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kotaroのブログ一覧

2013年07月16日 イイね!

70年代と21世紀

70年代と21世紀この所、850クーペを修理に出したので、
昨年から足にしているダイハツミラで、少し
冷える程度にエアコン車生活している。

3連休の真ん中の日に、友人が顔を出す
バーベキューに呼ばれて、着いて行った。

その集まりは女の人や子供も居る、普通の
家族パーティーみたいな感じなのだけど、
元々は、自動車で関西初のエンスー系
ミーティングが、10年ちょっと前に始まって、
数年間続いた。


その時の中心人物らと、その友人の懇親バーベキューなのである。

あれから日本はいろんなことがあった。
世界はもっと変わって行き、中国は日本を抜いて世界2位の大国になった。

中国で日本以上の数のフェラーリが走り回っていても
当然のことだろうと思う。

そんな日本の中に居て、僕らは、これまで、判りやすい幸福を
同じように追求して、同じような実現で満足して来た。



自動車=マイカーと、家=一戸建てやマンション家屋の購入である。

バーベキューには、いろんな家族の形があった。
クルマ乗りの中心人物である男性らは、50代、40代、わずかな30代。
女性は40代と30代。子供連れの子供はうんと小さい。
仮に子供が成人していたら、もうそういう付き合いにはあまり来ない。

そこで思ったのだよね。僕らの幸福実現党じゃなかった、頭の中で考えてる
ことって、70年代この方から、どのくらい進化したのだろうねって。




バーベキューから長い一日は日没くらいまで続いて、その後に結構沢山で
カラオケまで行ってしまった。

その前にも、実は夕方に顔を出してくれた友人がいたり、この日は翌日が
健康診断なので、酔うほど飲まなかったので、ビートというクルマを試乗して
みた。

「これはどんなスポーツカーかというより、『ビート』という乗り物だと
思って運転してみてください」と言われる。
なるほどそんなもんかと、このミニチュアオープンスポーツが登場した時代を
想起しながら、ダイレクト感と、背中の後ろで唸っているエンジン音を体感する。

RRの850クーペに長年乗っているので、結構似ていると思う部分と、2代目
プレリュード以来の、足の短いゴツゴツしたシャーシに生えたシートに座り
運転してるんだなあという、実感に包まれる。なるほどなあ、乗っても面白い。

ゴーカート感覚はトヨタスポーツ800にも似て。



このあと、近くの中小企業の社長宅のような、飲食業サービスのフランチャイズ経営の
大将の家に行き、ガレージハウスと愛車を見せてもらった。

置いてあったのは、フェラーリは1台あったが、それは328時代のものなので、
それ程今日では珍しく思わない。

それより嬉しかったのは、ギャランGTOのGSRの最初期型である。
昭和48年製という。

これは私がランサーの49年に乗っていたので判るが、1600と1700xシリーズのあと、
セリカの2リッターかに合わせて、慌てて出した最強バージョンで、特に初期は
ネジ留めのオーバーフェンダーを誇っている。

親父の趣味は、もう一台の国産ヴィンテージにも溢れている。
フェアレディZ 240ZGである。小豆色のGノーズ装着車である。

ここでピンと来る人はかなり国産車の歴史に詳しい。
そう、両車とも、ビス留めのオーバーフェンダー装着で、新車から正規に登録
出来た数少ない国産車なのである。

昭和47年から48年を挟んで49年前半までかなあ。

TE27レビン・トレノが47年秋。あとは、チェリークーペX1Rと、三菱
ギャランクーペFTO GSR、そしてこの2台と、スカイラインGTRのKPGC10の
リア側。およびKPGC110くらいであろう。



僕らに取って微妙に郷愁を憶える、昭和40年代の最後は、高度経済成長が、石油ショック
で終わり、その上燃料エネルギー転換で、見慣れた風景だった蒸気機関車が次々消えて
いったセンチメンタルな季節だった。

