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kotaroのブログ一覧

2013年09月20日 イイね!

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る②

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る②軽井沢の一夜を挟んで、旅日記を
分割しました。その後の記事が
先に出てしまいすみません。

現地に住む友人との、年齢相応の
人生談義もこなし、激しい雨の音で
目覚めました。今日は雨か。

追分に今年できたパン店で、朝食し
駅まで送ってもらい、友と別れ、しなの鉄道に
雨の中、乗り込みました。

西へ行く電車に乗り、長野まで出るか。まずは接続が良ければ
小海線に乗ってみようと思いました。

12:02に小諸に着くと運の良いことに、すぐに06発の中込行きがあります。
中込で乗り換えると、小淵沢には14:23に着く。これなら文句はない。



小諸で時間が全くないのは、少し残念でした。

ホーム上には3セクなのに、まだ駅そばが残っているではないですか。
この次来る時にはない可能性あり。うーん、信州そば喰いたし!。
紺の豚氏に劣らず、関西人は食い意地が張っております。



しなの鉄道の元急行型電車の中吊りを見ると、一時期熱心に読んだ玉村豊男氏が、東御市のワインフェスタにゲストで出ている告知がありました。若い頃から最近まで、この人のパリ放浪や東欧旅行記を読み耽り、最後の方は病気と死生観まで、随分“影響”を受けました。(笑)
ヴィラデステ/今日より良い明日はない/まで私は信者だったかも。でも、お元気そうですね、「死ぬ」と言ってる人ほど長生きするのかも。

小海線のホームに向かうと、私の苦手なキハ111系が待っていました。
なぜ嫌いなのか、理由は後述します。

このJR東の100系気動車は、性能はカミンズエンジンで良いのですが、窓がはめ殺しなのは仕方ないとしても、座席が2人掛けの通路反対は1人掛けで、使いにくいのです。

これは通勤時の混雑より、最初の配属方面が北国が多く、まだブームだった大きな荷物を持ったスキー客が、通路に立っても行き来しやすいようにとの配慮だったと思います。

秋田新幹線開業前の、田沢湖線が改軌工事で1年不通だった時に、代行輸送で北上線を走った「秋田新幹線リレー」で特急運用に使われたこともあります。お役御免後は通常の、2人掛け2列にして欲しかったです。



小海線に乗ったのは国鉄時代以来の31年ぶりでした。その間に私は車の趣味に傾注し、小淵沢付近も毎年通るようになりましたが、鉄道旅行は、旧車趣味とは違った、モノの見方を教えてくれます。31年前はペンションブームの最盛期で、男同士で泊まるには勇気が要りました。

今回は通過ですが、小海線の眺望の良さは、日本一の標高を走る鉄道路線以外にも、この線の独自のプレミアム性を強く感じました。電化はしない方が良いと思いますが、軽井沢始発で、小諸ー小海ー野辺山・清里ー小淵沢(北杜市)ー甲府ー高尾または八王子といった「日本版『氷河急行』」はどうでしょう。

ディーゼルもしくは最先端のハイブリッドトレインで、車両は星野リゾートあたりが所有発注して、第3機関に運行させる。運行&営業にはJR九州の特急「ゆふいんの森」の成功例が参考になります。

小諸ー野辺山間の少し退屈な時間には、アトラクションが欲しい。北杜市のサントリーディスティラリーなど、提供と集客誘致に持って来いです。
また、甲府から臨時で身延線に入り、富士宮まで走らせて、富士観光も世界に発信できます。これら全部を自動車で回るよりも、鉄道ベースで旅行した方が、何倍も優雅だと、私は考えます。世界遺産「富士」を、大事にしたいならば、身延線の富士連絡のほかに、新幹線の新富士に延長接続させて、外国からのとくにヨーロッパからの客は、鉄道で富士宮まで行くのが良いと思いました。21世紀というのは、そういう時代ではありませんか?







