
ウミガメのふるさとに別れを告げて
再び850を走らせ出す。
最後のシーンは浜木綿と、私のあとから
やって来たカップル。
こちらが目で挨拶したのに、返さなかったので、
当然イイ話は教えて上げない(笑)。
国道260に浜島の先からなるのだが、国道の一部は海の上を通り、志摩半島の
先端から渡って来るのである。
浜島町から旧南勢町までの区間は、入り組んだ入り江に沿った大変カーブの
多い難航ルートであったが、今はトンネルが多数掘られ、あっけなく通過する。
真昼の夢のようなドライブを続けているうちに、はや、昼時になった。
クルマのガソリンをこまめに補給して、東宮と言う地名のトンネルの
手前にある、豆賀太という和風の店を見つけたので自動車の速度を緩める。
クルマを停めた途端に携帯電話に、住居町の用事を頼んでいた人から
打合せの電話が入る。こんな所でオンビジネスな話も、あとで良かったのだが
とってしまったから、5分近く話す羽目になる。その間、店に入れず
開け放った店の人は、怪訝な気分であっただろう。
お昼は、まだ魚類が食べたかったので、カツオのタタキにした。
そこからしばらく車を走らせていると、こんな風景に遭遇した。
まずここは、旧南島町の、村山と言った地区で、紀勢本線の鉄道が海沿いに
出て来るのは、紀伊長島付近からで、本来は鉄道と全く縁の無い、海岸線の
風景なのである。
しかしここに、かつては貨物専用の鉱山鉄道があったのである。
昭和44年版の朝日新聞社「世界の鉄道」電気機関車特集にも載っているが
大阪セメント三重工場の専用線であったのである。
筆者は実は昭和60年7月に、この場所を探訪している。朧げな知識は
あったが、大学の先輩が新型ファミリア(FF2代目)XGの5ドア5速を
買った際に、あちこち遠出をしたいものだから、こんな近畿の裏側まで
連れ回されたことがある。流石に当時でも「こんな所に線路が!」と
腰を抜かした。あれから28年。
26才目前だった私も、今年の今月29日に54才になる。元気なうちに
28年ぶりの志摩半島裏側の旅が出来て良かったと、思う。
もう鉄道は廃止になり、ベルトコンベヤーで石灰石の砕石は、港まで数キロ
運ばれているようである。
この浮世離れした、鉱山の鉄道は、終わった幻であるが、鉱山は現役で
あるので、立ち入るのは気を配って欲しいと思う。たまたま昼休みで
ダンプなども稼働してなかったので、少し写真を撮り、すぐに引き返した。
最近は、サイトとかに「廃墟」とか、「秘境」といったものが、直ぐに
投載される。
僕らの頃は、知っている人しか知らない情報が、世の中の水面下に、ものすごく
あったと思う。
危険なことは、体で察知して、やって良いか悪いかは、自分の経験と
世の中の常識で判断する。僕も若い頃にある場所で不審尋問されたことがある。
そこは建設数年で放置された別荘地であった。それも交通の不便な所ではない。
たぶん、何かがあり、公に出来ないエリアなんだろう。
余計な話になったが、僕は牧歌的な旅ばかりしているのではない。
国道をそのまま走っていると、“イタい”ものを見つけてしまった。
騙し画オブジェだが、事故で廃車になったフィアットパンダ143の
後部なのだろう。えいっ。
付近は南紀と言うより熊野の山々が近く、緑の勢いに圧倒される。
紀伊長島まであと峠一つだ。
紀伊長島に着いた。南紀の特急停車駅の風格ある広い構内。
駅の一時駐車場で、プジョー1004を見かけたので、隣が空いており
並べて停めてみる。2004年のパリオートモビルで、一番早く実車を見て以来
結構惹かれる小型車である。
駅舎は平凡な建物だが、夏でも注連縄が懸けられており、それも「笑う門」と
あるのには、目を細めてしまう。ここいらは伊勢神宮の神聖エリアであっても
少し楽しい。
駅前の食堂。「さんまずし」500円と書いてある。
新鮮な青魚の棒寿司が名物なのは、海南あたりから田辺、新宮とずっと紀勢線
エリアの特徴だ。
ここでも注連縄が懸けてあった。人気の無い引き戸を開けて、サンマ寿司を土産に
買おうと思ったら、売り切れであった。ちょうど遅い昼飯を一人でのんびり