飲食店の大将は、僕より数才上だ。ここまで裸一貫で頑張って来られて、今は趣味に
お金を使える身分になられたのだろう。

フェラーリやポルシェより、共感を憶えるのは、あのころの頑張っていた国産スポーツたち。
最初に乗ったクルマは、FTOの1400時代のGⅢよ、と笑われる。

OHVネプチューンのツインキャブですよね、と私はつま先立ちしなくても、あの時代の
三菱車のことなら、すらすら言える。

普段辛口で、ばっさりクルマのポテンシャルを切り捨てる私も、オヤジの心情を察すると
少し心が熱くなった。



僕ら日本人は、本当に何を幸福として、ここまで走って来たのだろうか。

誰かの影響なんて受けなくても良い。
今頃の世間の顔色も見なくても、これが好きなんだと言うのなら、
俺たちの知る古いクルマに乗り、きょうも古い音楽を聴いていよう。

その後のカラオケ大会では、存分に古い唄を唱って来た。



夏の暑い日が終わり、ミラのハンドルを友人に託して雨上がりの
国道を家路を急ぐ。
ルームライトに照らされ、一日遊んで疲れた友人の横顔が
窓硝子に映る。
今日も良い一日であった。






Posted at 2013/07/16 12:20:44 | トラックバック(0) | うんちく | 趣味
2013年07月14日 イイね!

ちょっと古い雑誌より

ちょっと古い雑誌より一度掲載しているかもしれませんが、
青春時代の雑誌より
当時の記憶を思い出してみます。






これは平凡パンチの企画かなあ。
品川33の初代XX2.8は、ちょうど高千穂付近で旅行中に遭遇して驚きました。
未舗装の265号線を走って来たからです。



KP61スターレットの最初は、丸目の2灯式でした。



何とも言えないレオーネの広告切り抜き。
色も不思議な色だ。



ミラージュ、この車にかける三菱の情熱は高かった。
当時の若者にアピールするのにUSA志向だったというべきか。
名前はフランス風なのに(笑)。



サイドモールも無い、シンプルな大きな塗装面に、今の時代、なぜか
萌えを感じるなあ。室内も(笑)。



これはRX7の登場時の記憶で、雑誌読者を招待して、新車インプレッション
を体験。広島ー東京 高速ドライブするというハードな企画。
夢と苦痛の伴う、今じゃ落差があり過ぎて、実現不可能な企画だと思う。




広島から借り出した、2代目コスモで中国地方の山陰をドライブするという
渋い企画。



こういう多色セミカラーページと言うのが昔の雑誌にはあった。
オフセット時代も過ぎてコンピュータDTP時代には考えられない折衷技術である。



山陰の国道9号線中心に、ずっと回って最後は城崎か。
特急「まつかぜ」顔負けの企画である。

こういう切り抜きは後生大事に、他にも持っているので、
続編もやるかもしれない。
問題は、スキャナーが今、壊れていること。






Posted at 2013/07/14 06:41:07 | トラックバック(0) | 雑誌と広告、シミ談義 | クルマ
2013年07月12日 イイね!

昔の日本、今のニホン

昔の日本、今のニホンもう、免許を取って30年以上の年月が経つ。
その間に、日本の社会も随分変わったように思えるが、
単純に比較できない部分もある。

最近、知り合うことが多いのは、免許を取り数年の
20歳台の若い輸入車乗りである。

私も27歳で、憧れの外車オーナーとなり27年。
今年の夏には、54歳になる。

20代の頃は、どんなことを考え、どんな夢を見ていた
のだろうか、少し振り返って見ることにしよう。


私は、1959年生まれで、二十歳になったのは、浪人して大学に入った夏である。
その当日は、原付の免許の更新期限であったが、故郷から同級生が来て、
山陰を4日間掛けて、キャンプ旅行していた最中だったので、後の更新手続きが
大変だった。いかにもアバウトな私らしいエピソードである。

