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kotaroのブログ一覧

2014年05月24日 イイね!

タイから帰国して思うこと

タイから帰国して思うことさて東南アジアの旅の続き。
私の感想を先に言うと、日本人は非常に恵まれた
クルマ趣味の出来る国に住んでいるということ。
それがよくわかった。

過去に作られたどんなクルマ、また最新の自動車も
低いハードルで乗られる。
これは輸入規制や、とくに中古車も輸入の駄目な
中国や韓国では、途方も無く困難なことである。


それだけ日本人は恵まれた条件にあり、ヨーロッパから遠く離れた島国で
ありながら、私のfiat850coupeのように43年前でも、こういった趣味心を
くすぐるクルマが入っていたことは大きい。

単に他所の国を比較することは、普段どうかと思う私だが、事実に基づいて
書いていく。
クルマ購入価格の低さは日本の美点である。
そしてタマ数の多さ。種類の豊富さも東洋か世界一であろう。
そのメリットは普段暮らしている国内では空気のようなものなので、あまり
幸福を感じない。

私が昨年、50万で購入したアルファロメオ75のような、個性的でかつ
実用本位の欧州車は、日本が一番安くて数が残っていると思う。





タイでは国産メーカーと呼ばれる存在ブランドが無く、実質的に日本車を
作っているので、日産のマーチのようなクルマの人気が高い。
またタイ人に反日的な感情が少ないので、双方にとりメリットが大きい。

支持されると言うことと、安い人件費で日本製の自動車を生産することは
良いことばかりだが、エンスーのようなひねくれたディレッタントは
中々生まれて来ない。

ブックストアで自動車の雑誌を見ると、殆どが外国の雑誌。日本からは、
おぷしょんとゲンロクの翻訳版が行っている。
小沢コージさんが狙っているアジアエンスーマーケットは、チューンドカー
の方になって来る。

タイの自動車雑誌も2、3種類程度で、やはり薄くて内容は中古車情報と
改造車の実例、70カローラの改造車に笑ってしまったが、素質はある。
そして女の子の写真。健全な欲求の時代を思い出す。
私はもと編集業だったので、こういうチェックが実に楽しい。



実際タイに移住したら、どんな視点でタイライフを楽しむだろうか。
まずクルマ探しだろうが、整備はかなり不安があるし、DIY覚悟か。
欧州車は古いのに乗りたいがぐっとがまんして、まずは日本産の少し古い
やつ。ダイハツ当たりが面白い。





上のダイハツミラのピックアップ。かなり古いL70系ベースで、少し車体も
長い。それから次は3代目シャレードのセダンで、日本ではシャレード
ソシアルと言われたやつ。こんなのに乗っていると、嬉しくなりそうだ。

ダサいカローラをこんな風にして乗る。色はすごいなあだが、これも
イカしたアジアンテーストなんだろう。



シビックセダン。ワンダーシビックの時代か後継型。黒バンパーが泣ける。



こいつは、そっくりな雰囲気だが、3代目シャレードで、先ほどのセダンの
ハッチバック版。



三菱車の人気が高いのが東南アジアに行くとよく思う。

こっちがランサーで、


こっちはヒュンダイ。もとはエンジン等、一緒みたいなものだった。



あとこういうのが面白い。
先ほどのランサーにも日本語のステッカーが貼ってあったけれど、
これは向こうでは、クールなんだろうと思った。



「ハンドルのムタカス」
縦書きステッカーって、ムチャ異国文化なのである。

Posted at 2014/05/24 04:56:08 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2014年05月20日 イイね!

アジアから日本を見る

アジアから日本を見る5月15日から19日まで、東南アジアのタイに
行きました。
ほとんど居たのは北部のチェンマイです。
帰国したとたんに戒厳令が出たりしましたが、
私の居た場所は平穏でした。

今回はアジアのクルマと人々の生活に着いて
書いていこうと思います。

まず21年前のタイって、こんなクルマが
走っていました。





コルチナ・ロータスで有名なフォードコルチナ。1960年代初期のモデルです。

下はフィアット初の本格FF車、128セダン。その前を走る白いクーペは
2代目プレリュードでなく、サニーベースのRZ1だと思います。
こういう60−70年代のヨーロッパ製オールドタイマーがいくつでも見られた
のが、1993年の訪問時でした。

