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2013年02月25日 イイね!

L700系ミラと3年前を思い起こす

L700系ミラと3年前を思い起こす









カローラFXである。
多分ワンオーナー車だと思われる。
20年ちょっと前のクルマも、ほとんど見なくなった。

これは1987ー92年につくられた2代目モデルであろう。

さてと、前の記事が煮つまって、しまった。

旅するように、すらすらとは、書けない。

何も出来ないので、みんカラを書き始めた頃の2010年の日記を、
読んでみた。

不安定な文章、そんなに遠くない時間なのに限りなく遠いところを
見るような、気分になる。

リトモに乗り、850スパイダーに乗り、到頭ただ同然のミラに
なってしまった。

この後は、あるのだろうか。

Posted at 2013/02/25 15:59:32 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年02月23日 イイね!

Yasuko Agawa She~Senior Dreams from ISUZU Piazza

1981年5月13日(水曜日)発表、6月6日(土曜日)、いすゞ
ピアッツアが発売された。
いすゞと言う会社は、今考えると、良い資産を持っていた企業
だと思う。



今回のテーマである、ピアッツアを発売する直前というのは、
117クーペが残っており、私は阪急梅田駅のアトリウムで見掛ける
度に熱い視線を贈ったものである。

またいすゞには生産中止8年になるが、ベレットの系譜があった。

それは、ユーミンのコバルトアワーに流れる「ベレG伝説」であり、
後継のジェミニにもG180系ツインカムを積むZZが出た時に、普通の
ジェミニと違う短いシフトノブ手応えに「これって、ベレGじゃない
ですか!」(当時大学生)と訊くと、ニヤッと笑うだけで答えるよう
な粋な会社であった。



CMソング「シニア・ドリーム」を歌った阿川泰子と言う女性ジャズ
シンガーの起用も、センスよくはまった。

当時は電通博報堂だけの席巻した時代でなく、それ以外のピンからキリ
までの広告代理店にも、「一つ当てれば」の夢があった。彼女は服部
セイコーが単独スポンサーで放送していた、TBS系の「サウンドインS」
などで、顔と名前を知られるようになりつつあった、存在であった。



この番組は「東京音楽祭」という気宇広大なイベントを70年代にしかけた、
故渡辺正文プロデューサーの、肝煎り番組で、大人のセンスの音楽番組は、
当時でも、これと塩野義の「ミュージックフェアー」(CX系)くらいしか、
無かったが、高校時代に背伸びをしたくて仕方がなかった私は、夜遅くまで
テレビとラジオにかじりついていたものである。




いま、シニアという言葉は残念ながら、こんなCMで肯定的に使える
ような語彙でない。シルバーと同じ意味になり「大人の」はアダルトか。
いやそれもビデオがなくなりDVDになっても、うっかりと使えまい。



当時は、若者と大人の世界に、弁えと区分があり、反対に良い意味での
背伸びや憧れ感が、社会の原動力のひとつになっていた。
“シニア感覚”のクルマに、若い人が憧れるのも、ちょっと奇妙だが、それが
文化。カルチャーでも、「より先に」成長するエネルギーになっていた。

オタクという成長を拒否する芽の伸び方が出て来るのは、後のことだが、
それは、若者の老人化で、成長の時代の終わりであったのかもしれない。



中断したが、ちょうどアメリカはレーガンの時代が来ていた。

いすゞはGMとの提携が軌道に乗り、70年代から続けていたFRジェミニは
ひと時代前の車であったが、逆スラントの顔を全く反対のスラントノーズに改め
延命した。117は先に長いモデルサイクルを終えて、新生ピアッツアにバトンを
託すと言う時代であったのである。




何だか分らないけど、ユーチューブでみつけたジャズっぽいミュージック。
似ているけど阿川泰子でないのはわかる。
デビッド・マシューズ辺りのサウンドでないかと思って見当をつけてみたが
分らない。
この時代であることは確かだが、カセットテープの形状から言うと70年代
ラストの方であろう。



有名な「サングロウ」のジャケ裏写真も見つかった。
ラブバードというのは実質、松岡直也とウイシングだと思う。

それでは、また来週。



Posted at 2013/02/23 07:56:04 | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | その他
2013年02月21日 イイね!

