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kotaroのブログ一覧

2013年07月05日 イイね!

海上の道、山の人生(続き)

海上の道、山の人生(続き)私は民俗学の巨人、柳田国男の本を
若い頃に、夢中になって読んだ。
人間は、どこから来て、どこヘ行くのか。

今のように先の見えにくい時代にこそ、
そういった純粋な疑問は大切だ。

柳田は、都市の生活習慣や風俗の変遷、
それと、辺境や交通不便な土地に、日本人の
原型が残っていないか、旅から旅を一生つづけた。

民俗学と歴史学を学ぶものは、室内だけでは
学を修めることは、出来ないのである。

伊良湖岬に打ち寄せられた、椰子の実に、文豪藤村は叙情的な
詩を書いたが、この民俗学の巨人は、椰子の実にヒントを得て
日本人は黒潮に乗って南海から上陸した、民族の子孫ではないかと、
仮定、推察した。
「海上の道」説の濫觴であり、それを確かめに出た旅が「海南小記」である。

書き出しは真冬のジュネーブ出張から、暖かい日本の気候が恋しいと、
大の大人が、子供のような心境で日本に憧れるところから、書き始めている。

こうして、30数年が経ち、私に取り歌枕のような伊良湖崎にようやく
辿り着いた。
この後は潮任せに走って行こうではないか、海沿いの道を。

鳥羽港を降り立ち、大抵の車は右折して、伊勢の方に走って行く。
私一台左折し、賢島、相差の方に進路を取る。


昔の有料道路「伊勢志摩パールロード」も今ではフリーウェイだ。
ただ反面、有り難みや、土産物を売る店も目当ての観光客も
薄くなったように感じた。



賢島の手前に鵜方と言う駅がある。昔の三重交通のローカル線を
近鉄が買収して、1970年の万博の直前に特急が直通で走れるように
全面的に路線改良した。
鵜方は、ローカル私鉄の一駅から、賢島観光の入り口や浜島や大王に
向かう観光ルートの拠点と変貌した。

しかし、40年後の今は駅隣接の商業ビルの2階で営業中の店は1軒
だけになり、国内観光の消長を、いやでも感じずにいられなかった。


さてここから志摩半島の奥地の袋になった海を見ながら走る楽しみが
待っている。



やがて車を停めて。下りて行ける砂浜を発見したので、フェリーを
下りて以来、最初の休憩を取ることにする。



ご覧のような、黒石の砂浜なのである。通称那智黒と呼ばれる、
火山岩が、綺麗な砂に転じている。


砂浜に下りて、靴を脱ぐ。きょうから7月になったことを思い出した。
海が恋しい真夏になったのである。



砂浜を一人歩いていると、岩陰の向こうに女性がいる。すぐに話しかけるのも
あれなので、しばらく遠巻きにして、海で遊んでいると、向こうも私に
気が付いているようだ。

「何を集めているのですか?」
思い切って声をかけると、貝殻拾いをしているという。
彼女らはウェットスーツを下半身につけており、波乗りに来て
いるようだ。

「おじさんは?」  「きままな旅の途中さ」



たわいのない雑談をしていると、少し警戒を緩めてくれたのだろう。
向こうの三角波が、しぶきを上げているあたりで、サーフィンしている
人影も、背景で判った。

あの人たちは、本業は海女で、今日は波が高いから仕事を休みにして
波乗りしているという。
そんな人生もあるんだ。

数年前の、自由の利かない人生と、時間から、いつの間にか、私は遠く
ここまで来たのだと、理解する。

彼女らの一人が、突然こんなことを教えてくれた。



ここは、ウミガメの産卵地で、岩陰の向こうに、昨日ウミガメが卵を
産みつけたあとが、残っているという。

棒を立てているところが、人が入らないよう目印で、卵が埋まっているという。

へえ、そうなんだ。ありがとうと、礼を言い、砂に足を取られながら、その場所に
行ってみた。



波打ち際から、親ガメが、一生懸命砂浜を前進した跡が、鮮明に残っている。

何だか、言葉にならない嬉しさが込上げて、大自然に感謝したくなった。

僕らの好きな竜宮伝説は、この浜に舞い降りた神の使いから始まって、
彼らは、新しい命の卵をこの浜に残して、また海の中に還っていった。

僕は何を感じて、何を求めて、旅を続けているのだろうか。

遥か南洋から何千キロの距離を泳いで来た、ウミガメの旅に比せれば、
私の旅など、とるに足らない移動だろうと、思った。





Posted at 2013/07/05 12:58:28 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年07月04日 イイね!

