
旅から帰ると興奮も冷めて来て
記事を書くのが、億劫になる。
そろそろどうだと、自分の身の
振り方ばかり考えてしまい、
切れ味の鋭い原稿が書けなく
なってはいないか。
木場の宿を出て、2日目の天気がよいので、すぐに早朝のスカイツリーを
見に行こうと、言問い通りと三ツ目通りを走って、昔の東武の業平橋駅の
側までアルファを転がして行く事にした。
前夜の高速から見た印象と異なり、朝のツリーはすっきりしている。
芝の東京タワー周辺は、いかにも地価の高い、港区、品川ナンバーエリアに
あることを、行くたびに痛感する。実は、恥ずかしながらタワーには登った
ことが無い。
ツリーの周辺はご覧のように、工事現場や再開発のようなところだったので
車を置いて写真を背景に撮ることが出来た。
今回の旅には、東武鉄道と不思議な縁が出来て、この日の最後に泊まった
町も、東武の沿線であるが全く反対の埼玉県の奥地である。
ツリーを下から見上げた後は、すぐ近くのジョナサンで車を止めて朝食に
した。パーキングも、この前に泊まった岡山県の津山の駅前みたいで
東京都心のような緊張感が無い。天王寺、あべのハルカス程度のところを
車で回っているような感覚だ。
食事後、時間はまだ早いが、田舎もの故、都心に出るのもおっかなく、
これから行くお台場の方に、のんびりとアルファを転がして行く。
ここからのゆっくりとしたモノクロフォトは「トーキョーホリデー」とでも
名付けたい、今回の旅の中で、一番リラックスして運転の出来たタイムで
あった。
その前に東武鉄道のことを書こう。
浅草・松屋の所から出た東武伊勢崎線は、隅田川を渡り少し離れた最初の
駅の旧業平橋に、大きな貨物側線を持っていた。その外れに京成の押上駅が
付随して、昔から東京の田舎みたいな所だった。これは明治に開通した鉄道
ゆえ、貨物と旅客を両方輸送することで発足した会社だから、関西で言うと
南海と、近鉄の1067mmゲージ区間が、それに類似する。
1067mmゲージは旧国鉄と同じ幅だから、貨車が直通で運転できるのである。
小田急とか東急のような、貨物を走らせない電鉄に比べると、都心近くに
黒い貨物列車がのろくゴトゴト走っていて、垢抜けない印象があった。
それは昭和40年代くらいまで、残っていた風景だ。
実は小田急も、小田原付近では、国鉄と貨物相互運行が、可能になっていた。
いろんな意味での、乗り入れというのは、本来は鉄道の理想なのだが、
今は電車のみに統一される。貨物は遅いのでトラックに切り替えられて
しまった。本当は交通事故や渋滞を減らす意味では、昔のように極力鉄道で
貨物を運ぶのが、理想なのだが、地方駅前の日通事務所も無くなり、いまは
つまらない世の中になった。
東武鉄道の定款には、貨物輸送もあったはずだが、その野暮ったいけど
朴訥の象徴だったヤード跡に、スカイツリーが建った訳である。
墨田区と江東区に、東京情緒はあるかと言われれば、実はある。
泊まった木場は材木商の町だったし、夢の島(お台場)に曲がる地名に残る
辰巳には昔は「辰巳芸者」がいた筈だ。
私の敬愛する荷風散人は、山手に暮らす高給生活者であったが、どこかで
つむじを曲げて、(離婚などの女性不信が原因といわれる)下町の江東デルタ
地区をこよなく愛すようになり、名作「墨東綺譚」(正字はさんずいに墨)
をあらわした。
最近まで気付かなかったが、実は荷風は明治の言論弾圧、大逆事件で、言論
ジャーナリズムに絶望して、主張する筆を折り、江戸の戯作に耽溺する
ようになったという考証を知った。
ゾラに影響を受けた荷風なら、腹の底で権力に対するレジスタンスを続けた
のは、宜なるからんと思う故である。
そして荷風は、まだハゼのいた江戸の海の端にある、浦安あたりで生を費えた。
そろそろお台場に向おう。
辰巳で曲がる付近で、インプレッサやRX7という走り屋系の車と並んだ。
どうもお台場で別のイベントがあるらしい。
ところで、数日前の尼崎探訪で、阪神尼崎の南側を歩いてみた。
元は尼崎港駅があり、そこから産物が出荷されていた場所である。
