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kotaroのブログ一覧

2014年04月28日 イイね!

若き日に

若き日に最近、また髪を伸ばしはじめた。

ひげは10年前に、やったが白髪がまじり出し
汚くなったので、今はもう生やしていない。

50を過ぎても、てっぺんも禿げなかったので
この際、イメージチェンジでもしてみようと
耳の辺りを被さるくらいに伸ばしている。



この辺りの写真は、1980年代の始まりの頃である。
ミゼットが路脇に棄ててあった、最後の時代であろう。

また、今は歴史文化遺産になった、筑後川の昇開橋(佐賀線、現在廃線)は、
松田聖子のデビューの年の秋に、彼女の実家を久留米まで探しに行き
本名の姓とお父さんの名前、当時の公衆電話帳で現地調査して「ここだろう」
と家の前まで行っている。その帰りの記念撮影である。

小泉今日子の時も、津久井という田舎の高校を1年中退だと思うが、
八王子に引っ越した中学の友人と、赤いファミリアXGに乗って夜間ドライブ
して、津久井高校を発見して、校門前で記念撮影している。

ドライブの動機は、実にしょうもない理由ばかりであるが、そんなことが
案外後から思い出になっているもので、1970−80年代にクルマを乗り始めた
者達って、今のように、クルマがこうだからとか、必然や説明は要らなかったと思う。

「何かおもろいこと、あらへん?」(関西弁)程度の動機でいつも、クルマを
転がしていると、だんだんワクワク、ウキウキした気分になってきて、
「ほな、(どこそこまで)いったろうか」みたいなノリで、毎晩出掛けていたと
思い出す。
それって、何の確約も今から見ればなかったのに、何でそんなに行動するのが
楽しかったのだろう。



1982−5年頃の、アウトビアンキA112や、PANDA45の広告宣伝を
おぼえてる人もいるだろう。プアなイタリア車が、当時なんで売れたのか。
今の20−30代からみると、ずいぶん不思議な現象であったはずだ。

初任給12−15万くらいであった時代に、150万前後の安っぽいイタリア車。
何か着いていたのか?
いやー、狭義では何もついて無いクルマだったけれど、広義で考えると
やっぱりついていたと思う。幽霊でなく、当時の若いお嬢さんが、「乗って
みたいなー」みたいな、そんな軽い勇気みたいなものかしら。

僕もそんな時代の空気の中で、モヤモヤ生きていたから、国産車の新車で
「イケてる」と思った初代FFジェミニのディーゼル車で、営業車タイプだった
DDグレードとかも、見に行ったけれど、「イタリア車乗りたい!」という
欲求に抗し切れなかった。

PANDAもA112も、Y10も試乗しに行っている。

そのうえ、助手席に乗せる女性もいないのに、好みの女性をイメージして、
当時人気のあった内田春菊の漫画に出て来るような、眼の大きい女の子が
似合うかな、とか買いもしないクルマのことを考えているのが、楽しかった。

88年8月には、内田春菊のファンイベントで、芝にあったインクスティック・
ファクトリーまで夏休みに行っている。



この頃の女の子って、今井美樹の最初の頃みたいに、みんな眉毛が太くて
おでこを分けて出していたと思う。
しかし女性は健康的で、明るい空気の時代が始まっていたと思う。



話を現代に振ると、カーナビがついて、電子の知性(インテリジェント)も
装備されて、パワーステアリングにフルオートマチックのついた現代車に
一番足りない物って、不確かな浪漫では、ないだろうか。

1985年までの、今から見るとプアな車で、みんな何を追い掛けていたのだろう。
そりゃ、乱暴に断定すれば、男はオンナを求めていたのかもしれない。
結果的に、伴侶を見つけて、結婚して家庭を持って、よいお父さんになる道もあった。




きょう書きたいことは、このところ、もやーっと感じているテーマのなのだが
反対に文字で表すには一番難しい、あの頃の空気とイメージのことである。

それから、今の社会では確立してしまった、情報という一番価値のあるものを
人類は、いとも簡単に手に入れられるようになり、社会は大変便利に進化した。
でも、その過程で失ってしまった物って、何だったのだろう。
そんなことを書きたくて、このところ切歯扼腕していた。