海上の道、山の人生 〜柳田国男に捧ぐ〜

海上の道、山の人生 〜柳田国男に捧ぐ〜伊良湖岬で一夜を明かして、翌日は朝ご飯が出る
前までの間、少し近所を散歩してみた。
国内観光地は、どこに行っても平日は静かだ。
三河湾というのは、知多半島と渥美半島に囲まれた、
穏やかな海だ。
それぞれに、半島の途中まで、電車が走っている。

知多半島は、中部空港が出来たことも有り賑やかだ。
元国鉄の武豊線に名鉄の河和線、さらに80年代に
そこから支線が出て、知多新線も出来た。

こちらの渥美半島は三河田原まで、豊橋鉄道がのんびりと走っている。
今回はちょっと立ち寄れなかったことだけが、心残りだ。
島崎藤村が「椰子の実」の詩を書いたのは、ここ伊良湖岬だと言われている。



明るい風景の中を歩いていると、心の曇りも取れて行く。



最近は、晩年にタヒチに移住した、ゴーギャンの心境が、痛いくらい判る。
というのは、中高年というのは、容易く心が華やげないものだからだ。



とか言いながら、散歩の途中にこんなものを見つけて喜んでいる。



フェンダーミラー付きの、ギャラン?いや3ナンバーなので、ディアマンテ
なんだろうか。



クルマ煩悩で爆バクバク、である。



ところで、選挙告示、いや公示日になった。参院と衆院で確か用語が
違ってたと思うが、まあいいや。このところの新40代、新50代について。

このところ割と面白い論を展開する人、女性だったら、ちきりんとか、男性
なら、佐々木俊尚氏などの説などを、よく読んでいる。それはまだよい。

しかし彼らの書いている内容は、概ね、稼ぐことばかりではないかと、感じる。
企業の拘束や精神的不自由から離れられても、遊ぶことは、あまり書かない。
いや、書けないのか。
新しい生き方を提案する彼らでも、そんなだったら、選挙をやっても蚊程も
世の中は変わらないだろうと思う。



朝ご飯を終えて、5分ほどの距離にある港に着くと、出航前の鳥羽ゆきの1番船に
間に合った。また前夜からお世話になった宿は、オーガニック食の好きな女将の
愛想の良い宿でしたので、お勧めを書いておきます。
オーガニックな民宿「まるえい



船は8:10に出航した。1時間弱の航路である。船室内は冷房が効いていたが、
外のデッキに出て、いれ立てのコーヒーを木の椅子に座って飲む。

昔旅した、イスタンブールのボスポラスフェリーでも、チャイを入れて売っている
男性と目が合い、一服した思い出が甦る。





掛けていた眼鏡を一瞬外して、海の色を見た。この海も青い。



定刻9時5分に鳥羽港入港。



私はビリから2番目に船を降りる。
駆けっこは遅かったので、全然気にならない。


Posted at 2013/07/04 11:58:34 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2013年07月03日 イイね!

ミラフィオーリへの道

ミラフィオーリへの道今年の梅雨は、雨が少ない。
その原因を、思い当るに、4月が寒かったこと、
5月も陽気が短かったことがある。
梅雨の入りは、5月後半と例年無く早い時期であった。
それから1ヶ月と少し経ったが、今の時期の水不足の感は否めない。
8月に日照りになるか、台風のような豪雨が
どの時期に到来するか、そのくらいの予測はしている。

名古屋まで、また走って来た。
京都から150キロ圏。大阪からだと片道200キロ弱になる。
現代の車なら、ベンツBMWでなくても、あの面白くないプリウスでも
短時間に行けて、日帰りも普通の人でも疲労が無く翌朝に出勤可能だ。

それを名神・東名開通の数年後のクルマで、走る。
私の旅の組み立て方は、頭の中に1969年の脳内ナビをインプットして、
どう攻略しようかと言うところから始まる。

古いカーナビで走ると、新東名や新名神が出て来ない。
軽いギャグを逆手に取り、コンピューターの無い時代の−2.0くらいの
OSを考えながら、さあこのクルマで行ってみるか。
旧車に乗り旅をする楽しみは、落差の感覚を失望でなく、
好奇心に昇華することで感じる、リバースの喜びだと答えておこう。

それも近年、私の愛車は、心臓部であるエンジンに思い切って手を入れた。
普通の人なら、大ショックを受けるエンジンブローで数百キロ走り
満身創痍で帰還するところから、生き返ったことによる。
それでエンジン状態が以前より遥かに向上したので、今は年に数回、
東京まで走って行ったり、以前のような悲壮感のある旅が減少した。
車は年々古くなるのにである。



C571号機という蒸気機関車のことを、ご存じであろうか。
SL列車「やまぐち号」の先頭に立つこと30年。全国の保存蒸気の運転の
始まりとなったSLのトップランナーである。

このC57型という蒸気機関車は、均整の取れたスタイルと、性能の良さで
長く日本中を走っていたSLだが、とりわけ1号機には秘密の歴史がある。
C57型は、戦前から戦後にかけて200数台が造られたので、年次により
改良が入っている。ところが一番最初に造られた1号機がなぜ、好調なのか。
実は1号機は一度死んで生き返った過去がある。

