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kotaroのブログ一覧

2014年04月15日 イイね!

春の1200kmツーリング・四国潮の道を往く

春の1200kmツーリング・四国潮の道を往く一夜の宿を取った香川県丸亀市を出発して、
今回は四国の地図を積んでいないことに気がつく。
カーナビという機器は、ある程度の役には立つが、
ショートカットの知ってる知識だけをアンサーする
最近のクイズ即答型の人間に似ているので
必要ない時は、電気を切っておく。

まあお遍路よろしく、右手に海が見えれば、
何時間か後には、今治松山方面に出られるであろう。





讃岐潮の道街道だか、海沿いの道と名付けられた海岸線に沿ったラインを
走って行くと、元の国道を整備したのだろうか。
車窓の右手に瀬戸内海。左に予讃線が並行して走っており、ときどき電車と
すれ違う。



ああ四国も今は電車が普通に見られるようになってから、時は久しい。
しかし昨年末の山陰線の米子辺りや、今回走る高松から西の予讃線。
いずれも古い113系の成れの果てや、今回はEF64の牽く貨物列車が左側面を
横切り「どきっ」と、大げさに驚いてしまうのはなぜだろう。



それは電化方式が直流電化に戻っているからだと、自分のDNAにアクセスして
正しい答えが却ってくると、ようやく安心した心理を取り戻す。

説明しよう。
1950年代終わりから、1970年代まで、東京・大阪からの遠隔地や亞幹線は
商用交流電気で電化することが、国(国鉄)のテーゼであった。
だから、常磐線や東北本線の平、黒磯以北、北陸本線、日豊・鹿児島本線、
北海道の小樽ー岩見沢間などは、続々と「赤い電気機関車」(交流用車両)
が投入されて、近代化のモデルとなって行った。

商用交流を使うメリットは、科学的に説明するといくつかある。
成功例は東海道から始まった新幹線だ。
しかし車両が高価に着くというのと、直流区間で使われた(首都圏等)
“お古”の電車がたらい回し出来ないという、ジレンマがそこにある。

日本中が交流電化で被われたら、長い世紀にそれは、ユニティが起こるだろう。
ところが科学技術の理想主義と言うのは、必ずしも「正」が「是」にはならない。
そこを計算出来なかった国鉄時代のテクノクラートらは、日本中のあちこちに
歯抜けの交流区間を残してしまった。

けれど、山陰本線と島国・四国の鉄道は、技術過信の交流優先時代に洗礼を
浴びずに、“未開の地”であったゆえ、国鉄店仕舞い期になんと「やっぱり
直流でいこう」と、赤い機関車でなく青い機関車(直流車両)の走る路線と
なった。
これが今回の軽いギャップ/衝撃感の由来なのである。



私は赤い機関車の走る交流区間の九州で育った。
たまに広島の親戚などに行く時に、下関から青い機関車が顔を出すと
かっこいいなあ、と古い車両に憧れていた。

ところで、世界規模でみると交流電化を進めたのは広大な国土を持つ旧ソ連や
社会主義圏がずば抜けて高い。
選択の理由に「先進的である」という理想主義があったことは、2014年だから
その理由が判る。
今思うと、戦後の国鉄にも103系の3000両生産や、グリーン車という
1、2等等級の廃止など、社会主義の影響がむちゃくちゃ濃いのは、
時代の空気だったということが、ようやく判る。

表層的な社会主義の批判はやめておくが、僕らはその頃に子供として育ち
今の時代を眈々と睥睨する、当時の赤いチルドレンだったのかもしれない。



三野という町を通ると、四国が生んだ宰相・大平正芳に因んで大平通りと
商店街もないのにかけられており、在職当時は鈍牛と呼ばれ、四国に電化の
本線もないことをなじられたであろうアーウー宰相が、きっと私のような
クリティカルな分析者が通ることを、泉下で嗤っているだろうと思った。



四国中央市の一部となった製紙の町、川之江で一休みする。

隣の伊予三島が大王製紙の発祥の本拠だが、前会長の井川意高が100億円
カジノですったお金は、横を走るEF64の貨物列車ナン両分の紙製品を
パルプくずとして“熔か”してしまったのだろうかと、元気の無い通りを見な
がら、私は考えこんでいた。