今思い出せるのは、情報より早く動いて行くことの面白さ。
情報になった時点で、それは既に古いとまで、亡くなったある友人は言った。
彼は全ての真実は路上(ストリート)にあるとまで言った。
私は、生きてついて行くのが、やっとで、面白いことは確かに、行った先に
あるということは、わかっていた。

時代がキラキラ輝くときは、そういう動いているときで、
昔は良かったとか、今も昔も「今時の若者は」という愚痴が残っているという
ような、そんなレベルの話は、私はしない。

ふっと、クルマを走らせていると、過る直感のようなものがある。
社会が閉塞している、夢が無い、不況で面白くないというけど、ほんとうは
速度の対比相対が、どっちが先に行っているかで、人類は夢を見るのでは
ないだろうか。





道無き道を走り、この先に行けばどうなるのか判らない、コースを選んでクルマを
走らせた。その結果が私の今の生き方の基本であろう。

でも、大きな怪我も無く、ここに今生きている。それが今の私だ。
実は最近、古い友人が一人亡くなって、弔いにいってきた。
ネパールの山中で、冬に遭難して、春になり見つかったらしい。
私はほんとうにびっくりしたけれど、それも一人の男の人生かと思った。

世を儚んで、というようなのとか、事業に失敗でもない。ただ彼のことを偲び
この連休の初日は、昔懐かしい友人が数名集った。
仲間でわいわいやっていたのは25年前に遡る。



彼が追い求めていたのは、浪漫だったのか。夢の先に出て来る美女だったのか。
それを考えることを、今年の連休の宿題にしたい。

Posted at 2014/04/28 04:22:58 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2014年04月25日 イイね!

ベスト・ワイフず

ベスト・ワイフず先日の旅行の最後のころに、今まで動かなかった
リアのウインドウが、実は壊れてなかったことが
わかり、喜んだのも束の間、帰路でまた動かなく
なり、そのままで走って帰って来た。
その後点検・修理に出してしまったので、週末に
京都の丹波で行われたイタリア車イベントには、
普段息子に預けているスズキアルトで向かう
ことにした。


昨年始まったこのイベントは2回目で、バックにイタリア車ディーラーの
京都店がついて、それから自動車関係者や元編集者が大勢来ていた。らしい。
昨年はそれなりに盛り上がって私の知り合いも、大勢来ていた。
だが今年は重なった行事が多かったのか、知人の車は少ないように感じた。

昨年の目玉であった京都のイタリアンレストランGのSシェフは、ことしの
フライヤーにも出ていたので、それを今回は食べてみたいと思った。
日曜日はいつも早く起きる。まあ、弁当も米を炊いて簡単だが作った。
いちおうブログのコメントとか片付けて、雨の予報もなんとか持たないかと
判断して今年は展示車でないので、ようやく10時前に家を出た。



川西市内では天気もよくなり日が射して、これはいいレジャー日和と
思ったが、丹波地方に来ると内陸部なので都市部よりずっと天気が悪い。
最近実は、丹波地方で農地を共同で借りて耕作しているので、
天気のくるくる変わるのは、もう慣れて来たので、運にかけよう。

会場にはお昼前に着いた。天気は薄曇りだ。
もう朝一番に来た観客の中には、気の早いものは次の目的を果たそうと
帰り始めているのもある。
全体的に、テンションが昨年ほど高くない。

まず募集告知も少なかったし、受け付けも私はフェイスブック経由で
参加をクリックしたが、何も返答が無かったので、イタ車で参加して
並べることまで、積極しなかった。

まず駐車場で珍しい車はいないかと思ったが、こちらも昨年ほどは無し。
微妙な空気の変化に、私は時代の流れや移り変わりを感じる。



この会場は第1週はチームヤマモトの歴史の長いイベントが行われた。
しかし丹波ワイン工場が会場になって久しいが、少し飽きも感じる。
神戸市有野台のリノス、篠山ユニトピアの時代から見て来たが、やっぱり遠い。

丹波ワインは、評判はこれまでよかった。試飲も以前はあった。
今までに自動車イベントを呼んで来て、祝祭会場となるときには、パソコン
メイドだと思うが、当日イベントの「特製ラベル」ワインをずらりと並べ
“非日常性”を謳って盛り上げていたが、今年はチェックすると無かったと思う。

記念ラベルワインは、数年前まで続けたポンテペルレでも、売っていた。
「こんなものも今は簡単に作れるんだ」と仕組みがわかっても、半分義理で
買うこともある。
しかし会場側の判断でヤメる時は、経費の節減とか、背後があるのだろう。