昭和30年代前半に、北陸路の運用に就いていた頃に、親不知付近の地滑り
災害に、看板列車「日本海」(のちの最近まで残っていた急行「きたぐに」
トレインコード501、2列車)を引いていた1号機は遭遇し、大破した。

通常なら当然、車でいう全損で、廃車である。
ところが、当時はSLブームは遥か以前であるが、鉄道関係者とくに
技術関係の人や、車両運用や現場系の偉い方々、日本海縦貫線(北陸本線、
信越本線、羽越本線)に携わり、交通網を死守する人たちが事故の復旧と
ともに、人気の高いC57型の“長男”を死なしてしまうのは、あまりにも不覚
痛恨の出来事にならないか、という意見が多数出て、再生させようという
判断になり、この機関車は土中から掘り出されて、1年以上の年月をかけて、
奇跡の現役復活した。

ボイラー新製の上、台枠と呼ばれる下回りのシャーシーもやり直して
生まれ変わったのである。人によっては1号機は、ラストナンバー201号の
次の「202号機」と親しみ込めた敬称で呼ぶ人もいるくらいなのである。

これは長男自身の幸運もある。事故が起きた時はSL新製を打ち切って
まだ数年後の技術と製造装置が、残っていた時代であったからである。
もう数年遅ければ、全国のSLを追放して、電化を急ぎ、国鉄近代化の
荒波に当然残れなかったであろうと推測される。
機械にも幸運を持ったものは。確実に居て、それを保守して愛用して信頼
する。それが正しい機械と人間の関係なのであろう。

話が長くなったが、私の機械に対する考え方の一端である。



8時に大阪を出て、名古屋には11時過ぎに入った。
齢42年の車で、地図に無い新名神と伊勢湾岸を、飛行機のように飛んで
走って、このパフォーマンスなら、本当にノープレブレムだ。
カーナビを装着して来なかったので、2005年に行った「愛地球博」の記憶
を辿り、長久手と言う地名を思い出して、地図頼りに公園の横に到着。
南駐車場は迷ったが、何とか大会関係者の誘導で、展示場所まで徐行しつつ
10分ほど広い園内を進んで行く。

せっかちの人なら我慢が出来るかな?の時間を反対に、これこそスペシャルタイム
と楽しもう。さあ着いた。随分後ろの方だが、本物の緑の上にクルマを置くのは、
このカークル系イベントの美点である。



懐かしいアルピナのC1。当時はニコルが扱っていた。私が新人サラリーマンのときに
同じフロアの関テレの契約会社のカメラマンがこれに乗っていた。
マスコミと言う業界だけで、すでにバブルは萌芽しかけていたのかも、しれないが、
当時はクルマ社会版「坂の上の雲」だったと記憶する。サッカーユニホームのような
派手なブルーストライプのシートに、褪せた80年代を感じて胸が疼いた。



親近感を覚える、フィアット・ディーノと、フェラーリ製ディーノの揃い踏み。
60年代から70年に向かう頃の、このラインを近年真似る車も多いが再現し
きれていない。



異端、ポルシェ914系。しかしこのスピリットは911系列に抗えなかったが、
試行錯誤はスポーツカーの最も面白い、過程である。924以降の乗り易くなった
乗用車型ポルシェに比べると、この割切り方が好きだし、ドイツ人の遊びは
真面目だから、つい好きになってしまう。



ランチアと言う好物に群がる好き者たちに、最高のドルチェは、ザガートボディの
フラミニアシリーズであろう。徳島より参戦か。



見直して良い、FR時代後期のアルファスパイダー。
まさにプアマンズフェラーリとして、この時代を担ったのは、彼女たちだろう。
今ほど通俗的でないアルファは、見ていて実に気持ちが良いし、今より潔癖である。



AXのいる風景。5ドアハッチバックの最小ボイチュアは、プジョー104であり、後跡
を温めたのは、このシートの柔らかい、ノンハイドロシトロエン。
使い方としては、このようにファミリーで出掛けるのが理想的だが、写真のご夫婦は
我家の様に子供たちが、イベント同行から「卒業」されたように思われて、20年前の
クルマなんだなあと、思わず古いアルバムを見るようであった。



フォードシエラ・コースワース。80年代にグラナダやコルチナといったオールド
ネームを廃止させて登場した、英国フォードのニューウエポン。
このスタイリング変更で、内実もメカは全面変更かと思ったら、FRだった。
英国流の保守性に驚いた記憶がある。