父の遺徳

父の遺徳











火曜日の夜に、白く凍える六甲を見ながら
神戸まで用事で出かけて来た。

時間があるということは、ヒマであり、最初の頃は焦りもあった。
しかし今のうちに、しておこうということは、結構あるのだと思う。

無料のボランティアめいたことは、ピンからキリまで、予定を入れてみている。

自分の役目とは、人に助言したり、適切なアドバイスを考えて、様々な年齢層の
相談相手になることだと、この頃やっと、役割を見出して来たこともある。

その夜に会ったのは、80代の男性である。この日の相談者は、私の方かも
しれないが、何十年ぶりであろう。
半世紀の昔に、父の部下であり同僚であった人である。



なぜ会おうと思ったのか。

私の父が亡くなったのは、もう20年近く前のことになる。
特に苦労も無く育てられた私は、社会人になり、5年後くらいには結婚し、
翌年一児の父となった。

妻のお腹が臨月になった頃、父が難病で入院し、やがて此れは不治の病だなと
覚悟をするようになった。
お金の面では私が支えることも、支えられることもなかったが、3年の闘病
虚しく他界した。

その後一人暮らしを始めた母の強気が脆いものと分り、精神的に変調を
きたすまでには、5年かからなかった。
初期の認知症からいろんな苦しみや悩みを、子供たちは抱えて来た。
私も姉も、この10年以上少し人生を棒に振ってしまったかも、しれない。

主の無くなった九州の家は、私が保全管理し、母が出てから人に貸せる
までに5年間の九州往復を、くりかえした。
その家を明け渡せるまでに掃除をして、4人のそこに居た家族の思い出や
放置された物たちの、行き場を探すことに、たくさん時間が掛かったのである。



その中の紙切れの中に、懐かしい方の、名前と、九州の住所が書かれた
メモが在った。この人は、昔私が、大学受験で神戸に行った時に、
泊めていただいた人であった。
子供の頃は、我家に遊びに来られる時はいつも、私に鉄道の玩具や、模型など
高価なものを下さった、懐かしい思い出が甦って来た。

と言っても、私が幼稚園までで、贈り主は、まだ独身であったと思われる。
そういう懐かしい甘い思い出というのは、決して悪いものでないし、
ゴミの山を必死になって片付けている最中に、このメモは一瞬置いておこうと
言う気になった。

いつの間にか、そんなものをとっておいたことも、忘れているし
連絡がいつか取れるか。父の様に早世しておれば、何の意味も無いことである。
でも今回、失職してからの閑な時間は、私の孤独感を磨く時間を与えてくれた
ようだ。
九州の家を捨てなかったことは、家賃だけでなく、いくつかの幸福を私にくれた。

秋の終わりに、そのメモが引き出しから、再び出て来て、福岡県豊前市××と
書かれた住所に、「間違っていても、いいか。もしも遺族の方から、手紙が
くれば、丁重に応対する精神的な余裕もあるだろう」と、一筆思い出めいた手紙を、
差し出してみた。

出したことも忘れていた今年の正月に、2通の葉書が返って来た。
1枚は賀状で神戸市須磨区の住所がある。存命であられたのである。
もう1枚は文面に、福岡県の住所は先祖の土地で、私は間違えていたらしい。
宛名はその方の父親の名前であり、阪神大震災の年に亡くなられていたようである。
そして、正月明けから2月半ばまで、九州に戻っておりますと書いてあった。