特に今年は、ある新聞記事が、心に棘に刺さっていた。
昨年起きた牛脂混入肉すなわち“偽霜降り肉”事件で、ここの製造責任者が
発明者として追及され、道義的責任感で命を絶ってしまうという悲しい
出来事があった。刑事法で訴追された訳でないが、食品関係者にとり、今は
空気のようなブランド性と、裏側の実態が、簡単にスルーしてしまいやすく、
その度に世間は「騙された」と大騒ぎになる。

私は牛脂肪をテクニックで混入させた、霜降りでも安くて美味しかったらいい
のだが、今の日本人が最も頭に来やすいことの一つが、看板に偽りだ。
だから、ここの会場に来るのは少し辛い。小心で臆病な私は影響されやすい。

Sシェフのイル・Gオットーネも案の定、あっという間に完食売り切れらしく
お昼の1時前で店を片付け始めてはいなかったが、鉄板がむなしく
空を睨んでいた。やれやれ。
こういうのは、押すな押すな商法だから、最初から早引きするような量しか
用意しないのだろう。並ばなくて良かった。有名シェフもすぐに帰ったか
本当に本人だったのか、それもわからなかった。



でもお昼頃の会場は、すごく混んでいた。京都のラジオくらいでPRもしたの
かもしれない。
全体的に層が2分しているのがわかる。私のように子供があっても、もう
大きくなり、着いて来ない50才以上。
それと、30代中心のちょっと若いファミリー層。カップル・子連れが目立った。

私も30代の頃は子供を大抵連れて、こういうイベントに来ていた。
だが今日来ている、こっちの層は明らかにマニアではない。
愛車は現行のフィアット500が圧倒的だろう。
この車のおかげで、ディーラーが潤い、試乗フェアにクライスラー車まで
持って来れる、こういう行事が開かれていることが想像できる。

しつこいが、「料理の鉄人」Sシェフまで丸抱え出来るのは、企画広告の
ビジネスバリューでやっていることは、当然判っていないとおかしい。
ところが、ここに来ている主役は、俺俺自慢のイタリア車野郎(おじん)
ばかりであろう。
編集者や元マスコミ関係者が東京からわんさと(仕事が無いから)来て
いるのが、余計痛い。

私みたいに性格の悪い客ばかりでないので、メーンスタンドで演奏される
軽めの音楽演奏とかに興じる若い人らが、集まって大人しく聴くのは楽しい。
私もその横で、手弁当に、会場即製の唐揚げチキンを添えて昼飯にした。

しかし何だろうなあ。このフェアが来年以降も続くのだろうかという懸念。
今年は昨年比で天気の悪いこともあるのだろうか。やっぱり寒い。
一周するのにそれほど時間もかからないので、駐車場の車に戻って暫く寝た。

無料のイベントと言うのは、売り上げでペイできないから、当然スポンサー
がYES NOで左右することが多い。
もう、こういった自動車の企画は、日本中どこでも開かれる時代、2014年。
2011年の東日本大震災で、日本は真面目で、誠実で、どこの国より混乱を
起こさず、最後は絆を確かめ合うことを、お互いの国民が納得したようだ。

私は不正直か、それとも正直すぎるのか、それから間もなく会場を出て
畑のある方の場所に向かい直した。
イベントの空気に何だか馴染めない自分を、落ち着かせたかったからだ。
それとやっぱりしょぼいアルトで来ている自分が、パワースーツのない、
登場人物みたいに思えたからだろう。

これからの日本は、どうなるのだろうか。
みんなお行儀よく、品行方正で、国や行政が管掌した非日常的らしい祝祭で
健全な休日を、皇室のように全うする。
ほんとうにどうなっちゃうんだろう、これからの時代は。



修理に出していたアルファが、翌日には電話がかかって来て、故障は
スイッチ操作ミスだけだと判りホッとした。
ラジエータ予備タンクの漏れは「直した」というがまだ心許ない。
それでもサンルーフの修理は、部品さえ見つかれば、何とかなりそうと判った。

今回は修理代は要らなかったので助かる。その良い気持ちでアルファに
ハイオクを満タンにした。
850クーペを叩いているおやっさんの仕事風景も初めて見させてもらった。
シニアの仕事は、こういう為にあるのだし、私もシニア級の役割を、今迄と
違い、お金より人に役立てることに、スタンスを移して行っている。

リトモアバルト125、一時期所有した850スパイダーと「相方」にはさんざん
苦労して、一年間はダイハツミラにも乗ってみた。
どうやらアルファ75は長年探してた理想のパートナーに、一番近いのでは
ないかと、自分の年齢体力に、照らし合わせてみても、最近そう思いつつある。



Posted at 2014/04/25 11:06:02 | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月21日 イイね!