新居浜、西条と来ると町の風景ばかりになる。
東予と南予といい、伊予の国はL字型の縦線の下がった地形で、気っ風が違う。
どことなくこれまでのんびり走って来たのだが、東予に入った辺りから、
クルマの運転が比較程度荒い気がするのは気のせいか。といっても
昔の関西の信じられない車線変更や、追い越し追い抜きを知っているので
驚くほどではないが、運転中ストレスに対するテンションは微妙に変わる。



西条は名前は中央で知られていないが、かなり元気のある農工業都市に思われた。
ここら辺で今治までの所要時間を考えて、出来かけの高速道路に乗ってみたら
しまなみ街道の専用道に繋がっていなくてすぐに終点であった。
今治市内を見る時間が惜しくて、すぐに連絡道路に乗ってしまった。



しまなみ街道は、高速道路ではなく自動車専用道路で、橋に着いている
歩道区間が自転車共用だ。
だから対面通行の幅しかない橋も多く、70kmくらいが建て前だ。
追い抜き区間も所々にあるので、快調に飛ばしていると、大島を渡りきるところで
左スロープからパッソの2トーン警戒車が真後ろに入ってしまった。
これでは飛ばせない。頭を冷やせとばかりに、橋を渡りきったところで
伯方島の出口で下りてみた。ところがまだ着いて来る、と頭の中の吹き出しに
「●」を描いた所で姿が消えた。Uターンして戻って行ったのだろう。



伯方島に下りたのは実は初めてであった。
昨年1度、今年もすでに1度渡っているので、これでトータルでついに
全部の島に下りてみたことになる。
「伯方の塩」で有名な島であったが、今はどこで作っているのだろう。
この島でお昼休みにして、道の駅ならぬ地場特産品販売場で、レモン類や
塩に、掘ったばかりの筍を買って、のんびり島を見物することにした。

歩いて回るのでないので、すぐに島最大の伯方港に着く。
地名は木浦であるが、番屋のような要害のある建物に気が着いた。
昔の海の検番所であったのだろう。




港は近代的で広い。すぐ横に中規模の造船所があるので、今もクレーンが
重量物をハングアップする度に、可愛らしいサイレンを音量を上げて流すので
日中は活気がある。しかし船の来なくなった港の待合室には、昼間でも
誰も居ず、売店類も一切無くなってしまっていた。



小さな島なので本当に何も無い。道脇の桜の咲いている神社に車を停めて
また少し見物してみる。
1年前のミラの旅に比べると、排気量が倍以上になったので、小さな旅の
コンパクト感が今回は薄い。
今日中に広島に着くことばかりを考えている。
日曜日の目的地の米子に、最終的に行ければいいだけなのに。
どうしようか。大三島か生口島で泊まってみようか。逡巡する気持ちに
けりをつけて島を一周してまた連絡道路に乗った。





尾道まで一気に連続橋を渡りきり、高速に乗らずに国道を使って広島に向かう。
夕刻の手前に広島が射的に入ったので、志和から広島インターまで高速を使う。
田舎ばかり走ってきたが、中国最大の都市近郊なので交通量は都会並みの
高速を駆け抜けて、何十回も下りた広島インターでETCアウトする。

母がこの町に移って来てから10年、何度呼びつけられ、感情が泡立ち、
悲しい思いで、この町を後にしたことだろう。
昨年から闘病する姉と、入院中の母を、それぞれ訪問する。
心の中は暗いが、それは一瞬の個人の気持ちや感情だ。
僕は今何をすべきなのか。それくらいは冷静になろう。

日の暮れた町を後にして、先ほど電話した岩国の叔母の所にやっぱり
泊めてもらうことにする。
都市高速を乗り継ぎ、廿日市から1区間山陽道を都会的に利用して
2号線に下りる。

明日は墓参りに行ってその足でターンして山陰方面に向かうのが最善だろう。
高齢になった叔母は元気でいてくれるだろうか。人生は本当に長い。



Posted at 2014/04/15 13:10:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月14日 イイね!