私の20代というのは、ほとんどが、1980年代という時代に重なっている。
その頃の世相とクルマのことを、思い出してみよう。

私は学者では無いが、人一倍記憶力が良い。事実と観念で、物事を分類する。
1980年というのは、何か新しい時代が来たような気がしていた。

ソニーがウォークマンを売り出したのが1979年。何の発明かというと、
カセットテープに録音した音楽を携帯できる再生装置で、家の外でも聴ける
ようにしただけである。
それが3万円くらい発売当初はしたが、当時は爆発的に売れたのである。
私は当然流行にはアンチなので、30年間買ったことがない。

コンピュータゲームのはしり、インベーダーとか、電子音の音楽、YMOなどの
テクノミュージックもその頃である。山下達郎とかもその頃から売れ出した。
サザンにユーミンは70年代後半からだが、何もかも加速が付いたのは、80年代に
入ってからだ。

私が大学を出た83年には、任天堂のファミコンと東京ディズニーランドが
オープンする。

この間、松田聖子がデビューするのが80年春、小泉今日子や中森明菜が出て
来たのは、82年だ。

そういう時代の新しいうねりというものが、今は大変少ない。

第二次大戦が終わり爆発的に子どもが生まれた団塊世代がちょうどその頃は、
30代前半の一番元気な頃である。
そうしてクルマは、年々売れ行きを増し、品質も向上して行った。
今、若い人が、ネオクラシカルという80年代車というものは、その頃の時代の
要請で生まれたものばかり。

まだ未成だが、中身は成り上がり感のいっぱい詰まった、チャレンジ精神の塊
みたいな車が多いのが、面白いのだろうと、想像が付く。



かくして私のデビューは1974年の中古のランサーである。
一応排ガス未対策の昭和50年以前の車を当然選んだ。当時はそんな知識もネット
みたいな引出しが無いので、同級生たちの中には、昭和51年頃の最悪な車を買って
ぼやいている者もいた。

私立大学のお坊ちゃん学校と言っても、下宿して車を持てる身分は、かなり良い方だ。
同学年である紺の豚君みたいに、デビューが新車のゴルフなんて、医者の息子らしい
らしい話だと、つい、ほくそ笑んでしまう。その級友にはBMW633が居たと言うの
だからそれはもう、今のフェラーリどころでない雲の上の世界だ。

当時の若者が、車に夢中になったのは、まだ日本が今ほど豊かでなかったことがある。
家庭や建築事情がよく無かったので、個室を与えてもらったり、エアコン等の空調は
まだ応接室に1基だけというのが普通だった。
クーラーで冷房を入れるのは、客が来た時だけ、というのが笑い話のようで本当の事実
風景だった。

九州の私の家でも、夏にクーラーを入れることは風通しが良いので、まずなかった。
東京から従姉妹の3姉妹(全員昭和40年代生まれ)が遊びに来て、毎晩クーラーを
入れないと眠れないと、訴えられたときには、昭和2年生まれの母が目を向いて
「贅沢な」と怒っていた。
本当に今と違って、昔はその程度のことに一憂していたのである。

自動車のことだが、1981年を境に、日本の車は贅沢になる。
ソアラとピアッツアのデビューが与えたショックで、70年代の車は急速にみすぼ
らしく見えるようになったのである。
当時は自動車の寿命は短かった。今でも中古車業界は、消却期限を6年にして
いるのだろうか。
昔は、新車3年で査定価格は半値、6年経ったらゼロという決まりが通っていた。
だから私は80年に車を買う時に、6年落ちのランサーを探して来た。

実際錆びも随分出ていたので、私が乗るに当たって一番希望したのは、白から赤への
塗装変更である。
品質の向上は80年代に著しく、いや実際は70年代の石油ショック以降でも日本車は
国家の誇りの様に海外で、特に米国等で売れていた。
クルマの質と言うのは、部分等の各所やマテリアル、それと全体的な設計の良さは
区別して考える。
60年代のヨーロッパ車の質と言うのは、設計の良さである。
それは日本ではものすごくレアであったので、判る人にしか判らなかった。