旅行最後の日 クラシックカーミーティングに参加して

旅行最後の日 クラシックカーミーティングに参加して今年の桜も、ほぼいってしまった。
そんな季節に、西日本を1200km走って
普通に暮らせれば、普通に走れれば、
あと何の憂いがあるだろうと思う。

自分の将来は判らない。先細りにも見えるし
これだけ動けるのなら、どこからか引き合いも
くるかもしれない。


それより、心身の健康が普通に維持できて、
歩けて、食べられて、頭で考えたことを行動に移し、
自由に旅が出来たら、こんな幸せなことはない。


米子の一夜は、同宿者があり、きいてみると昔から
存在を知っているマニアの方であった。
その人は横浜から長駆、山陰まで来られていると奇遇に驚いた。

前夜は少し飲み過ぎたので、頭が重い。

ユーロクラシックカーミーティング米子は、鳥取県米子市旗が崎にある
米子自動車学校の、市民祭みたいな行事の一環である。

米子と言うところは、鳥取県下の西の端に近い交通の要所で、
島根県の松江市の方が鳥取市より近い。
鉄道の管理局が国鉄時代にあり、今でもJR西の中堅支社がある。

鳥取県にはタクシーで有名なバス会社兼業の日本交通があり、
西側には日の丸自動車というバス路線が今でも会社を堅持している。
この舞台となった自動車学校は、教習所と名乗らず学校と言っているのが
面白い。
だから、クルマ好き達に取り、最終学歴は「自動車学校卒」なのかもしれない。



横浜からの来賓と主役の人と、私の3台が一番乗りして車を誘導する。
数はそんなに多くなく、30台以下だから楽だ。
1台、また1台と会場の端のイベントエリアに到着し、みんな運転教習時には
恐々だった、クランク部に車を寄せる。
イタリア車が多いが、イギリス車も少しいる。
70年代と80年代車が多いが、フェラーリ355のような90年代車もいる。

そう、「スーパーカーの来ない自動車イベント」と名付けたこの集まりも
今回は新しめのフェラーリとロータス・エスプリが並んだ。
ほかに新旧の911もいたので、決して非スーパーカー行事ではない。
しかし、癇高いサーキット系の空間に比べると、自動車関係の場所なのだが
停めたクルマの中で、昼寝でもしようかという穏やかな空気だ。
コース内に桜が咲いていることもあるのだろう。



参加車両も大人しいうえ、子供連れと奥さん同伴の参加者も多い。
周囲で子供の喜びそうな行事も開かれているし、賑わいを作り出すために
音楽イベントや食べ物のブースなどもたくさん出店している。

僕から見れば30−40代の頃、妻に休みを与えるために子供らを乗せて
サンデーイベントに参加するエンスーは、自分だけだったが、今はこういう
感覚がずいぶん普通になった。
まあ、クルマなんて自己が満足できれば買える範囲、なんだって良いんである。
それでどこかこういう軽めの非日常的な祝祭があればいい。
このイベントだって、最初から落としどころを練り込んで作った企画ではない。
参加する車両の範囲と、声かけ出来る人の繫がりと、僕らはそう変化を求めて
いないが、会場に偶然来た人たちが、珍しそうに覗き込むのが面白いのだろう。




震災の年は義援金のカンパ捻出のオークションもあったが、今年はフリマが
やりたい方はやられているくらいであった。
クルマを持っていると、大抵要らない部品や、入手したが不要になったり
そんなものが増えて来る。たまに捨て値で出して、新しい貰い手が着けば
それで良いじゃないか。

