火曜日の夜に、白く凍える六甲を見ながら
神戸まで用事で出かけて来た。
時間があるということは、ヒマであり、最初の頃は焦りもあった。
しかし今のうちに、しておこうということは、結構あるのだと思う。
無料のボランティアめいたことは、ピンからキリまで、予定を入れてみている。
自分の役目とは、人に助言したり、適切なアドバイスを考えて、様々な年齢層の
相談相手になることだと、この頃やっと、役割を見出して来たこともある。
その夜に会ったのは、80代の男性である。この日の相談者は、私の方かも
しれないが、何十年ぶりであろう。
半世紀の昔に、父の部下であり同僚であった人である。
なぜ会おうと思ったのか。
私の父が亡くなったのは、もう20年近く前のことになる。
特に苦労も無く育てられた私は、社会人になり、5年後くらいには結婚し、
翌年一児の父となった。
妻のお腹が臨月になった頃、父が難病で入院し、やがて此れは不治の病だなと
覚悟をするようになった。
お金の面では私が支えることも、支えられることもなかったが、3年の闘病
虚しく他界した。
その後一人暮らしを始めた母の強気が脆いものと分り、精神的に変調を
きたすまでには、5年かからなかった。
初期の認知症からいろんな苦しみや悩みを、子供たちは抱えて来た。
私も姉も、この10年以上少し人生を棒に振ってしまったかも、しれない。
主の無くなった九州の家は、私が保全管理し、母が出てから人に貸せる
までに5年間の九州往復を、くりかえした。
その家を明け渡せるまでに掃除をして、4人のそこに居た家族の思い出や
放置された物たちの、行き場を探すことに、たくさん時間が掛かったのである。
その中の紙切れの中に、懐かしい方の、名前と、九州の住所が書かれた
メモが在った。この人は、昔私が、大学受験で神戸に行った時に、
泊めていただいた人であった。
子供の頃は、我家に遊びに来られる時はいつも、私に鉄道の玩具や、模型など
高価なものを下さった、懐かしい思い出が甦って来た。
と言っても、私が幼稚園までで、贈り主は、まだ独身であったと思われる。
そういう懐かしい甘い思い出というのは、決して悪いものでないし、
ゴミの山を必死になって片付けている最中に、このメモは一瞬置いておこうと
言う気になった。
いつの間にか、そんなものをとっておいたことも、忘れているし
連絡がいつか取れるか。父の様に早世しておれば、何の意味も無いことである。
でも今回、失職してからの閑な時間は、私の孤独感を磨く時間を与えてくれた
ようだ。
九州の家を捨てなかったことは、家賃だけでなく、いくつかの幸福を私にくれた。
秋の終わりに、そのメモが引き出しから、再び出て来て、福岡県豊前市××と
書かれた住所に、「間違っていても、いいか。もしも遺族の方から、手紙が
くれば、丁重に応対する精神的な余裕もあるだろう」と、一筆思い出めいた手紙を、
差し出してみた。
出したことも忘れていた今年の正月に、2通の葉書が返って来た。
1枚は賀状で神戸市須磨区の住所がある。存命であられたのである。
もう1枚は文面に、福岡県の住所は先祖の土地で、私は間違えていたらしい。
宛名はその方の父親の名前であり、阪神大震災の年に亡くなられていたようである。
そして、正月明けから2月半ばまで、九州に戻っておりますと書いてあった。
返信は九州に出さねばならないが、もう用が無いと思った、メモが見つからず
建国記念日の連休明けを待ち、私は遅い返信を書いた。私の方から、電話しますと。
月曜日に連絡がとれ、たまたま予定が開いていたのが火曜日であったので、
「神戸三宮まで出て来てもらえますか」の申し出に、喜んで私は承諾した。
再会した恩人は、81歳になられておられたが、いまも仕事をされているという。
新神戸オリエンタル改め、ANAクラウンズホテルにタクシーを走らせて
談話コーナーでティーとコーヒーを頼む。昭和の終わりに、父の勤めた会社を
退職されてから、新たに会社を作り、いまも3社を経営されていると言う。
「さあ、上に上がりましょう」と急な展開に。私は食事のことまでは
予想をしたので、カステラのお土産を持って行って良かったと思った。
34階まで、シースルーで上がり、席が用意してあった食事場所は
「
なだ万」である。一瞬我が目を疑う。
(この私が来て良いのか!)