今では考えられないが、家の中に輸入製品が一つでもあることは、自慢であった。
舶来と言い、家電製品は滅多になく、宝石や高級腕時計、それは関税が200%くらい
ついていたのである。
我家の自慢は、親父が海外出張で買って来たバーバリーのコート(今も私が着ている)
それに洋裁好きの母の為に買ったゾーリンゲンの鋏があった。



三船敏郎とジャガーEタイプである。このチンケな組み合わせが、昔の日本人の
究極のリア充だって、わかるかなあ。
前置きが大変長いのが、私の文章の特徴だが、とにかく昔は、30ー40年前の
ことだが、日本人社会は、ちっぽけで、横並びで、その中で幸福感が満ち溢れて
いた。新幹線や、特急「つばめ」に乗れる喜びって、90年以降生まれの若者には
まず判らないであろう。

雑誌を買ってきて、新しいことを知る喜びも、随分無くなってしまった。
いま、シムカラリーやランチア狭角V4フルヴィアの話題など、コンビニで売って
いるティーポにも載っている。僕は80年代当時からそろそろ知り始めていた。
2学年上の先輩らが「ギャランGTO MRかっそええ〜」(今で言う「かっけー」だな)
なんて盛り上がっている横で、「あ、俺70年当時にカタログもらっていますよ」
なんて、くそ生意気な発言で、知り立ての知識で騒いでいる年上に、水をかけ回って
いたのである。



さて、今の若い人が、輸入車に乗れるハードルは下がって来たが、それを単純に
幸せだとか、昔の方が良かった、面白かったという断定をするのは、適当でないだろう。
私が気にしているのは、情報が洪水のように増えて来た90年代後半の、インターネット
以降の日本人の考え方である。

むかし「シャコタンブギ」か何かのヤンマガ系雑誌で、改造車自慢している所に
旧車で乗り付けると「ええなあ」で盛り上がり、対抗して次々と旧車に乗り換えて
最後は、スバル360が登場して、みんなひっくり返るというオチがあった。
エンスー自慢で盛り上がった、NAVIの後半なんかもそうだろう。
高雄などの旧車ミーティングに行くとよく見かける、次から次に珍しい車を見せつけ
られると、自分が何ものだか判らなくなる、一種の覚醒状態だ。

私は辛い人間なので、そのクルマがあんたにとって何なの?と、いつも腹の中で
訊いている。
それは30年以上クルマと人間の生態を見て来た人間の、捉え方である。
あまり禁欲に過ぎると、世の中が回らなくなったりするけれど、回転が速いことは
度合いの問題であって、ちょうど良い、飛行機が落ちない程度の回転数で飛ぶことが
大事である。



ここでしばしば、B層問題のことを、取り上げてきたが、昔の人は、それこそが
単純な生き方だけで、生きて来れた人類である。
ただしB層に近いが、彼らは「そうだそうだ」と愚劣に不服を申し立てなくとも、
それぞれが固有の価値観と目標を持てたので、他人との比較はずっと小さかった。

それを美しいニッポンなどと、回帰志向するのも変だ。
情報の氾濫化は、停まることが無いであろう。
フィルタリングとか、メディアのリテラシーといった言葉で規制することも間違い
ではない。

必要な情報とは、いつの時代にも常に在るのであって、それをどう探して取り入れて
いくのであるか、問題点はそこだけであろう。
裏技とか近道めいたものを見せつけられると、人は弱い。巧くやっている人を
見ると、俺もと、誰しもが思う。
私は逆である。じゃあ、違う方法で行こうかと、まず考える。

今の若い人にとり、80年以前は前史に近いと思う。2000年以降の現実の中で育ち
そこで出来る範囲で、楽しみ方を探していく。どうせ世の中はこうだから、と
諦めているのは、比較的若くも無く、かといって、私の様に常にオリジナルでいこう
という発想もない人々では無いだろうか。

今日はこの辺で、筆を置く。



Posted at 2013/07/12 04:53:14 | トラックバック(0) | モブログ
2013年07月09日 イイね!

