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kotaroのブログ一覧

2012年12月23日 イイね!

鉄とアイドル、ときどきクルマ

鉄とアイドル、ときどきクルマきょうは高尚な話題である。
なんか書きにくいなあと思いつつ、チャレンジするのも
物書きの神髄であろう。

チャレ鉄というのもあった。
チャレンジ2万キロという国鉄末期の乗り潰し鉄に
取り憑かれた哀れな蒼氓の、ローカル支線の列車が
出る駅に着く度、スタンプ帳を握り、硬券入場券を
買い求め、駅名票の前で刹那に記念撮影し、右往左往する
者どもがまだ、後ろ指をさされる前に、山下鉄郎という
読み人知らずが、歌ったんだと思う。なんのこっちゃ。


はい、というわけで、きょうはなぜ、鉄道マニアがきもいのか
もとい、アイドルが好きなのかに着いて、論考しようと思う。
ここはみんから、自動車系SNSで、こういう話題を取り扱うのは
デリケートな面がある。しかし鉄道系のサイトで瞬間炎上しても
先に進めない。


鉄(てつ)というように、鉄道マニアが少し変わった人たちと
言われるようになり、カレコレ30年近い状況になる。
私が現役の頃は1980年代のはじめであった。
その前にSLブームがあった。1967ー75年くらいで、ピークは鉄道100年の
1972年である。

50歳も過ぎて、大人になると、こういうのはどこかに仕掛けをする人がいて
結局儲ける人もいたのだなというくらいの、想像ができる。
鉄道はヨーロッパでは第2次大戦後、すぐに斜陽の危機が来た。

戦後社会が戦争を放棄し、制空権の安全が図られるようになると、民間航空の
大いなる発達の時代が到来したからだ。
アメリカの鉄道衰退はもっと早く、自動車産業の躍進が原因で、1930ー40年代の
不況時に、都市交通の主役の座を奪われてしまった。



ヨーロッパでは1950年代末に、鉄道ルネサンスを目論んでTEE(Trans Europe Express)
という国際特急の合同プロジェクトが立ち上がった。
ちょうどその後に生まれた私の小さな頃は、鉄道の絵本に、ゴッタルドやラインゴールド、
ミストラルにシザルパン、そしてイタリアのセッテ・ベロという特急列車が色とりどりに
紹介され子供心に、大いなる鉄道好きを醸成されたものであった。



そんな私が大学に入った1970年代後半は、鉄道少年たちが成長し最高学府に
進学する時期に当たったのであろう。大学の鉄研(鉄道研究会)はどこも部員が多く、
私のいたサークルも現役会員数は70名を超えていた。

鉄道趣味と、自動車の趣味を、同列化することは、ひょっとしたら今日の方が
色分けの重なる部分が深い。昔は鉄道は、本好きの子供が、時刻表も読めるようになり
やがて外に出て、カメラを持てるようになり、実際に乗りに行くことも可能になり、
写真撮影や旅行などを自己実現する“ハウス”な趣味であった。
幼児プレイ(悪い意味でなく正統な意味で)の延長で、鉄道模型というホビーもあった。
僕らの小学生時代に「トミーのプラレール」という『発明』もあった。
それを卒業し、HOゲージやNゲージという、やや高級な本物志向というお金の掛かる
遊びもありました。

いっぽう自動車の世界は、いまはともかく、昔は体育会系でもあり、ある意味オンナに
モテようと言う軟派な雰囲気もあった。映画「若大将」シリーズで、かたき役の田中邦衛の
演じる青大将が、MGのオープンカーに乗って邪魔をする、あれである。

鉄は硬派である。研究者のふぜいのある実物研究派。そのまま電鉄に入って車両部に
配属になり、運転技術や、Sーミンデンやボルスターアンカの研究開発に、こよなく
魂の情熱を燃やしたりする学者肌も多い。山岳登山をものとしない、ある意味求道者の
ような広田尚敬を師と仰ぐ撮影派。旅行好きから、やや柔らかくなる。
模型好きはヘンな人か坊ちゃん。ここら辺は自動車のモデラーとかぶる。