春の1200kmツーリングスタート編

春の1200kmツーリングスタート編今年の彼岸は行事が多く忙しい上に
出掛ける気候ではなかった。
そこで春4月の2週目になり、消費税の変更や
人心が少し落ち着いた時期を見図り、
旅に出ることにした。

予定は4日間、水曜日までにほったらかしの
雛人形をやっと収納して、伸びて汚くなった
髪をカット。

木曜日はその他の片付けや用事を済ませて、家を出たのは午後3時半であった。

宝塚市に停めているアルトの駐車場に寄ってから高速に乗り、
最初の休憩場所を淡路島を渡った北淡のサービスエリアにした。



淡路島で日が暮れたので、夜間走行は高速にして、徳島県から香川県方面へ。
高松市はパスして、善通寺で下りて丸亀に宿を取ってみた。

いつもの安宿情報で何となくよさげな宿を見つけて電話する。
応対が普通だったら多分良い。駅前に8時半に着き周囲を走ったが見つからず
もう一度電話をして、自転車で迎えに来てくれた女将さんの後を着いて
アルファで追いかける。

いい雰囲気の路地裏の奥に、古風な宿というより旅籠のままの旅館が
建っていた。





もう9時近いが、到着後「ちょっとビールでも」というと、門限も気にせずに
ああどうぞと、いう。
場所柄なのだろうが、気風が自由でよい。
出たらすぐの所になんと営業中の銭湯があった。タオルを取って来て
そこに飛び込む。



風呂を出て9時半くらいから飲める酒場があるだろうかと、見渡すと
何軒かある。カラオケをがなり立てているような酒場はパスだ。
ちょっと外れに小体な肉料理の専門店を見つける。少し高そうだが
人の話す声もしていたので、初日の夜は、ここに入った。







歴史話の好きな店主と、バイト従業員経験のありそうな女性客と、彼女は
殆ど無口だったが、親爺と丸亀藩の歴史と、高松との文化の違いで話が
とても盛り上がる。なぜなら私は梅田のお初天神に行きつけの丸亀出身の
ママのいる店があり、「高松何するもの」の気風を知っているからである。

この小藩は京極家が兵庫の龍野から転封して、移って300年。未だに
丸亀は食文化が四国風でなく、白味噌の雑煮でないことを教えてくれた。
また赤穂の塩つくりを導入して小藩ながら、お金を稼いだこと。大石内蔵助
のつま、りくの妹が丸亀に嫁いでおり、人の行き来が多かったこと。
文芸春秋の取材の一行が店に来たことなどを、自慢して長い話になった。

親爺の手掘りのマテ貝の一品などまで食べて飲み食いの代金は2000円、
半額近く、親爺の話に付き合ってのサービスだったのだと想像する。

翌朝起きて、障子を開けて、縁側のカーテンをはらい、窓を開けると
寒ぅ〜。しかし窓の外を見て中庭の風景に驚く。この宿屋は江戸時代
からの店であろう。





7時を過ぎて、ようやくちゅんちゅんと雀の鳴く朝になった。散歩に行って来る。
表から見ると屋根瓦の厚さが本瓦で、これはすごい。



築80年でミシミシ言う私の長屋と違い、ビシとも床が鳴らないのは、
100年級以上の木造家屋でも、土台と途中の手入れがきちんとして
土壁もメンテしておれば、不安感が全くないということなのだ。


丸亀駅の付近には1980年から数度訪れている。
中でも1991年、瀬戸大橋が出来、線路が電化され高架になった直後、
この駅の近くを歩いて、ある物を見かけて驚いた。







これらは遊郭の跡である。
20数年ぶりに来たので、もう残っていないと思うが、散歩中に何かないか
期待する。駅裏の元遊郭は、殆ど更地であったが、少し残っていた。





この場所は明るい時間に初めて歩いてみて判ったが、旧丸亀港の船着き場の
すぐ近くである。
上陸後、まず女郎家に直行したのは往年の船乗りばかりではあるまい。
金比羅詣での男性参拝客、集団で「旅の恥」とお金をかき捨てて行ったのは
いつの時代までであったのだろう。



こんぴらさん、というのは明治の廃仏毀釈で危なかった時期があったと
昨夜の料理店の親爺が歴史を教えてくれた。

元々は象頭山という真言密教の寺院で88カ所にも入っていない。
熱狂的な人気を集めるのは、旅が自由でなかった江戸時代からで、
やっぱり歓楽街を経由して、船旅や道中の安全を祈願する、建前と本音の
スケベ心を満たすレジャー聖地だったのではないか。

私は古い車や珍しい車が好きなのは、希少価値より道路を走る時に
少しだけ、「こんな古いクルマに」といった、後ろめたさを肯定したくて
いや、普通のクルマ以上にこれだけ走れるのだ、みたいな、強がりな
心理があるのかもしれない。