クルマ社会の希望を探して

クルマ社会の希望を探して暑いですね。2、3日のうちに、すっかり暑くなりました。

久しぶりに、藤村俊二さんの
オヒョイのジジ通信」という本を取り出して
読んでいます。

「こうあらねば」、なんて考えちゃ、だめ。
生きたいように生きるか、何もしたく無い時はしない。

無為自然(笑)、みたいな無責任な本です。

それにしても梅雨も早く明けてしまいました。
もう暑中お見舞いの季節なのでしょう。

850クーペは、工場に出しました。
昨年夏に引き取って来た、ミラを乗りつづけるべきか、
ボルボの件も、手も出せずに見送りかけています。

ちょっと無責任か。
しかし、これからクルマに乗りたいという、物質的な夢が殆どなく、
この後は、息子と、自動車で1泊旅行でも、しようかというところです。

最近、旧車の値段が、価値以上に高くなり、普通の中古が安いので
バランスが悪いことになっています。

40年前のスカイラインに200万投資しても、パフォーマンスは得られません。
むしろR32あたりでも、買って整備して乗る方が、面白いでしょう。

私の850も40年前の車ですが、普通に走れて旅が出来るから、
投資分以上の回収があるのです。
近所のイベントに、たまに出すだけのクルマに、何百万はやめた方が良い。

それよりは、50万前後で、普通に乗れて、趣味とセンスのあるクルマ
を探して、旅をする方が味のある生き方(行き方)だと思います。

なかなか無いのですけどね。でも少数派のクルマ、あると思います。
アルファ156あたりも、安くなりました。思い切って赤を違う色に塗ってみる。
プログレにアルテッッアのコンポーネントを移植してみる。
ストーリア/デュエットのMTを探して来る。色も変えてみる。
Bbのオープンデッキを探して来る。

今の自動車社会の、ネックの一つが、夢が見にくいということだと思います。
30年前は、アルバイトの学生でも、150万以上の、新車をローンで買うこと
が、まれにありました。

あの頃はそのまま就職して、返済を続けることが十分可能だったからでしょう。
だったから、セリカやスカGが売れていた。
経団連やトヨタが、やるべき答えは探さないと。職を増やすか、安い中古車で
買うことは可能だから、維持費を下げる方向にシフトするかでしょう。

そんなこんなで、僕も大都会の片隅で、今日も生きております。
それでは、また来週。








Posted at 2013/07/09 10:03:34 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2013年07月07日 イイね!

海の道から山あいの道へ(完)

海の道から山あいの道へ(完)ウミガメのふるさとに別れを告げて
再び850を走らせ出す。

最後のシーンは浜木綿と、私のあとから
やって来たカップル。

こちらが目で挨拶したのに、返さなかったので、
当然イイ話は教えて上げない(笑)。




国道260に浜島の先からなるのだが、国道の一部は海の上を通り、志摩半島の
先端から渡って来るのである。




浜島町から旧南勢町までの区間は、入り組んだ入り江に沿った大変カーブの
多い難航ルートであったが、今はトンネルが多数掘られ、あっけなく通過する。





真昼の夢のようなドライブを続けているうちに、はや、昼時になった。
クルマのガソリンをこまめに補給して、東宮と言う地名のトンネルの
手前にある、豆賀太という和風の店を見つけたので自動車の速度を緩める。



クルマを停めた途端に携帯電話に、住居町の用事を頼んでいた人から
打合せの電話が入る。こんな所でオンビジネスな話も、あとで良かったのだが
とってしまったから、5分近く話す羽目になる。その間、店に入れず
開け放った店の人は、怪訝な気分であっただろう。