体育会系の白洲次郎などに代表される、自動車好きのオイリーボーイと呼ばれる
汗をかいたスポーツマンな匂いと、鉄道マニアの脂ぎったO’タッキーな臭いが
どこから混在しはじめたのであろう。
笑い話をまじめに考えるのが、本論なのであるが、それは80年代くらいから
ではないか。

オタクという分類が出て来たのが、80年代前半で、対象になったのは、
当時生産性の無い趣味と呼ばれたアニメとか、アイドルとかであり、それに
時代遅れ感のある鉄道趣味も、不毛な趣味のように言われて、カテゴライズ
されかけていた。
どちらかというとSLブーム以降の鉄道好きは、大人しいタイプが中心になった。

SLブームの頃は、まだ学生運動の火が消えておらず、下火になった時代である。
文化系サークルの学生は、やたら理屈ぽかったのである。
ところがキャンパスライフの軟弱化(と、当時は言われた。今は当たり前)が
70年代の終わりより始まった。これは影では学生運動の骨抜きの策がとられた
と言われている。その後、訳の判らぬ女子大生ブームが来て「レジャーランド」と
呼ばれた時代もあった。


ここで、男性の趣味脳について、考えてみる。
私は「鉄道マニアは分類癖がある」というのが、持論だ。



身体を動かす趣味から、頭で楽しむ趣味の時代が来た。「おたく」と言うのは
そのハシリだったのではないかと、思う。
アイドルの時代は、私は1972年以降ではないかと思う。
音楽やレコードの耳から入る部分を、テレビや雑誌グラビアの目から入る
部分が凌駕した時に、化学変換が起きたのだと思う。

そうすると、人間は頭で趣味を構築する楽しみ方をおぼえた。
鉄道趣味は、非常に広範な趣味なのであるが、現在の主流は頭で楽しむ部分に
比重が移っている。もちろん従来型の楽しみを実践されている、昔ながらの
ベテランも多く残っていて良い。

「水と油」であったものが、次々とオーバーラップして行った80年代、
アイドルと鉄道を結びつける牽強付会に、抵抗意見も当然あった。
そこに私は、頭脳で楽しむ趣味が広がっていくことを感じていた。
70年代のアイドル歌手は、まだ「同級生的」な身近なスターであり、
『スター誕生』というオーディション番組の風靡のように、私は、
「上京列車」が、東京駅に入線するように、彼女らの出身地と在来線の駅名を
頭におぼえ、描いていた。

80年代に入ると、地方の色は年を追うごとに薄れて行った。新幹線も博多から
数時間で東京に着くのは当たり前。東北も、新潟も、新幹線交通圏になって
いった。
鉄道趣味は急速に日常と非日常の温度差が薄くなり、「地方を訪ねる」のに
辛苦を重ねることは、問う以前になったのではないか。



1980年代が終わる頃には、哀しいかな(私は、だが)もうアイドル歌手に
うつつを抜かす暇人は、ごっそりいなくなってしまった。レコード会社と芸能プロ
ダクションは、もっと儲かる金儲けに向かってしまったからである。
鉄道趣味も、ノスタルジックな夢に浸る趣味の時代に入ってしまっていた。
個人的に、子供の頃に名前を見た記憶のある、30歳くらい上の50年代や60年代の
「フロントランナー」たちがまだ現役で、企業戦士を引退しかけた彼らから、
「豊饒の時代の話」を聴くことに、私はひたすら浪漫に耽溺するようになった。
鉄道趣味は過去の話だけで良いと。

そんなわたしは、何をしてきたかというと、ご覧の通りのクルマの趣味である。
こっちをメインに据えて、他の趣味は、からかわれた時に、舐めちゃいけないよ、と
鋭い刃物を出す程度にしてきた。いつの間にか刃先は錆びて、使い物にならなく
なってしまった。

「ときどき」の方が今は土台が大きい。
こっちは、かなり身体を使ってやっていることもあり、頭の中の趣味は、こう
やって変な文章を書くときと、頼まれた時に解説をするくらいだ。


さあ、きょうは訳の判らない原稿になってしまった。どうまとめよう。
鉄道オタクの前原君と、「キャンディーズ命」だった石破さんの闘いでは
ないが、いよいよこういう世代の時代だなあと、感じることは多い。
最近は私のサイトは女性が殆ど読まないページになってしまったが、まあいいか。
大掃除をする日に手を止めて読んでくれている人もいるだろう。




今日は、これから「廃墟」の好きな人たちと、忘年会である。
そろそろ日も暮れかけているが、あたらしき発見もあればと思い、
これから出かける。帰ってきてから、中途半端な議論を、もう少し
続けてみようと思う。








Posted at 2012/12/23 13:07:20 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | その他
2012年12月21日 イイね!