今回の旅して思ったことは、そうした旧い車が殆どいなくなったことです。
以前は中心地のバンコクでも、こんなクルマが普通に使われていました。



お分かりですか、プジョー504の前の時代になる中型サルーン、
404のごく奇麗な個体が、王宮寺院の駐車スペースに停まっていました。

その頃でも日本車の躍進は著しく、現地ガイドの若いタイ女性は
働いて貯金をして、マツダのピックアップを買うのが夢だと、
話してくれました。



これらヨーロッパの車種は、私には好物の時代のものばかりで、
最新型のクルマは、日本車に置き換えられており、今回はそのときの
予測をさらに肯定するような事実を、見せつけてくれました。

日本車は右ハンドル、左側通行のタイやインドネシアでは強い。
こうやって自動車界の盟主は代わって行くのですが、この20年間に
タイ人の経済力は着実に上昇し、前のようにどんな古いクルマでも
直して使うと言う美点は後退し、戦後の日本経済の歩みのような
新しいものを旺盛に買うのが良いに、なってきたと思います。



これは今回見たワーゲンです。
やはりタイ社会のクルマ好き事情、エンスーについてレポートします。

北部チェンマイは、3、4番目くらいの町で、札幌や博多に該当するの
かもしれません。新設のショッピングモールも出来ました。
一概に運転は飛ばしますが、タイ人の気性は荒くないので、交通トラブルは
無茶は少ないと思いますが、信号が少なく、一方通行やロータリー
合流も珍しく有りません。

旧い車はこの20年でうんと減りました。
大きな駐車場に行くと、10年前後の新しい日本車ばかりでした。
ヨーロッパ車はかつてのプジョーやルノー、フィアットの御3家が
退場して、最新型は全く走っていません。





90年代のルノー19と初代フィアット・プント。このあたりが生存確認
できた最後のヨーロッパ車だと思います。

そうすると、鏡のように見えてきた、今の日本って、どんな国なのか。

そこが今回旅を通じて得られた、一番大きな収穫だったと思う。



まず、日本はアジアの中で突出した物質文明国であるということ。
エンスーみたいな感性や、趣味は、贅沢な国民の国でしか味わえない。

日本もかつては、先進国を追い掛け、追い越せで、いろんな套衣を脱ぎ
捨てて来た。
それでも日本には、真贋の美を見抜く力が有ったし、1000年以上の国の
民衆史があったので、独自の感性や文化が育まれていたと思う。

近代以降の150年は、普通の感覚では生きて行けない体勢変化もあったが、
器用な日本人はカルチャーショックを何度も乗り越えてきたと思う。
きょうの文体にやや国粋的な臭いがしたら謝る。私は民の文化と歴史の
擁護者だ。

日本には今、大変な幸せがまだ残っているのだが、なんとなく不幸感に
取り憑かれて長い。
ちょっと簡単に言えないので、エンスー談義に戻る。

タイ人から見れば新しい、新車に近い日本車を乗ることが、今のサクセスだ。
日本人はそれなのに、中流はプジョーに乗りたがり、やがてBMW、
メルセデスやジャガーに憧れる。これは、半分間違って半分正しいと思う。

プレミアム化とブランド志向は、この15年くらいの日本人の消費動向の
KWだと思う。
じゃあ、世界の中で「より金持ち」「より贅沢」をみんなが目指しているか
というと、それは正しくもないが、無意識に動向しているところはある。



日本には過去に買い貯めたたくさんの「お宝」がある。
人によってはくずやゴミであろう。しかしエンスーと呼ばれるような
ビョーキの人たちには、とっても珍重なものがあるのだ。

タイで20年前に走っていた、古いフィアットやプジョーは、価値観の
相克の前に脆くも捨てられてしまった。
まあ、当たり前に言えば、耐久、消費期限が来ただけである。

今回の旅で一番心に残ったクルマは、出来たばかりのショッピングモール
駐車場で見かけた、黄金色の古い1台のフィアットセダンであった。



日本名でいう132、もしくはアルジェンタ。
おそらくは華僑当たりのおじいさんが、普通の国民が買えなかった時代から
大事に乗っている縁起のいいクルマなんだろう。



私は実は、1993年にタイに行ったのが初めての海外で、その頃は売春
ツアーみたいなのが多くて、業務とは言え嫌で嫌でしようがなかった。

しかし空港に着いて送迎のバスに乗り込んで、窓の外を走っている古い
フィアット、そう132アルジェンタを見てから、海外の見聞を楽しむ
ことを知った、忘れられない1台なのである。

しばらくはこんなシリーズで書いて行こうと思う。

Posted at 2014/05/20 14:08:48 | トラックバック(0) | うんちく | クルマ
2014年05月14日 イイね!