ここまで、平日旅を男一人で楽しんでおりました。そういっては何ですが、異性同伴、女性の旅、男だけの旅姿と見てくると、男の単独旅が、一番こ煩そうで厄介です。あまり近づきたくなくなるのは、なぜでしょう。
一つはお洒落な人が少なく、中年の鉄オタは、近寄りがたい雰囲気が目に着き、同性でも一緒にいたくないなあ、と感じます。

偏見でなくて、旅する人には、若くなくなってくると、ある種の清潔さが必要で、それか芸術家タイプの特異性が要ります。その両方とも不足している人は、とにかく身嗜みと、車内でする会話に、仕事や身近な人の話題は、しないことです。

野辺山に着きました。予想外に若い、といっても30代までですが、女性の複数客が乗り込んできて、私も4人掛けの席で、美人でないが、清潔そうな女性客らと3人で空間を所有することになりました。反対側の1人掛け対面シートの使いにくさは、こういう時にはっきり判ります。



こんな旅でも、ヨーロッパ舶来の帽子をかぶり、イタリア製のパンツを履いて、それなりの格好で旅する方が、こういうシーンで女性を前にして臆しません。当たり前のことなのですが、私の前にフランス人のマドモワゼルが座ろうと、服装身嗜みを見られても、「日本人のセンス」と国際力を試されることもあると、僕は思うのです。



残念ながら、日本一標高の高い区間あたりは、降りしきる秋の雨で、八ヶ岳も見えません。この次に小海線に乗りにきた時は、佳い天気であって欲しいと思いました。



小淵沢で10分時間があったので、切符を作り直して、身延線経由の大阪行きを求めましたが、駅員がここまでの切符は回収して、新しい切符を作るのがルールというのが、どうも納得いきません。若い駅員と喧嘩しても時間の無駄ですが、変な精算の仕方です。間違っていないと思うのですが、やれる方法(お客側の主張)を聞かないというのは、JR東職員の、変な思い込み主義のように感じました。

さて甲府まで数駅東京側に戻り、身延線に乗車します。富士から源道寺までの区間は1981年夏の東北旅行の途中で、岳南鉄道訪問と、新車で投入された小豆色の115系の写真が、残っていますが、当時の電車は1台も残っていません。



新宿行きの「あずさ」も発着する東京の匂いがする県庁駅。東京に戻らずに、支線を選んで、遠く遠く回るということに、どれだけの意味があるのでしょう。




車窓は、甲府を出て暫くは、甲州の平凡な田園風景が続きます。
前身の富士身延鉄道は、私鉄でした。昭和初期にも富士山ブームがあり開通。甲府と富士駅を結ぶローカル線ですが、途中の富士宮という富士参拝の麓町は大きな町です。



1時間くらい走ると、やや山峡の温泉町が見えてきました。「下部温泉」と言います。変な名前だなあと、下半身チックな想像をめぐらせていると、隣の駅名が「はだかじま」というのに、吹き出しそうになりました。



漢字で書くと波高島なのですが、かな音だけだと普通「裸島」だと思いますよね。「温泉ストリップ芸者」とか、昭和時代の風俗に影響された子供は、いつ間で経っても、ドリフから抜け出せません。(苦笑)

身延も大きな街なのですが、こちらもお寺の本山のある宗教都市です。
夕暮れ迫る頃に、ようやく富士宮の前を通過しました。






ところが終点の富士に近づくにつれて、単線運転なので、10分程度の遅れだったのが、東海道線の雨による列車遅延の影響を受けて、さらに富士駅の手前で、ホームがいっぱいのために入線できず、25分以上遅れてしまいました。

静岡まで出て、ひかりに乗れば、普通の時間のうちに新大阪に帰りつけられたのですが、ここでも天の邪鬼の心情がむらむら来て、結局静岡駅近くで一泊して、明日の朝から東海道線を普通で戻ることに決めました。
またまた、時間とお金の無駄遣いかしら。



Posted at 2013/09/20 05:34:04 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2013年09月20日 イイね!

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る①

首都圏の旅/軽井沢から高原と富士を巡る①夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん
間が空いたが、終わっていない。
高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の
要都、高崎に着く。ここからは
信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、
長野、直江津を過ぎて新潟を目指し
もう一本は、上越線というトンネルで
関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






Posted at 2013/09/20 03:45:40 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域
2013年09月19日 イイね!

大阪56ナンバーのセリカ

大阪56ナンバーのセリカいつも世話になる修理工場に
車検らしい古いセリカがきていた。
そのナンバープレートにびっくり。
大阪56ナンバーである。


写真は少し加工していますが、だいたいの雰囲気がつかめると思う。



スピードスターのホイル。



ショックは今でもガブリエルなのだろうか。



特徴あるフロント周り。このモデルは最初期の赤1テールではなく
オレンジの混じった昭和48年以降のタイプだ。
またGTVというモデルは、最初になかったグレードで、
ラジアルタイヤを備えて、レビン/トレノに呼応したスパルタン
仕様ということ。



エンジンは、80年前後に名を馳せたチューナー、クワハラ自動車で
1850にアップされているらしい。



現オーナーは、新車時から乗られているのでは、とのこと。
2年間で数十キロしか動いていない。嗚呼勿体ない。
Posted at 2013/09/19 16:38:55 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年09月13日 イイね!

