
無事に戻りました。
大阪ー東京、帰りは中央道周りの山梨県経由です。
本格参加を開始したのが1993年のパシフィコ横浜時代以来ですから
もう満20年になりました。
当時、少し前にモーターレビューと言う雑誌があって、神宮の森時代のイベントに
白の850クーペが出場していることを知りました。
同じクルマの情報を求めるために、参加するのが1番だろうと、
1993年の1月、1歳になった長男を連れて初めて横浜ニューグランドホテルに一泊。
ホテルの窓の下を走る850クーペに、嫁と狂喜したのも思い出です。
あの時のニューグランドの1階には、「祝皇太子殿下ご成婚」の記念幕が、張り巡ら
されて、日本はまた、これから景気が良くなると、国民は半分本当に信じていました。
朝食も慌ただしくパシフィコ横浜に駆けつけて、目当てのクルマのオーナーさんに
対面。自己紹介して、私もフィアット850クーペに乗っていますと、ご挨拶。
そこから長いクルマ人生の大事な柱が、1本立ちました。
翌年は絶対出るぞと、エントリーしたものの、風邪で発熱して、自走は断念。
新幹線で二人目の娘も連れて、一家で上京しました。新幹線・グランドひかりの
食堂車で、悔しさの溜飲下げるディナーを摂った記憶が残ります。
あけて1995年、今も残る幻のエントリープレート。
それは12日前に発生した阪神大震災で、借家の我家は、あえ無く半壊し後に全壊の
認定が出る被害に遭いました。参加それどころでなく、避難所で迎えた当日に、
私は何を思ったのか。850が市内でも倒壊の無かったマンション駐車場で無事だったから、
また来年こそ出ようと思ったのでしょう。この時のプレートは代わりに見に行ってくれた
友人が代理で貰ってきてくれた貴重な記念品です。
満を持しての正規デビューは1996年になりました。この時は横浜までクルマを
運送してもらい、家族4人で横浜市街をパレードした記憶があります。でも帰りの
途中でクルマが壊れて、エンジン直結。妻に押し掛けさせながら西宮まで戻りました。
それからエントリーできない年は、たいてい電車で見に行くだけの参加と、年明け
旧正月の定例行事になりました。
とんで98年は、横浜時代の最終回です。日本はバブルが完全に終わり、前年に銀行と
証券会社が枕を並べて破産して、横浜のパシフィコ地区の開発もランドマークタワーに
妻子が上って、絶景を楽しみましたが、私は日本は大変な時代になるのだろうなと予感。
しかし、旧車の世界は、何だか不思議な空気で盛り上がっていました。
当時は土日2日間の開催でした。
2001年、もう小泉内閣時代です。いや発足は森政権が辞任後ですから直前か。
久しぶりにエントリーしたのですが、クルマの整備はずぼらで、ただ4台の旧車に
乗っていただけのつけは、自走して走る土曜日午後の東名で起きました。
まずはセルモーターが故障。それから岡崎付近より降雪が始まり何とか、神奈川県内
まで、同乗者の押し掛けで辿り着いたのですが、藤沢市内は走るのがやっとの積雪量に
なりました。泊まった宿のタワーパーキングから翌朝出すのも大変で、東京の友人が
もう一人駆けつけ銀世界の横浜新道を通り、目黒のカーブで前夜立往生の都内の
自動車群を横目に、レインボーブリッジを凍えながら渡りました。
というのも、右側の窓硝子を支えるワイヤーも切れてしまい、落ちてしまったのです。
寒い会場に着いたのは11時台。この年は本当に大変でしたが、どうやって帰ろうかと
本気で悩みました。一番上のアバルトの写真の横に立っているヤジマさんの所に預ける
ことを検討中している最中に、東京の850乗りの友人が終了直前に現れて
「僕の所に部品がありますよ」「今から僕の家で修理しませんか」
ほんとうに地獄で仏にあった気分でした。
夜の入り口から真冬のガレージで、私の車の下に二人潜り込んで、夜間9時過ぎに
修理は完了しました。その夜も目黒区下馬の彼の家に泊めていただき
丁重に御礼を言って、翌日の朝、東名に乗って関西まで走って帰りました。
雪は静岡あたりで、もう溶けていました。
この時に何事も無かったように、京都から来ていたバークレーの方と、後に知り合い、
魔術を聞くと、徳島港発のフェリーで来ていたということを知りました。
2002年は関西の友人紺の豚氏らと、船旅で3人で来場しました。
帰りの船が結構しけて、下船後もグロッキーでした。徳島の親戚宅で、休んだほどです
2003年も多分フェリーで、2004年までフェリー道中が定例になりました。
しかし船は時間が19時間近く掛かるのと、瀬戸内航路に比べてアメニティーが無く
高価なので、この年が最後になったと思います。
その間何度か来ていると思うのですが、近年は曖昧な参加になっていました。
2009年には一度だけリトモアバルト125で自走して、出場しました。
この時に洋楽さんのオペルをパレードでカーチェイス。しっかり知り合いの女の子を
助手席に乗せましたが。パレードはSP・SRクラブの協力撤退でこの年限りになりました。
前の会社を辞めた後、2010年の参加は、久しぶりの850クーペ自走で、2001年の
時に行きの道中で散々迷惑を掛けた後輩君を、誘って一緒に行きました。クルマを
前もって点検整備して、慎重な参加になったのは、この年からです。
2011年は前年の秋に850クーペのエンジンを溶かしてしまい、久しぶりに車の無い
参加になりました。ただこの年は、みんからのお仲間たちと初対面して、盛り上がり
また、会場でちょうど、「エンジンが直りました」と嬉しい知らせを貰い二重に
喜んだ年です。
そろそろこの20年の回顧記は終わりです。2012年はクラブエントリーを提案しましたが
実現できずに個人で参加。雪の中を走ってイタリア車がテーマ車だったので、勇躍参加
したのですが、一回だけの参加の、物珍しさだけのコレクター車に、プライズは行って
しまい、審査員なんて何も見ていないのだなあと、批判めいたことを書きました。
しかし、今年はクラブスタンドの出場が叶ったことは、20年目の850乗りとの
出会いからの悲願達成だと僕は思います。
私の展示車を、コンテッサクラブの超ベテラン氏が、普通のままで、生活に使われた
感じを残して、いやみなピカピカにするレストア感が無いのは、本当に素晴らしいと
最上級の誉め言葉を、友人に伝えてくれたそうです。それだけで佳しと思いました。
長い間、何の勲章ももらわずに黙々と我家の、一風変わった生活のために走り続けて
くれたこの車に、また来年も乗って、この会場に帰って来ることでしょう。
たくさんの仲間に応援されて、ここまで走って来られ、また明日からの関西での日常に
使われ続ける私の車に、出会えたことを、本当に良かったと思います。
ご愛読、ありがとうございました。