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2014年01月18日 イイね!

第1回Vieni Fiat 小浜で開催になるまで

第1回Vieni Fiat 小浜で開催になるまで開催地をどこでやるか。
それがまず命題であった。

私は当時は兵庫県西宮市。
友人は愛知県の東に近いあたり。
二人が当日駆けつけられて、夕方から懇親パーティー、
1泊して翌朝からツーリングして、昼食をとり
夕方の早めに解散する。そんな内容でいくことにした。

友人の家業は飲食店で、食べることには一言がある。
そこで彼の主張を、表にしてウエルカムパーティーはイタリアンか
フレンチで行く。
店には貸し切り、もしくは半貸し切りで営業してもらうので
事前に調整する。
私はパーティーに行くのが好きなので、日本的な宴会にしない。
パーティー会場で、お互い持ち寄ったグッズ、できればフィアット、
イタリア車関係のプレゼント交換会をやりたいと希望した。



食いしん坊(食い道楽)の友人は「日本海方面でやりませんか?」と
提案した。
パーティーだけなら、大阪や神戸の中心でもやれる。問題はfun to driveな
小型車フィアットの魅力がキラリと光るイベントにするには、適度な距離の
ドライブ&ツーリングがやりたい。それも日曜日のお昼ご飯を挟んで。

「そうか、そちらでいこうか」、日本海側だと、愛知からも近畿の瀬戸内側
からも行きやすい。さらに例年11月の7日あたりが、日本海のカニの解禁日
だという。そのグルメも少し味わってもらえれば、プレミアム性もつくこと
だろう。

ただし第1回は時間も経験も無いので、土地勘のある場所で。私が福井県の
観光特集の広告企画で回った時に、泊まって印象の良かった小浜市にする
ことに決めた。

何しろインターネットもまだ未開通で、連絡の取り合いは仕事から帰って来て
からのファクスと電話である。エナジーな友人からは、郵便でもいろいろな
資料を送ってくるようになった。まずその前に10月の頭に、新幹線の京都駅で
彼を拾って、下見に行くことにした。




この時は162号線の周山街道で素直に小浜を目指したが、途中でネズミ取りに
捕まったり、下見から思わぬ出費もかかったが、レストランを電話帳や、町中を
走り回って探して、実際にランチを食べて味を検分。食後に「実は…」と
切り出すタイミングを見はかる。
グルナビやネットのある時代には考えられないアナログな作戦も、営業で
広告取りに回った経験が活きたのであった。

レストランは「佐の弥」というこじんまりした店が気に入り承諾してもらった。
ドライブコースはどうするか。これも実際に走って距離感と疲労感、満足感、
クルマの性能をミニマム旧500に合わせて、のんびりしたものとした。
企画段階から関西のX1/9のクラブLatinBloodの幹部には協力してもらったが
彼らが走り倒して飛ばすので、当日は苦労したこともあった。

今では考えられない苦労と、細やかな企画内容の綿密な打ち合わせ。
けれど野暮な承諾書を取ることも無く、申込書に書いてあることを読めば、
これはオトナなクルマの集まりと遊びであることは、分かっていただけたと
思う。
初めての経験で、クルマがまとまって集まるのなら、届け出が要らないかとか、
走行コースを警察に事前連絡しておかないと、田舎の警察が驚いて来ないか。
今考えると笑うような心配もしていた。

前述LatinBloodの会長氏は、K西電力で働いているので、「ああ福井県でっか、
あそこやったらワシんとこの会社から言うとき(根回しする)ましょうか?」
とシャレにならないようなアドバイスいただき、冷や汗という裏話もあった。



募集告知は、友人の関係者が二玄社のNAVIに当時おり、前年に私も「エンスーの
知恵袋」という企画で取材を受けたことがあった。
そこでNAVIにイベント告知を載せてもらった。最初の頃は無かったが後に
「エンスー新聞」のコーナーに報告も載せたこともある。
大阪に当時あったカーロードの編集部を訪ねたり、カーセンサー関西版の
編集者も知っていたので、お願いをした。
名古屋に当時「Left」という自動車雑誌があり、そこの編集部にいた上田君
(のちにカーマガジン/ティーポにいった「うえっち」である)に来てもらい
一緒に走ったこともある。