クルマいじりと日本社会の変遷を考える

クルマいじりと日本社会の変遷を考えるアメリカから半年前に帰国されたパパンダさんが
日本のオートショップの基本部品の無さに
嘆かれていたので、筆を執りましょう。

私も10年前に異変に気付きました。
オートバックスが増えて、既存の独立系カー
ショップが激減。
そうすると、昭和の時代のような、フォグランプや
フィアム、ボッシュのホーンを売っていたような
風景が無くなり、買いたいモノが殆どない。

役に立たない香水の強いケミカルとか、カーナビ、私の見ない
自動車テレビとか、そんなのばっかり。

「グリス1つ置いてねえんだよ」と多少のDIYの気持ちのわかる
カミさんに愚痴る始末。

どうしてこんな世の中になってしまったんでしょうか。

1つは、クルマはいじって乗るモノでなくなった。
白物家電化の度合いが一気に進んだ。

あとは、昔のオートショップにあった、雑駁な「いかがわしさ」が
社会の透明化で、排除が進み過ぎたからです。

フォグランプ一つでも、昔はピンからキリまでありました。
マーシャル、シビエのフランス勢を筆頭に、ルーカス(英)ヘラ、ボッシュ(独)
なんていろいろありまして、国産の小糸、スタンレーのあたりまでが水準かしら。

PIAA(これ大阪だったと思いますが)、ゾルベとか、怪しくなってくると、ほんと、
わけワカランパーツ業者のものが端の方にあり、ワクワクしながら「怪しいなあ(爆笑)」
と買いもしないのに、日曜ごとにショップに往く楽しみがありました。


京都に、大学の頃から30年以上続いている「小林ドライブショップ」というお店が
北大路の先にあります。
1昨年高雄の帰りに、タイヤの空気が抜けているので立ち寄りました。
おじいさんになったオヤジに、昔ここよく来ましたよー、というと、
「昔は忙しかったねー」とのんびり懐かしむ会話になりました。

その頃はさぞ儲かっていたのでしょう。

12年前に私は旧車のメーリングリストを開設して、こんな文章を書いた記憶があります。

自動車産業は、メーカーが大企業となり沢山の雇用や消費経済に寄与しただけでなく、
ロードサイドの風景も一変させた。
燃料供給のスタンドだけでなく、パーツを扱うカーショップや、自動車で行くレストラン
まで、非常に大きな生活スタイルに影響を与えて、カーショップだけで一家が食える
レベルになり、中にはビルを建てるくらいの経営者も産み出したほどである。
それが今、その時代が終わろうとしている、と。

私なりの自動車社会学の考え方をまとめてみたのでした。

さて、ドライブショップにホース類やコード類に置いてなくても、ユーザーの大半は
困ることもなくなりました。
日本の自動車は、壊れ難くなり、完成度が上がって、バラしたり素人が出来るものでは
次第に無くなって来たからです。

これは日本人の一面、几帳面な良さでもあるのですが、反対にそれで食えていた人たち
を放逐することにもなりました。

時代は進化するのだから当然じゃないか。それが今でも日本人の多くの多数意見だと
思いますが、僕は絶え間なく進化や次のステージを迎えなければならない考え方で、
日本人の多くから、活力が失われつつあることに警鐘を鳴らす立場です。

最近フェイスブックで東欧の自動車好きと繋がるようになり、向こうのカーライフ
風景を見て「まだこんなことやってる!」と驚くと共に、ある種の懐かしさと羨ま
しさも感じています。

私は1971年のままのクルマに27年乗り続けて、「まあこれでもいいんじゃない」と、
平気な所がありますが、本音はこういうクルマに関わる人の仕事を無くしたくない。
発注があれば存続出来るだろう。ならば乗り続けて、そういった職人を残していきたい
というのが、考え方です。

あと、カーショップにとどまらず、自分の手を使うことの大切さ。
日本人はホビーと言うと、収入活動や教育活動より、一段下、無くても良いと思い勝ち
です。それは間違いです。
真に豊かな人間的なライフを目指すのであれば、一生手と頭と、体は使わないと
すぐに駄目になってしまいます。

だから本当はオートバックスを批判したいのではなく、豊かなカーホビーを
続けられるような自動車社会の実現こそが、エコとかで家計と神経をすり減らす
より、よほど人間的な生き方だと思うのです。

