
人吉に着いたのは、予定より早く夕方の5時過ぎ、
日没前であった。
JR人吉駅の観光案内所がまだ開いており、宿はそこで
紹介されたところを1回の電話で予約できた。
夕食もこの時間からの宿泊なのにOKに、少し驚いた。
さて夕刻の日暮れ前に、町に進入する際に気になった社森に行ってみた。
青井阿蘇神社と言う。
桧皮葺の社殿は本州では、珍しいがこの辺りには奥地に行くと
いくつか残っていると言う。近年国宝指定された、旧い宮のようだ。
横の方から、宵闇のなか入ったので、正面の方角に出てみると
太鼓橋が架かっており、その下は枯れた蓮の群落であった。
薄暮で見えないけど、猫がいる気配がする。翌日の町史博物館で知ったが
この人吉は600年以上も同じ大名の統治で続いた藩であり、憑き物の猫騒動
が代々あったそうだ。その舞台が、この青井神社らしい。
その夜は、女将さんと話をしながら夕食を摂り、その後で近くの温泉の
共同浴場に行った。名前は新温泉だが、物すごいレトロな湯だ。
翌朝は、晴れたが冷えた朝になり、一面カーテンを引いたような霧である。
朝食前に、橋を渡ってお城跡の方に散歩に行った。
そしてここにも元湯という共同浴場が朝6時から営業している。
それにしてもすごい霧で10メーター先も見えない。
元湯にも入ってみた。値段は200円で時代の流れを超越している。
この値段で無いと困る人がいるというが、あと設備の古いままの湯が
多いのは、湧出量に限りがあり、大型私設に改造するのを禁じているかららしい。
人吉の人の「足るを知る」という考え方に、私は賛同したい。
朝湯から戻り、朝食を食べて、宿を発つ。朝からこんな優雅な生活で
ええんかいなと思いつつ、
この宿は大変気に入った。
カウンター(割烹)スタイルの食事も、独りの旅には、有り難いし、
女将さんについ、大ホテルの大食堂の片隅で、夕膳、朝飯なんてこんな
ミジメなことはないよ(笑)、と本音をもらしてた。
旅から帰ると、きのう、宿からお礼の葉書も届いていた。
人吉の一夜で、しっかり疲れを取り、次の目的地に向かおうとする私に
女将さんが歴史資料館だけは見ておいた方が良いと、どうしても言うのだから
約束を守り行ってみた。城下町人吉がどのように成立したか。遠江の相良氏
が地頭になり、明治の廃城まで続いたこと。小さな山間の城下だが、肥後と
薩摩、日向を結ぶ要衡として、長く栄えた町であることが判った。
地下にある「隠れキリシタン?」かと思われる洗礼施設を思われる隠し井戸の
発見が、この歴史資料館を作らせる動機になったようだ。
名残は惜しいが外に出ると10時過ぎ。朝の霧はうそのように晴れていた。
さあ、遅くなった。きょうのうちに北九州に出るか、大分別府からの船に
乗らないと、明日の朝までに大阪に戻れない。
ここはすぐ高速に乗り熊本方面まで向かおう。九州の最奥のひとつ
秘境人吉まで来たのだから、本日は300キロ以上は走らないと。
ところが慌てたのか、トイレに寄りたくなり、城址公園のWCを出て
パワーウインドのスイッチをカチッと入れるときに、ぺキッと変な音がした。
しまった、窓が閉まらない! 早朝より温かいが、これで高速かよ(泣)。
予定外のトラブルだが、しようがない。ダイハツのディーラーを探すか。
工場よりGSで工具を借りて直してみようか。とりあえず200km以上
走っていたので、スタンドに飛び込んだ。
工具を積んでいないのは失敗であったが、工具を借りて直すのにも
ちょうど良いサイズのマイナスドライバーが置いていない。そうこういじって
いるうちに、ウインドが上に上がってくれた。途中ではとまらないが(苦笑)。
早々に出発し人吉から九州道に乗る。この近くのPAで犬童球渓の「旅愁」
を聴いたのは、2001年。米国がアフガンに「報復」の空爆を始めた朝だった
ことも思い出す。
きょうのコースは阿蘇が見たい。晩秋の阿蘇は、お金を払っても見たいと
思うシーナリーだ。
どこから阿蘇に入るか。結局時間と好みで、宮原から緑川水系に入るのは
八代で降り、3号線をしばらく北上するので見送り、次の松橋で降りて、すぐ
東に進路をとり、中央町(今の美里町)をめざす。
佐俣から先は、南熊本から来ていた熊延鉄道の路線に沿った道だ。
初めて来たのは、昭和53年(1978)の浪人中の夏。僕の記事を読んでる
18歳のクルマ好きたちにエールを送りたい。
なお、昭和39年(1964)に廃止になったこのローカル私鉄については
このサイトが一番詳しい。管理人は地元出身の友人氏である。
この218号線ルートの魅力は3つ。
阿蘇外輪のはるか背中を走るルートで、阿蘇の魅力は遠いが、
緑川水系の魅力と文化は、とても濃い。
古くから知られる順に書く。まず廃線マニアには、鹿児島交通知覧線と
並んで難易度の高い、熊延(ゆうえん)鉄道の幻影と延岡への遠望がある。
実際の終点は砥用(ともち)という延伸を諦めたような山の中の町だった。
せめて馬見原(まみはる)、今の山都町(旧蘇陽町の中心)まで行ければ
大言に終わらなかったが、元々この交通区間に鉄道を引くのは難しい。
2番目に、肥後の石匠と言われた、見事な石積みのアーチ橋群である。