また告知ポスターは器用な友人が毎年描いてくれた。何枚かは保存してあるが
見事である。これをフィアット系ディーラーや私の世話になる修理工場に
貼ってもらい、チラシも別に作った。
信じられないことだが、路上に停めてあるフィアットのワイパーに挟んだ。
フィアットだったら、パンダでもウーノでも、A112でもオッケーだった。
そりゃ850や128が他に来てくれたら嬉しい。当時は私は131も持っていた。

参加者募集に呼応する反応はあった。それはファクスもあったが子どものいる
私の妻が電話を取ってくれた。
家族の協力もあり、11月のX日が待ち遠しくなった。中には遠く新潟から
駆けつけてくれる参加者もあった。どうして知ったのですかと聞くと、
私の友人が、富士高原のギャラリー・アバルトに行った際、その人の愛車の
ワイパーに手書きのメモを挟んでくれて、それを見てぜひ参加したいと
思ったそうである。

そうやって唯一無二の「フィアット車のフィアットオーナーだけの集会」
Vieni FIAT95は当日を迎えた。
Vieniとはイタリア語で「おいでおいで」の意味である。
1時間前にJR小浜駅の前に着き待っていると、次々やって来るフィアット車
たち。
今見ればただのパンダであっても、本当に信じられないことが始まる予感がした。

パーティー会場に移動してちょっきりの時間にテーブルに着くとそこには
一人の遅刻者もなく、盛装した各地から集まったオーナーと家族たち。
この瞬間、私たちは「やってよかった」と思った。滑り出しよければ、
あとはきっと上手く行くだろうと確信したのである。



翌日のツーリングには当日参加者も加わり、20台前後でツーリングに出発
した。新潟から来てくれた参加者はツーリング出発後ほどなくお別れ。
残念であるが、そうでもしないと、当日中に帰れないのである。
彼がこの年乗って来たのはTipoだったと、今ようやく写真を起こし直して
思い出したような記憶もある。







この記念すべき第1回の参加車両は、X1/9が3台、Panda、Y10、Uno、
Tipo、A112、128、850クーペ、500だっただろうか。
新車に近いパンダがまだいた頃である。

私はこの会をクラブ組織にするつもりは無かった。
どちらかというとクラブを作るのは不得意ではないが、しばりがいったり、
相性の好き嫌いが会員間であったりするのが苦手だ。
自由に年1回集まって、楽しんでもらう場が作れないか。そんな気持ちで
始めたのである。

毎回アンケートも取ったし反省会もやった。
概ね参加の皆さんには満足してもらったし、この会ならではのつながりが
でき、オーナー間での情報交換と相互交流という目的も果たせた。
特にネット以前では、雑誌を頼る以外に情報はなかった。

部品と維持のための情報。工場の良いところはどこかなど。
約20年が経ち隔世の感も少しある。

しかしフィアット車のような決してメジャーじゃないクルマを乗り続ける
基本は今でも一緒だ。



この第1回のイベントを皮切りに、来年は場所も変えてもっと大きく、
充実した内容でやりたいと考えた。参加者の満足感とともに、次の年への
助走は始まった。

この年、私は阪神大震災で住む家を失ったが、借家のために損害は最小限で済んだ。
その代わり思いきって活動して、いろんなものを得た。
特に数年間温めたフィアット車のイベントが実現したことは大きかった。

やれば出来るのである。
震災当時35歳だった私は、油の乗り始める時に一番面白いことを始められた。
その年以降、合計5回のVieni FIATを開催して、翌年は舞鶴。97年は毎年
来てくれる中心メンバーのいる敦賀市。そして98年は場所を変えたいという
友人の希望が淡路島だったが、橋が架かる前の年で、宿が少ない理由から
和歌山にした。
この和歌山から参加してくれた中にも、面白い交流が始まった人もいる。

ミレニアム前の99年は疲れていた。
福井県の武生辺りで開こうと下見にも行った。
私は相変わらず仕事の日程で、連休がとれないので随分前から希望を出して
いたのに関わらず、土曜日が手違いで出勤になり、前夜パーティーに主催者
でありながら、出席出来なかった。

その年を限りにVieni FIATの5年の活動は終わりを告げた。



1899年に創業したフィアットが本国では、会社は100周年を迎えた。
ささやかな気持ちを込めて日本のフィアット好きたちは、銘々お祝いして喜んだ。

世界は21世紀を前にして、90年代を総括して、時代の流れは大きく変わろうと
していたのである。

おわり
Posted at 2014/01/18 08:56:06 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年01月17日 イイね!