この辺りから、江戸に向けて日本酒やいろいろな商品が発送されたのは、
江戸時代以降の歴史である。新酒を運ぶ船は一番競争をし、飛び切りの
価値が着いた。近年のボージョレヌーボーを喜ぶ日本人の気質は、決して
今時に始まった傾向でないのである。
そして江戸と上方を行き来した商人や労働者たちは、江戸に住み着いた。
佃島、佃煮の語源は、この近くの佃から。いなせな兄い達が二の腕まくって
鉄火な気質のことを「伝法」というが、これも尼崎付近の地名である。
今回の尼崎港あたりに、築地という築港エリアの地名が残っていたのには
正直唸った。
アメリカンが英国のことを、アングロサクソンの本流と考えて、一目も敬意
を置くのなら、東京の築地や、湾岸に伝わる上方由来の文化をもっと尊んで
も良いのではないか。
本貫といい、伝統の発祥の場所を粗末にすると、地霊の復讐が必ずあるから
である。
現代の伝法な若者たちは、辰巳の交差点を、タイヤ音鮮やかに、お台場に
向っていなせに流していった。
お台場には、9時前には着いていたが、船の科学館駐車場がまだ開いていなく
さらに隣接のいつもNYM会場で大掛かりな自動車のイベント。さらに
トライアスロン実施中で、入るのにかなりまごついた。
運が良かったのは、この方たちは関係者だろうと思われる、ロータスエランと
ヨーロッパを見つけて、着いていくことができた。
当日の会場のこととかは、既に書いたので省略することにする。
しかし関西のミーティングに較べると、比較的まじめで大人しい。
一概に、運転も信号を良く守っているし、都会の洗練というのはこのような
ものであろう。
口だかに「腹減った」とも言えずに、「皆さんで食事に行きましょう」という
時間まで待ち、車に乗り込み、スタンバっていたら、車を置いたまま遠くの
ビルまで10人ほどで歩き出したのに、二度びっくり。
関西なら、流れ解散時には、けたたましくアイドリング始めて、白煙や
ノートが上がる。みじんもそういう雰囲気が無かったのには、勉強になった。
個人的に、気に入ってしまった550時代のミニカ商用バン。
排気量が増えても車体が360時代の幅なので、オーバーフェンダー付けても
規格外にならないらしい。
こういったクルマ遊びのやり方って、すごく「あり」だと思う。
この商用ミニカバンは、リーフサスでないので、乗り心地もよい。
いろんな意味で、よくクルマのことを知ってらっしゃるなと、納得した。
3連休の混雑のお台場を午後2時半に後にして、もう群馬県の中之条に
行くことは諦めて、今夜の宿に向うことにした。
埼玉の秩父に近い所に、寄居という町がある。
2002年に、八王子の友人宅から八高線に乗り、旅をした時に途中で通った
だけの記憶であったが、少し地名を覚えていた。
今回の目的地、中之条近辺は混雑しているだろうから、昨夜のカプセルホテル
よりマシな宿に泊まりたい。予算の都合もあるから、どうしようか、考えている
うちに、手持ちの本で面白そうな物件を見つけて、思い切って行ってみる
ことにした。
首都高ー関越道を、昨夜の反対に戻って行き、東松山で降りてみる。
そこから行く道すがらは、初めての風景であった。
朝にスカイツリー付近で見かけた東武鉄道が、こちらは東上線といい、小川町
付近から、国道と八高線と被ってくる。東武鉄道は何で高崎や前橋といった
大きな町に到らずに、伊勢崎や寄居といった中途半端な町が終点なのだろう。
そんなことを考えながら、夕暮れの風景の中を走って行くと上州が近いのか
街路樹の種類も違って見えた。
とっぷり暮れた寄居の町に入る手前で、ホンダの大きな工場敷地をかすめて
川を渡るとやがて古い町並みに周囲の風景が一変した。これは面白そうだ。
着いた宿は大変古くて面白かったけれど、その夜は食べに行ける場所が無く
1軒だけ開いていた居酒屋で飲むばかりのメニューになった。
揚げ物しかないという店は、中年後半にはかなり辛い。
布団は昨夜よりずっとましな厚みの中で、俺は何をしに来たのだろうと
反問していたが、旅の疲れでいつしかぐっすり眠っていた。