お昼は、まだ魚類が食べたかったので、カツオのタタキにした。
そこからしばらく車を走らせていると、こんな風景に遭遇した。





まずここは、旧南島町の、村山と言った地区で、紀勢本線の鉄道が海沿いに
出て来るのは、紀伊長島付近からで、本来は鉄道と全く縁の無い、海岸線の
風景なのである。



しかしここに、かつては貨物専用の鉱山鉄道があったのである。
昭和44年版の朝日新聞社「世界の鉄道」電気機関車特集にも載っているが
大阪セメント三重工場の専用線であったのである。



筆者は実は昭和60年7月に、この場所を探訪している。朧げな知識は
あったが、大学の先輩が新型ファミリア(FF2代目)XGの5ドア5速を
買った際に、あちこち遠出をしたいものだから、こんな近畿の裏側まで
連れ回されたことがある。流石に当時でも「こんな所に線路が!」と
腰を抜かした。あれから28年。





26才目前だった私も、今年の今月29日に54才になる。元気なうちに
28年ぶりの志摩半島裏側の旅が出来て良かったと、思う。
もう鉄道は廃止になり、ベルトコンベヤーで石灰石の砕石は、港まで数キロ
運ばれているようである。

この浮世離れした、鉱山の鉄道は、終わった幻であるが、鉱山は現役で
あるので、立ち入るのは気を配って欲しいと思う。たまたま昼休みで
ダンプなども稼働してなかったので、少し写真を撮り、すぐに引き返した。





最近は、サイトとかに「廃墟」とか、「秘境」といったものが、直ぐに
投載される。
僕らの頃は、知っている人しか知らない情報が、世の中の水面下に、ものすごく
あったと思う。

危険なことは、体で察知して、やって良いか悪いかは、自分の経験と
世の中の常識で判断する。僕も若い頃にある場所で不審尋問されたことがある。
そこは建設数年で放置された別荘地であった。それも交通の不便な所ではない。
たぶん、何かがあり、公に出来ないエリアなんだろう。



余計な話になったが、僕は牧歌的な旅ばかりしているのではない。

国道をそのまま走っていると、“イタい”ものを見つけてしまった。



騙し画オブジェだが、事故で廃車になったフィアットパンダ143の
後部なのだろう。えいっ。



付近は南紀と言うより熊野の山々が近く、緑の勢いに圧倒される。



紀伊長島まであと峠一つだ。



紀伊長島に着いた。南紀の特急停車駅の風格ある広い構内。



駅の一時駐車場で、プジョー1004を見かけたので、隣が空いており
並べて停めてみる。2004年のパリオートモビルで、一番早く実車を見て以来
結構惹かれる小型車である。



駅舎は平凡な建物だが、夏でも注連縄が懸けられており、それも「笑う門」と
あるのには、目を細めてしまう。ここいらは伊勢神宮の神聖エリアであっても
少し楽しい。





駅前の食堂。「さんまずし」500円と書いてある。
新鮮な青魚の棒寿司が名物なのは、海南あたりから田辺、新宮とずっと紀勢線
エリアの特徴だ。



ここでも注連縄が懸けてあった。人気の無い引き戸を開けて、サンマ寿司を土産に
買おうと思ったら、売り切れであった。ちょうど遅い昼飯を一人でのんびり
食べていたおばちゃんが、ほんとうに済まなさそうに謝られたのには、こちらが
申し訳なく思ったほどである。



午後の2時を回り、灼け着くような南近畿の昼下がり。おばちゃんの冷やしうどん
らしきぶっかけを、掻き込むのを見てほんとうに、旨そうに見える暑い午後だった。



緩さがたまらない、紀伊長島の駅前風景。くどい商売っけもない、こんな駅前で
一泊したいなあ。もうそろそろ、帰ることばかり考えている自分に気が付いた。

旅情溢れる紀伊長島駅の、構内をトイレを借りたついでに写す。
これだけ風格のある非電化の幹線の駅風景も、21世紀の今では、かなり
貴重な鉄道遺産では無いだろうか。



紀勢本線は、昭和36年頃に尾鷲と熊野の間の難所が開通して、半島周回の鉄道が
全通した。間もなく特急「くろしお」が走り出し、南国ムードあふれる車窓に
新婚旅行客の人気を集めたこともある。



