さあ宿題を仕上げよう。
珍しく直球で、いくことにする。
レストア車という呼称が自動車雑誌等で使われるようになって
25年以上が経つ。日本人は、新しい言葉には弱い。本来の意味の
レストレーションから広がったこの言い方には、かなり広い、
(あいまいな)定義があると思われる。レストア車だから、大丈夫。
レストア済みだから綺麗といった考え方には、解釈の付け方が難しい。
また、現状で傷んだクルマを引いてきて、安く買ったクルマに
どのくらい金を掛けて、見られる、乗られるクルマにするかというのが
クルマ趣味道の極意であろう。
いつも揉めるのは、ユーザー側と、工場や販売業者との認識や思い込み、
そして金銭対価に見合う満足度であるか、である。
日本人はいま、殆ど自分でクルマをいじることはしない。できないとも
思われるが、社会構造や風習が、家庭から日曜大工や、庭木いじりといった
手を使った趣味を、放擲してしまったからである。
趣味が高じて、家を自分で建ててしまったとか、捨ててあったクルマを丸ごと
再生したというような話は、昔の方が多かった。それがなぜ少なくなったのか。
一つの理由は、建築などあらゆるものに関する規制である。ライセンスの無い者が
自己責任で家を建てても、転売する時に困難が生じたり、クルマの場合は
捨ててある車でも所有権移転の手続きから、いろんな書類が必要で、無いと
一歩も踏み出せない状態が続いている。
先に非常に反響を呼んだプラモデルに始まる子供のホビーについても
同封のシンナー系有機溶剤接着剤規制から始まり、ST基準などあらゆる付帯条件を
クリアしないと、新興の会社が簡単に参入できなくなった。
これは一種の先進国病とも思われるが、一方で近年、ベンチャー企業を募る
などと経産省が言っても、芽を摘んで行ったのは役所の方である。
大袈裟を広げ過ぎたが、日本人はこの半世紀に、ほんとうに自分の手でもの事の
作業や、作れなくなってしまった。私などが最後のハンダ付け世代であると思う。
そこでの、21世紀の12年目に考えることにしよう。
クルマの修理は、レストア以前のリペアくらいは、ユーザーがやっても良い。
ここみんからは、かなりのレベルの人がいるのが判る。
私もエンジンはやったことが無いが、学生時代はポンコツ屋ではぎ取りの実践、
修理。その後ショック交換と、ソレックスキャブのオーバーホールはやったことが
あるが、いずれも若い日のことである。ぶつけたクルマの板金も自分でやった。
若い頃には何するものぞの気があった。これが下がったのは加齢以上につらい。
30代40代の子育て時期に、お金で解決する生活に慣れてしまったからである。
まだかなり手先を使っている方と思われる私が嘆くのであるから、日本人の
殆どは頭だけで生きている。自動車や自転車の運転操作に人気が集まるのは、
取り戻したい願望が強いからであろう。
さてここで方向を変えよう。
巧い職人の見つけ方である。
不可能を可能にするのは、プロの手技だ。
お金と頭で解決という考え方に、一旦批判を加えた。
しかし、プロフェッショナルを育て、仕事を与え(してもらう)のは
良い意味でプロ市民の生き方ではないのか。自給自足経済の時代は、過去と思って。
私は近年、靴の修理で大変高い技術を持つ人を見つけた。
http://bany.bz/coupe/entry_162336.php
この紹介する職人氏は、本格修理はバックオーダー1年以上抱えており
職にくいっぱぐれることは無いであろうが、如何せん私も2年以上前に
出した仔山羊(キッド)のイタリア製靴の修理は返ってきていない。
過去に直してもらった靴で、高校生時代から履いていた編み上げのショート
ブーツ。それとイスタンブールで買った革靴の良いのを、底のウレタンが割れて
履けなくなったのを、そっくり底替えしていただいた。この靴はお気に入りで
今も履いている。
もうひとつは、服である。
服の手直しや修理は、買った方が安いことが圧倒的に多い。
きょう日のユニクロ時代に、2000円以上の手間賃をかけて
服を直しに出すのは、ほんとうに迷う。
町の直し屋さんで、作業代を聞くと、たいてい止めようかと言う気になってしまう。
クルマの修理も似たような思いをして、新車を買うことが、大概のコースだろう。
そんな時代に僕のブログを読む人は、出口を探しているのだと思う。
町の服の直し屋さんの看板を上げている所では、出来ないものははっきり断られる。
勝手に独創して、修繕にだした服が違うものになって返ってきたら。
それは店の責任になるし、そんなことも承知して僕は今年面白い人に出会った。
外国におられたデザイナー男性が帰国して、自転車で行ける近所で、個性的な
服のリデザインや直しを引き受けてくれることになったからである。
http://headood.exblog.jp/18877569/
http://headood.exblog.jp/18727362/
この辺りの記事が、私の依頼した衣類の修理である。
いまのところ、呼吸で服の修理を任せている。もちろん打合せはするし、
変な感じになったらスイマセンという彼に、どこまで任せるか。古い服ばかりなので
冒険と言うか、これは遊びの域なのだが。
でも彼は僕の服装の好みや、普段の好きな画のことなどを聞いて一生懸命
似合うものにしようと、努力する。
リペアってなんだろうと、思う。
昔は普通に、家にミシンがあって、家にいるお母さんの好みで、服が作り替えられ
変なアップリケが付けられたり、ツギハギの直しの入った服を来て、学校に行って
笑われて、家に帰って怒って泣いたり、そんな感情の起伏を経て、自分の好みを
確立させたり、人間は多感に育って行けたのでは、ないだろうか。
クルマのレストアに対するビジネス見地から、随分遠い所まで話が広がってしまったが、
ものを大事にすることと、維持し続けることは、始末といって、ものを創った人に
対する感謝だと思う。
あと、自分に代わって、修理してくれる人のお陰で、この車たちが、長く維持できていることと。
そして、たまには一歩踏み出して、自分の手で直せるものは、挑戦してみる。
発見や希望の見つかりにくい、この時代に、何か生きるヒントになれば、
この文を書いた意味も、無いことはないだろう。