少し草臥れたパンダを売りたい方がおられたが、もう、その手は
18や20才くらいの若い人に乗ってもらった方が面白くはないか。
もちろん人の目的は、いろいろだが。

私の75は、アルファロメオの4台並んだ端に置かせてもらった。
隣のグリーンの1750セダンは、山陽・山陰のクルマ好きならご存じの
ダンツキ風ノルドに乗られるポスター主人の奥様である。
“つがい”で飼うなんて、昔のカーマガジンふうに表現すると、月並みだが
それが地方で実現できている、個性と価値観と、暮らしがあるということに
私は日本の成長と成熟を感じている。

最近はFacebookによく外国人からリクエストが来るのは、こういった内実を
私なりに外国に発信しているからである。
小国二ポンという謙遜か自虐か判らない態度は、私にはない。
傲岸でもない。
淡々と人の生き様と、自分の暮らしと、私たちの現実を客観視する。
それでこの国で、やっていけたらいいのではないか。

鉄道の町米子だから、こんな面白いものも会場を走っている。
後藤センター(鉄道車両工場)特製のサンライズ出雲号自走車である。



この電車寝台特急は、東京から今は岡山を経て、伯備線を上がり、
米子を経て出雲市まで走っている歴史ある列車だ。
こういうものは、有形無形で町の価値を上げる実は財産だと言うことを
米子の人は、少なくとも後藤工場に関係する鉄道マンは知っているのである。

子供たちがこれに親しんで、大きくなったらこういう「直通」列車に乗り
東京に勤めに行っても、故郷のことを時々思い出せば、それが「文化」という
故郷の薫陶なのである。

今の日本はスピードアップで、新幹線を採算無理して建設して、在来線は
ガタガタになり、3セク転換などで悲哀に満ちてしまう。急行特急停車駅も
崩壊して、駅前は寂れてしまう。
そう言う町から秀才や俊秀は、育たなくなり、学校のレベルも下がるだろう。

地方から上京列車に乗り出て来た僕は、何もノスタルジーを謳う訳ではない。
首都圏、中京圏、関西圏の3都市圏ばかりが栄えるでもない。
国内がバランスよく、釣り合えないと、最後は東京も棄てて、NYか上海に
移住しないと、やってられないことにもなりかねない。

そのための地方を考えるのは、地方を一度でも体験しないと、判らない。
大阪生まれの私の家人には、やっぱり見えていなかったような気がする。




昼下がりの空気は花曇りの春の午後となり、周囲のイベントも3時に終了。
私は主催者の方の娘さんと、いつまでも遊んでいたので、会場を引き上げるのは
最後の方に。デルタの方は横浜に。私は大阪に四日ぶりに戻る。



何も急ぐ用はないので、大山の見える方向に、アルファ75を走らせ、
途中から旧出雲街道を走ってゆく。





旧友と2台並べて満開の桜の下で、成年期を謳歌した思い出の新庄村を抜けて、
真庭の満開の桜並木の下を駆けて、姫新線の中国勝山駅まで走り抜ける。



かつては大阪から湯原温泉に向かう湯治客で賑わった駅も、今は直通もない。
しかし私はこの駅にある、すごくウマいうどん屋のじゃこ飯が、大の好物で、
米子のイベントに参加する度に、立ち寄って喰って行くのである。



旅の最後に贅沢をと、いつもはかけうどん+じゃこめしなのだが、
200円高いかきあげうどんを注文したら、写真のような巨大なかきあげが
ついていた。

さすがに完食すると、胃が一杯になり、落合から中国道に乗ったが、何度も
休憩しながら帰る羽目に成った。
それとかき揚げの味があったためにじゃこ飯のシンプルな味がほんの少し
削がれてしまったのが、残念であった。

次回からは素うどんに戻すか、かき揚げうどんだけにしよう。

家のある町にたどり着いたのはちょうど9時だった。
オドメーターは1200kmに10km余すのみ。今回もよく走ったが、
幸せな充実感は、食べて走って、無事に戻ってから、しみじみと思う物だと
痛感した。

アルファの方も、さすがに、点検にに出そうと思った。(完)


Posted at 2014/04/21 15:35:14 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2014年04月19日 イイね!

