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kotaroのブログ一覧

2013年05月31日 イイね!

日本のクーペ車は、なぜなくなったか

日本のクーペ車は、なぜなくなったか昨日は大阪市内を歩いていた。
京橋近くの片町あたり、OBP大阪ビジネスパーク
に近い新しい街なので、クルマもイイのが走っている。
白のアウディA5カブリオレ、幌の色違いを2台見た。

大阪と言うとセンスの飛び抜けた人が、いないと
思われている街だが、そこそこの階層は結構住んでいる。

アウディは四国の地方都市、高松あたりでも多く、完全に
プレミアム層が定着している。

あとベンツのCLKもよく見かける。大げさでない小金持ちの人
たちは、こういった小型のベンツクーペに人気がある。あの
ドイツ語でコムプレッサーとエンブレムで書かれたモデルのひとつ前、
プロポーション的に車輪が大きく見え過ぎる初代のSLKあたりから、
ベンツは小型のクーペに力を入れはじめた。
最初は独り勝ちのロードスター対抗馬のひとつだった。

あの頃は、ライバルは星の数だけあり、フィアットのバルケッタ、
ローバーのMGF、ポルシェのボクスター、そしてアウディTTが
少し遅れて参戦した。
アウディがコンパクトプレミアムの世界を確立したのは、TTから
だったので、この車の出現の意義は大きい。

そうやって、前世紀の終わり頃から14年経ち、今の日本を見ていくと、
国産スポーツクーペが全滅したことに気がつく。
マツダロードスターとフェアレディZが残っていると言っても、売れて
いるのは、外国車である。一体どうしてこうなったのであろう。

私は日本のクルマが、ピークを過ぎて廃れはじめていることを
感じている。
遊びクルマが無いと言うのは、日本社会の精神構造が、かなり
危なっかしい方向に、傾いていることの現れではないか。





日本のクーペの歴史の中には、良いデザインのものも、いっぱい
あった。古いが、117クーペのデザインは良かったと思うし、それの
殻を破ろうとピアッツァを出したいすゞの決断は、会社の寿命を
20年伸ばしたと思う。


確かに日本のクーペのデザインは中途半端なものが多くて、
今で言う“ガラパゴス”的なクルマが多かった。国際舞台で通じない
デザインとスペック。



僕は最終のプレリュードのデザインは、すごく通好みで良いと思う。
しかし90年代のひとつ前のデザインは、変なクルマと思った。



プレリュードは、初代が心に残る。2代目からしばらくは、時代に
迎合したトレンドが続く。




トヨタというところは、日本の最大公約数なので、垢抜けたクルマは
初代セリカのクーペとか、数が少ないのだが、例えばサイノスとか
今でも出す必要があったのだろうかという、疑問符の残る車もある。
あれはワンオンリーだが、カレンとか、カリーナEDの派生車種、
コロナにもあったと思う。





最終型セリカのデザインに関しては、アルピーヌA110へのオマージュが
あるとよく言われる。好き嫌いの分かれるデザインだが、この車の
挑戦を最後に、日本のインダストリアルデザイナーは、諦めたのでは
ないか。日本市場では退屈な車しか売れないと。


そうやって考えると、二つの理由があって、一つは、バブルの時に日本
市場には外国製の本物のデザインがいっぱい入って来て、それまでの
間に合わせ的なデザインの、日本国内でしか通用しなかった中途半端な
スポーティーカーが退場させられた。


もう一つが、日本社会の中に漂う、あきらめ感である。
日本は世界一物質的に豊かになったのに、ひとつも幸福感が無い。
物質的に豊かになればなるほど、日本人は苦しくなって
とうとう大量の自殺者を出しても、平気な国に成り下がってしまった。

この国に、もう夢など無いと。


というセンテンスの展開では、ここ(みんカラ)には相応しくないと
思う方も居るだろう。

それにしても日本のクーペはなぜなくなったのか。

私のように、初代ランサー2ドア、セリカリフトバック2000GT、
そしてフィアット850クーペと30数年クーペ一徹な人間も
世の中には、いるのであるが、これぞ絶滅危惧以上に貴重な
人間が吐く意見なので、聴いてもらおう。


僕は1993年頃からタイやインドネシアに、よく出張にいった。
向こうの国には、60年代から80年代の、フィアットやプジョーが
いっぱい走っていて、ぼくは眼が点になるほど嬉しかった。

国外への出国は、学生時代とかには、しなかったので、新鮮だった
こともある。それと当時のアジアは、日本の高度経済成長期に似て
近代化を急ぐ準備に入ったところで、バンコクにも高速道路も
地下鉄も無かった。
そしてそこにあったのは、セダンとトラックばかりの60年代の日本の
ような風景であった。

アジアで遊びクルマやリムジンがあったのは返還前の香港のみ。
あとマカオは遊びクルマが多かった。
これを皆さん、どう思います?


