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kotaroのブログ一覧

2013年10月31日 イイね!

FIAT車好きにオススメ。

朝からこういう動画を見つけて、喜んでおります。
スペインのSEATの60年史みたいなCMだと思う。
この中に、私が乗ったことのあるクルマが何台か
でてきます。
もちろん今乗っている850クーペも。

パンダもマルベラという名前で売っていたと思う。




80年代にイビーザを出すまで100%ノックダウン工場だった
SEAT。
今はオリジナル色強くなりましたが、やっぱりラテンだなあ
と思いました。
Posted at 2013/10/31 10:12:38 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年10月30日 イイね!

今年という年

今年という年













また雑誌の表紙に借りて記事を書くのだが、
まさかの大小林彰太郎氏との、別れの年になってしまった。

私たちは、やっぱりクルマのことをより良く理解して、
日本社会の中で、国際的に通じるホビーライフを維持していかなければ
ならないと思う。

カーグラフィックという、情報源を取り上げていうと、
雑誌が発行年ごとに厚くなった、70年代の終わりの方が面白い。

広告が急速にCG誌に集まり出した時代なのだが、前にも書いたが
実は石油ショックで、日本のモーターシーンは、ぱっとしなかった。

しかも国際的には、英国車の凋落、アメリカ車の恐竜のように大きかった
車が衰退し、イタリアはストだらけで、フィアットもアルファも
ぼろぼろだった時代に、カーグラは、国内の小さな部品ショップなどの
広告を集めて、元気だったのである。









それは、普通に考えると70年代の中の奇跡のように思われる。

でも内需は結構あったし、僕やその前後の男の子も雑誌はよく読んでいた。
広告を出していたような小さな部品メーカーは、もう存在しない。
そういった出稿主たちは、この雑誌にきっと共感していたのだと思う。

悲観的に時代を捉えるより、独自の見地で、面白い話題を探して、本を作る。

また、降って涌いたスーパーカーブームを、批判的にとらえて、しかし時を置いて
フェラーリのボクサーエンジンベルリネッタをきちんと、文字と写真で表す。







そういうことが、一番大事なことではないだろうか。




今の時代は、という前提で物を書いたり、語るということは、今時の若者は、
という議論や考え方とあまり変わらない。

インターネットが万能だから、もう雑誌が要らないとは、みんな本心から
思っている訳でない。

面白い記事や、値段に値する原稿が2本以上あれば、僕はお金を出しても
本を買おうとするだろう。
ラジオやテレビも、見たり聴こうと、きっとするだろう。






要は内容なのである。


大切なことは、飽き飽きしないこと。

楽しさを発見する能力。

それから、ひと(他人)と同じことをなるべく考えない。


わずかな差異から、人間は学ぼうとする気持ちや研究心が生まれてくる。

大きな星は、西の空に流れ去ったが、きょうもまた、僕は車を動かしたり
本を読んで感じたり、楽器を触って何かを感じようと思う。


そういう気持ちを、忘れるなよ、ということを空の上から、きっと
語っているような、気がする。



Posted at 2013/10/30 14:44:22 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2013年10月29日 イイね!

巨星墜つ

巨星墜つ








今朝はこのニュースしかないだろう。
「カーグラフィック」初代編集長、小林彰太郎が死去…享年83歳
自動車雑誌『カーグラフィック(Car Graphic)』(二玄社、その後カーグラフィック)の初代編集長であり、現名誉編集長の小林彰太郎氏が10月28日、死去した。享年83歳。

小林氏は1962年、二玄社よりカーグラフィックを創刊、初代編集長の職に就いた。
同誌は「暮らしの手帖」に範をとった消費者視点による独立カージャーナリズムという
立場から、商品としての自動車のみならず、自動車が持つ社会的意義や道路行政にまで
踏み込んだ幅広い評論活動を展開し、多大な支持を得た。就任後、27年の長きにわたり
同職を務め、その後編集顧問、名誉編集長としてひきつづき自動車ジャーナリズムの
一翼をになった。

著書には『On the road―すばらしきクルマの世界』(二玄社)、『小林彰太郎の日本
自動車社会史 』(講談社)、『昭和の日本 自動車見聞録』(カーグラフィック)など。
翻訳書としてはポール・フレール執筆による『ハイスピード・ドライビング』『新ハイ
スピード・ドライビング』(二玄社)を手がけたほか、児童書の『じどうしゃアーチャー』
(教育画劇)の監修などもおこなっている。《北島友和》
(自動車関連のニュースサイト、レスポンスより)