春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて

春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて岩国の叔母はまだ介護の支援が要らない
80代であるが、少し体調が悪く
山口県中南部にある墓参りには
一人で行くことに決めた。

今回は先祖に報告できることは長男が就職が
一応決まったことと、姉の病が少しでも平癒する
よう祈るだけだ。
叔母のマンション近くで、古い国産のピックアップを
見かけてカメラを向ける。



いつも市内の目抜きで見かけていた山口銀行の支店が、解体されるのだろう。



岩国から少しだけ欽明路バイパスに入り、由宇付近で国道181に出ていつもの
海に沿った道を柳井市方面に走る。




今朝のテレビで話題になっていた、若者が移住し始めた周防大島を横目に走る。





柳井港の駅前に間違えて入ったが、せせこましかったので、直にスタート。
旧駅のはずれの踏み切り近くの柳井園芸で、菊の花と緑の葉をまとめて買い
トイレ休憩する。



この山陽線の昔の主要駅は、駅裏に昭和40年代までSLの機関区があった。
それを廃止にして40年、跡地はココイチやダイソーなどの組み立て店舗が
仮設パビリオンみたいに並んだ、安っぽい風景に変わった。
昨春に訪ねて自転車を借りて回った三原駅も同じような町が海側のバイパス
沿いに広がる。



それが悪いとは言わないが、どこに行っても同じような色と造りの店ばかり。
それしか知らない若い人が、故郷にどんな感情を持つのだろうか。
いや、やめておこう。



先祖の墓参りを午前中で済ませて、明日はイベントなのでクルマに着いた泥類を
バケツに汲んだ水でお寺の前で洗い落とし、さてロング走行に出発しようと
思ったら、お昼の大きなサイレンが鳴り渡った。

お昼ご飯をどこで食するか、考えながら走って、大畠のジョイフルに
クルマを停めて、小雨の中をレストランに向かう。ここは全国のファミリー
レストランのなかで、最も景色が良い方ではないか。昔須磨にあった
ウエザーリポートも顔負けなのである。





お昼をここにしたのは、もう一つ、大畠から玖珂に抜ける道を、来る時に
看板を見つけていたから使ってみたかった。岩国まで戻る用がないのだから、
早速、食後は左に進路をとる。



海と山の間の距離の近い、山陽線沿いの地勢はいきなり上り坂がつづく。
私が選んだのは本当に古い昔の生活道で、山陽線を踏切で渡ると、家屋が
途切れるまで、離合が困難そうな幅員だ。そこをFRのアルファで上って
行くのが実に具合がいい。
FRといっても、テールが流れるのもあるし、弩アンダーで曲がらない重ステも
ある。私は様々な方式のクルマを選んで来たが、RRの、ジェットコースターの
上りのような不安なクルマのハンドル捌きも知っている。
しかしこのアルファ75というクルマの完成度は、左ハン、5速、パワステ付き
セダンの理想比に近く、しかも地味なクルマである。



例えば911に30年近く乗れる幸せな人生だって、最新のものが良いと、信条
を押し売りしてしまうと、最後はメタボなRRに去勢されないか。
私は「足るを知る」を車是とするので、絶対速度より体感の感興が勝れば
クルマに多くは求めない。いや評論家諸氏も「FRがいい」と言いながら
やっぱり時勢はオールFFになり、気持ちをどう切り替えて、仕事するのか
選んだ仕事の苦労に同情を禁じ得ない。

さて玖珂インターに行く途中で伊陸(いかち)という町を通った。
先ほどまで居た墓に眠る父が、周東地方には響きの汚い地名が多いことを
飲む度に自慢(自嘲)していたことを思い出す。
イカチ、ヤカイ(八海)、バサラ(馬皿)、タブロギ(田布呂木)等。

そのいかちは想像していたのと違って、少し高地にある平野部の中の、道の
交通が交差する場所であった。





牧歌的な所も、横溝正史や岩井志麻子に書かせると、「淫靡な」場所になる。
親爺の屈折した愛郷心も困ったものだと思った。



玖珂インターから山陽道に乗り、宮島付近を通過して、広島ジャンクションで
中国道に乗り換える。昨日下りた広島インターは通らない。心の中で、そっと
病の床にあるふたりに手を合わせる。

アルファは時々ウオーターの警告灯が点くが、クーラントと水を、交互に
足してやれば200kmは大丈夫だろう。

三次を通過し、庄原で高速道を下りた。ここから芸備線に沿いさらに陰陽国境
の山間部を通り、米子を一路目指すのである。



庄原市は亀井静香・国民新党、元代表の出た所である。

静香の兄が、私の母の腹違いの弟である叔父の一中(広島)時代の同級生で
エリート話の好きな叔父の自慢のひとつであった。この叔父は佐藤元首相の
政治家コネクションで、八幡製鉄(現新日鉄住金ホールディング)に入ったが
サラリーマンの後の方は子会社を転々として、都会に留まらずに広島に
帰ったが、国泰寺高校(元広島一中)同窓会役員をして、気勢をあげて
良かったと思ったら、間もなく病に斃れて60代で亡くなった。