だからカーショップも、ぎりぎりの採算ばかりで多店舗化、メガ化をめざす
ばかりでなく、クルマいじりの楽しさや、ホビーライフの豊かさを目指す方向に
シフトして、捨てられるようなケミカル中心から、提案型に行って欲しい。

実は、スーパーオートバックスには、最近は中古パーツコーナーが有り、
この間は自己責任で(笑)軽用のオーディオを2000円で買って来たところでした。


(古い)クルマも喜ぶ。修理工場も仕事が続けられてハッピー。乗っているオーナー
も幸せな気分で乗り続けられる。これが自動車社会の幸福だと、私は考えます。

日本人社会は、これからは、多様性のあるホビーと、維持出来る社会の方を
目指すべきでは、ないでしょうか。




Posted at 2013/09/13 10:19:05 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2013年09月12日 イイね!

首都圏の交通を考える第2弾

首都圏の交通を考える第2弾最初はつくばエキスプレスだが、
これが出来たのは、2005年だった。
8月の最終週で、9月からの新学期輸送に間に合わせて開業しました。
別名(正式名称)首都圏新都市鉄道という。
最高運転速度130km/hの日本一の俊足通勤路線である。線名に高速とか急行と入れていないのがクールなのか。

ご存じない方のために補足すると、常磐線の輸送量の増加に伴い、
1980年代より構想はあった。
常磐線は、上野ーいわき(旧平)ー仙台を結ぶ幹線だが、長距離の客と、取手以南の通勤輸送、さらに貨物と3つの役割を負わねばならず、新幹線は東北本線に沿って作られたので、やはり通勤輸送の補完は必要となっていたと思う。

1960年代までの常磐線は、SLの煙が残り、ローカル情緒の残った
路線でもあった。
通勤電車の代名詞、103系のカラーリングも、中央線、総武線、山手線、京浜東北線までは出て来るが、常磐線?何色だっけ、の印象が
乗らないものには強かったと記憶する。

TXが出来て、大きく変わったのは、始発秋葉原のイメージと、流山などの沿線風景だと思う。
知人が足の便が良い、流山市にいるので、乗るようになった。
私もその特徴について、やっと考えるようになったところである。


流山には、こんな電車もある。



総武流山電鉄だと思っていたら今は流鉄(りゅうてつ)が正式名称らしい。
常磐線松戸駅から少し先の馬橋から流山市役所の横まで5キロ強。
全線単線2両編成の電車が、とことこ走っている。

趣味的には「こっちだ」と思った人。私もその一人です。
首都圏でも、こんな奇跡のような路線が生き残っているのが嬉しい。
常磐線の道中、上野を出て最初に探訪する中小私鉄だったのです。



TXの電車の顔も、非貫通の2枚窓運転台風だが、流鉄のこいつは、元西武の2代目101系で、西武顔しています。
このあと馬橋まで戻らず、一駅手前の幸谷で降りました。

ここから歩いてすぐの所に、常磐線の新松戸駅があります。
そこから武蔵野線に乗り換えました。



新松戸ー府中本町までの武蔵野線の最初の開業区間が開通したのは1973年4月1日。
これに伴い府中の東京競馬場近くを走っていた盲腸線の下河原線が廃止になり、日本一長い駅名(当時、国鉄)の「とうきょうけいばじょうまえ」駅が廃止になったことを思い出します。

武蔵野線は、今年でちょうど開業40周年です。
この駅看板はおそらく国鉄時代からのものではないかと推察します。
またエスカレータや自動改札は、関西の阪急あたりが最初に採用し、首都圏では武蔵野線が始まりだったと言われます。
今目の前に見ている風景は40年前のナウ、既視感のようでした。
私って、変な所に感動する人間ですね。



走って来たのは国鉄最後の新製通勤型電車の、205系です。
関西のJR西日本には、数編成しか投入されなかった珍しい形式です。
この電車が出来た頃が、83、4年で、サラリーマン1年生だった頃。
東海道線で入線して来ると、嬉しかった記憶が甦りました。

      北?
      |
      ?
      |
   西?ー南?ー東?