今年と来年の間に思う

今年と来年の間に思う






県道2号線野峠、今は国道に昇格して496号線になっているが、
この福岡県と大分県の境にある山越えの道を17歳のときに
自転車で越えたのが、最初だった。



福岡県行橋から、豊津、犀川町の城井馬場、伊良原を越えて
最後の集落、帆柱から標高700m級の峠を経て、豊前の霊峰
英彦山に至る宗教の道か、峠を大分県側に降りると、山国川
の源流、山国町を降りて行き、かつて耶馬溪線の終点駅であった
守実温泉に至る峠路の厳しい道である。




驚いたことに今回の数年ぶりの探訪で、道がつけ変わり
とくに伊良原地区では、大掛かりな住宅移転、ダムが出来るという。
私は1976年からこよなく愛した峠路の冬が好きであった。



峠は吹雪いていた。まもなく通行止めになるかもしれない。
再び福岡県側に降りていく。



私が昭和52年頃に来たときは、山奥にも万屋風の商いをする家があった。
写真の家屋は元は商人向けの宿だったのではないか。



淋しい川の水面を、冬に眺める。この川を渡ったところにある
誰も訪れない神社を、私は初めて訪ねた。



歴史の深い産土神であるが、ここももうすぐダムの底に沈むのであろう。
http://www.city.buzen.lg.jp/minzoku/miyako/toyokuni.html

荒れた社に懸けられた注連縄が痛ましい。

もうちょっと降りていくと、田川線、今は平成筑豊鉄道の豊津駅に
出た。





この橋の上から、国鉄時代の田川線の列車を撮影した記憶がある。
昔は駅舎も木造の立派なのがあった。駅員も居たと思う。
駅前には3、4軒の商店が商いをしていた。





追加写真は昭和53年1月8日、大学受験目前の高校3年生の冬だ。
豊津駅以外は、油須原-崎山間の田川線時代。



変わり行くふるさと。1970年代にはとても戻れないが、あの時代は
奥地の人は奥地なりの自給自足経済で、生計を立てていた。
今は収入さえあったら暮らせないのか。ついアマゾンで発注したら
一番奥の村でも、配達してもらえるものか、そんな空想を考えてしまった。



Posted at 2012/12/21 11:20:11 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年12月20日 イイね!

秘仏開帳(猫に小判)

ROSSOxROSSOで今年のイベントシーズンは幕を閉じた。
14日の金曜日は残念ながら、今回の出場のきっかけを作ってくださった
850スパイダーに乗られるFiat850Club Japponeの会長さんの
愛車は走られなかったのだが、16日の日曜日は無事に動いたらしい。

そこで16日は「見に来ませんか」のお誘いをいただき、Coppa di Kyoto
のエントリー車を拝見する機会に恵まれた。







ロッソロッソ自体の見学は無料のイベントであるが、金曜日のエントラント
パスを当然持参して行って、正解であった。
コッパの区画は特別駐車場で一般見学の人は、警備上入れないからである。







こういったイタリアの本国のヴィンテージカーイベントの「松」クラスに
出る車も、近年は国内のコレクターが結構持っておられる。
それは今の日本の現象なのだが、評価が難しい。宝石や貴重品の美術、
例えば絵画は美術館に展示して、大勢のギャラリーが見て鑑賞するのと
個人的にコレクションして、言っちゃ悪いが金持ちがニタニタ楽しむのと
二通りある。

バブル時に大昭和製紙の会長が、モネの睡蓮か何かを高額で購入でき
「ワシが死んだら一緒に燃やして欲しい」と発言したあれである。
まあ、ヴィンテージカーは、また本国に帰ったり、他の新興の成金国に
行くのが運命のようなところもある。