僕は自転車も好きなので、70年代に買ってもらったプジョーの
スポーツサイクルを、修理しながら今も持っている。そのころに
日本の自転車の世界に、いつくらいからスポーツサイクルが
現れたのか、調べてみた。おそらく一般人がドロップハンドルと
変速機付きの自転車に乗るようになったのは60年以降だ。


競輪と言う競技が現れて、各地に競輪場が出来たことから
いまでも尼崎とか、そういった町にプロショップがある。
小倉には無くて、門司のプロショップに自転車の部品を買いに
行ってたのである。高校時代は。

ところでフランスやイタリアは、1950年代の戦後すぐにも
スポーツサイクルの歴史がある。おそらくそれは、日本人の知らない
長い歴史がヨーロッパにはそれぞれあって、今に続いているのである。


僕は遊びや趣味は人間の幸福を支える部品の一つだと思う。
急激に経済成長し、ピークを迎え、なだらかに下がって行った日本経済が
かなりの速度でいま、失速し始めたと思っている。

その先の恐ろしさにいま、日本中が怯えているのだと思う。

クーペが無くなったといっても、外国産は走っているじゃないか、
という説明は出来る。ただ日本人が日本の車で具現できなくなったこと。
例えばデジカメに全部移行してあれだけあった国産のハイクラスなカメラ、
ニコンFシリーズとかキヤノンF1とかマミヤやブロニカなどがすっかり
消えてしまったカメラ店の店頭。

これをどう思ったらいいのだろう。

伝統と言う国富の考え方を知らないだけだとしたら、これは恐い。

贅沢は素敵だと、よく僕は冗談を言うのだが、一億ユニクロマクドナルドで
日本人は豊かだと、幸せだと、思っているのは間違っていて、ほんとうは
騙されているだけではないのだろうか。


国産でも、こんな高級なクーペが今も作られていて、それを支持する層が
この国にはちゃんとあります。僕は外国人にそう説明したいだけである。

しかしそれは不可能になり遠くなったと思うばかりの2013年の現実である。









Posted at 2013/05/31 10:33:35 | トラックバック(0) | 街角の目撃車 | クルマ
2013年05月30日 イイね!

こんな夜更けに

こんな夜更けに近畿地方は梅雨に入った。
エアコンの無い老朽家屋に住む私には、
これから暑い夏を迎えることになる。

表に呼び鈴も付いていない古い家を夕方出ようとすると
木製の引き戸の隙間に手紙が挟まれていたのに気が付いた。

書いた人の名前を見て少し驚いた。
半年前までしていた仕事で、担当した人である。

私のしていた仕事は、特殊な仕事なので、あまり語れないが
電話をかけてみた。
すると、その人と関わりの深い障害者の方が、5月の連休中に
急逝されたらしい。
その亡くなられた方も、私の担当で、大変生きることが難しい
状態の中で、二人が支え合ったり、憎しみあったりして
毎日を過ごしていた。

カルマとか輪廻なんて簡単に信じないが、人びとはもつれ合っていきている。
僕が持っていたいくつものケースの中で、ウルトラヘビーなケースの
一つであった。

僕は普通の公務員がやらないような所まで踏み込んで重い仕事を
やっていた。それで給料はたったの10数万である。
更新も出来ずに、使い捨てになり、さらさらという気分もあったが、
これだけ感謝されていたのなら、臨時ケースワーカー冥利に
尽きるなあと、きょうは思った。

さて、かなり気持ちが整理できて来た。
やっぱり乗りたいクルマを探してみようと言う気持ちになってきた。
他薦、推薦色々あるが、きょうは久しぶりにグーネットと、
カーセンサーネットに、ヤフオクを叩いてみた。