通潤橋と零台橋は以前から有名であったが、路傍の名もない橋たちを
観察するのは、本当に心が和む。
鹿児島市と長崎市は市街地に残るが、九州の石橋はあと宇佐奥地の
院内地方と一部、国東半島の付け根の旧豊前街道の国道10号線沿いに
残る。
九州に石の文化が濃いのは、昨日の薩摩の武家屋敷でも見られたが、
阿蘇や桜島が噴火して火山岩がごろごろした所に、長い間に人間が開拓して
住んだから。それと台風が強い場所なので、丈夫な石造の構築物が
要求された。それが石仏などの宗教目的から、石橋に至ったと思われる。
最後の3つ目がこれから観光資源になると思うが、最奥地にある水源地帯
である。清和高原、井無田付近の星空と水の沸く地帯の環境を大切に
考えることが、グリーンツーリズムだと思う。
この阿蘇外輪の麓には、吉無田官山といい、木を植えて水源を作った
先人たちの文化史も残っている。通潤橋のサイホン構造と、田畑を灌漑
することの大切さを、エネルギーと食料問題を考える世紀にこそ、ただ車を
走らせる観光から、一歩踏み出していただきたいと考えるゆえんである。
先程の写真の大窪橋を過ぎて、ほんの僅かだが廃線跡の細い道を
走ってみる。
これは当時の鉄橋の上が道になって、砥用終点に入るあたり。
さて、のんびりもできません。山道を駆け上がって奥地奥地へと進みましょう。
まもなく行くと零台橋が見えてきます。そこからさらに県境までの半分進んだ
ところが旧矢部町です。写真を見てもらうと、宮崎との県境、こちらは高千穂の
峰を遠望できますが、何と南九州に雪の降る季節になりました。
壊れていた窓は、何とか閉まったり開いたりしていますが、セーフのようです。
(笑)
旧矢部町を過ぎ、旧蘇陽町に入りました。馬見原という所は熊本-宮崎の
県境の村です。九州産業交通のボンネットバスが、熊本駅-馬見原間の
運行から引退したのが、昭和53年(1978)9月だったと記憶します。
これが九州最後の定期運用路線バスのボンネット型使用となりましたが、
当時見ていないのが今も惜しまれる。それと、この路線バスが当時、特急や
急行で無い九州最長の運行であったと思います。
といいつつ、馬見原まで行かずに、少し手前で国道265号線に抜ける
ショートカットを抜けて、阿蘇に向かいます。
晩秋の阿蘇外輪山を越えてゆきます。気温は12℃。前を古いセルシオが
走っていきますが、よく晴れた日で、寒さは感じません。
高森峠に近づきました。ちょっと停めて阿蘇の写真を撮りたくなりました。
ギザギザした山頂の山は猫(根子)岳です。
高森を過ぎて、いよいよ外輪山の風景をカラー3枚で、お送りしましょう。
国道から少し外れた牧草地。辺りでは牛の首につけたベルが風に乗って
聞こえ、モーモー鳴く声がのどかに耳に入ります。
こんな昼下がり。何も考えずに、じっと秋の深まるのを待ち、やがて牧草
の上に霜や雪の降る季節もやってくるのですが、そこは九州の高冷地。
深刻さはそれほどなく、春の来るのは3月ですから、4ヶ月ほどの冬です。
野焼きの季節にオープンで走ると、髪の毛が焼けそうなシーンもあるの
だけど、底抜けに笑いたくなる。これが阿蘇のドライブなんです。
野アザミの季節も、もう終わりですね。
国道265号線は、坂梨というところで57号線と合流し、終わります。
北半分は風光明媚な阿蘇の道ですが、南半分の難所については
機会を改めて紹介いたします。
いよいよ別府阿蘇横断道路、やまなみハイウエイに入りました。
平成の頭の頃にはまだ、有料だった頃が懐かしい。
高速道路以前の、有料道の中で、洗練された国際級の観光地を貫き
当時の方が有料ゲートに入ると、華やかな雰囲気がありました。
往年のドライブイン、懐かしいリゾートホテル。
セレブとか、そんな言葉のかけらも無かったころ、海外旅行以前の
贅沢な人たちも、やっとマイカーを持った人も、バスで団体旅行する修学
旅行生たちも、この道を駆け抜けた思い出は多いことでしょう。
僕らの幸せとか、旅する喜びって、どこに行ってしまったのでしょう。
うっすらとその香りの残るこの「ハイウエイ」(1964年6月開通)を走り
ながら、遠い遠い九州の地から、夢が覚めていく時間の変遷を辿る
旅も終わりに近づきました。
去り行く季節と、見返りながら遠ざかる阿蘇の後姿に思いを馳せてこの旅も
そろそろ終わりにしましょう。
湯布院へ駆け抜ける道は遅い秋の装いと、冬支度を感じさせました。
湯布院から高速に乗り宇佐に出て、10号線とバイパスを繋いで70km。
北九州に着くと週末の渋滞が待っておりました。
週末の20:00出港の船に乗り込んだときは、もうくたくた。
本日は345kmくらい走ったのでしょうか。殆ど下道で。
九州をめぐる1000kmの旅を終えて帰ってきて、すごいとは思いません。
ただ、昭和53年頃から、何度も走ってきた道を、30年経った今辿る意味。
それもいつまで、と問われても、まだ走れるうちは走ってみたいと思います。
新しく発見した道と町もありましたから。
男は迷ったときには「とりあえず1000km走ってみよう」で、何かつかめるかも
しれません。
よく走ってくれた、2000円MIRAには、感謝です。
お疲れさん。