庄原を過ぎると、次に家屋が続くのは、西城という地区である。
ここでも桜が見事であった。



西城にも親戚が眠っている。ここの出身の男性と結婚した母方の一番上の姉で
この伯母は私が大学を卒業する間際に、60ちょっとで亡くなっている。

この芸備線の奥地の町に、当時行きたくて、「参列する」(当時は京都で下宿)
と名乗りしたが、旅費が大層かかるから両親に押し止められた。
今、觔斗雲のように自由にクルマに乗って旅する私が、ここまで来ていることを
伯母は気付くだろうか。

さて西城から芸備線に沿って走っていると、長閑な風景と左手の
小学校の桜に見とれ、休んで行こうと言う気持ちになった。





庄原市西城町の美古登小学校という学校らしい。
綺麗な桜を見ていると、入学・新学期を迎えて心が張るようである。







ちょっと昭和な、こんな音源がMDに入っていたので聴きながら再び走る。

やっぱり昭和な風景、昭和に近い愛車、運転しているのも昭和な男である。





さらに奥地に向かい国道183号線の標高を上がって行くと、再び長閑な
小さな駅のある風景が目についた。平行する芸備線の駅、比婆山である。
無人駅なのに実に手入れが行き届いており、美しい。







この駅の佇まいを維持するのは、隣にある消防分団や、無人駅になって40年
以上、手入れする向かいの駅前商店を利用する近所の客、そして貨物列車も
無くなったが、私が撮影中にも宅急便の配送車が駅前に停まり、商店の人と
会話していた。
そう、ちょっと休んで行くという場所を大切と思う気持ちや心配りは、必要だ。
私のような自動車旅の人間でも、気が張りつめていると事故を起こしてしまう。

この後に続く区間は今でこそ、改良されたが、鉄道、道路とも難所中の難所
である。
冬期は本州西部と思えぬ積雪に覆われて、古の旅では行き倒れも多かったで
あろう。
暫しの休憩後に、備後落合に向かう急坂をアルファは駆け上がって行く。
備後落合の駅が間もなく右手の高台に、へばり着くように建っている。
道路側から見ると駅前にあった古い木造建築、おそらく宿屋であったのではないか。
人煙が絶えて倒壊寸前まで崩れ落ちていた。

ここで鉄路は、島根側にスイッチバックするように木次線として下がって行く。
私の行く国道は間もなく左手に折れて、道後山を越えて鳥取県の生山方面に
下りて行く。
水系は日本海に下りる日野川水系に変わり、今度は日南町、そして生山に向かう。

日の陰る時間となり、山桜を見る余裕は無いが、慎重に車を飛ばして行く。

やがて183号線が終わって伯備線と並行するうちに180号線は再び山を越え
法勝寺の方に向かって緩やかに下る。



もう米子まではあと10数キロだ。西伯地区も桜祭りの週末だが、目標6時の
米子の入りまであと30分を切った。



日が西に傾き、山が途切れた頃に米子市に入る。
約束は守れた。
今夜は友人に甘えて、泊めてもらうことにしよう。

最後の撮影地は、再生が完了したばかりの村野藤吾が設計した建築の
米子市公会堂である。
ここで友人一行と落ち合い、この日の長い旅は、ようやく終わりを告げた。

岩国から約300km走り終えた愛機(マシン)の横顔。


Posted at 2014/04/19 11:31:33 | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2014年04月16日 イイね!

850クーペの近況

旅行の記事を書いている途中ですが、
少し酷使したアルファロメオを入場させ
850をどんな状況か、久しぶりに見てきました。

板金は8割仕上がり、新たに見つかった穴や錆をもう一回
直す工程にかかる直前です。
その後は、再塗装、それから艤装ということになります。
さて、あとどのくらい待てば、復帰できるのでしょうか。

期待を暖めているところです。



Posted at 2014/04/16 22:25:04 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ

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「AI構文と少子化の時代 http://cvw.jp/b/176891/48478480/
何シテル?   06/10 02:28
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
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還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
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