この判じ絵は、何だか判りますか。
鉄道路線図で?の所に入る駅名が浦和です。
今は西と南の間に埼京線が通り、武蔵浦和と言うややこしい駅名が増えています。
昔は時刻表クイズの頻出問題で、好意的に眺めていた大衆も、ネット社会では安易なネーミングと、厳しい意見を見かけるようになりました。

そこに私は時代の空気の変化を敏感に感じます。
武蔵野線の計画から開業までは、昭和40年代がすっぽり被さります。
高度経済成長期の最後の駆け足が、この73年春で、秋には石油ショックが始まりました。
同時期に根岸線も開通して、首都圏は埼玉・千葉・神奈川に完全に広がりました。

この武蔵野線は、貨物輸送のバイパス動脈で、越谷と新座の貨物ターミナル新鶴見に殺到する貨物を、常磐、東北線方面に回すために作られたのが目的でした。
首都圏のスプロール化は、80年代まではのんびりしていたのでは、ないでしょうか。

そうやってみると、圏央道とか、高速道路の発展が今の時代の象徴かもしれません。
私は南浦和から東北線に乗り、大宮から、さらに高崎線に乗り換えて高崎を目指しました。



大宮の大発展には、鉄道が欠かせないと思う。東北本線が私鉄の日本鉄道で開業した明治の時代から持っていた運命のようなものが、あるのではないか。
1982年から85年まで、東北、上越新幹線が大宮始発で暫定開業した時にも、大宮は注目を集めた。県庁所在地は浦和であり、大宮はサブの副都心であったが、この時に一気に大宮の都市機能の優位性がクローズアップされたと思う。



駅横に、県庁所在地級の岡山や広島では見られない、巨大な建造物が並ぶ大宮。
紛れも無い東京の分散機能が、ここに集結している。市政開始は1940年で、私の住む池田より後なのに、驚いた。



ところで社会批判でなくルポだと思って読んでいただきたいが、首都圏の東京への通勤は100kmがおかしくない。
その為にはあらゆる利用者本位の鉄道社会が成り立っており、新幹線通勤も通学もあることは、知っている。
近年東京に行く度に、いやでも目に着く2階建てのグリーン車について少し書く。

211系の2階建てグリーン車が東海道線の快速電車に連結され始めたのは、1989年の景気の良い頃であった。
その前に新幹線100系が1985年に登場し、食堂車とグリーン車は、鉄道旅のカンフル剤効果を狙って、国鉄では初の2階建て車両となった。
これに範を得たのだろうなと当初は思っていたし、東海道線と横須賀線は、戦前から2等車(グリーン車)を連結するのが、常であった。
大磯辺りに静居する貴人や政治家、横須賀線は上級軍人の利用のためである。

内田百閒の「阿房列車」などを読むと、1950年代でも仙山線や準幹線級のローカル線に2等車が連結されており、先生は「お金が無い」と言いながら、紳士は上等車と、きめているのが可笑しい。
今のローカル急行は、もうないから、特急のグリーン車と思ってもらっても良いが性質は、ちょっと違うのである。

この首都圏の通勤グリーン車は、「失われた20年」に、飛躍的に伸びた。
とくに2004年秋から湘南新宿ライナーが大増発されて、北関東方面から山手線西側を通り神奈川県中央部まで、快速電車が駆け抜けるようになり、国鉄時代の鉄道知識は、役に立たない「古い辞書」のようになってしまった。舌を巻くような「運転」が首都
圏でされているのを目の当たりにして、全く時代は変わったと痛感する。

15連で編成されたE231系快速が、数分おきに駆け抜け、4、5号車には2階建てサロが
必ず連結されて、私も「贅沢」と思いながら行く度に、好んで乗るようになった。

埼玉県の深谷の隣に籠原と言う駅がある。地味な駅だがここが15連の始発であり、高崎まで行くのは10連だ。川口あたりで迂路ついていると、籠原という行き先を書いた電車がよく通るので、すっかり名前を覚えたが、通ったのは今回の旅が始めてであった。



今は常磐線や、総武線快速にも2階建てグリーン車は連結されている。
新幹線と東京を中心にした金銭感覚は、遠慮なく、遺憾なく発揮されるようになった。
落ちて行く地方都市の中で、車でいえばベンツに乗れるような、地方の名家は少しずつ没落して行っている。
資産を維持することの難しさと、一極に集中するモノの対比。
私の旅というのは、そのような歴史の渦の中で、変わって行くことの焦燥感や諦めに似た思いを抱えた苦しみがつきまとう。

何かのせいとは思わない。ただ、少しずつ変化する社会の中で、生きることは旅に似ているなと、思ったら、終着の高崎の都市風景が、車窓に映り始めた。

(つづく)


Posted at 2013/09/12 12:31:21 | トラックバック(0) | 日々の旅 | 旅行/地域

プロフィール

「暴論と思うが日産をトヨタが救済することは無理だろうか http://cvw.jp/b/176891/48492730/
何シテル?   06/18 16:04
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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