この最奥部の区間は特急含めて1時間に1本上り下りがあるのだろうか。
それだけに、この風景と旅情は、忘れられないシーンとなる。


紀伊長島から、淡々と国道42号線を走る。
昨日から走っている国道だが、渥美半島から鳥羽に渡り、熊野紀州を
ぐるりと一周して、和歌山に至る、グランドロードなのである。




しかし山間部中心のこの区間は、山の区間に入ると平均ペースが、ガラリと落ちる。
地元優先とはいえ、喘ぎながら登るトラックを追い越す区間も少なく、1台
抜いた所で、すぐにその前の遅いクルマに追い付く。



このあたりは、やがてハイウェイが出来ると思うが、それでも紀勢本線の特急
のペースの方が、格段に早い。紀伊長島ー尾鷲−熊野ー新宮を、1時間
ちょっとで駆け抜ける。

自動車だと尾鷲まで下手をすると30分以上かかるのでうんざりする。



やっと尾鷲に着いた。ここから奈良の北山に抜ける国道に向かうと、不通区間
の看板が出ていたので、またコースを変更して、熊野まで行き、そこから北上の
ルートを取ることにした。
尾鷲から熊野方面への高速道路が部分開通していたので、選択する。

運転に焦りは禁物であるが、案の定、途中までしか開通しておらず、紀勢本線の
三木里という海沿いの町で、下ろされる。ここから311号線を海に沿って隣の
賀田まで走り、そこから右折して、本来走るべきであった42号線の矢の川峠
方面に駆け上がる。



矢の川トンネルの出口付近で42号と再び合流。トンネルを抜けて熊野市に
入り、道の駅で再び休憩に入った。



見上げる山々の聳える巨木たち。日本で一年に一番降雨量が多いのが、尾鷲
熊野と呼ばれる。その雨は、杉などの針葉樹を、巨大に育て上げて、この辺り
一帯を、木材の集散地として有名にした。
漁業以上の富をもたらせたのが、熊野信仰の始まりなのかもしれない。



休憩中に、私の車に気付いて、プリウスから下りて来た男性が、質問する。

トリノにいたことがあり、フィアットは懐かしいと話す。
私は疲れていなければ、もう少し愛想よく応対出来たのに、少し無口に
なっていた。

道の駅で思い切った小休止を取り、地図を確認すると、この先で右に曲がる
309号線で、下北山村に向かえることが判った。



分岐して遅いトラックをまた追い抜く。交通量は少ないが限界より大きなトラックが
山中を走るのは、仕方ないことなのだろうか。
突然見つけたピックアップトラックは、多分パブリカだ。私の車に近い40年選手
だろうが、降雪や融雪剤の多い、山間部で、奇跡のような錆の少ないコンデ
ションを保っている。



169号線と合流。ダムサイトで車を停めて、静かな時間を眺める。



山あいに近年多いものはダム湖である。そしてダムに沈んだ道に代わり
当然トンネルが増えるのだが、この辺りのは、素堀に近い荒々しいもので
あった。



枝振りの美しい自然樹を見ることは、単調な山の旅の楽しみでもある。



しかし疲れは溜まる一方である。道の駅を4時近くに出て、これで今日は
奈良の奥山を超えて、大阪まで帰れるものであろうか。

下北山村の池原という何も無いところに、温泉休憩地があることに気付き
無駄時間になるかと思いつつ、再度車を停めて、疲れを取る為に今度は
風呂に入ることにした。



そこで30分以上休憩した。風呂も天然温泉で、施設も広くて気持ちが良い。
平日の午後4時台。浮世離れした人生を送っていることを、痛感する。

この日の朝にウミガメの産卵地に感動して、海と民族について考え、
夕暮れ迫る山の道に、行者が行き来したような、か細いルートを辿りながら
振り分け進む。



西原と言う所で、再び309号線に道を取り、天川の方に出ることにした。
この道が、マジかよと言うくらいに狭い。車幅ランプを点灯し、クラクション
併用しながら、峠を登って行く。この山が行者還しの難所で、峠の頂上に
照明も何も無いトンネルが無音で広がっている。