しかし、社長でもある男性氏は、ことの他に上機嫌で、「お会いしたかった」
「あなたのお父さんには本当に世話になった。私は上司に恵まれた」という。
九州の、今は他人が借りている家にも、何度か電話をしたともいう。
母と姉の近況を話し、私の今の状況をいうと、お母さんのことは気にし過ぎ
無い方が良いでしょうと諭された。
それよりも、サラリーマン時代に父が「広島に出張を命ず」と言い
行った先は母の実家で、「1日に4回見合いをさせられました」と笑う。
古き良き時代のサラリーマン社会。
宴会部長を自認する男性氏からは、京都や各地の夜の面白い話が飛び出した。
品の良い上級のサラリーマン風景であり、不快な話は飛び出さない。
私も覚悟を決めてお酒を飲む。
窓の下には夕刻の神戸が、暮れ行く時間と共に宝石のように、瞬き出す。
下に見える風景に、見覚えがあるのもあれば、見知らぬものもある。
「あれはなんでしょう」ふたりともわからないので、仲居さんスタッフの
女性にきくと(これがほんとに綺麗なんだよね)、北野クラブの結婚披露宴会場で
「元は浄水場だった」という。ああそうだ、思い出した。
私は携帯電話に入っている愛車の写真を、取り出して、「この車で、
以前
ラリー競技に出て、北野を走り抜けたこともあるのですよ」と数年前の
北野外国人倶楽部のシーンを回想する。
あっという間に時は過ぎて、私はこの男性から、忘れかけていた自分自身の
ルーツや、男の誇りのようなものの、記憶のピースを思い出した。
父は自動車の運転免許証を、生涯持たなかった。
この男性も、免許を取りたいと、さらに上司に相談すると、
「この会社は、運転する方でなく、後ろに乗る人のための会社だ」と反対に
止められて、私も、車は乗らないのですよと笑う。
そう言えば、一番羽振りの良かった頃は、毎朝重役でもない父の送迎に
銀色のデボネアが、我家に横付けされていたことを思い出した。
昔のサラリーマンが、いかに良かったかという、物語なんだろう。
今では想像もできないことだ。しかしこのくらいの気持ちも持たないと、
我らは何のために働き、国家に税金を納め続けているのか。
こんなことも思い出した。私が中学の頃に、連れて行かれた奇妙な会。
壇上に上がった羽織袴や、学ランきたお爺さんたちが気勢を上げる
「寮歌祭」なる不思議な光景に、潔癖感の強かった少年は、軍国主義みたいで
いやだ、と家に帰ってから母に文句をこぼした。
博多まで出かけたその日は、旧制高校を出た者たちだけの、青春を謳歌する
一日だけのシュプレヒコールなのだろう。
疾風怒濤(シュトルム ウント ドランク)、放水シャワーのストーム、
同じ学校の寮を出た同志の、漢たちの奇妙な友情…
本日お会いした方は6期下の、最後の旧制高校卒業であり、同じ
鴻南寮出身で
あることが分った。写真のCDジャケットに写っているのが、卒業生たちだ。
時間は星降る夜の様に過ぎて行き、辞去する時間になった。
この日、私が灯したものは、何であったのだろう。
古き良きアカデミズムなんて言っても、今の世の中ではドン・キホーテである。
再び三宮の横断歩道で、車から降りた私は、上気しているのか、よくわからず。
自分の働き方や、生き方が、これで良かったのか、もう一度考え直す、振り出しの
三角点に戻ったような気がした。
早くに父を亡くしてしまうと、男は一番大事な時期に相談する相手が、妻だけになる。
うちの家内はかなりの女丈夫であるから、私がこんなに気ままに生きているので
あるが、教養主義とは、また別の世界である。
この社長氏のような資産は、出来なかったが、私には、いろんなものが知らずに
受け継がれていたのだなあと、思った。
模型好きや、機械ものに対する好奇心が強いのは、このお会いした人からの
幼い日のプレゼントがあったからに他ならない。
「坊ちゃんが本当に好きだったから」。
この男性も、今は遠くに住まれている40代の息子さんたちも、みんな模型が
好きだそうである。理系も悪くないなあ。
デボネアの後ろに座らさせられて、同級生たちのからかいの中を
下校したこともあった。
酔いが少し冷めて来たら、この日のことは良い思い出として、また次の目標を
考えてみよう。
何と言っても人生、あと30年くらいは、楽しまないと、ソンなのであるから。