2台のベンツ190シリーズ。
片や190エボと呼ばれた、これもツインカム16バルブを積むコースワース
チューン。右はボアアップで3ナンバーになった2.3である。



中京圏のアルフィスタたち。
真ん中のジュリアスーパーの男性は、後でお話しする機会に恵まれた。



創業75周年を記念して作られた、アルファロメオ75のサイドビュー。
直線的なデザインだが、リアのドアの後ろで、サイドラインが跳ね上がる
独特の美学に、このクルマの印象は深い。デザイナーという者はこれくらい
やらないと、名を残せない。


さて、緑の上で、くつろいでいると、話しかけられたので、応対すると
「kotaroさんですね?」と聞かれたので、「はい」と答えた。

その男性は、このブログを時々読んでくれているという。
ブログは思った以上に、いろんな方に読まれているのだなと、感心すると共に、
クルマという話題から、広い範囲で、世の中を見渡していくという書き方に、
共感を憶えて頂けるなら、これほど有り難い読者はいない。

書き手冥利というのは、こういう時に実感する。
ガソリンと高速代を使い、愛知県まで旅に出る目的って、単にこのイベントを
見て、レアなクルマの話題だけでは、勿体ないと思っている。
旅の道中やプロセスで出会う、人やクルマ含めて、全てが旅を構成する
要素だと思う。

こういう初対面の人と出会い、既に書き記したもので、私の主張に共感して
いただける。そういう偶然ががあるというのは、すごく書くことに励みになる
のである。


さて、イベントは蒸し暑かったが、日照で酷暑というほどでなくちょうど良く
思われる6月最後の日曜日となった。
3時半に大会終了、4時過ぎに退出となった。

これから無理して大阪に帰る気持ちもなかったので、どこかに泊まろうと考える。
よく使う、岐阜の中津川の宿も、泊まり易いが、地図を見ているうちに久しぶりに
南三河の蒲郡方面に行きたくなった。

手持ちの宿ガイドで、渥美半島の先端の伊良湖岬まで行ってみよう。
蒲郡クラシックホテルは、一人で泊まるには、もったいない。豊橋市内のビジネス
ホテルも考えたが、ざわざわしていそうで、きょうの気分でない。
会場をやっとでて、高速で岡崎まで走り、蒲郡を通って渥美半島の42号線に辿り
着いた頃には、もう夏の長い一日も黄昏を迎えていた。





ここから長い長い半島の先端まで、小一時間以上かかったが、宵闇のなか、
何とか宿に到着出来た。
遅い食事もとれて、明日の朝からの旅の続きが楽しみである。
フェリ−で海を渡ってみよう。




Posted at 2013/07/03 03:26:12 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年07月01日 イイね!

岬の宿にて

岬の宿にて日曜日の朝に何をしようか、悩みつつ、
名古屋で「ミラフィオーリ」というイベントが
あるので、思い切って旅に出た。

夜明け前、現在の状況と心境を隠すことなく、
東京にいる妻に送信する。
甘い答えは返ることがない人から、日曜という
時間の密度か、3時間後に、返信が来た。

そう、やはりどんな時間でも、自分のために動かないといけない。
葬儀のような特例は除いて、私には、黄金の時間が、このちょうど良い
50代というエイジで受け取っているからだ。

8時に家を出て11時に名古屋に着く。
2001年のアメリカが、アフガンを報復爆撃を始めたニュースで、
鹿児島から慌てて戻る時に、つまらぬ接触事故を起こして以来、
12年間事故は巻き込まれていない。

それでも高速運転は、こんな古い「電車」を走らせているのだから、
絶対ミスはあってならない。
エアロのパイロット同様、ベテランの円熟で、この古いマッキナを、
走るシケインにならぬよう、動かしているのである。


ミラフィオーリの会場は、懐かしい思い出のある愛知万博の跡地公園であった。

当然、途中入場なので、後の方のエリアにクルマを停めるが、嬉しいことに、
本物の緑のカーペットであった。

日本でも、クルマのイベントが成熟して、無味乾燥な駐車場型から欧米並の、
裸足で歩ける公園型が近年増えてきたことは、本当に喜ばしい。

内容コンテンツに傾き過ぎることなく、本来大切なことは、ホスタビリティと、
フレンドシップ、そして、コンフォータビリティなのである。

お台場のニューイヤーミーティングは、中身の濃さで陶酔させられて、
感覚が麻痺して帰るが、後から疲れの出やすいイベントである。
東京という場所柄、ストレスはやむを得ないのだろうが、食事とトイレの苦労は
改善出来ないのであろうか。

今回のミラフィオーリは、食事に関しては、選択余地と、エキゾチックな
趣味性が楽しめた。

なんといっても、本物の緑の絨毯が、良かった。この上でくつろいでいると、
私のブログの、読者という方と初対面し、しばらくクルマの話題で歓談する
ことが、できた。

続きは、旅から戻って書く予定です。

(伊良湖岬の民宿にて)
Posted at 2013/07/01 02:30:53 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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