阪急沿線

阪急沿線クルマネタもあまり無いので違うことでも
書いてみよう。

私の住んでいる町は、5年前に阪急電鉄が100周年を
迎えたその頃に、引っ越して来た。
この古い家の裏側に、105年前に箕面有馬電気軌道が
最初の車庫を設置した場所の、すぐ近くなのである。
その車庫は、昭和47年まであったが手狭になり、
川西に移転した。


阪急という会社は、甲府の隣、韮崎出身の小林一三が、三井銀行の
サラリーマンを早く辞めて、大阪にやって来て、国鉄に吸収される前の
福知山線の前身の私鉄の監査役をやり、その次に仕事が無くなり会社を
立ち上げた、ところから始まる。

今は東急グループの方がずっと大企業だが、一時期は東宝グループを含めて
日本一の私鉄系企業グループだったことがある。
東急の経営も、阪急に教えを乞いて田園調布の歴史は、始まった。

池田という町は中世からの歴史を引く古いところで、小林はなぜここが
気に入り、本拠地にしたのであろう。
山の手の建石という地区に、豪邸というよりは数奇を凝らした邸宅を建て
一時期はそこに松下幸之助らも、日参して茶道の友と経営を学んだらしい。

私の近所に住む70代の女性は、よく飲めるので、今日は昔話を聞いていた。
すぐ近所にある銭湯の近くに住まれる彼女は、庶民派の生き字引である。
お父さんが阪急に車庫係で採用され、勤めて電気技師になり、最後は
百貨店や関連施設の電気保安全般の、責任者まで昇ったらしい。

関西電力という会社は、戦前の宇治川電気、京都電灯、大阪市電気局などを
集めて母体とするが、戦後の歴代社長、大田垣士郎や芦原義重らはいずれも
阪急から関電に行ったくちである。



だから関電と阪急というのは特別な関係が長かった。
関西財界のトップと阪急のトップは身内みたいなところがあった。

この女性、戦前生まれであるが、彼女の家は今で言う「オール電化」で
電気式湯沸かし風呂、電気式パン焼き器(トースターでなく大型のグリル)
何でもかんでも最新の、見たことも無い電気製品だらけであったらしい。
しかしお父さんが昭和25年に52歳で他界する。その後長姉が阪急百貨店に
勤め出し、三姉妹で家を切り盛りする。

こういうストーリーを聞いていると、カンの良い人は朝ドラにもなった
ある小説を思い出すだろう。NHKの「てるてる家族」、なかにし礼の
原作は、親戚のいしだあゆみ一家の実話であり、これは戦後の池田市の
駅前を舞台にした連続小説だったのである。
これでデビューした石原さとみも、もうすっかり大人のオンナになった。

阪急という電鉄は、電車の塗装の色を開業時から、かたくなに茶色を
守っている。戦前は国鉄も私鉄も大半が茶色い電車や客車であった。
戦後に自由な時代が来て、昭和25年の国鉄湘南電車80系から、濃緑と
オレンジのツートンカラーが始まった。
私鉄も追随して昭和30年代までに日本中の電車は明るい色に変わった。

これって、一種の文化革命なのだが、歴史をきちんと教えている本は少ない。
阪急はなぜ、色を塗り替えなかったのか。
おそらく昭和32年まで生きていた創業者の小林一三の強い意向で、
「余計なことはしない」「他所に追随しない」、この2点であったのだろう。



関西にいると、東京では不思議に思われることが、普通で気が付かぬことも
多い。
阪急文化は、浪速のこてこて人情を排したクールで冷たい所がある。
いま、小島直記の小林一三伝を読んでいるのだが、やっぱり経営者として
極力べたっとした人付き合いを避けている。
それは小林が、フォリナーだったことと、古い大阪財界に背を向けて
日本全体に通じる企業を作ろうとしたところに、よく現れている。

宝塚歌劇と言う何とも不思議なワールドがある。
先ほどまでの庶民派に対して、田園調布のモデルになった、日本最初の
サラリーマン向け分譲地、室町住宅育ちの59歳女性に登場してもらおう。
彼女もよく飲む。

独身姉妹の姉の彼女は、宝塚と歌舞伎の追っかけで、人生の生き甲斐を
費やしてきた。
憂いも無く、羨ましいような戦後日本の安定した時代がそこにみえる。
この装置(仕掛け)を発案したのも小林一三である。