返信は九州に出さねばならないが、もう用が無いと思った、メモが見つからず
建国記念日の連休明けを待ち、私は遅い返信を書いた。私の方から、電話しますと。

月曜日に連絡がとれ、たまたま予定が開いていたのが火曜日であったので、
「神戸三宮まで出て来てもらえますか」の申し出に、喜んで私は承諾した。


再会した恩人は、81歳になられておられたが、いまも仕事をされているという。
新神戸オリエンタル改め、ANAクラウンズホテルにタクシーを走らせて
談話コーナーでティーとコーヒーを頼む。昭和の終わりに、父の勤めた会社を
退職されてから、新たに会社を作り、いまも3社を経営されていると言う。

「さあ、上に上がりましょう」と急な展開に。私は食事のことまでは
予想をしたので、カステラのお土産を持って行って良かったと思った。



34階まで、シースルーで上がり、席が用意してあった食事場所は
なだ万」である。一瞬我が目を疑う。
(この私が来て良いのか!)

しかし、社長でもある男性氏は、ことの他に上機嫌で、「お会いしたかった」
「あなたのお父さんには本当に世話になった。私は上司に恵まれた」という。

九州の、今は他人が借りている家にも、何度か電話をしたともいう。
母と姉の近況を話し、私の今の状況をいうと、お母さんのことは気にし過ぎ
無い方が良いでしょうと諭された。

それよりも、サラリーマン時代に父が「広島に出張を命ず」と言い
行った先は母の実家で、「1日に4回見合いをさせられました」と笑う。
古き良き時代のサラリーマン社会。
宴会部長を自認する男性氏からは、京都や各地の夜の面白い話が飛び出した。

品の良い上級のサラリーマン風景であり、不快な話は飛び出さない。
私も覚悟を決めてお酒を飲む。
窓の下には夕刻の神戸が、暮れ行く時間と共に宝石のように、瞬き出す。

下に見える風景に、見覚えがあるのもあれば、見知らぬものもある。
「あれはなんでしょう」ふたりともわからないので、仲居さんスタッフの
女性にきくと(これがほんとに綺麗なんだよね)、北野クラブの結婚披露宴会場で
「元は浄水場だった」という。ああそうだ、思い出した。

私は携帯電話に入っている愛車の写真を、取り出して、「この車で、
以前ラリー競技に出て、北野を走り抜けたこともあるのですよ」と数年前の
北野外国人倶楽部のシーンを回想する。



あっという間に時は過ぎて、私はこの男性から、忘れかけていた自分自身の
ルーツや、男の誇りのようなものの、記憶のピースを思い出した。

父は自動車の運転免許証を、生涯持たなかった。

この男性も、免許を取りたいと、さらに上司に相談すると、
「この会社は、運転する方でなく、後ろに乗る人のための会社だ」と反対に
止められて、私も、車は乗らないのですよと笑う。

そう言えば、一番羽振りの良かった頃は、毎朝重役でもない父の送迎に
銀色のデボネアが、我家に横付けされていたことを思い出した。



昔のサラリーマンが、いかに良かったかという、物語なんだろう。
今では想像もできないことだ。しかしこのくらいの気持ちも持たないと、
我らは何のために働き、国家に税金を納め続けているのか。

こんなことも思い出した。私が中学の頃に、連れて行かれた奇妙な会。
壇上に上がった羽織袴や、学ランきたお爺さんたちが気勢を上げる
「寮歌祭」なる不思議な光景に、潔癖感の強かった少年は、軍国主義みたいで
いやだ、と家に帰ってから母に文句をこぼした。

博多まで出かけたその日は、旧制高校を出た者たちだけの、青春を謳歌する
一日だけのシュプレヒコールなのだろう。
疾風怒濤(シュトルム ウント ドランク)、放水シャワーのストーム、
同じ学校の寮を出た同志の、漢たちの奇妙な友情…