明治の改変で、金刀比羅宮になり神格、神社化する。
しかも大久保利通という当時の権力者に、怪し気な男がすり寄って。
大神宮にもなれずその下の地位にこんぴらはとどまった。

鎮護国家や、航海安全を存在に謳うのだが、海の大鎮守は、隣の伊予の国、
大三島にある大山祇神社が、遥か昔からあるので、分が悪い。
そこで海事や海軍の守り神であることをことさら強調した。

しかし庶民信仰、場合に寄れば象頭(荼枳尼天や象の形のインドからきた
神様はSEXの象徴)だった信仰の対象が、いきなり国家宗教になっては
しもじもは白けるであろう。
だから年代とともに金比羅信仰は、熱気が冷めた。

高松、坂出、多度津らとともに、一番の船着き場を競った丸亀の港には
もう殷賑だった賑わいは残っていない。

後に残る遊郭街の外れの弁財天(厳島神社)に、廃墟と成った江戸時代の
ような狭苦しい遊郭の残骸と、命落として骸となった名も無き遊女たちを
弔ったであろう境内の石積みの小山に気付き、私は哀れな感情を催した。





太い力の籠った、寄進の石柵の寄進者名に残る男たちの名に、もしかしたら
女衒で儲けた荒くれたちのことをそっと想像したが、風が渡るだけであった。



Posted at 2014/04/14 11:25:51 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年04月12日 イイね!

春のグランドツーリング実行中

春のグランドツーリング実行中たくさんの前記事へのコメントありがとうございます。

PCを持たず、木曜日から旅に出ております。
今年は寒かったので、彼岸の墓参り兼ねた大旅行の途中です。

1日めは大阪-宝塚から淡路島を渡り、高速で香川県の丸亀へ。

2日めは、今治まで下道を走って、しまなみ海道を使い尾道-広島と移動して、山口県岩国市に来ています。

明日は山口県から鳥取県の米子市まで走り、日曜日のイベントに参加の予定です。

今回の相棒はアルファロメオ75TSです。
大阪を出て500Km以上。
春の日本列島の旅は最高に美しい。

気をつけて、参りたいと思います。

Posted at 2014/04/12 04:07:44 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2014年04月10日 イイね!

50代の人生

50代の人生
過去を振り返ると未来は見えるのか。

5年前までは同居していた私の家人は
過去を振り返るのがとても嫌いで
話題にすることも憚られていた。





40代の頃は、まだ半分は、身体が新しくなれる気持ちが残っていたから
大きな買い物や、消費するエネルギーが残っていた。
無理も出来て当たり前だと考えていたのかもしれない。

ところが消耗するのは肉体と精神、同時進行である。
私は55歳の前になり、ようやくいろんなことが見えて来たり
判ったような気がしている。
40代で燃え尽きる人生は、実際見て来たし、身体を壊し働けなくなって
社会支援で生きるようになった例もいくつか知っている。

今年は39年生まれの人が50歳。東京オリンピックと東海道新幹線も
半世紀前の歴史になった。



50代って、もうちょっと世間や仕事から、距離を置いて眺められる年齢なのに、
最近の世の中は、無理矢理その年齢を、60や70の下に置こうとするから、
不協和音が出る。
もう50から先は、選びようで生きてもいいのではないか。

49までで寿命が燃え尽きる例は少ないが、無理とストレスを貯め込むと
そうなる。
50代は山をある程度登ってしまったのだから、下山したっていいし、
もっと高い峰に行きたかったら練習・訓練すればいい。
50って良い数字なのである。100の半分でもあるが。

最近の私は、クルマは好きだが、ストレス貯めてまで乗るもんじゃないと
感じ始めている。
相変わらず壊れるクルマに乗っているが、信号を発してくれるクルマは
自分の良き伴侶であり、それは焦げ付いた心境になるような場面が
かなり少なくなった。