真っ暗なトンネルを行けども遠くに見える出口に辿り着けない。その間
何分くらい走ったのだろう。流石にタフな単独行の私も、背筋に寒い物が
走った。



あれは山の鬼気と言う物だと思う。
自然を舐めてかかると、よく遭難する。自然災害というものに有理はなく
人間の心の中にある恐怖心と言う物が飛び出して来る。私のような車好きは
42年も走っているこの車にある、悪魔力を信じて走っている。悪魔と言うのは
悪でなく、いや、悪と言うのは元々が、「強い」と言う意味なのである。

人間はなぜ悪に魅せられるのか。こんな自然の恐ろしさを感じながら走る時間は
もう、私の力だけでは手に負えないから、クルマと一体に化身して不動の形相で
魔界を駆け抜けるしか無い。

それが山岳ルートの恐さでもあり、機械文明だけでは、合理出来ない。
だから山岳ラリーというスポーツに、人は魅せられるのであろう。




険しい山道から下りて来ると、流石に全身から「気」が抜け落ちてしまった。
それで、気を取り直して走り直そう。この川の砕石のような白い砂利は何
だろうか。



天川に出た。道が途端に良くなる。緊張感がほぐれて、お腹が空く。
コンビニは無いが、アマゴや天然の鮎を売っている商店があったので
お菓子でも買おうと車を停めることにした。




車を停めるなり、男性が近寄って来て、「こりゃ、フィアットかい?」と
尋ねて来る。ええそうですけど。
ここから実は30分くらいこの店のオヤジに捕まってしまった。苦笑ものだが
天川村の国道と洞川温泉、天川弁財天から来る道が合流する所にある
ご覧の商店の主人は、かなりのクルマニアで、道路脇の納屋に連れて行かれ
レストア途中のマツダK360を見る羽目になった。

私がこういうクルマに乗っているので、他にこんな体験は無いか、と聞かれる。
思いつくままに、みんカラを書き始めた3年前に遭遇した、ケンメリスカイラインの
ワンオーナーに乗る写真館主の話、今年の冬に能勢の野間の大ケヤキの根本
で自動車工場を経営する男性から話しかけられバーハンドルミゼットを見たこと
などを、披露する。



話しているうちに、いつの間にか午後6時近い時間になった。
また天川に来たら寄りますよ、と言い残し、走り出す。

世の中には、何世紀もの間に、数え切れない探訪記や綺譚が書かれて来た。

それは、やっぱり不思議なものを見たり訪ねたり、人間の好奇心には終わりが
無いからであって、近代社会は、合理に合わないものは排除して来たので
いつしか伝奇物は、メルヘンのように分類されるように扱われてしまった。

僕の様に、不合理なクルマに乗ることで、不思議な体験はどんどん起きる。
この歳になってくると、いつかは命も尽きることも考えるが、反対にタブーや
していけないことを前提するより、よし、行ってみようという気持ちの方が
強くなってくる。



民俗学の巨人、柳田国男も、最初から周囲が理解して、道具を整えて
探訪の旅を用意してくれたのでは無いだろう。やはり、やりたいことを、説明
出来るまでに通すことで、人類は知ることが増えてくる。

こんな旅の記事でも、ほんとうに読んで頂いて感謝している。
長くなったが、この後は、吉野下市から、御所の尺度に出て、羽曳野まで
高速に乗り、妻の実家に立ち寄ってから、北摂の我家に戻った。

長旅で酷使した850クーペは錆びて開いた車体の補修の為に、夏期は
修理工場に預けて来た。
しばらくの間は、ダイハツミラで動くことにしよう。それでは長い記事を読んで
頂き有り難うございました。
Posted at 2013/07/07 15:27:29 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

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「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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