平成7年の大震災

平成7年の大震災お早うございます。
19回目の震災記念日になりました。
その後のいろんなことを思えば、いいいじゃない
今生きているのだから。とあーしろこーしろ言う人の
気持ちも分からぬではありませんが、わたしは
ひょろりと交わしてやっていたい。


阪神の直下型地震と、3年前の東北と東日本の地震、津波、原発災害を単純に
比較は出来ないと思います。
今日は19年前のこちらのことを思い出す1日にしたいと思います。

追記:震災後に、思い切ってクルマを次々買ってみたり、自らイベントの中心になり、頑張った時期が、10年続きました。

15年目くらいでガス欠になり、今のような気分が続いています。

明日は小沢コージさんに取材を受けるというのに。

がんばります(^_^)もう一度。
Posted at 2014/01/17 09:53:25 | トラックバック(0) | 昔の記事より | クルマ
2014年01月15日 イイね!

Vieni Fiatの思い出

Vieni Fiatの思い出最初に断っておくが、これは今から19年前から
15年の昔に私が個人的に開いていた、Fiat車に
限定したツーリング&パーティーイベントの
思い出である。

私は写真にかぶせを入れるのが好きでないので、
自分なりの価値判断で、写真は記録と考えて
撮影した画像は原則そのままで行く。
もしも不都合な理由があれば言って頂ければ
削除なりひっこめる判断をする。

また、長い間に音信のつかなくなった人も多いので、記事を見て喜んで頂けるなら
連絡が取れるとうれしい。



今回の記事を書こうという気になったのは、阪神の大震災からもうすぐ19年になると
いう事実。私の夫婦が今年でついに55歳になる。

予告編にコメントいただいた方は、第1回参加以来の友人で、最年少だったその方が
今年、先日で不惑の40台になられた。
当時の21歳のクルマ好きが、今やイベント時代の私の年を超えられて、子どもたちの
よき父親であること。

元々頑健でない私は、ある程度の子育てが終わり、さっさと世間を引退してしまった。
いつまでも好きなことが出来るのか。
昨年小林彰太郎という星が消えたことも頭にある。

第1回の記念写真を掲載させてもらう。



撮影場所は、最初の開催地、福井県小浜市の市外にある海浜公園駐車場である。

写真ストーリーを説明しながら、なんでこのようなマニアックなイベントを当時やること
になったのか、平行して書いて行こう。
前記事にも書いたが、ある雑誌誌上で、一人のフィアット好きと出会ったことがある。

その前に90年代に家庭を持つようになった私は、87年から乗り始めた850クーペを媒介に
あたらしい一つの趣味の世界が、構築出来ないかと、案を練っていた。
創刊したばかりの、クラシックカーを自分で整備する雑誌に投稿したのは、自分の存在と
仲間を呼びかけるPRだった。

すでにX1/9の詳細記事を書き、自らクラブを作って活動するMさん、今も124スパイダー
アバルトに乗るSさんらとは、電話や手紙のやり取りをする親交が始まった。



当時の状況を説明しておくと、80年代を経て、市場には中古のfiatが転がっていた。
バブルは終わったが、まだ今よりは景気の良かったなかで、fiatはディーラーが不安定で、
決して「買い」のクルマではなかった。
でもフィアット好きと言うのは、少し昔の良いイメージが尾を引いており、
さらに私のように60年代から70年代初めの”黄金時代”に思いを寄せる人間もいる。

そんな中でX1/9や124Spiderより、コアなフィアット好きを探していたら、偶然出くわ
してしまった。

愛知県にいたfiat128セダンに乗る男性から、熱血な手紙を頂いたのだ。それには
オールドタイマー誌から、勝手な判断で、紹介させてもらったことをお詫びしますという
書き添えも着いて。