Y10の初期の1000ccなどないかなあと思っていたら、無かったが
こんなクルマを見つけた。



何か良さそうな気がする。



もう、これ見よがしの、輸入車に乗るのは卒業したい。



今のボクの気持ちに近いのは、希少価値を追い求めるより
後から「判って」くれるクルマでは、ないのか。



稀少のテンロク。あえてノーマルキャブの、それもオートマ。

井手さんの所で、手を出しかけて、敢えなく昇天させてしまった罪滅ぼしに
多少値が張っても、ほんとうに乗りたい気持ちがわいて来たら、これに行っても
良いのではないかと思う。

さあ、フィアットフェスタの道中で行くか。それとも。


Posted at 2013/05/30 01:11:11 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2013年05月28日 イイね!

耕三寺、瀬戸田から大三島へ

耕三寺、瀬戸田から大三島へこの齢になって、なんで旅から旅を続けるかというと
腰が据わった人生が描けないのと、人間50年以上も
生きていると、そろそろくたばることが近くなり、死に場所を
探すことが最後の目標のように思えてくる。

実は、しまなみ海道の旅は、開通した1999年の5月に、
当地を舞台に繰り広げられたクラシックカーラリーに家族
5人でエントリーしている。
さらにその4年前の95年7月に、いくつかの島を巡る物語
を、描いたことがあった。

そのことについては筆に興が乗れば書いてみても良いと思う。


生口島の瀬戸田は、古い港である。前々回に来た時は
フィアット850であったが、この時には耕三寺に参拝するのは
参道そばに車を有料で停めた。
そして、この古い港の付近で昼食を一家で摂った記憶が残っている。



今でも港は残っているが、橋が架かる前の様に賑わっておらず、
狭い道は拡幅されて、余計、時空間が広がってしまったように思われる。



ところがご覧の様に、港の常夜灯であった灯廊横の、古い土蔵の脇から
耕三寺前までに、なんとも懐かしい、参詣用の土産物屋小路が続いていて、
今も残っているのである。これには前回全く気が付かなかった。



猫も居る。このオブジェの様にじっと動かない濃い茶の猫は、港通り商店街に
生まれて、この地で子供を産み育てて、一生を終えるのだろう。



18年前に初めてこの島に来た時には、僕は35才であった。その頃には
子供の数は2人。その後もう1人生まれて3人の子供を育てた。
これから18年後には僕は生きていないかもしれない。猫の人生も僕の
人生も、あまり変わらないと、思う。



いい感じの町並みと路地が続く。



耕三寺まで「徒歩7分」と書かれていたが、のんびり写真を撮りながらなので
実際は倍以上掛かったが、こんなぶらり歩きは実に悪くない。



とくにレトロを強調するでも無く、殆ど手つかずの昭和な風景にすっかり
魅了されていた。




居抜きで使ったらそのまんま映画のセットにも使えそうな元スナックのお店たち。





和風キッチュ趣味の耕三寺については、多くは説明しない。

ここは戦前に事業で成功した人物が、お金を使って母親の生まれた故郷に
最初、豪華な家を造り、亡くなった後はその周囲に、次々と神社仏閣を模した
建造物を、供養の為に取り付かれたように作ったと言われている。

昭和一桁から、戦中を挟んで戦後の平和が戻ると、さらに拍車がかかり、20年代
いっぱいに手掛けられて、30年代には瀬戸内の新しい観光名所になった。



その男の物語が偉人伝化されていない所が良い。



戦後の瀬戸内海は、一時憧れの旅行コースになり、人気を博した。

壷井栄の二十四の瞳も、同じ時代に小豆島を全国区の人気観光地にプロデュース
した。耕三寺と同じ動機だというと叱られそうだが、戦争中は呉の海軍機密地帯を
抱えたこの「地中海」は、自由の海ではなかったのである。



だから、戦後が来ると、明るい風光の瀬戸内海に、まだ海外旅行は夢の夢であり、
民衆は憧れ、自由と根明かな風景に熱狂して、支持をしたのである。

耕三寺の狙った親子の慈愛と極楽往生は、たくさんの人が戦死した日本の国土に
レクイエムとして、共感を呼んだのじゃなかろうかと、オイラは思うのである。



ただ歴史建造物として、イミテーションみたいな物の上に、独自の宗教観で
トッピングしたデコレーションが施されており、これはタイガーバーム庭園に近い。



ところが、このイミテーションも、もう時代がそこそこ古くなって来たので、
これからは積極的評価を、加えるべきかの段階になって来た。



今回の耕三寺訪問は、純粋なお寺ではないから、僕のような頭から考えとろう
とする者には、抵抗が無いでもない。TDLやUSJが大の苦手な僕には、
テーマパークは社会性必然が無いので苦手なのだが、ここは18年ぶりに来て
共栄という宇宙観や引力を感じた。

