
旅から帰って、カメラを無くしてしまった。
この旅行記の写真は運良くダウンロード
していたので、こうして記事が書ける。
ほの遠く離れて行った、機械の触覚の
記憶が薄れて行くことは、寂しい。
でも日記の文は、新たに生を与えることで
他の人が読んでいただけるなら、
それでいいのではないだろうか。
新井の道の駅に近いホテルを出発する。
北陸の朝は鉛色の空になり、昨日まで見ている風景と異なる。
まるで白黒の世界に、自分の気持ちがすっぽり嵌って行く。
それは50を4年も過ぎた男の人生の絵の具のように、似合っている。
妙高から暫く国道を走っていると上越市に入る。
大きな国道から旧街道を抜けて、上越という町の空気を吸い込み走る。
直江津という港町は通らずに高田の方を走って行く。
道路脇の歩道には、民家商家の軒が伸びて、積雪の時期の道を確保している。
道路脇の電柱に、噂には知っていたが「スキー正宗」という日本酒の広告
看板が掛かっている。面白い名前だと思うが、スキーが名物になった時代に
ハイブリッドな感覚で付けられたのであろう。
上越市の構造は、港町の直江津と、古い歴史のある高田の融合体だ。
同様の例は、福島にある。いわきは、常磐線の平と、漁港工業港の小名浜
などが合わさって出来た複合都市だ。
上越にはもう一つ看板がある。上杉謙信の居城だった春日山である。
昨夜の僥倖には謙信公ゆかりのこの地を通るなら、無視も出来まい。まだ
朝のうちで時間もあるだろうから、きょうはずっと高速で帰る予定だから
早い時間に立ち寄れたらと思っていたら、それらしき山の形が見えて来た。
あの山上が、旧春日山城なのであろう。
北国を思わせる街路樹が、雪国情緒を高めてくれる。
連休が終わり平日の朝なので少し国道は慌ただしかったが、公園近い
あたりは、やはりこの時間でも静かである。
道を二度三度曲がって、城跡の近い駐車場まで入って行く。
いきなり胸突きの階段を上って行く。
上りきると、いかめしい神殿が出現する。祭神、上杉謙信公の現人信仰に、
これは明治神道であることを、後から思いついて納得した。神戸の湊川神社
も似た経緯の神宮である。そう言えばどことなく靖国神社の鳥居に似ている。
これもすごい。そびえる石柱に東郷平八郎の名前が彫り込んである。
篤志家の寄贈で、揮毫が大元帥なのである。
僕は明治の時代を否定はしないが、こういう時代であったのである。
おそらくは、春日山は、長い間に忘れられて、城山くらいの古戦場になり
赤松が多いので、付近の村人たちが松茸山くらいで入会利用していたのだろう。
江戸時代までに、お寺と神社は合体していたのを分離した場所も、
今でもたくさん残っている。
それより山上の本物の城跡を見に行こう。
八合目付近にあった直江屋敷のあと。
兼続もここに居たということらしい。
毘沙門堂に、今も祀られている謙信ゆかりの毘沙門天。
本物だろうか。それにしても上杉謙信は謎めいた人で、生涯も秘密めいた
ベールに包まれている。数年前の戦国ドラマでGacktが演じたのも、私は
面白いと思った。
春日山山上にて。
こんな空の色を、武将たちは毎日眺めて、所領の越後や、甲州の武田の
ことを考えて、時には京都に出奔することもあったのだろうか。
私もこの後の長い道程を、一日で駆け抜けられるか、考えていた。
国道8号線に出る。この長い道は、右手に日本海を眺めながら新潟市の
万代橋付近を起点に、越後、越中、加賀、越前と走り近江の草津まで続く
長い長い国道である。
春日山を下りて、湯殿山のトンネル付近で乗って、出たところから海の風景
が始まる。
大型トラックの後を着いて、ずっと走るのも息が切れるので、時々こうやって
日本海に面した漁村の風景等も撮ってみる。
能生付近にて。
北陸本線は親不知の険阻以外に、このあたりの頸城地方で大掛かりな
地滑り災害があり、昭和40年代に筒石駅はトンネル駅に移設されている。
国道の少し上に、現在はサイクリングロードになった旧北陸線が残っている
ようであるが、さすがの自転車族もこの日は走っている姿を見かけなかった。
整備状態も悪いのであろうか。
この信号を左折して、能生から北陸自動車道についに乗る。
その前に手持ちが少なくなったので、金融機関の一つもあろうかと探して