私にも値打ちの判るのは、これ。NYのMomaにも展示されているという
チシタリア202クーペくらいである。これは美しい。





これは近年イベントに出る頻度の増えた、1965年頃のマセラッティ3500GT
ヴィニヤーレ製ボディワークだったと思う。





アルファロメオの中から、3台をピックアップ。







空色が素敵な1900時代のクーペ。滋賀よりエントリー。
スプリントスペチアーレ通称SS。
初期の段付きスプリント。古いディーラー車であろう、右ハンドル。



オールドの域に入れるべきか、フェラーリデイトナ。



アバルトアレマーノは、地元京都より2台がエントリー。
2台ともというか、もう他にはないと思うが、驚かなくなった時代である。



これが私を呼んでくれた850スパイダー 。関東から遠征。



モノクロで渋く決めましょう。



チシタリアはなんと、2台あるのです。



ディーノも珍しく、変わった色のが1台並べてありました。ライトグリーン
メタリックというような色。

これにあと、



シアタでしょうか。それからすごく現代的に見えますがストラトス。



あと、初日に来ていたマセラッティA6とランボルギーニ400GTで、勢ぞろい。
もしかしたら、昼前に帰った車もあったかも、しれません。


850クラブジャパンの女性会長とは、来年1月末のNYMに、1年前に私が
提案したクラブスタンドエントリーの話などで、長時間お話をさせてもらいました。

暇にしている私ですが、来年は起動していかないと、どうなることかでしょう。
とりあえず1月からの予定を入れて行き、27日はお台場に居そうです。

京都の印象について、東京から来ている会長と意見交換をいたしました。

面白いイベントと思ったのは、最初の集合場所の高台寺という設定です。
禅寺で、菊の紋所があったので門跡寺院という種類だと思います。
冬の京都でお堂(方丈)に連れて行かれて、方丈の中でご祈禱と称し、
曼荼羅、秘仏の前で、参加者は大きな声で般若心経を読み上げる
僧侶たちの気迫に、これはただのイベントではないぞ、と驚きました。

私も教会に行けば賛美歌を歌い、今回は覚えている範囲で般若心経を
暗誦しました。

不即不離という言葉があります。



京都に行けば古いものはそこら中にありますし、歴史とは何であるかを
考えるのに、これほど相応しい場所はありません。

ヴィンテージに乗られるなら、自分たちのしている行為における意味性を
考えて見られては、どうでしょうか。

この日は国政選挙の大きな行事である、衆議院議員選挙が全国一斉で
行われて、ご存知の通りの結果が出ました。
私は今回の解散は、負けることは100も判っていて踏み切った首相の
決断には、すごく関心を持ちました。
もしかして、これはひょっとして、民意が政治を動かしたのではないかと。

青い意見かと思いますが、昨年の3月以降の不安、不満感は限界に
達していたのかもしれません。

今の民主では、世の中の潮流、政治の流れを変えられません。
失政は、前任、前々任の方のときにいくつかはあったにしろ、そこまで
致命的なものでなく、いつの間にかしみついた悪いムードが日本を蝕んで
いると思いました。

解散時期を誤ったのは、麻生太郎首相がよく引き合いにだされます。
ただあの時は次々と大きな選挙が小泉時代にあり、人心は傷だらけでした。
その内に内外情勢でにっちもさっちも動けなくなった苦い経験ああります。

自民、民主の自党他党という目論にとどまらず、国富の観点で、
解散の真意が明らかになってから、随分市場は回復しました。
次の人に誰がなるにしろ、総理の仕事と言うのはこういうものなのかと、
私は12月のプレゼントに、胸をなでおろしております。




夜を越えて走る850クーペの上に、細い月が、いつまでも
青い光を照らしておりました。


Posted at 2012/12/20 12:57:43 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2012年12月17日 イイね!

