
岩国の叔母はまだ介護の支援が要らない
80代であるが、少し体調が悪く
山口県中南部にある墓参りには
一人で行くことに決めた。
今回は先祖に報告できることは長男が就職が
一応決まったことと、姉の病が少しでも平癒する
よう祈るだけだ。
叔母のマンション近くで、古い国産のピックアップを
見かけてカメラを向ける。
いつも市内の目抜きで見かけていた山口銀行の支店が、解体されるのだろう。
岩国から少しだけ欽明路バイパスに入り、由宇付近で国道181に出ていつもの
海に沿った道を柳井市方面に走る。
今朝のテレビで話題になっていた、若者が移住し始めた周防大島を横目に走る。
柳井港の駅前に間違えて入ったが、せせこましかったので、直にスタート。
旧駅のはずれの踏み切り近くの柳井園芸で、菊の花と緑の葉をまとめて買い
トイレ休憩する。
この山陽線の昔の主要駅は、駅裏に昭和40年代までSLの機関区があった。
それを廃止にして40年、跡地はココイチやダイソーなどの組み立て店舗が
仮設パビリオンみたいに並んだ、安っぽい風景に変わった。
昨春に訪ねて自転車を借りて回った三原駅も同じような町が海側のバイパス
沿いに広がる。
それが悪いとは言わないが、どこに行っても同じような色と造りの店ばかり。
それしか知らない若い人が、故郷にどんな感情を持つのだろうか。
いや、やめておこう。
先祖の墓参りを午前中で済ませて、明日はイベントなのでクルマに着いた泥類を
バケツに汲んだ水でお寺の前で洗い落とし、さてロング走行に出発しようと
思ったら、お昼の大きなサイレンが鳴り渡った。
お昼ご飯をどこで食するか、考えながら走って、大畠のジョイフルに
クルマを停めて、小雨の中をレストランに向かう。ここは全国のファミリー
レストランのなかで、最も景色が良い方ではないか。昔須磨にあった
ウエザーリポートも顔負けなのである。
お昼をここにしたのは、もう一つ、大畠から玖珂に抜ける道を、来る時に
看板を見つけていたから使ってみたかった。岩国まで戻る用がないのだから、
早速、食後は左に進路をとる。
海と山の間の距離の近い、山陽線沿いの地勢はいきなり上り坂がつづく。
私が選んだのは本当に古い昔の生活道で、山陽線を踏切で渡ると、家屋が
途切れるまで、離合が困難そうな幅員だ。そこをFRのアルファで上って
行くのが実に具合がいい。
FRといっても、テールが流れるのもあるし、弩アンダーで曲がらない重ステも
ある。私は様々な方式のクルマを選んで来たが、RRの、ジェットコースターの
上りのような不安なクルマのハンドル捌きも知っている。
しかしこのアルファ75というクルマの完成度は、左ハン、5速、パワステ付き
セダンの理想比に近く、しかも地味なクルマである。
例えば911に30年近く乗れる幸せな人生だって、最新のものが良いと、信条
を押し売りしてしまうと、最後はメタボなRRに去勢されないか。
私は「足るを知る」を車是とするので、絶対速度より体感の感興が勝れば
クルマに多くは求めない。いや評論家諸氏も「FRがいい」と言いながら
やっぱり時勢はオールFFになり、気持ちをどう切り替えて、仕事するのか
選んだ仕事の苦労に同情を禁じ得ない。
さて玖珂インターに行く途中で伊陸(いかち)という町を通った。
先ほどまで居た墓に眠る父が、周東地方には響きの汚い地名が多いことを
飲む度に自慢(自嘲)していたことを思い出す。
イカチ、ヤカイ(八海)、バサラ(馬皿)、タブロギ(田布呂木)等。
そのいかちは想像していたのと違って、少し高地にある平野部の中の、道の
交通が交差する場所であった。
牧歌的な所も、横溝正史や岩井志麻子に書かせると、「淫靡な」場所になる。
親爺の屈折した愛郷心も困ったものだと思った。
玖珂インターから山陽道に乗り、宮島付近を通過して、広島ジャンクションで
中国道に乗り換える。昨日下りた広島インターは通らない。心の中で、そっと
病の床にあるふたりに手を合わせる。