とくに平山郁夫美術館を横に呼び寄せたのは、耕三寺の特AでなくBな感覚と
呼応するものがあったのでは、ないか。平山も京都なら100年後も悪く言われる
かもしれないが、生口島なら言われまい。

それから今回、初めて入って感動したのが、この潮聲閣という和風数寄の
建築である。



ここは正に耕三寺建立者が、母親の為に昭和初期に贅を尽くして建てた、
和風建築の逸品である。この建物には、ため息が出た。池田にある電鉄王
小林一三の邸宅と、同じ時期だが、こんな島の中に在るが、金のかけようが
遥かに上なのである。迷いが無いと言うのは、ほんとうに贅沢で良い。



私はこれは見ていて気持ちが良かった。それと今回の旅は母の介護問題である。

両家がちょっとでも贅沢をすると、生意気だとか、いろんな礫が飛んで来るので
私は出家したような人生を選んだ。

間違っていたのではないか。私に金があればぐうの音も出せずに解決できた
問題だったのかもと、貧乏を選んだことを恥じた。ここに偶然これたことは
結果的に良かったと思う。耕三寺を作った人の名は金本耕三と言い、やっぱり
金の力で親孝行できたのである。皮肉だが私は親孝行の道を直球で受け止め
られなかったのである。


さあ、道を急ごう。参詣道中でお昼ご飯のチキンや串カツ類を買い、ご飯も
買ったので、どこか雄大な風景の下で食べたい。
島を巡る途中でこういう廃車体群も見つけてしまった。



こんな所まで、ダイハツも来ているんだなあと、ミラの男は思う。



これはポーターのバンですね。



これはレモンの実っている所。生口島はレモンの島で、この時期は島全体が
甘い香りに包まれており、ヤニ臭い中古のミラもずっと窓全開で走ったから、
少しは脱臭できたかしら。



美しい花を付けた大きな木が海沿いに生えていた。これは何の樹だろう。



車は再び橋を渡って、大三島に入ります。

ここは変わっていた所もあったが、1995年と、しまなみ全通の99年を知って
いるので、その時の観光地化は落ち着いた感も取り戻している。
海沿いのやたら広い駐車場区画で、車を海の側に停めてお昼にする。

食べ終わったら昼寝をせずに、大三島神社の参拝に真っ直ぐ向かう。



宮浦と言う地名の所が、大山祇神社のある場所である。駐車スペースは道の駅に
なっており、神社真横の一等地の駐車できる所は昔からある土産物屋が、「無料で」
停められますと書いてあるが、さすがに私も道の駅に停め直して歩くことにした。



やっぱりクスの御神木が綺麗だ。



この時期の緑は、モノクロでフィルターをかけて撮ると、かげろひ立つ
ように写る。それが好きでずっとモノクロで新緑を撮るのだが、今回はたくさん
写真に納めることができた。



社殿の敷地に足を進める。ここの宮代に入るのは2度目であるが、橋が架かる
までは、絶海の孤島の祕殿に参るような心持ちがしていた。



それが便利になったということは、飽きられてしまうことに繋がり、神通力を
弱めてしまうことになるかもしれない。
畏れ多いことを言うのではなく、島の持つ神秘性が1000年以上崇め奉られて来た
最大の理由であったからである。



初めてここに来た1995年には、いくつもの島を渡って、船も何度か乗り継ぎ、
辿り着いた大山祇神社の社殿に有り難みを感じたのである。橋続きで観光バスで
来られるのも良いが、私は道の駅の出来た1999年にはここで「たらの芽」を
買ったことを、思い出した。ラリーの途中にである。