日本人とセダン

日本人とセダン選挙が終わった。これも民意なんだろうけれど、
3年間て何だったのだろう。
自民にお灸を据えるためだけに国民的実験をしただけ
だったのか。叩かれ過ぎた民主の人たちは、寄せ集めの
軍隊がいかに戦に弱いかだけを見せつけて敗走した。

関ヶ原終われば東軍の圧勝か。西軍(一応大阪だから)
は悲運の将前原を抱える京都と、兵庫で2議席ずつを死守したのみ。
しかし大阪は19選挙区中12で維新の旗が翻ったのに仰天する。
ここは自公の天下ではない! こいつらは真田幸村かい。

さて、きょうもクルマの話にいたします。

昨日、京都に向かう道すがら、日本におけるセダンとは、何だろうと考えていた。
私がもっとマイナーなクーペに乗り続けていて、申し訳ないのだが、セダンは保守か、
保守主義は古いのか、それとも。

外国でも近年はセダンの退潮をかなり明確に意識する。それは日本やアメリカ的な
自動車のトレンドが、伝統的な生活様式を比較的固守するヨーロッパにも
影響を与えているということなのだろう。

日本はそれにしても極端だ。ワゴンブームと20年来続くモノボックス的なファミリーカー
が下は軽自動車から、上は3500ccクラスのエルグランドクラスまでずらりと占めるように
なって久しい。その影響で、ボンネットとトランクルームを持つ3ボックスのセダンは
すっかり影を潜めてしまった。

平凡な5ナンバーセダンがそんなにいかん(イケてない)のかい、と
かつて乗っていたFIAT131のような四角四面のセダンが恋しくなる。
この傾向はどこから始まって何が理由だろうかと、考えてみた。
写真のクレスタ、マーク2系大流行の頃はセダンは売れに売れていた。

ところが昨日亀岡の峠を越え、京都市内に駒を進める頃、1台の白いクルマが
前方を走るのに、目が止まった。何だったけこれは。そうだ日産プレセア、一応名前は
思い出せる。5ナンバーの4ドアハードトップ、これはきれいな後期モデルだ。



それにしても今のクルマと比べると小さい。それなりにスタイルは、まとまっているが
何と小さなクルマに、「美人」のプロポーションを押し付けたものか。
そうやって思い出すと、カリーナED(エレクトリック ディスファンクションでなく、
笑/エキサイティング ドレッシィの略)から始まった、小型4ドアハードトップ
ブームのことを思い出した。

80年代、当時はまだセリカが元気で売れていた。セリカを86レビンより先にFF化した
トヨタは、カムリとビスタの兄弟を四角くして、やたらと室内広さ重視のセダンにして、
残ったカリーナをカムリと分離したものの、位置づけに苦心して、FFの室内を有効活用
せんと、屋根を低くして4ドアハードトップの論法を持ち込んだのである。

トヨタの4ドアハードトップ(センターピラーレスのこと)と言えば、クラウンにも
あったが、主戦場はFRのクレスタ系である。
まだサイドの安全性がうるさくなる前は、5ナンバー枠でも綺麗なセダンはかなり
作られていた。80年代前半のことだ。ローレルもスカイラインもそこそこ見られた。



ところがトヨタのカリーナEDは、一種のセダンの掟を破ってしまった。居住性空間
を犠牲にした4ドアは「どうよ」なのだけど、売れてしまったのである。
だいたいヨーロッパの4ドアセダンと言うのは、室内以上にトランクがバカのように
広い。フィアット131の広さや、初代2代のゴルフ系ジェッタのでかいトランクを
思い出す。

131で当時、お産のお里帰りの荷物一式、ベビーベッドから蒲団に御祝いのプレゼント
など、ごっそり荷物を積んで、実家と新居を往復していたことを、私は鮮明に憶えて
いるし、ヨーロッパのセダンに「やるなあ」と何度も感心したものである。

その前に乗っていたシトロエンBXは、フレンチの5ドア車両で、セダンでもなく、
ハッチバック車と言うには大きい、フランスによく見られる独特の車種である。
それ程不満は無いのであるが、やっぱり荷室と客室が繋がっているのは、ときに便利
なのだが、荷物クルマというイメージが残る。これはフランスが農業国だし、都心で
暮らすパリジェンヌにも農民の血が流れていること感じさせる。

トランク車には、思い出がある。旧い車であるが、PGC10、スカイラインの通称ハコ
が友人の親族実家に残っていた。欲しいと希望していたら、ある日オーナーである人
が倒れられたので、乗っても良いという話になった。
そこで引き取りにいくと、トランクルームの中がオーナーの趣味で釣道具でいっぱい
であった。
釣道具に、海の魚などが積み込まれたトランクと言うのは、かなり臭いが残っている。
趣味の臭いが染み付いたクルマと言うのは、自分一人で乗っているのには構わないが
やはり家族や他人を乗せるなら、客室に臭いが入って来ない方が良い。これが私が
セダンを勧める理由で、ワンボックスなんかに乗れるかと、よく暴言を吐く理由だ。
まあジコチュウなんだろう。けどたしなみはわかっている。

