
開催地をどこでやるか。
それがまず命題であった。
私は当時は兵庫県西宮市。
友人は愛知県の東に近いあたり。
二人が当日駆けつけられて、夕方から懇親パーティー、
1泊して翌朝からツーリングして、昼食をとり
夕方の早めに解散する。そんな内容でいくことにした。
友人の家業は飲食店で、食べることには一言がある。
そこで彼の主張を、表にしてウエルカムパーティーはイタリアンか
フレンチで行く。
店には貸し切り、もしくは半貸し切りで営業してもらうので
事前に調整する。
私はパーティーに行くのが好きなので、日本的な宴会にしない。
パーティー会場で、お互い持ち寄ったグッズ、できればフィアット、
イタリア車関係のプレゼント交換会をやりたいと希望した。
食いしん坊(食い道楽)の友人は「日本海方面でやりませんか?」と
提案した。
パーティーだけなら、大阪や神戸の中心でもやれる。問題はfun to driveな
小型車フィアットの魅力がキラリと光るイベントにするには、適度な距離の
ドライブ&ツーリングがやりたい。それも日曜日のお昼ご飯を挟んで。
「そうか、そちらでいこうか」、日本海側だと、愛知からも近畿の瀬戸内側
からも行きやすい。さらに例年11月の7日あたりが、日本海のカニの解禁日
だという。そのグルメも少し味わってもらえれば、プレミアム性もつくこと
だろう。
ただし第1回は時間も経験も無いので、土地勘のある場所で。私が福井県の
観光特集の広告企画で回った時に、泊まって印象の良かった小浜市にする
ことに決めた。
何しろインターネットもまだ未開通で、連絡の取り合いは仕事から帰って来て
からのファクスと電話である。エナジーな友人からは、郵便でもいろいろな
資料を送ってくるようになった。まずその前に10月の頭に、新幹線の京都駅で
彼を拾って、下見に行くことにした。
この時は162号線の周山街道で素直に小浜を目指したが、途中でネズミ取りに
捕まったり、下見から思わぬ出費もかかったが、レストランを電話帳や、町中を
走り回って探して、実際にランチを食べて味を検分。食後に「実は…」と
切り出すタイミングを見はかる。
グルナビやネットのある時代には考えられないアナログな作戦も、営業で
広告取りに回った経験が活きたのであった。
レストランは「佐の弥」というこじんまりした店が気に入り承諾してもらった。
ドライブコースはどうするか。これも実際に走って距離感と疲労感、満足感、
クルマの性能をミニマム旧500に合わせて、のんびりしたものとした。
企画段階から関西のX1/9のクラブLatinBloodの幹部には協力してもらったが
彼らが走り倒して飛ばすので、当日は苦労したこともあった。
今では考えられない苦労と、細やかな企画内容の綿密な打ち合わせ。
けれど野暮な承諾書を取ることも無く、申込書に書いてあることを読めば、
これはオトナなクルマの集まりと遊びであることは、分かっていただけたと
思う。
初めての経験で、クルマがまとまって集まるのなら、届け出が要らないかとか、
走行コースを警察に事前連絡しておかないと、田舎の警察が驚いて来ないか。
今考えると笑うような心配もしていた。
前述LatinBloodの会長氏は、K西電力で働いているので、「ああ福井県でっか、
あそこやったらワシんとこの会社から言うとき(根回しする)ましょうか?」
とシャレにならないようなアドバイスいただき、冷や汗という裏話もあった。
募集告知は、友人の関係者が二玄社のNAVIに当時おり、前年に私も「エンスーの
知恵袋」という企画で取材を受けたことがあった。
そこでNAVIにイベント告知を載せてもらった。最初の頃は無かったが後に
「エンスー新聞」のコーナーに報告も載せたこともある。
大阪に当時あったカーロードの編集部を訪ねたり、カーセンサー関西版の
編集者も知っていたので、お願いをした。
名古屋に当時「Left」という自動車雑誌があり、そこの編集部にいた上田君
(のちにカーマガジン/ティーポにいった「うえっち」である)に来てもらい
一緒に走ったこともある。
また告知ポスターは器用な友人が毎年描いてくれた。何枚かは保存してあるが
見事である。これをフィアット系ディーラーや私の世話になる修理工場に
貼ってもらい、チラシも別に作った。
