
1年くらい前に、名古屋で開かれた
自動車イベントに、ふらりと850で
当日参加してみたことが有った。
とくに事前のセレクションや手続きも無く
すんなり緑の上に、愛車を置いて、
展示というより
駐車型イベントみたいなムードであった。
しばらく会場に来ている他の珍しい車を拝見して、それから自分の
愛車の近くに戻り、3mくらい離れた緑草の上に座り込んで、のんびり
していた。
「kotaroさんでしょうか?」
「あ、はい。」
いつもブログを読んでいるという、その方は、年齢が10歳以内くらい
下の方で、結構丹念に読んでいただいてることが、会話から知られた。
このみんカラを始めて数年経つ。
昔はマニアックな車に乗っていることは、一握りの人しか知り得ない
ニュースであり、だからそういったオーナーを捜し出すことに、高い情報
価値が有った。
いきなり今は、と話を持って来ると、面白くも何ともない。
そのくらいパーソナルコンピュータの社会導入は、2つの大効果があった。
コピー&ペースト文化の獲得と、検索機能の一般利用である。
コピペの弊害、本当は書き写すことの大幅省力化のメリットを讃える
べきだが、「当たり前」になったことには誰も感謝しない。
反対に学生クラスの層が、勉強の仕方にショートカットばかり使い
暗記力の低下や、勉強学習の仕方に、汗をかかなくなったことばかり
強調されている。
もう一つの検索のことである。
巨人Googleの躍進を超えた支配的社会が進み、誰も否定批判出来ない。
恐ろしいものである。情報と言うものの入手の仕方さえ変えてしまった
のであるから。
世の中の価値と言うものの中に、昔から「珍しさ」という価値がある。
宝石とか、骨董品と言った時代から、それらが全体の中でどのくらい
“少数”かということに、珍重が重んじられる。
クルマ社会でも、初めは性能と新しさが、重んじられたが、5年10年と
自動車社会が進展すると、外国製であることや生産数が少ないことが
「有り難」がられるようになった。
私の価値観なんぞ昔から、このスタンスで微動ぶれたことがない。
そこで情報の入手力の優劣が競われる。個人レベルとマス媒体、例えば
雑誌編集の能力においてもや、である。
個人的に、といっても子供の頃から珍しい昆虫や切手、何でもかんでも私は
そっちの分野に興味関心があるので詳しかった。
得意不得意でいうと、得意な(特異な)子供であったろう。
それは体力の優劣で勝てない者の、一種の知恵の発達みたいなものである。
そこで天狗になることだけは、若い頃より自重する癖はつけていた。
これがあると、無いとてでは、先々鼻つまみになるかならないかの大違いの
評価に関わって来る。
それはそうとして。
2次情報を収集し、分類し、価値観を構築するのだけは、多角的趣味人生を
やってきたので、秀でられたのだと思う。
そこで、
アナログ時代は、とにかく本を読むことと、実際との違い、落差に自分の
資質を鍛えることに、専念没頭していたと思う。
情報ってなんだろう。そういう興味が有ったから、ジャーナリズムを
やりたかったし、大学の授業は信じなかったので、自分の価値観で
系統や体系を学んでみた。
ポピュラー音楽の歴史と発達とか、何が何に影響を与えて、ジャズやロックは
このようにシーンが面白くなったのか。
1979年、80年あたり、ちょうど大学生になって解放されたときは、
まさにクロスオーバーから、フュージョンへと、今思えば大した歴史では
ないが、音楽の進化を学ぶには、同時代的なよい体験が出来た。
クルマの話に戻れば、一時期の百花繚乱になる以前は、雑誌も高かったし
その時代に貪るように読んだ経験のある人、50代以上は同感するであろう。
初めて見聞きする情報の価値は、当時はうんと高かった。
だから海外に特派員を置き、「本場」という所からのニュースに飛びついた。
モーターショーもそうである。
今のように暇を持て余した趣味の読者以上に、クルマを作って開発する
プロたちも情報を欲しがったからである。だから1960年代、70年代までは
何の雑誌媒体でも、外国の情報などには高い価値が付けられた。
さて、
自動車趣味の進展と、作る側、乗る側が平行して走っていた時代、
やがて、価値に違う角度から光を当て始め、クルマをいじる、改造する、
カスタマイズする時代がやってくる。
そのあたりから雑誌(情報元)は、読者目線に媚びるか、それをやらないこと
を是とするかで分かれて来る。
私はファクトはあるまでもファクトであると思うので、媚びるのはなんか
情報の価値が下がるような気がする。
こんな21世紀の中近くなると、ファクトの方が媚び始めて、鉄道の世界
みたいに、アニメや萌えを要素に取り入れ、カスタマーに合わせるように
さえなってしまった。これは分析をまた別の時にする。
もう一度情報に戻ると、コンピュータ源以前は紙印刷媒体が、強く、
その最後の優位だった時代を思い出してみよう。
クルマで言うと、カーセンサーが制覇した時があり、中古のエンスー情報は
カーマガジンの個人売り買い欄。さらに、そこに金鉱脈が眠っていると
見抜いたNEKOパブは、「QUANT」という売り買い、紙のフリマ雑誌を
作っていたのを記憶しているだろうか。
あれは面白かったと思う。そしてあっという間にやって来たコンピュータ時代、
「クアントの世界」は、すぐにヤフオクに取って代わられた。
しかしこの流れを記憶し、正確に分類整理出来ていないといけない。
今度はヤフオクが面白かったのに、ややピークを過ぎてしまったことを
考えてみる。
ひとつは「飽きられた」という不変の真理定義である。
もう一つは、トラブルや詐欺の続出で、評判を下げたことにより、規制など
の「縛り」がきつくなったと思う人も多いだろう。
これは感想のようなものである。
市場(マーケット)はどんなものでも自由原理であり、成長と発達で
細かなルール作りは補足が増えて来る。社会主義的実権市場は、発達しない
ことも、過去の歴史で人類は学んだ。
しかしヤフオクが沈静した理由は、私はSNSの浸透と、もう一方は、
ヤフオクが競合ライバルを意識して、成長をひょっとしたら阻害し
潰したからではないかと、考えている。
例えは変だが、今のジャニーズ事務所系男性タレント、歌手が強すぎて
テレビが面白くないのと、似ていないだろうか。
SNS時代は、情報の発信+共有化が主目的である。
だから、この数年で「ネタ社会化」が大きく進んでいる。
モノは苦労して、買ったり売ったりしなくても、「ああ、あのネタね。」
とみんなの頭の中にあれば良い。
だから、ぽいっとシェアすれば外国のどんな珍しいクルマの話題でも
立ち所に、世界中の人を巻き込んで、盛り上がれる。
今はそんな時代なのである。
私のように、さんざんいろんなクルマに乗って来て、苦労をしたことは、
一面しなくても、済むのである。
しかしネタ社会。私は苦労したことを、ネタにして、このみんカラを
書いているのである。
これからの時代は、そんな時代になって行くだろうと思う。
古い写真や思い出が、立ち所にデジタルアクセス出来る。
脳内のメモリーが、コンピュータ蓄積と、置き換えるのでなく、
シンクロに近いような。
そんな時代はもう、そこまで来ているのである。
だからこれからの時代も、記憶力勝負は続くと思う。
オタッキーに知ったかぶりすることよりも、記憶を整理し磨いておく。
それと、口だけでなく、実証資料をできれば自前で揃えておく。
そういう時代が、これからの主流になるのでは、ないだろうか。