夏が終わって暑いままの秋が来て、ようやく涼しくなったと思ったら
日本のモータージャーナリズムの最高峰が静かに世を去った。

私は昨年の9月、CG50周年のイベントに、愛車の850クーペを駆って、
土日で弾丸往復して、その見て来たことを数本の記事に書いている。

大阪から40年前の車で自走したカーグラフィック50周年イベント
箱根・御殿場幻想はいま~CG50th Dayに寄せて

そんなに真面目な熱心なカーグラフィックの読者ではない私だが、この
時は参加することは、伝説のライブを見ておこうみたいな、気持ちで行って
来た。
やっぱりこういう日が来ることを、心のどこかで予感していたのだろう。

クルマというものは、機械であり、交通手段であり、仕事に使う道具
でもある。
しかしその物体は、人類の生み出した装置の中で、最も愛着や、思い入れ
のこもったメカニズムであり、それを向上させるために、人類は限りない
努力熱意と感性を注ぎ込んだ。

人間は文章という文字記号を通じて、感性や理解力を共有する生き物だ。
そのために人間は雑誌等の媒体を造り出して、そこに原稿を書き、新しい
自動車が作られると、どういう性能で、どういう目的で、今度はどう変わ
ったかを書き連ねて来た。
これがモータージャーナリズムの、嚆矢である。

そんな伝達手段を、情報の乏しい時代は、文章を読んで、「代理経験」
することで新しいクルマに、ワクワクした。それは、今読んでくれている
皆さんも判るだろう。
そんな中に、強い個性を持ち、他者と違った視点や感覚で、このクルマの
ここが面白い。
ここが駄目。
それは志が低いから。

そんなトーンで、1冊の自動車雑誌は、ファンを作り、読者を集めて、まあ
啓蒙もして来たのだと思う。
僕は昨年の「50年」というイベントに行きたかったのは、そこを見たかった
からだと思う。
それは3才の時に創刊した雑誌だから、最初から見て来た訳でない。
しかし10才くらいから、自動車が家に無いのに興味を持ち、13才くらいから
カートップやオートスポーツを買っていた少年だ。

日本グランプリというのが体育の日に行われていたことも、スカイライン
GTRの連勝のことも覚えている少年だ。

だけど、小林彰太郎という人の作っている雑誌は、一際高踏であった。
それを理解するのには、大学生くらいからの頭脳を持ち、人生体験通じて、
品質の良いものを見抜く力が要った。

今朝はそう言うことを考えている。
日本は言葉に言えないくらいに、豊かになったのに。
どこで、こういうふうに変わってしまったのだろう。

レクイエムのつもりで書き始めた文章だが、自動車と、自動車文化を愛する
人たちと、共通の喪の気持ちを、抱いていたい。

2013年10月29日朝
kotaro
Posted at 2013/10/29 07:29:29 | トラックバック(0) | 思うこと | ニュース
2013年10月27日 イイね!

850クーペの近況

850クーペの近況いろいろと忙しい秋になりました。

つい先ほどまで、近所の会館で
障害者の方々の慰問かねて
ボランティアでギターを弾いたりして
きたのですが、花見や宴会の芸とはまた、
違う心遣いが要ったようです。



さて長らく工場に行っている850クーペはどうなっているのでしょうか。
ちょっと隣町まで、歯科医に行かないといけない状況になったので
またアルファを出すことにしました。普段は電車+自転車を借りているのですが。

工場に着くと、入れ替わりに見慣れないクルマが数台着ています。
まずはこれ。



さあ何でしょう。
実は私の今の愛車と、ほぼ同時期の同一メーカーのクルマです。



珍しくなりました。
アルファロメオ164です。
それにしても、室内空間のデザインは、秀逸です。



両方並ぶのは、稀少車×稀少車で、非常に珍しい遭遇だったのでは、ないでしょうか。
それも、似たような紺色ですが、微妙に違います。
僕の方が、紺ではなく、灰色がかったモナコブルーに近い気がします。

さて、850クーペの方は板金が佳境になってきました。

フロントにはエンジンが無いので、トランク代わりなのですが、ここの床が
長年の腐食でくさっています。



恐ろしい腐食をお見せすると、もうすでに一部のパネルは切り取られて
こういう状況になっています。




切り取られた部分というのは、どんな形状の鉄板で、どんな状態だったか、
お見せしましょう。
こんな複雑な形で、これだけひどい状態であったのです。
しかし、これを1枚の鉄板から叩いて造り出してくれるとは。
さすがは職人です。




また、おもしろい物をお見せしましょう。



シートカバーも、私が買って来た布地で鋭意製作中なのです。

これを担当するのは、この工場一家の、紅一点娘さん。



こうして今、私の850クーペは、
板金一筋40年以上のベテラン職人、実務整備全般と部品の調達その息子、
シートカバー等の制作が娘さんと、工場ファミリー総掛かりで、復活再生に向けて
作業中でございます。
あたしも差し入れだけでなく、もっと体を動かさないといけませんですね。

ではまた来週♪

Posted at 2013/10/27 15:19:43 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2013年10月26日 イイね!

