺りには奥地に行くと
いくつか残っていると言う。近年国宝指定された、旧い宮のようだ。



横の方から、宵闇のなか入ったので、正面の方角に出てみると
太鼓橋が架かっており、その下は枯れた蓮の群落であった。




薄暮で見えないけど、猫がいる気配がする。翌日の町史博物館で知ったが
この人吉は600年以上も同じ大名の統治で続いた藩であり、憑き物の猫騒動
が代々あったそうだ。その舞台が、この青井神社らしい。

その夜は、女将さんと話をしながら夕食を摂り、その後で近くの温泉の
共同浴場に行った。名前は新温泉だが、物すごいレトロな湯だ。



翌朝は、晴れたが冷えた朝になり、一面カーテンを引いたような霧である。



朝食前に、橋を渡ってお城跡の方に散歩に行った。
そしてここにも元湯という共同浴場が朝6時から営業している。
それにしてもすごい霧で10メーター先も見えない。



元湯にも入ってみた。値段は200円で時代の流れを超越している。
この値段で無いと困る人がいるというが、あと設備の古いままの湯が
多いのは、湧出量に限りがあり、大型私設に改造するのを禁じているかららしい。
人吉の人の「足るを知る」という考え方に、私は賛同したい。



朝湯から戻り、朝食を食べて、宿を発つ。朝からこんな優雅な生活で
ええんかいなと思いつつ、この宿は大変気に入った。
カウンター(割烹)スタイルの食事も、独りの旅には、有り難いし、
女将さんについ、大ホテルの大食堂の片隅で、夕膳、朝飯なんてこんな
ミジメなことはないよ(笑)、と本音をもらしてた。

旅から帰ると、きのう、宿からお礼の葉書も届いていた。



人吉の一夜で、しっかり疲れを取り、次の目的地に向かおうとする私に
女将さんが歴史資料館だけは見ておいた方が良いと、どうしても言うのだから
約束を守り行ってみた。城下町人吉がどのように成立したか。遠江の相良氏
が地頭になり、明治の廃城まで続いたこと。小さな山間の城下だが、肥後と
薩摩、日向を結ぶ要衡として、長く栄えた町であることが判った。
地下にある「隠れキリシタン?」かと思われる洗礼施設を思われる隠し井戸の
発見が、この歴史資料館を作らせる動機になったようだ。



名残は惜しいが外に出ると10時過ぎ。朝の霧はうそのように晴れていた。
さあ、遅くなった。きょうのうちに北九州に出るか、大分別府からの船に
乗らないと、明日の朝までに大阪に戻れない。

ここはすぐ高速に乗り熊本方面まで向かおう。九州の最奥のひとつ
秘境人吉まで来たのだから、本日は300キロ以上は走らないと。
ところが慌てたのか、トイレに寄りたくなり、城址公園のWCを出て
パワーウインドのスイッチをカチッと入れるときに、ぺキッと変な音がした。
しまった、窓が閉まらない! 早朝より温かいが、これで高速かよ(泣)。

予定外のトラブルだが、しようがない。ダイハツのディーラーを探すか。
工場よりGSで工具を借りて直してみようか。とりあえず200km以上
走っていたので、スタンドに飛び込んだ。

工具を積んでいないのは失敗であったが、工具を借りて直すのにも
ちょうど良いサイズのマイナスドライバーが置いていない。そうこういじって
いるうちに、ウインドが上に上がってくれた。途中ではとまらないが(苦笑)。

早々に出発し人吉から九州道に乗る。この近くのPAで犬童球渓の「旅愁」
を聴いたのは、2001年。米国がアフガンに「報復」の空爆を始めた朝だった
ことも思い出す。

きょうのコースは阿蘇が見たい。晩秋の阿蘇は、お金を払っても見たいと
思うシーナリーだ。
どこから阿蘇に入るか。結局時間と好みで、宮原から緑川水系に入るのは
八代で降り、3号線をしばらく北上するので見送り、次の松橋で降りて、すぐ
東に進路をとり、中央町(今の美里町)をめざす。



佐俣から先は、南熊本から来ていた熊延鉄道の路線に沿った道だ。
初めて来たのは、昭和53年(1978)の浪人中の夏。僕の記事を読んでる
18歳のクルマ好きたちにエールを送りたい。
なお、昭和39年(1964)に廃止になったこのローカル私鉄については
このサイトが一番詳しい。管理人は地元出身の友人氏である。