自動車社会も、オールフリーを目指すか、メンテナンスレスの反対の
メンテナンスフルな物を選び乗る、メンテナンスプレジャーだって、あって良い。

その辺の所の付き合い方が、判って来るのが50代だ。





ところで、昨夜は何十年かぶりに酒場でカチンと来て、「不快です」といって
帰ってきた。ケンカはしない主義なので。

なんだったかというと、くだらなくもないが、くだらないのである。

年金のことである。もう受給をもらっている人が、まだ開始数年目だが
私の年齢のことを言い、職業的に公共機関に再就職している人が、kotaroさんの
年齢はどうなるかわからん。新聞に書いてあったと知識だけをひけらかし
(情報に過ぎないが)
私が呆れたのは、一部でももらっている人が、下の世代に「お前らもらわれ
へんで」みたいなことを平気で口走ったことである。

しれも元、大きな企業グループの系列の社長まで務めた人物が、こんな人徳の
ない発言するようでは、と思って憤りかけたのである。


そのくらい、私は下の世代が持つ不平等感について、神経を使っている。
私が開示して書いている、人生の生き方論は、避けられないことに対し
「仕方ない」とか「運命」みたいな無責任は極力とらない主義である。

それを何とかするのが、大人の、先人の役割だろう。
戦争が始まって、仕方ありませんでした、と言ってるのと同じだ。
ということで、私が考えている50代論は、なんの手本ができるのか、に限る。

最近読んだ哲学と経済の新著には、近現代の終わりについて
淡々とした分析と見解が書かれてあった。
私もそうだと思っている。

90年代から私は、産業社会は徐々に終わって行くと感じていた。
脱産業社会というワードは、たやすくマスコミなどでみかけたが
そんなにすぐに出て来るものではない。

つまり成長を固定したポジションで見ることは通用しないし
景気とか言う言葉概念で括っても、それは出て来なくなったに等しい。
かといって閉塞感と言ってしまうのも、結果を投げているに過ぎず
何を考えて行動していくかである。



いま一番してはいけないのは、現状に苛立ってしまうことだろう。
自殺が多かったりするのも、不安もあるが、答えの出せないときの
感情爆発の方が大きい。
50代はなぜ、こんなに昔より余裕が無くなったのだろう。

お金と景気ーデフレ遠因説を、勤めていた時代に新聞社説で読んで
なるほどそうかなと一瞬考えたことがある。

側面的に昔のナイスミドルやシニアの語感に、年金や投資の運用がうまく
いっていた時代の空気は覚えている。
じゃあ、いまのミドルは、何も持っていないかというと、金融資産評価
の部分だけでは、対照にならない。

精神的にゆとりを持つのは、気分も整えていないとできない。
精神論以外に、それを実現するのは、脱経済資本主義的な視野や視点も
要るのである。

私は極論だが、50代は「3年働いて、1年休む」くらいで良いのではと思う
ようになった。
それは非現実なのかと言うと、今の自分がそれを実践しつつあるのである。
よく考えると、住宅ローンと子どもの進学費用、それも2、3回考えると
旧来社会の因習に囚われているに過ぎなくはないか。

子どものいない人がフェラーリポルシェの1台くらいは買える。これも
おかしな反対逆説論みたいな見方だ。
いや、とにかく、すべてに金がかかるんです、って言い方も
よくよく見直してみると、なんかちぐはぐだ。
実は、40代までは生活費がかかって行くのは、これは実感でわかる。
しかし50代からあとは、まあ気楽に流していきましょうか、で
普通生きていけないとおかしい。

社会保険とか健康保険とか延命装置のような介護は、どこまでほんとうは
要るのか。これもあるからすがるなんて言うと怒られるが、最低限でも
人間は生きられる。

それよりも、近代社会が人間から奪った自由を取り戻し、観念の呪縛から
どの程度リリースできるかで、人生の残り1/3くらいを楽しまないと
えらく惜しい時間の使い方になっていないだろうか。




その近現代社会がいま、終わりかけてきているのである。
もし本当なら、悲観する人は多いだろう。
しかし歴史の転機はいつもあったが、転機が直接人を滅ぼすことはない。
逆に、そうか、そうだったら違う新しい生き方、価値観を探して
やってみようというタイプが、生物学で生き残れるのである。

諦めたり運命と信じ込むのは普通に生きていたらそうなってもおかしくない。
しかし私は、今日からまた旅にでて、何かを感じて考えて行こうと思う。



Posted at 2014/04/10 05:07:12 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日々の旅 | クルマ
2014年04月06日 イイね!