本日お会いした方は6期下の、最後の旧制高校卒業であり、同じ鴻南寮出身で
あることが分った。写真のCDジャケットに写っているのが、卒業生たちだ。



時間は星降る夜の様に過ぎて行き、辞去する時間になった。

この日、私が灯したものは、何であったのだろう。

古き良きアカデミズムなんて言っても、今の世の中ではドン・キホーテである。
再び三宮の横断歩道で、車から降りた私は、上気しているのか、よくわからず。
自分の働き方や、生き方が、これで良かったのか、もう一度考え直す、振り出しの
三角点に戻ったような気がした。

早くに父を亡くしてしまうと、男は一番大事な時期に相談する相手が、妻だけになる。
うちの家内はかなりの女丈夫であるから、私がこんなに気ままに生きているので
あるが、教養主義とは、また別の世界である。

この社長氏のような資産は、出来なかったが、私には、いろんなものが知らずに
受け継がれていたのだなあと、思った。
模型好きや、機械ものに対する好奇心が強いのは、このお会いした人からの
幼い日のプレゼントがあったからに他ならない。

「坊ちゃんが本当に好きだったから」。
この男性も、今は遠くに住まれている40代の息子さんたちも、みんな模型が
好きだそうである。理系も悪くないなあ。

デボネアの後ろに座らさせられて、同級生たちのからかいの中を
下校したこともあった。
酔いが少し冷めて来たら、この日のことは良い思い出として、また次の目標を
考えてみよう。

何と言っても人生、あと30年くらいは、楽しまないと、ソンなのであるから。


Posted at 2013/02/21 14:54:11 | トラックバック(0) | 思うこと | 日記
2013年02月20日 イイね!

ユーチューブから



ごゆっくり見られてください。
Posted at 2013/02/20 10:20:20 | トラックバック(0) | 昔の記事より | クルマ
2013年02月17日 イイね!

雪・最終回

雪・最終回雪道を行くシリーズを最終回にしよう。

まずは小淵沢旧道の、ほっとさせるような
中古車販売風景。



給油中の愛車。


寒い中ごくろうさま。



この辺は峡北と言うのか。


長野県に入りました。
日本でも高い地方を走る実感。


寒い。でも何と言っても爽やか。


標高1000mくらいか?
真っ白に。


うわー、道から外れたらアウトやな。


このお寺、9年前の旅で立ち寄って休憩しました。
今回は停まると不安なのでパス。


そのうちに路面が出ている部分と雪の上を走る比率が逆転して来出した。
さすがにRRの小兵も限界か。


うわー、ホンマに走っていていいんやろうか。
足ブレーキ厳禁で、2速と3速で進む。


これは冗談。




もう県道で茅野を目ざすのを断念して、左折して諏訪南から高速にしました。

これは雪の途切れた道路に車を停めて、風景シーンを10分程度楽しんだ時の写真です。
1枚上もそう。


雪晴れ、ずっとブルーに塗ったサングラス代用の眼鏡をかけて運転。


雪国、どちらかというとひと昔前の
スキー場のような光景。


今回の旅の写真の中でも、ベストに近いショットは、これと次のモノクロかな。


殆ど気分はヨーロッパ。
古い車に乗って1100キロの旅をする理由とは、私は殆どナルシズムです。
この一瞬のために、生きて来たのだし、車ものり続けているのです。
ご自由にダウンロードして使っていただいていいですよ。
今回の旅は、この一瞬のためにあり。


ああ眩しい。


風はひゅーひゅー、カラマツ林を抜けて。


あとは端折ります。

諏訪湖SA
レンズフードの影、ご愛嬌。


駒ヶ岳


養老を過ぎ、関ヶ原から雪が降り出す。


伊吹SAに辷り込む。
旅はあと少し。100キロ程度。


近江平野で、1月28日の日没に遭遇。今日も長い旅であった。


ご視聴頂きました皆様ありがとうございます。
今回のニューイヤーミーティング2013年の旅も終わりに着きました。
次回のロングランは、お彼岸くらいを考えておりますが、
まだ未定です。
お疲れさんでした。

kotaro 拝

Posted at 2013/02/17 08:15:02 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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