この218号線ルートの魅力は3つ。
阿蘇外輪のはるか背中を走るルートで、阿蘇の魅力は遠いが、
緑川水系の魅力と文化は、とても濃い。

古くから知られる順に書く。まず廃線マニアには、鹿児島交通知覧線と
並んで難易度の高い、熊延(ゆうえん)鉄道の幻影と延岡への遠望がある。
実際の終点は砥用(ともち)という延伸を諦めたような山の中の町だった。
せめて馬見原(まみはる)、今の山都町(旧蘇陽町の中心)まで行ければ
大言に終わらなかったが、元々この交通区間に鉄道を引くのは難しい。

2番目に、肥後の石匠と言われた、見事な石積みのアーチ橋群である。
通潤橋と零台橋は以前から有名であったが、路傍の名もない橋たちを
観察するのは、本当に心が和む。
鹿児島市と長崎市は市街地に残るが、九州の石橋はあと宇佐奥地の
院内地方と一部、国東半島の付け根の旧豊前街道の国道10号線沿いに
残る。
九州に石の文化が濃いのは、昨日の薩摩の武家屋敷でも見られたが、
阿蘇や桜島が噴火して火山岩がごろごろした所に、長い間に人間が開拓して
住んだから。それと台風が強い場所なので、丈夫な石造の構築物が
要求された。それが石仏などの宗教目的から、石橋に至ったと思われる。

最後の3つ目がこれから観光資源になると思うが、最奥地にある水源地帯
である。清和高原、井無田付近の星空と水の沸く地帯の環境を大切に
考えることが、グリーンツーリズムだと思う。
この阿蘇外輪の麓には、吉無田官山といい、木を植えて水源を作った
先人たちの文化史も残っている。通潤橋のサイホン構造と、田畑を灌漑
することの大切さを、エネルギーと食料問題を考える世紀にこそ、ただ車を
走らせる観光から、一歩踏み出していただきたいと考えるゆえんである。

先程の写真の大窪橋を過ぎて、ほんの僅かだが廃線跡の細い道を
走ってみる。
これは当時の鉄橋の上が道になって、砥用終点に入るあたり。




さて、のんびりもできません。山道を駆け上がって奥地奥地へと進みましょう。
まもなく行くと零台橋が見えてきます。そこからさらに県境までの半分進んだ
ところが旧矢部町です。写真を見てもらうと、宮崎との県境、こちらは高千穂の
峰を遠望できますが、何と南九州に雪の降る季節になりました。



壊れていた窓は、何とか閉まったり開いたりしていますが、セーフのようです。
(笑)
旧矢部町を過ぎ、旧蘇陽町に入りました。馬見原という所は熊本-宮崎の
県境の村です。九州産業交通のボンネットバスが、熊本駅-馬見原間の
運行から引退したのが、昭和53年(1978)9月だったと記憶します。
これが九州最後の定期運用路線バスのボンネット型使用となりましたが、
当時見ていないのが今も惜しまれる。それと、この路線バスが当時、特急や
急行で無い九州最長の運行であったと思います。

といいつつ、馬見原まで行かずに、少し手前で国道265号線に抜ける
ショートカットを抜けて、阿蘇に向かいます。



晩秋の阿蘇外輪山を越えてゆきます。気温は12℃。前を古いセルシオが
走っていきますが、よく晴れた日で、寒さは感じません。

高森峠に近づきました。ちょっと停めて阿蘇の写真を撮りたくなりました。
ギザギザした山頂の山は猫(根子)岳です。





高森を過ぎて、いよいよ外輪山の風景をカラー3枚で、お送りしましょう。







国道から少し外れた牧草地。辺りでは牛の首につけたベルが風に乗って
聞こえ、モーモー鳴く声がのどかに耳に入ります。
こんな昼下がり。何も考えずに、じっと秋の深まるのを待ち、やがて牧草
の上に霜や雪の降る季節もやってくるのですが、そこは九州の高冷地。
深刻さはそれほどなく、春の来るのは3月ですから、4ヶ月ほどの冬です。