10年前と今。

10年前と今。2003年に初めて10万円を超える参加料の
クラシックカーイベント「ponte perle」に
出場した。

コドライバーは、毎年イベントを一緒に見に
行っていた友人を誘い、彼がエントリー料を
折半してくれるというので、懐の軽い私としては、
非常に恩に感じた結果となった。



別にfiat 850coupeなので、普段乗っているクルマであり、
特別走らせた充実感が、というようなものではない。

やっぱり、得たものは高揚感と満足感であろう。
友人は数年後から、ビンテージカーの世界にはまり、単独で
出場することとなり、人脈を開拓されていかれたので、私が
パーシュエートできる分野を超えていかれていった。

その頃と、2010年代半ばに近づいた今とを比較すると、
「祭り」の質が変わって来たように思われる。
人によっては、10年前と今と、全く暮らしの内容や質が変わらぬ
ヨーロッパの上流階層みたいな人もいるだろう。

しかし欧州の人々の暮らしも、大きく変わった。
この10年でドイツの相対的地位は、強度になり、トレビヤンなフランスは
サルコジ時代以降に、仏大統領がドイツの首相を凌駕できるほどの
影響力はなくなった。

日本はなんなんだろうと、僕は常に思っている。
あの頃の90年代を引き摺った、高揚感は失せてきているし、
一部の高収入者は、セパレートした世界観で防御して、俗称セレブ、
これも陳腐な言葉に落ち着いて来たが、まだそれを追い求めている
人もいる。



祭りはポンテペルレが終わって、東京の方が中心地に移って行ったのは
地方経済が、冷えたと言うより、無くなっているからで、仕方ない。

エントリー料を取らなかったり、1500〜3000円クラスの
旧車であれば“オールカマー”(なんでもあり)なイベントは、しょうもない
地方の村おこしに、随分使われている。実際に増えた。

私も昔から行っている、草の根系イベントがあるので、人のことは
言えない。

ただ、やっぱり余程ホスピタリティーに気を遣うか、魅力的な
中心人物がいないと、盛り上がりに欠けるし、雑である。
そして長続きしなかったり、毎年方針が変わる。

ということで、右往左往しているうちに、今度は雑誌の方がめっきり弱く
なり、情報発信力に欠けるようになってきた。
読者を巻き込んだ、“ジャック”のような面白みは、到底無い。

雑誌が音頭をとって、たくさんの人を集めるようなイベントは、
皆無になった。この10年間で使命が終わったかのように思える時さえ
ある。

いま、自動車社会や、自動車趣味に、「必要なもの」って何だろう。



クルマ本体は、何とかなる。
ガソリンは、枯渇すると思われたが、価格操作のための口実では、と
最近ではそういう説も有力になるくらいである。

結局、乗り手の人類が、愛せるか愛せないかに、関わって来るように
なってきた。
これは一番難しい問題で「愛してくれ」と男が迫っても、
女は絶対にそういう状況で心を開いたりしない。

いまはそこまで、クルマ社会は追い詰められ、追い求められて
いるのである。

超エンスークルマを探して来て、「どうだ」というのも、何か苦しい。
私はいつも、ぶれないように、ぶれないように修正をかける。
自身が3割バッターでないので、2割5分から、8分くらいの成績で
通算成績を残せたら、最後は2000試合級の結果(選手生命)にならないか。

しかし盛り上がりに欠ける人生は面白くない。



だから時々、面白いことや、仕掛けを試みる。
多岐にわたるリンクや、人付き合いのクロスオーバーは時に変化がある。

時々、F-1のような壮大なフィクションが日本に根付かないのは、
どうした訳だと、考えることがある。

あれをノンフィクションと考える人は、セナを神に例えたり、
子どもの名前にアグリとか、まあシューマッハは付けないだろうけど
フェラーリ系の名前とか、子どもが苦労しそうな世界に到達する。

今後の自動車社会、日本においては、ヒーローは出ないし、もっと地味に
なって行くだろうと思う。
そういうこの国で、自分たちの好きなことを正当化して、社会に肯定的な
市民権を維持して行くためには、どうしたらよいか。

偽善なチャリティーは時代でないし、それこそ新しい文化をひとつ、
作って行くことくらいできないと、僕らは社会の隅にもいられなくなる。
そのくらい、自動車を楽しく乗り続けるためには、不断の働きかけが
いるんじゃないかと、最近は思っている。



Posted at 2014/04/06 12:23:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「青春と自動車 http://cvw.jp/b/176891/48681575/
何シテル?   09/28 04:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

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