でもこの社の中には面白い時空間への入り口があるように思える。
ミシマの三が、神社の御印と言うのも面白いと思う。



現代の巫女さん宮司関係者らが出入りの酒店とお神酒のことで話している。
今は平成だが、昔の人たちも同じことを打ち合わせたのだろうか。



参道を出てお宮をあとにする。
扁額鳥居の文字が、最近の建立は島出身の書家、村上三島の手になる
ものと気付く。その手前の鳥居の文字は伊藤博文だから、村上も並ぶと
知りさぞかし緊張したのではないか。ラリーの時はまだ存命で、参加者は
特別に書を貰い受けることが、チェックポイントで出来た。

私は忘れてたのでもらい損ねたが、元々能書でないので、もらっていても
猫に小判であっただろう。



お宮を出てここの地名の由来になる宮浦港に行ってみる。
昼下がりの港は定期航路もうんと減り、手持ち無沙汰に改修されて綺麗に
なり過ぎていた。



この浜から大山祇神宮まで歩いて半町。港の横に地元のバス会社の大きな
基地が有り、すぐ前の方に大三島役場も郵便局もある。

義経や尊氏が歩いたこの道が、殆ど省みられなくなった現実に、
私は橋が架かったことの衝撃を受け、長い間港に停めたクルマの中で、
歴史の重さを軽くしてしまった近代という救いようの無い潮の流れに、
いつまでも考え込んでしまっていた。

この項ひとまず終わります。

Posted at 2013/05/28 00:02:00 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年05月27日 イイね!

ビー・ダップ・ハイスクール

くそぉーまた遅刻しちまったゼ。
遅れて信貴生駒の野外授業に駆けつけた。

本来校長先生の愛車、4人乗りフェラーリを見送る会になるはずだった。
それが事情により1転2転して、今日の開催目的は、マンモスうれぴー
ジャガーサルーンのお披露目会?ですか。

劣等生は遅刻して山上(参上)するのが常だけど、
今日はなぜか午後の集まりで、気を緩めていたら、しっかり3時を回って
4時近くになったいた。

今日の参加者は、級長のT3氏とダップさん、よし丸くん、蘭陵王氏、
そのほかピアッツアのS氏ほか、優等生ばかりでない面々であったらしい。

よし丸くんの新兵器にルノーの面白クルマには、びっくりしちまったぜ。
ダップくんの軽ナンバー、4人乗りにもいたく感心。

それにしても、なんちゅう名前や。ビボップ?ビバップと言えば、これ
やないか。



よしまる君の奥さんをヒロインにして、キャスチングすると。

校長=紺の豚
学級委員=ターミネーター3
生徒A=よしまる
女子生徒B=よしまる氏奥さん

変わった生徒C=ムルティプラの狼

不良番長=、、どっかいないか。あ、いた。
やっぱり、いつもチョーランみたいなカッコの似合いそうな蘭陵王。
しかしあのロンゲは武田鉄矢か由井正雪みたいだが。
私も新任教師の役で、ちょい役させてもらいますわ。

脇役募集中。
ステルヴィオさんにも出てもらおう。
2CVのいくちゃんにも、番長の手下で、パシリ役を当然。
なんで番長に浮いた噂が無いンやぁ〜。

それでは、また来週!!!

Posted at 2013/05/27 00:09:38 | トラックバック(0) | クルマ與太話千夜一夜 | その他
2013年05月26日 イイね!

尾道から向島、因島へ

尾道から向島、因島へ夜明けと共に船が動き出したので
5時半に宿を発つことに致しました。
瀬渡し航路の旅から3日目は始まります。






AM5:45出航しました。船内には私一人と1台だけ。

対岸の千光寺側を船内から見返ります。



向島の船着き場付近には、こういった趣きのある建物が健在でした。



朝もまだ6時前くらいです。夏の夜明けに近く、早くから明るいので
島内を適当に走って海岸に出ることにしました。

これが2013年5月23日の夜明け、尾道にて。
ミラと夜明けの海の組み合わせは、島原以来でしょうか。




足元の砂浜はご覧のような貝殻の浜です。
こんな綺麗な浜は初めて見ました。





この島内の小さな港から、さらに小さな島への航路が出ています。
別に気が遠くなるようなものでもありませんが、旅ってそういう
不便な物を訪ねることなのでしょう。





歌という風流な港に流れ着くらしい。



反対にこの小さな港に上陸すると、この高速有料道路の
雄大な気分にさせる看板が目に着くのです。
ラ・ストラーダ。これぞ「大いなる道」の旅の始まりを意味している。
旅へのいざないって、こういうものに惹かれるのでしょうね。
碧空に聳えます。