食べていたおばちゃんが、ほんとうに済まなさそうに謝られたのには、こちらが
申し訳なく思ったほどである。
午後の2時を回り、灼け着くような南近畿の昼下がり。おばちゃんの冷やしうどん
らしきぶっかけを、掻き込むのを見てほんとうに、旨そうに見える暑い午後だった。
緩さがたまらない、紀伊長島の駅前風景。くどい商売っけもない、こんな駅前で
一泊したいなあ。もうそろそろ、帰ることばかり考えている自分に気が付いた。
旅情溢れる紀伊長島駅の、構内をトイレを借りたついでに写す。
これだけ風格のある非電化の幹線の駅風景も、21世紀の今では、かなり
貴重な鉄道遺産では無いだろうか。
紀勢本線は、昭和36年頃に尾鷲と熊野の間の難所が開通して、半島周回の鉄道が
全通した。間もなく特急「くろしお」が走り出し、南国ムードあふれる車窓に
新婚旅行客の人気を集めたこともある。
この最奥部の区間は特急含めて1時間に1本上り下りがあるのだろうか。
それだけに、この風景と旅情は、忘れられないシーンとなる。
紀伊長島から、淡々と国道42号線を走る。
昨日から走っている国道だが、渥美半島から鳥羽に渡り、熊野紀州を
ぐるりと一周して、和歌山に至る、グランドロードなのである。
しかし山間部中心のこの区間は、山の区間に入ると平均ペースが、ガラリと落ちる。
地元優先とはいえ、喘ぎながら登るトラックを追い越す区間も少なく、1台
抜いた所で、すぐにその前の遅いクルマに追い付く。
このあたりは、やがてハイウェイが出来ると思うが、それでも紀勢本線の特急
のペースの方が、格段に早い。紀伊長島ー尾鷲−熊野ー新宮を、1時間
ちょっとで駆け抜ける。
自動車だと尾鷲まで下手をすると30分以上かかるのでうんざりする。
やっと尾鷲に着いた。ここから奈良の北山に抜ける国道に向かうと、不通区間
の看板が出ていたので、またコースを変更して、熊野まで行き、そこから北上の
ルートを取ることにした。
尾鷲から熊野方面への高速道路が部分開通していたので、選択する。
運転に焦りは禁物であるが、案の定、途中までしか開通しておらず、紀勢本線の
三木里という海沿いの町で、下ろされる。ここから311号線を海に沿って隣の
賀田まで走り、そこから右折して、本来走るべきであった42号線の矢の川峠
方面に駆け上がる。
矢の川トンネルの出口付近で42号と再び合流。トンネルを抜けて熊野市に
入り、道の駅で再び休憩に入った。
見上げる山々の聳える巨木たち。日本で一年に一番降雨量が多いのが、尾鷲
熊野と呼ばれる。その雨は、杉などの針葉樹を、巨大に育て上げて、この辺り
一帯を、木材の集散地として有名にした。
漁業以上の富をもたらせたのが、熊野信仰の始まりなのかもしれない。
休憩中に、私の車に気付いて、プリウスから下りて来た男性が、質問する。
トリノにいたことがあり、フィアットは懐かしいと話す。
私は疲れていなければ、もう少し愛想よく応対出来たのに、少し無口に
なっていた。
道の駅で思い切った小休止を取り、地図を確認すると、この先で右に曲がる
309号線で、下北山村に向かえることが判った。
分岐して遅いトラックをまた追い抜く。交通量は少ないが限界より大きなトラックが
山中を走るのは、仕方ないことなのだろうか。
突然見つけたピックアップトラックは、多分パブリカだ。私の車に近い40年選手
だろうが、降雪や融雪剤の多い、山間部で、奇跡のような錆の少ないコンデ
ションを保っている。
169号線と合流。ダムサイトで車を停めて、静かな時間を眺める。
山あいに近年多いものはダム湖である。そしてダムに沈んだ道に代わり
当然トンネルが増えるのだが、この辺りのは、素堀に近い荒々しいもので
あった。
枝振りの美しい自然樹を見ることは、単調な山の旅の楽しみでもある。
しかし疲れは溜まる一方である。道の駅を4時近くに出て、これで今日は
奈良の奥山を超えて、大阪まで帰れるものであろうか。
下北山村の池原という何も無いところに、温泉休憩地があることに気付き
無駄時間になるかと思いつつ、再度車を停めて、疲れを取る為に今度は
風呂に入ることにした。