遥かなる北陸

遥かなる北陸旅から帰って、カメラを無くしてしまった。
この旅行記の写真は運良くダウンロード
していたので、こうして記事が書ける。

ほの遠く離れて行った、機械の触覚の
記憶が薄れて行くことは、寂しい。
でも日記の文は、新たに生を与えることで
他の人が読んでいただけるなら、
それでいいのではないだろうか。



新井の道の駅に近いホテルを出発する。
北陸の朝は鉛色の空になり、昨日まで見ている風景と異なる。
まるで白黒の世界に、自分の気持ちがすっぽり嵌って行く。
それは50を4年も過ぎた男の人生の絵の具のように、似合っている。



妙高から暫く国道を走っていると上越市に入る。
大きな国道から旧街道を抜けて、上越という町の空気を吸い込み走る。

直江津という港町は通らずに高田の方を走って行く。



道路脇の歩道には、民家商家の軒が伸びて、積雪の時期の道を確保している。



道路脇の電柱に、噂には知っていたが「スキー正宗」という日本酒の広告
看板が掛かっている。面白い名前だと思うが、スキーが名物になった時代に
ハイブリッドな感覚で付けられたのであろう。


上越市の構造は、港町の直江津と、古い歴史のある高田の融合体だ。
同様の例は、福島にある。いわきは、常磐線の平と、漁港工業港の小名浜
などが合わさって出来た複合都市だ。
上越にはもう一つ看板がある。上杉謙信の居城だった春日山である。

昨夜の僥倖には謙信公ゆかりのこの地を通るなら、無視も出来まい。まだ
朝のうちで時間もあるだろうから、きょうはずっと高速で帰る予定だから
早い時間に立ち寄れたらと思っていたら、それらしき山の形が見えて来た。



あの山上が、旧春日山城なのであろう。
北国を思わせる街路樹が、雪国情緒を高めてくれる。



連休が終わり平日の朝なので少し国道は慌ただしかったが、公園近い
あたりは、やはりこの時間でも静かである。



道を二度三度曲がって、城跡の近い駐車場まで入って行く。





いきなり胸突きの階段を上って行く。



上りきると、いかめしい神殿が出現する。祭神、上杉謙信公の現人信仰に、
これは明治神道であることを、後から思いついて納得した。神戸の湊川神社
も似た経緯の神宮である。そう言えばどことなく靖国神社の鳥居に似ている。



これもすごい。そびえる石柱に東郷平八郎の名前が彫り込んである。
篤志家の寄贈で、揮毫が大元帥なのである。



僕は明治の時代を否定はしないが、こういう時代であったのである。
おそらくは、春日山は、長い間に忘れられて、城山くらいの古戦場になり
赤松が多いので、付近の村人たちが松茸山くらいで入会利用していたのだろう。
江戸時代までに、お寺と神社は合体していたのを分離した場所も、
今でもたくさん残っている。

それより山上の本物の城跡を見に行こう。





八合目付近にあった直江屋敷のあと。
兼続もここに居たということらしい。



毘沙門堂に、今も祀られている謙信ゆかりの毘沙門天。
本物だろうか。それにしても上杉謙信は謎めいた人で、生涯も秘密めいた
ベールに包まれている。数年前の戦国ドラマでGacktが演じたのも、私は
面白いと思った。



春日山山上にて。
こんな空の色を、武将たちは毎日眺めて、所領の越後や、甲州の武田の
ことを考えて、時には京都に出奔することもあったのだろうか。
私もこの後の長い道程を、一日で駆け抜けられるか、考えていた。



国道8号線に出る。この長い道は、右手に日本海を眺めながら新潟市の
万代橋付近を起点に、越後、越中、加賀、越前と走り近江の草津まで続く
長い長い国道である。

春日山を下りて、湯殿山のトンネル付近で乗って、出たところから海の風景
が始まる。



大型トラックの後を着いて、ずっと走るのも息が切れるので、時々こうやって
日本海に面した漁村の風景等も撮ってみる。



能生付近にて。
北陸本線は親不知の険阻以外に、このあたりの頸城地方で大掛かりな
地滑り災害があり、昭和40年代に筒石駅はトンネル駅に移設されている。
国道の少し上に、現在はサイクリングロードになった旧北陸線が残っている
ようであるが、さすがの自転車族もこの日は走っている姿を見かけなかった。
整備状態も悪いのであろうか。