信じられないことだが、路上に停めてあるフィアットのワイパーに挟んだ。
フィアットだったら、パンダでもウーノでも、A112でもオッケーだった。
そりゃ850や128が他に来てくれたら嬉しい。当時は私は131も持っていた。
参加者募集に呼応する反応はあった。それはファクスもあったが子どものいる
私の妻が電話を取ってくれた。
家族の協力もあり、11月のX日が待ち遠しくなった。中には遠く新潟から
駆けつけてくれる参加者もあった。どうして知ったのですかと聞くと、
私の友人が、富士高原のギャラリー・アバルトに行った際、その人の愛車の
ワイパーに手書きのメモを挟んでくれて、それを見てぜひ参加したいと
思ったそうである。
そうやって唯一無二の「フィアット車のフィアットオーナーだけの集会」
Vieni FIAT95は当日を迎えた。
Vieniとはイタリア語で「おいでおいで」の意味である。
1時間前にJR小浜駅の前に着き待っていると、次々やって来るフィアット車
たち。
今見ればただのパンダであっても、本当に信じられないことが始まる予感がした。
パーティー会場に移動してちょっきりの時間にテーブルに着くとそこには
一人の遅刻者もなく、盛装した各地から集まったオーナーと家族たち。
この瞬間、私たちは「やってよかった」と思った。滑り出しよければ、
あとはきっと上手く行くだろうと確信したのである。
翌日のツーリングには当日参加者も加わり、20台前後でツーリングに出発
した。新潟から来てくれた参加者はツーリング出発後ほどなくお別れ。
残念であるが、そうでもしないと、当日中に帰れないのである。
彼がこの年乗って来たのはTipoだったと、今ようやく写真を起こし直して
思い出したような記憶もある。
この記念すべき第1回の参加車両は、X1/9が3台、Panda、Y10、Uno、
Tipo、A112、128、850クーペ、500だっただろうか。
新車に近いパンダがまだいた頃である。
私はこの会をクラブ組織にするつもりは無かった。
どちらかというとクラブを作るのは不得意ではないが、しばりがいったり、
相性の好き嫌いが会員間であったりするのが苦手だ。
自由に年1回集まって、楽しんでもらう場が作れないか。そんな気持ちで
始めたのである。
毎回アンケートも取ったし反省会もやった。
概ね参加の皆さんには満足してもらったし、この会ならではのつながりが
でき、オーナー間での情報交換と相互交流という目的も果たせた。
特にネット以前では、雑誌を頼る以外に情報はなかった。
部品と維持のための情報。工場の良いところはどこかなど。
約20年が経ち隔世の感も少しある。
しかしフィアット車のような決してメジャーじゃないクルマを乗り続ける
基本は今でも一緒だ。
この第1回のイベントを皮切りに、来年は場所も変えてもっと大きく、
充実した内容でやりたいと考えた。参加者の満足感とともに、次の年への
助走は始まった。
この年、私は阪神大震災で住む家を失ったが、借家のために損害は最小限で済んだ。
その代わり思いきって活動して、いろんなものを得た。
特に数年間温めたフィアット車のイベントが実現したことは大きかった。
やれば出来るのである。
震災当時35歳だった私は、油の乗り始める時に一番面白いことを始められた。
その年以降、合計5回のVieni FIATを開催して、翌年は舞鶴。97年は毎年
来てくれる中心メンバーのいる敦賀市。そして98年は場所を変えたいという
友人の希望が淡路島だったが、橋が架かる前の年で、宿が少ない理由から
和歌山にした。
この和歌山から参加してくれた中にも、面白い交流が始まった人もいる。
ミレニアム前の99年は疲れていた。
福井県の武生辺りで開こうと下見にも行った。
私は相変わらず仕事の日程で、連休がとれないので随分前から希望を出して
いたのに関わらず、土曜日が手違いで出勤になり、前夜パーティーに主催者
でありながら、出席出来なかった。
その年を限りにVieni FIATの5年の活動は終わりを告げた。
1899年に創業したフィアットが本国では、会社は100周年を迎えた。
ささやかな気持ちを込めて日本のフィアット好きたちは、銘々お祝いして喜んだ。
世界は21世紀を前にして、90年代を総括して、時代の流れは大きく変わろうと
していたのである。
おわり