古い港で佇んでいるうちに、夜が完全に明けて朝の光が強くなりました。



犬を連れた散歩の婦人と、朝早くから野良仕事の奥さんと
犬の会話で港の前では盛り上がっています。



すぐに有料に乗ってしまうのは勿体ないので、もう少し島内を探検する
ことにしました。
古い社の綺麗な新緑が目に止まりました。



これは絵馬ですが、海上を並んで走る何艘もの古い形の和船が描かれているのが
興味深い。



この社の名前は、津部田の五鳥神社というらしい。
祀っているのは住吉宮、盛大なお祭りも開かれる島の鎮守のようだ。
http://blog.livedoor.jp/takasamurai1209/archives/51553591.html






見事な新緑の大楠をもう一度。
先週はオークス。カンケイナイカ。



地図を見ると、島の西岸には、岩子島という島が並んでいて、橋が架けられています。
こんな機会だからということで、向島から岩子島にも渡ってみました。



何だか平たい島です。農業の島と言った感じ。




でもこういうものにも、目が止まります。巻き上げ網の下に落ちていたイカの甲羅。
あーイカ食いてえ。



車で走り去りかけて、こういう建物にも気になって、停めて調べてみました。
少し山かげに発見した謎の木造建て家。
農業倉庫とは少し違うようです。



何だろうと裏側に回ってみると、こちらにあった入り口には、このような鉄柵が。

昔の牛小屋だったのだろうか。しかしこの模造ガン、それも大型のマシンガン
みたいなものはナニ? ぜったいゴッコプレイしたな、ここでキット(爆)。



“牛小屋”から戻る途中、野壷を発見しました。昔の肥だめ。
よく子供がハマって命を落としたもんです、ハイ。



カラスノエンドウの一種、これは大きくて綺麗なマメ科の花です。



再び向島に戻り、因島を目指すことにしました。その前にこんな風景に
目が止まります。昔のタバコ屋健在。僕らは自動販売機とコンビニの普及で
タバコ屋さんに買いに行くという些細なお使いなどのコミュニケーションも
3—40年くらい前に無くしてしまったのかなあ。
池田の駅前にも、前回の大幅値上げ前までには、古風なタバコ屋さんが居て
お婆さんが囲炉裏こたつに座って、何十年と売っていたんだけれど、廃業して
さらに建物も昨年解体して更地になりました。ここはまだ裏の民家の店舗部として
生きているようです。



これは何でしょう。よく伸びた木陰の後ろに回って見えにくいですがいい感じの
建物。



扉窓部に顔を付けて中をのぞいて、にっこり。何と懐かしい小学校の講堂が
ここには残っていたのでした。私もこういう所で入学式をしたなあ。



西瀬戸自動車道路に戻り、因島に渡ります。橋だけ通って550円。

因島に渡ると一段と植物の花の香が強くなってきました。これがその正体。
今の季節は柑橘系の花が、一斉に実を付けるための開花と甘い香りで
受粉のために昆虫たちを呼び寄せているのです。



こんな花も咲いていました。熱帯植物系の何でしたっけ。何十年に一回しか
咲かない花で、この花が咲くと竹の花のように、その年は天変地異があるんじゃ
なかったっけ?



因島には水軍城の跡が残っていますが、朝の時間なので、その手前にある戦の為の
砦のような中世以来の佇まいのある寺に入ってみることにしました。



裏山が墓所の段々畑にずーっと上の方までなっていて、上がる度に眺望が良くなって行きます。



これは古い、宝篋印塔なので、江戸より前から、この場所にあったのか、
他所から移したのか、非常に古い形式の墓石です、しかもかなり大きい。



一番高い所からの眺め。



道を挟んだ高い山の中腹にも寺の甍らしきものが見えて、下の道を往来する者を見張って
います。

その厳めしさに、この島の特殊な性質が見えるような気がしました。
でも道路脇でこんな種や苗を売る店を見掛けると、平和な時代は良いなあと感じました。



Posted at 2013/05/26 05:37:17 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ

プロフィール

「変わり行く年に〜2025〜 http://cvw.jp/b/176891/48571345/
何シテル?   07/30 07:43
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
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2020/04/01 18:15:22
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2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
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