みる。曲がったところに建っていた民家。元は商業建築であったのだろう。
洗濯物の開けっぴろげな干し方が面白い。
こういうのを一瞬見るだけで、旅は楽しくなってくる。
糸魚川信組能生支店駐車場にて。
隣に停めている唯一の同クラスセダン、ランサーセディアの停め方がむちゃくちゃ
ルーズすぎて笑ってしまう。もっと綺麗に写真を撮りたいがさっきから
ぺちゃくちゃ喋っている若い主婦たち3人に警戒されたくないので
隠れてこんな写真になった。
国鉄=JR能生駅の駅舎。おそらく昭和44年の線路移設で建て替えられた
ものであろう。
能生の町には、このあと高速に乗るまでの、一瞬しか滞在しなかったが、
北陸といっても、目の前がだだっ広い日本海に面し、明け透けな性格が
窺えるようであった。
最後にこれ。高速にのるランプに信号機が設置されている。
湖西道路のような一般有料道で、あったような。
よほどアバウトな運転で事故でも多発したのであろうか。
考えれば考えるほど、能生の町は不思議な感じがした。
能生駅の歴史を読んでいたら、1961年に初の特急「白鳥」が走り出した
時に、単線区間の列車交換で、従来から正規でない運転停車でも、この駅は
こっそり客扱いを急行とかでもしていたようである。
能生駅では、「おらの町にもついに特急が来た」と運転開始日に町を挙げ
「ミス能生」まで選出して、花束構えて待っていたら、自動ドアの特急は
無情にもドアは開かず、発車して行ったそうである。面白すぎる。
こんな滑稽映画のような世界が、半世紀前にあり、今もその空気は伝わって
いると私は思った。
ここからは、昨年のフィアットフェスタの帰りにも通った高速風景だ。
糸魚川青海町付近のセメント工場コンビナート風景。
冬場の風景はこんな素敵な
シーンになるらしい。
続いてすぐに見えてくる水力発電の揚水ダム風景。
1時間ほど走って小さなパーキングで休息。
まだ時間はお昼前くらいである。
富山、石川と駆け抜けて、福井県に入ると、天気が台風の影響で崩れ始めた。
雨は石川あたりで、ぽつぽつと来ていたが、すぐに上がったりした。
遠くに山が見えて来て、福井県でも越前と若狭、そして近江滋賀県の奥地
との境に、山脈が開けていることがよくわかる。これまでは大阪京都方面から
旅しても、帰るのが夜だったりして、知らなかった風景だ。
福井県の宿に泊まると嶺南/嶺北地方という天気予報の呼称に、旅情を感じる。
しかしこういった目の前に山が立ちはだかる風景を見ると、越(こし)の
国という古い言い方は、山を越して到達する国だからの、地名であったこと
がよく判る。
だんだん目の前に迫り来る山に直進している。
今庄付近まで来ると、ほんとに目の前に山が立ちはだかる印象だ。
名神の関ヶ原越えも、何度も体験したが、北陸道の景色も面白い。
雨は降り止むこと無くブルーグレーの車体を濡らす。
僕はそろそろ休憩を取らないと、と思い、びしょ濡れの賤ヶ岳SAに
滑り込んだ。
旅の記憶はこのあたりまで。
もう航続距離は1600km、1000マイルを超えた。
旅から帰ると大きな達成感とその後の静かな反動がやってくる。
いまは大きな仕事をやっていない僕は、2度目のアルファでの遠乗りで
まさかこれだけ走って来たとは驚いている。
手に入れて数ヶ月。
この歳でロングドライブの記録を塗り替えるような長旅をしようとは
思わなかったが、反省点もある旅になった。
クルマは何のために持つのかといえば、走ることと使うことで、
あまり面白くないモノスペース(ワンボックス)ワゴンに今後も進むことは
ライフスタイル的に無いだろうと思う。
現実に昨日は免許証のことで、講習を受けて来て思ったことは、
もっと楽にクルマに、集中力を切らさずに乗るには、余計なエネルギー
を使わない方が、事故が少ないというのを聞き、早めの夜間点灯は
既に心がけているが、信号で消すことも、特に雨の夜はそれだけアクション
が増えて、ミスをする可能性が増えると気付き、やめてみた。
そんな風に思えば、バックモニターの着いたプリウスに乗ることは
80才でも運転できるのだと、考えるようになった。
この旅と、帰って来てからの感想はそんな風になったが、850から
アルファになっただけで、一度の旅の航続が大幅に伸びた。
今はそのことから次は何をしたいか、考えているところである。

(おわり)