そこで30分以上休憩した。風呂も天然温泉で、施設も広くて気持ちが良い。
平日の午後4時台。浮世離れした人生を送っていることを、痛感する。
この日の朝にウミガメの産卵地に感動して、海と民族について考え、
夕暮れ迫る山の道に、行者が行き来したような、か細いルートを辿りながら
振り分け進む。
西原と言う所で、再び309号線に道を取り、天川の方に出ることにした。
この道が、マジかよと言うくらいに狭い。車幅ランプを点灯し、クラクション
併用しながら、峠を登って行く。この山が行者還しの難所で、峠の頂上に
照明も何も無いトンネルが無音で広がっている。
真っ暗なトンネルを行けども遠くに見える出口に辿り着けない。その間
何分くらい走ったのだろう。流石にタフな単独行の私も、背筋に寒い物が
走った。
あれは山の鬼気と言う物だと思う。
自然を舐めてかかると、よく遭難する。自然災害というものに有理はなく
人間の心の中にある恐怖心と言う物が飛び出して来る。私のような車好きは
42年も走っているこの車にある、悪魔力を信じて走っている。悪魔と言うのは
悪でなく、いや、悪と言うのは元々が、「強い」と言う意味なのである。
人間はなぜ悪に魅せられるのか。こんな自然の恐ろしさを感じながら走る時間は
もう、私の力だけでは手に負えないから、クルマと一体に化身して不動の形相で
魔界を駆け抜けるしか無い。
それが山岳ルートの恐さでもあり、機械文明だけでは、合理出来ない。
だから山岳ラリーというスポーツに、人は魅せられるのであろう。
険しい山道から下りて来ると、流石に全身から「気」が抜け落ちてしまった。
それで、気を取り直して走り直そう。この川の砕石のような白い砂利は何
だろうか。
天川に出た。道が途端に良くなる。緊張感がほぐれて、お腹が空く。
コンビニは無いが、アマゴや天然の鮎を売っている商店があったので
お菓子でも買おうと車を停めることにした。
車を停めるなり、男性が近寄って来て、「こりゃ、フィアットかい?」と
尋ねて来る。ええそうですけど。
ここから実は30分くらいこの店のオヤジに捕まってしまった。苦笑ものだが
天川村の国道と洞川温泉、天川弁財天から来る道が合流する所にある
ご覧の商店の主人は、かなりのクルマニアで、道路脇の納屋に連れて行かれ
レストア途中のマツダK360を見る羽目になった。
私がこういうクルマに乗っているので、他にこんな体験は無いか、と聞かれる。
思いつくままに、みんカラを書き始めた3年前に遭遇した、ケンメリスカイラインの
ワンオーナーに乗る写真館主の話、今年の冬に能勢の野間の大ケヤキの根本
で自動車工場を経営する男性から話しかけられバーハンドルミゼットを見たこと
などを、披露する。
話しているうちに、いつの間にか午後6時近い時間になった。
また天川に来たら寄りますよ、と言い残し、走り出す。
世の中には、何世紀もの間に、数え切れない探訪記や綺譚が書かれて来た。
それは、やっぱり不思議なものを見たり訪ねたり、人間の好奇心には終わりが
無いからであって、近代社会は、合理に合わないものは排除して来たので
いつしか伝奇物は、メルヘンのように分類されるように扱われてしまった。
僕の様に、不合理なクルマに乗ることで、不思議な体験はどんどん起きる。
この歳になってくると、いつかは命も尽きることも考えるが、反対にタブーや
していけないことを前提するより、よし、行ってみようという気持ちの方が
強くなってくる。
民俗学の巨人、柳田国男も、最初から周囲が理解して、道具を整えて
探訪の旅を用意してくれたのでは無いだろう。やはり、やりたいことを、説明
出来るまでに通すことで、人類は知ることが増えてくる。
こんな旅の記事でも、ほんとうに読んで頂いて感謝している。
長くなったが、この後は、吉野下市から、御所の尺度に出て、羽曳野まで
高速に乗り、妻の実家に立ち寄ってから、北摂の我家に戻った。
長旅で酷使した850クーペは錆びて開いた車体の補修の為に、夏期は
修理工場に預けて来た。
しばらくの間は、ダイハツミラで動くことにしよう。それでは長い記事を読んで
頂き有り難うございました。