さてカリーナEDのヒットはすぐに他社に影響を与えた。マツダのペルソナ(写真下↓)と
NISSANのプレセアであろう。

私はこうした本来のクルマのあり方を逸脱した工業製品を見ると「小市民的」と批判する。
最近の日本でよく言うところの「ガラパゴス的発達」というのも、これに近い。




それでもペルソナと言うクルマは面白かった。「走る室内空間」と呼ばれ、80年代的
記号論に乗っかったようなところもあったからである。たぶんと、いうか、のちに
ティアナを出す時に念頭にあったのは、「早過ぎたペルソナ」に対抗する意識であろう。

さて低屋根4ドアハードトップブームは、身延線の吊り掛け旧型国電のパンタグラフ
低屋根改造化のように飛び火して、ついにカローラクラス、セレスとスプリンター・
マリノまで出すに至った。
「これは奇形児だ!」と思ったし、150万クラスで4ドアHTと思って買った人は大抵
狭くて後悔していた。これが日本でセダン人気を下げた元凶のひとつ。






もうひとつは、私はランエボに有ると思う。熱血体育会系エボリューシュナルなひと
たちは、「なんで戦犯なんだ、日本車の良さを世界に訴えた国民的英雄に対し!」と
当然怒られるであろう。それを説明したい。

ご存知だと思うが、ランサーは中庸なセダンを世に送り出し、それにハイパーな動力
性能を備えた高性能モデルを設定することで、マーケティングするのが、本筋であった。
お手本となったのはFIAT131であろう。

最初のA73型では、ごく初期に2ドアのGSRモデルが開発が間に合うまでに、4ドア
モデルをチューンして闘ったことがあった。しかし73年後期から77年くらいまで
主戦機は2ドアGSRである。
その後、少し間が開き、2代目ランサーEXは4ドア専用ボディであったため、ランサー
ターボA173からラリーマシンは4ドアオンリーになった。この血脈が92年の初代
エボリューションから受けつがれ、ライバルインプレッサのように2ドア系を持たない
4ドアセダン=WRCというイメージが長年の間に定着してしまった。




ようするに、平凡で地味で、どちらかというと、鈍くさい印象でも実用的で
走らせるとシャンと走る、それが私の思うセダンの理想である。
鈍くさく無いがブルーバードのP510のような理想的なセダンもあった。

ところが日本では、まず「平凡なセダンは売れない」「平凡なセダンは悪である」
みたいな考え方が、どこかにあったのではないか。
スタイリッシュでも実用的なら良い。しかし4ドアハードトップを5ナンバーの
中級以下に持ってきたのは、これは無理があった。

それからスポーティーセダンも、せいぜいツインキャブ時代やAE86の兄弟の
85だったかな、FFのGTというのがありましたが、あのくらいまではよい。
しかし歴代ランサーの場合はエボリューションモデルが売れたものだから
ノーマルモデルが全く霞むようになってしまった。
運転本位のFRセダンを謳ったトヨタのアルテッツアも、結局評価が後になるほど
落ちて行った。これもFR時代のカリーナGTの幻影(3TGーEUTモデルもありました)
などに引きずられていなかったか。

ベーシックモデルを丁寧に作らないと、何のためのスポーツセダンだか、なのである。
だから私は、131ミラフィオーリやプジョー504セダンが判らないのに、131ラリーだ
シムカもベースを知らなくて、1000ラリーだ。ルノーも8ゴルディーニだって、騒ぐ
のは、どうかなあと思う。



日本のセダンが廃れて行った理由の大きな2つは今日書いた次第である。

後はセドグロ系、クラウンなどの大型セダンの考察もしたいので、いずれ続編を
書きたいと思います。

それでは出航してきます。ボンボヤージュ!






Posted at 2012/12/17 12:01:34 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2012年12月15日 イイね!