私は大学と仕事で東京と関東方面の縁がない。fiatという文化を語るには、それは大いなる
ハンディキャップなのだが、まだ若い頃の私には未知の領域に怖いものはなかった。

その足りない部分を補ってくれたのが彼で、古いファンは覚えているFLMC、フィアット・
ランチア・メンバーズクラブの初期からを知る友人は、ガレージ伊太利亜や、クイックト
レーディングなどの周辺部の話をとても面白く教えてくれた。

JAXとチェッカーモータースでさえ、行ったことのなかった私には、それは面白い趣味の
始まりを予感させたのである。

彼の夢はFIAT車だけのイベントをやることであった。
私は仕事が休みが取りにくいのと、家庭はタフな妻が働きながら維持してくれたが、
長男が誕生する頃から、血液が作れない病気を発症した父が九州に居て、気がかりで
その夢にうまく応えられないジレンマを抱えていた。

94年に、前述のSさんや、いま愛知の500ミュージアムを運営する方たちが集まって、
箱根の富士高原サーキットで、第1回FIAT FESTAが始まった。
私は飛び出して行きたかったが、固唾を飲んで見守るしかなかった。
小さな子ども二人に、病身の父が入退院を繰り返していたからである。



94年の9月の始まった頃に、3年間の闘病があったが、私の父は亡くなった。
喪に服していた年末・正月が明けた1995年1月17日に、私の住んでいた兵庫県西宮市
は直下地震の衝撃を受けて、借家であったが私の家は大きく傾いた。

震災の写真は封印していたが、もう出しても良いかと思う。我が家のすぐ近所の
震災翌日の光景である。






この時に、たくさんの人から過大な支援を受けた。とくに愛知の友人はトラックを
運転して駆けつけてくれた。
物心がついて落ちついて、やっぱり彼の気持ちに対する恩返しは、夢を叶えさせて
あげるしかないと、私は決心した。


この年の暮らしは、震災から1週間は避難所で暮らし、その後は妻の実家の南大阪で
家族4人、子どもが小さかったので一つの部屋で生活した。

震災から100日、前年から建築の始まっていたすぐ近所のマンションが完成して、
幸運にも入居が出来て、私たち一家は西宮市に戻ることが出来た。

その夏は震災の瓦礫の中を駆け抜けてくれた850クーペを陸送して、いまのしまなみ
海道に当たる区間の7つの島を船に車を乗せて旅をした。いよいよ秋に向けて
私たちの初めての試み、フィアット車オーナーのための、フィアット車だけの
イベントをやると言うことを決意して、11月開催に向けて準備を始めたのである。





つづく

Posted at 2014/01/15 02:18:22 | トラックバック(0) | 昔の記事より | クルマ
2014年01月12日 イイね!

vieni fiat1995-99(予告編)

vieni fiat1995-99(予告編)つぎは、この話をいよいよ
書こうと思い写真を探して
スキャン中です。






ご覧の写真は1997年11月の、越前海岸の河野海浜有料道路を行く
"vieni fiat1997"ツーリングから帰る一行を写した写真で、最後の
集合点検確認中のものだと記憶する。

この神戸ナンバーのX1/9はたぶん、1オーナーの個体だったと
記憶します。



夕日を浴びる一行。20数台でツーリングしていたと思う。
X1/9、124spider、Panda、この頃は新車だった旧チンクチェント、
懐かしいクルマたちである。




ウーノターボが3台いる。
こんな時もあったなあ。いつも来てくれた神戸の夫婦。
長岡京のウーノターボ、それから静岡方面の1台だったかな。


この企画(イベント)は、fiat車だけの限定で、fiatエンジン車
だったら参加資格ありで、1995(平成7)年から1999年までの
5回、毎年秋の11月に私が中心になり開催していた。

一緒に共同開催してくれたのは、愛知県に住む熱心なfiatエンスー
ジャストのIさんで、彼と知り合ったのは92年頃の創刊間もない
oldtimer誌上であった。
Posted at 2014/01/12 07:30:12 | トラックバック(0) | クルマ與太話千夜一夜 | クルマ
2014年01月08日 イイね!