この信号を左折して、能生から北陸自動車道についに乗る。
その前に手持ちが少なくなったので、金融機関の一つもあろうかと探して
みる。曲がったところに建っていた民家。元は商業建築であったのだろう。
洗濯物の開けっぴろげな干し方が面白い。
こういうのを一瞬見るだけで、旅は楽しくなってくる。



糸魚川信組能生支店駐車場にて。
隣に停めている唯一の同クラスセダン、ランサーセディアの停め方がむちゃくちゃ
ルーズすぎて笑ってしまう。もっと綺麗に写真を撮りたいがさっきから
ぺちゃくちゃ喋っている若い主婦たち3人に警戒されたくないので
隠れてこんな写真になった。



国鉄=JR能生駅の駅舎。おそらく昭和44年の線路移設で建て替えられた
ものであろう。

能生の町には、このあと高速に乗るまでの、一瞬しか滞在しなかったが、
北陸といっても、目の前がだだっ広い日本海に面し、明け透けな性格が
窺えるようであった。



最後にこれ。高速にのるランプに信号機が設置されている。
湖西道路のような一般有料道で、あったような。
よほどアバウトな運転で事故でも多発したのであろうか。
考えれば考えるほど、能生の町は不思議な感じがした。

能生駅の歴史を読んでいたら、1961年に初の特急「白鳥」が走り出した
時に、単線区間の列車交換で、従来から正規でない運転停車でも、この駅は
こっそり客扱いを急行とかでもしていたようである。

能生駅では、「おらの町にもついに特急が来た」と運転開始日に町を挙げ
「ミス能生」まで選出して、花束構えて待っていたら、自動ドアの特急は
無情にもドアは開かず、発車して行ったそうである。面白すぎる。
こんな滑稽映画のような世界が、半世紀前にあり、今もその空気は伝わって
いると私は思った。



ここからは、昨年のフィアットフェスタの帰りにも通った高速風景だ。
糸魚川青海町付近のセメント工場コンビナート風景。
冬場の風景はこんな素敵なシーンになるらしい。



続いてすぐに見えてくる水力発電の揚水ダム風景。



1時間ほど走って小さなパーキングで休息。
まだ時間はお昼前くらいである。



富山、石川と駆け抜けて、福井県に入ると、天気が台風の影響で崩れ始めた。
雨は石川あたりで、ぽつぽつと来ていたが、すぐに上がったりした。



遠くに山が見えて来て、福井県でも越前と若狭、そして近江滋賀県の奥地
との境に、山脈が開けていることがよくわかる。これまでは大阪京都方面から
旅しても、帰るのが夜だったりして、知らなかった風景だ。
福井県の宿に泊まると嶺南/嶺北地方という天気予報の呼称に、旅情を感じる。
しかしこういった目の前に山が立ちはだかる風景を見ると、越(こし)の
国という古い言い方は、山を越して到達する国だからの、地名であったこと
がよく判る。

だんだん目の前に迫り来る山に直進している。







今庄付近まで来ると、ほんとに目の前に山が立ちはだかる印象だ。
名神の関ヶ原越えも、何度も体験したが、北陸道の景色も面白い。



雨は降り止むこと無くブルーグレーの車体を濡らす。
僕はそろそろ休憩を取らないと、と思い、びしょ濡れの賤ヶ岳SAに
滑り込んだ。





旅の記憶はこのあたりまで。
もう航続距離は1600km、1000マイルを超えた。

旅から帰ると大きな達成感とその後の静かな反動がやってくる。

いまは大きな仕事をやっていない僕は、2度目のアルファでの遠乗りで
まさかこれだけ走って来たとは驚いている。

手に入れて数ヶ月。
この歳でロングドライブの記録を塗り替えるような長旅をしようとは
思わなかったが、反省点もある旅になった。
クルマは何のために持つのかといえば、走ることと使うことで、
あまり面白くないモノスペース(ワンボックス)ワゴンに今後も進むことは
ライフスタイル的に無いだろうと思う。



現実に昨日は免許証のことで、講習を受けて来て思ったことは、
もっと楽にクルマに、集中力を切らさずに乗るには、余計なエネルギー
を使わない方が、事故が少ないというのを聞き、早めの夜間点灯は
既に心がけているが、信号で消すことも、特に雨の夜はそれだけアクション
が増えて、ミスをする可能性が増えると気付き、やめてみた。

そんな風に思えば、バックモニターの着いたプリウスに乗ることは
80才でも運転できるのだと、考えるようになった。

この旅と、帰って来てからの感想はそんな風になったが、850から
アルファになっただけで、一度の旅の航続が大幅に伸びた。
今はそのことから次は何をしたいか、考えているところである。


(おわり)



Posted at 2013/10/26 07:56:09 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ

プロフィール

「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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