京都クルマ日和

京都クルマ日和極寒を覚悟していましたが、なんとか穏やかな
冬日の1日を、京都で過ごしてきました。





ロッソロッソ初日のイタリア車パレードランは、
募集では30台でしたが、集まったのは、fiat500
が18台、後は850クーペとランボルギーニの初期の
400GTとシトロエンSMが1台でした。





朝の祇園の横の高台寺に集合して、それから方丈で、
ご祈祷の儀式を受けました。これは中々面白かったです。





パレードは後ろから3台目、500たちが走る後ろから、ついて行きます。





八坂界隈を一周して、もいちど高台寺に戻り、最後は祇園の交差点を
四条通りに出て、南座の角を川端通りに曲がり、七条で博物館方向に
向かってゴールです。








距離はあっけないものですが、このあとは、博物館で開催中の、
フェラーリF1と蘇った古代鏡というエキシビションを見学、
最後はミュージアムレストランで昼食でした。







中心人物のテーブルに、呼んでいただき、ランボルギーニとシトロエン
SMのオーナーらと午後は、クルマ談義して、解散しました。





天気が良くなって、気温も10度に達したので、午後はどうしよう。
しかし、前夜はあまり寝ていません。850の機嫌は良いのですが、
まずは豊國神社の前が広かったので、車の中で仮眠しました。
それから川端通りに出て、北に向かいます。丸太町、今出川、高野を
過ぎ北山まで。ここから北山通りを松ヶ崎に向かった所にある小さな
自動車屋さんを、探しました。

実はここに来るまでに2回移転していますが、このお店がfiat850を
25年前に買ったところなのです。
その頃はヨーロッパ製の、小粋な中古車を10台前後並べて売る、
お洒落で可愛い外車屋さんでした。

今はもうそんな優雅なご商売ではありません。場所も奥地になり
極端に言えばヒト桁万円に近い軽自動車を売って、店を続けています。
別の所でブティックを経営されていた奥さんが6年前の同じ12月14日に
倒れられ一時は廃業し、介護に専念することも覚悟されたそうです。

でも身体の不自由になられた奥さんは、事務所に座られて会話は自由に
出来るまで復活されました。

「40〜50年この商売はしているけど、こんなケチ臭い時代は過去に
ありまへんでしたで」と社長が私に話します。
しかし私が愛車と遊びに来たことを本当に喜んでくれました。

ネアカの声の明るいK社長と、出会わなかったら、僕のカーライフは
全く違っていたでしょう。ここに連れてきてくれたD大学の先輩に
出会わなかったら、京都の私立大に行かなかったら、僕の人生は
全然違った色合いのものになっていただろうと思います。

東京の大学に行き、もしかしたらフェラーリやポルシェを夢見た人生も
送ったかもしれませんが、たまたま京都に8年住んだことが、僕の人生の
基礎や幹になりました。

大昔はバイクのレースをして、それから京都の人脈をつかって西陣の
御寮さんが乗っていたセカンドカーのシムカとか、箱入りもんの車を
仕入れてきて、商売を始めたこの人がいなかったら、僕は「クルマって
面白いなあ」とここまではのめり込まなかったと思うのです。



この日も奥にあるCR−X29万円に気が付き「これなんでんねんの?」
よく見れば鉄ちんホイルの残ったオートマ1.5のワンオーナー5万キロ
ものでした。
「どんな人が乗っとったんやねん」、の爆笑ものですが、こういうのが
あるから、見つけてきてくれる人がいるから、クルマって楽しいと思える
のでは、ないでしょうか。

プレハブの事務所は暖房も効かず、僕は御小用に行きたくなったので店を
あとにしました。
「また必ず京都に来た時は来てや」、真冬の心に灯りがともるような声で
「約束します」と僕は答えました。

優雅な風流な生き方は、年々し難くなっていきますけど、僕は京55ナンバー
の車を都大路で大いばりで走らせながら、まあきょうはこれで、良いことがいくつ
あったのだろうと、幸せを数えていました。



西に帰る道は冬日向。高雄から嵐山までは有料道路のクーポン券が10枚貯まって
いたのを思い出し、日没前のパークウエイに愛車のエキゾーストを、ひときわ
響かせながら、家路を辿って行きました。




Posted at 2012/12/15 04:39:19 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
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