アルファと事始め

アルファと事始めなんか雨の朝で、風邪気味です。

正月はクルマに乗ったのは、家内の実家に行って来た
2−3日だけ。

もう7日が過ぎたのですが、修理工場から戻って来た
アルファ75で昨日、スプリングひよしまで、走ってみました。


このところ、3日に信貴山で皆さんの闊達なカーライフに刺激を受けたり

相変わらずハマってしまったFacebookで、こんな動画を見つけて喜んでいたり。



このランボフィリアっていうのは、病気のことで、よくひねったコンセプトに
なっていて、見ていても面白い。
いい大人が馬鹿をやるには、それなりの心構えと覚悟がいるという世界で、
まだ普通の人が多い、フェラーリオーナーたちを、ちょっぴり、いじくっている。

でも、これを見つけたのが、Facebook内のbehind the seatという
コミュニティーです。

そこもたまたま、その前に加入したfiat850のコミュニティーに投稿したら、
それを見ていたカナダ人だったかな。に、招待されました。



最近、自分の今の生き苦しいのは、自分が日本人であろうとする
アイデンティティーと現実との相克、葛藤でないかと思うのです。

フェイスも最初、いきなり、「あかんやないかー」というダイレクト
メッセージがきてびっくりしました。
みんな真面目なんです。真面目だから、ちょっとしたことが許せない。

隣の人がずるい主張をしたら、許せない。ボクは果たしてそんなにイケナイ
人なのダロウカと、しばらく悩みました。

日本人同士の、駆け引きや、お誘いには、どうしても隠れた打算や利害が
ありそうで、好きになれない。
そんなボクも最近はFacebookは世界対象なのだと気付き、これまでの
好きなクルマの知識を生かして、あっという間に5個くらいの
コミュニティーに登録申請いたしました。

その中には渋いfiat1100のサークルとか、英国のルーツグループの
輪なんていうのもあります。

元々好きで、英国の自動車誌も読んでいましたし、高い洋雑誌買うのに
お金がなくても、インターネットから行けるのですが、これまでは手続き
敷居が高かった。

でもFacebookは、その垣根をうんと低いものにしてくれました。



たぶん、ですね、ランボフィリアも、日本人社会的には、ここまでコンセプトが
よく煮詰めていても、もともと“ちゃらい”クルマと思われているので肯定されにくい。

この動画に気付いたのが、外国人だったと言うのも、興味深いでしょう。
それを逆輸入して、私が面白がっている構図を考えてみてください。


昨日の午後は、道が空いていたので、アルファ75・91年式の運転を存分
愉しめました。
まあネット145PSを、グロス換算の国産で言えば160馬力くらいか。
昔のスカイライン2000GTRくらいでしょうね。

国産の4気筒ツインカム、セリカLB2000GTにも乗りましたが、足回りと
エンジンで、遥かにアルファの方がドライヴィングプレジャーが高いです。
そして、22年落ちで、それなりの経たった部分があるので、実際は120PS
も出てないでしょう。

それを運転するドライバーも、それなりにくたびれかけています。
足回りは、かなり柔い。でもコーナースピードは、いつもの850より
ずっと速い。850のコーナーリングが退屈かというと、そんなことは
全くなく、あれはRRの尻振りが面白い、実にユニークな乗り物です。

国産の今時の遅い乗用車を蹴散らすように、能勢路の坂を上る75。
タイトな連続カーブを登るたびに、限界特性に感心し、くたびれ
ながらもしっかり車体を捻らせる、ハンドルとトレッド。

その中で、実はクラシック音楽がかかっているんです。
交響曲6番「Pathétique」



これを聴いていたのは、日吉からの帰り道で、冬の日没の時間帯でした。
一番感心しているのは、ヨーロッパ車の中で、ヨーロッパ発の音楽で
一番クルマと似合うのは、なぜか、クラシック。
アルファのエンジンと、マフラーから出る太いサウンドは車内にも混じり
飛び込んで来るのに、なぜノイズと感じないのだろう。

その研究は、まだ、私の課題として、始まったばかりのようです。




Posted at 2014/01/08 06:36:05 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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