アルファは時々ウオーターの警告灯が点くが、クーラントと水を、交互に
足してやれば200kmは大丈夫だろう。
三次を通過し、庄原で高速道を下りた。ここから芸備線に沿いさらに陰陽国境
の山間部を通り、米子を一路目指すのである。
庄原市は亀井静香・国民新党、元代表の出た所である。
静香の兄が、私の母の腹違いの弟である叔父の一中(広島)時代の同級生で
エリート話の好きな叔父の自慢のひとつであった。この叔父は佐藤元首相の
政治家コネクションで、八幡製鉄(現新日鉄住金ホールディング)に入ったが
サラリーマンの後の方は子会社を転々として、都会に留まらずに広島に
帰ったが、国泰寺高校(元広島一中)同窓会役員をして、気勢をあげて
良かったと思ったら、間もなく病に斃れて60代で亡くなった。
庄原を過ぎると、次に家屋が続くのは、西城という地区である。
ここでも桜が見事であった。
西城にも親戚が眠っている。ここの出身の男性と結婚した母方の一番上の姉で
この伯母は私が大学を卒業する間際に、60ちょっとで亡くなっている。
この芸備線の奥地の町に、当時行きたくて、「参列する」(当時は京都で下宿)
と名乗りしたが、旅費が大層かかるから両親に押し止められた。
今、觔斗雲のように自由にクルマに乗って旅する私が、ここまで来ていることを
伯母は気付くだろうか。
さて西城から芸備線に沿って走っていると、長閑な風景と左手の
小学校の桜に見とれ、休んで行こうと言う気持ちになった。
庄原市西城町の美古登小学校という学校らしい。
綺麗な桜を見ていると、入学・新学期を迎えて心が張るようである。
ちょっと昭和な、こんな音源がMDに入っていたので聴きながら再び走る。
やっぱり昭和な風景、昭和に近い愛車、運転しているのも昭和な男である。
さらに奥地に向かい国道183号線の標高を上がって行くと、再び長閑な
小さな駅のある風景が目についた。平行する芸備線の駅、比婆山である。
無人駅なのに実に手入れが行き届いており、美しい。
この駅の佇まいを維持するのは、隣にある消防分団や、無人駅になって40年
以上、手入れする向かいの駅前商店を利用する近所の客、そして貨物列車も
無くなったが、私が撮影中にも宅急便の配送車が駅前に停まり、商店の人と
会話していた。
そう、ちょっと休んで行くという場所を大切と思う気持ちや心配りは、必要だ。
私のような自動車旅の人間でも、気が張りつめていると事故を起こしてしまう。
この後に続く区間は今でこそ、改良されたが、鉄道、道路とも難所中の難所
である。
冬期は本州西部と思えぬ積雪に覆われて、古の旅では行き倒れも多かったで
あろう。
暫しの休憩後に、備後落合に向かう急坂をアルファは駆け上がって行く。
備後落合の駅が間もなく右手の高台に、へばり着くように建っている。
道路側から見ると駅前にあった古い木造建築、おそらく宿屋であったのではないか。
人煙が絶えて倒壊寸前まで崩れ落ちていた。
ここで鉄路は、島根側にスイッチバックするように木次線として下がって行く。
私の行く国道は間もなく左手に折れて、道後山を越えて鳥取県の生山方面に
下りて行く。
水系は日本海に下りる日野川水系に変わり、今度は日南町、そして生山に向かう。
日の陰る時間となり、山桜を見る余裕は無いが、慎重に車を飛ばして行く。
やがて183号線が終わって伯備線と並行するうちに180号線は再び山を越え
法勝寺の方に向かって緩やかに下る。
もう米子まではあと10数キロだ。西伯地区も桜祭りの週末だが、目標6時の
米子の入りまであと30分を切った。
日が西に傾き、山が途切れた頃に米子市に入る。
約束は守れた。
今夜は友人に甘えて、泊めてもらうことにしよう。
最後の撮影地は、再生が完了したばかりの村野藤吾が設計した建築の
米子市公会堂である。
ここで友人一行と落ち合い、この日の長い旅は、ようやく終わりを告げた。
岩国から約300km走り終えた愛機(マシン)の横顔。