野焼きの季節にオープンで走ると、髪の毛が焼けそうなシーンもあるの
だけど、底抜けに笑いたくなる。これが阿蘇のドライブなんです。



野アザミの季節も、もう終わりですね。

国道265号線は、坂梨というところで57号線と合流し、終わります。
北半分は風光明媚な阿蘇の道ですが、南半分の難所については
機会を改めて紹介いたします。

いよいよ別府阿蘇横断道路、やまなみハイウエイに入りました。
平成の頭の頃にはまだ、有料だった頃が懐かしい。
高速道路以前の、有料道の中で、洗練された国際級の観光地を貫き
当時の方が有料ゲートに入ると、華やかな雰囲気がありました。
往年のドライブイン、懐かしいリゾートホテル。



セレブとか、そんな言葉のかけらも無かったころ、海外旅行以前の
贅沢な人たちも、やっとマイカーを持った人も、バスで団体旅行する修学
旅行生たちも、この道を駆け抜けた思い出は多いことでしょう。



僕らの幸せとか、旅する喜びって、どこに行ってしまったのでしょう。
うっすらとその香りの残るこの「ハイウエイ」(1964年6月開通)を走り
ながら、遠い遠い九州の地から、夢が覚めていく時間の変遷を辿る
旅も終わりに近づきました。



去り行く季節と、見返りながら遠ざかる阿蘇の後姿に思いを馳せてこの旅も
そろそろ終わりにしましょう。



湯布院へ駆け抜ける道は遅い秋の装いと、冬支度を感じさせました。



湯布院から高速に乗り宇佐に出て、10号線とバイパスを繋いで70km。
北九州に着くと週末の渋滞が待っておりました。
週末の20:00出港の船に乗り込んだときは、もうくたくた。
本日は345kmくらい走ったのでしょうか。殆ど下道で。

九州をめぐる1000kmの旅を終えて帰ってきて、すごいとは思いません。
ただ、昭和53年頃から、何度も走ってきた道を、30年経った今辿る意味。
それもいつまで、と問われても、まだ走れるうちは走ってみたいと思います。
新しく発見した道と町もありましたから。

男は迷ったときには「とりあえず1000km走ってみよう」で、何かつかめるかも
しれません。
よく走ってくれた、2000円MIRAには、感謝です。

お疲れさん。

Posted at 2012/11/21 14:43:09 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2012年11月21日 イイね!

箸休み2-クーペがいなくなった理由

箸休み2-クーペがいなくなった理由今回の九州広域の旅で、大半都会的でない場所を走ってきたが、
本当に九州でもクーペは、見なかった。

新86はまだ売れてなく、2回くらいしか見なかった。

セダンも少なかったが、これは都会と変わらない。
古いのを乗り続けている人と、トヨタのクラウンとマークXくらいだ。

筆者は古いクーペを乗り続けているが、なぜクーペが絶滅したか、
考察してみよう。

販売車種の激減、これは当然ある。
メーカーが作らなくなった理由は、何となく売れないからである。
私はクーペとセダンが減った理由は、乗って行く、行ける場所が
変わったからだと思う。

コンビニとショッピングセンター、それにパチンコ店駐車場、これが今
クルマで乗りつける3大プレイスでは、ないか。

あとファミレスを忘れては、いけないが、牛丼店とか回転寿司を含めると、
想像通り全然お洒落な世界ではない。

日本人の生活が、外に出るというあらたまった場面が少なくなり、
「ソト」が限りなく「ウチ」に近づいたから。

これが答えではないでしょうか。

クーペに乗って異性や特別な人、もしくは家族間においても形式的な
威厳を保つようなシーンが、ほとんど今はありません。

コンビニにクーペで行くのは似合わない。
「何をイキって」と、今風に言えば、からかわれる存在でしょう。

だからミニバンや軽の時代になったのです。

俺、コンビニにマイカーで乗りつけるの嫌いなんだよ(笑)。
劣化するみたいで。(御免)

でももう遅いと思います。変に言うと、道徳的とか教条的と取られるだけ
ですし、誘う方の女だってそんな所に抵抗のある人なんて、死滅している
と思います。

コンビニが、クーペを滅ぼした。
これが一つの答えですが、筆者はネバーギブアップの人である。

要はコンビニが今のような平凡で突出感の無いもので無く、オシャレな
場所に変わればイイと思う。

そういうのがポツポツ出来てくればまた、クーペは復活してくるよ、多分。
Posted at 2012/11/21 07:58:39 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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