彼女たちが育った100年住宅の住宅地に住んだのは、大阪の安定した
収入のあったサラリーマン。お父さんはサントリー系企業に勤めていた。
寿屋(現サントリー)は鳥居家が雲雀丘花屋敷に住んでいた関係で
阪急沿線に、人的関係が深い。
私学、雲雀ヶ丘学園もサントリー系である。

私は日本と言う国の歴史と、現在と、行く末について今考えている。
東京のように、多くを望まなかったら、過去の資本や財産で、そこそこ
食って行けるのである。
先行投資が回収できるのは10年くらいが適当であろう。
ヒステリックに強靭化計画を唱えなくても、先見の明のある技術者や
経営者が、人間的に切瑳すれば、何とでも世の中は切り開けるし、
池田市のように、過去の遺産で10万市民が、暮らす例もある。

この町には景気経済が良かった昭和40年代までは、宝塚ホテルの支店があり
映画館も数軒、いろんな文化ファクターがあったらしい。
それを支えたのは、阪急グループの底力と、ダイハツや地元の企業など、
働き手が正当なサラリーを貰い、活発な消費活動があったからである。

それはだんだんと重心が東に移っていったり、社会構造の変化で影響が
現れているが、まだ何とかなっている。

華やかだった神戸線は、震災で西宮北口の方がずっと都会らしくなった。
京都線は横ばいの業績であろう。開発は市内は無理だが、国際的な
観光都市であり、ホテルとセットで、京阪神を3日で回るような切符と
宿泊をシニア層に売り出せないものだろうか。

阪急はアイデアの宝庫である。
先進的かつどん欲な意志を持った経営者が1世紀以上前に始めたビジネスに
たくさんの人が乗っかって今日も走っている。
私はこの情報社会に、一三のような人物が生きていたら、どんなアイデアを
捻り出していただろうか、考えてみる。

Posted at 2014/05/14 03:23:52 | トラックバック(0) | 鉄100% | クルマ
2014年05月09日 イイね!

管理と自由について

管理と自由について2000年頃から、世の中の潮目が大きく
変わった。と言っても何となく感じていた
これまでだったが、2010年代になり
このところ、体で世の変化が感じられる
ようになった。

きょうは、そのことについて書いて行く。



googleが「タイムマシン」という機能をスタートさせた。
評判のいろいろとあった、ストリートビューの5年分の蓄積を活かし
ビルが建つ前と現在までの過程などが見られるらしい。

私もさいきん、もっと面白いことをやっている。

Facebookの中で、駅の写真と廃線跡探訪のグループに入って、
スキャナーを駆使して、1970年代から2000年頃までのネガ写真を
ネガをパソコンに取り込み、分類整理して、例えば広島駅など70年代
から新幹線の開業とか、岡山のように四国と動脈が繋がった変化の
大きな場所の40年、30年前の写真を、その地点が話題になれば、ぽんと、
「はい、『広島駅1973年』」、「下津井電鉄1980年」というように
写真を引っ張り出して提示して、褪色したプリントでなくできるだけ
鮮明に記憶回路の写真をご覧にかけているのである。

やっぱりざわめきが聞こえてきそうな反応が面白い。
ネットで個人プレイをするのは、反発や反感だけは気をつけた方が良いが
これは概ね好評で、私も嬉しくなるので1日1件くらいにとどめている。



今日の話の導入部なのだが、タグ付け社会のことについて考えよう。

2010年代に入り急速に社会の基礎や基盤が変わって行っている。
それは情報の集中管理が出来るようになってきたのが、「当たり前」の
レベルに達したからだ。
私のような、おじん凡人でも、このくらいの遊び心は気が付く。

それで写真(画像情報)をコンピュータで管理するようになった。
これまでの40年分の手帳メモや、古い時刻表、ネガシートに書いた日付、
大学ノートに貼られた写真の撮影状況などを一元管理していく。

これは非常に新時代の遊び感覚と、これまでのストックが活かせるのが
嬉しい。



ところで、世の中の動きは点だけを見ていてもわからない。
天体観測は点である星と宇宙の関係を見ることが面白い。
世の中で起きていること全部の説明は難しいが、分析することは
較べることで可能になる。

いま最も大きな関心はなんであろうか。

私は先にも言ったように社会基盤が管理の方向に流れているいま、
個人の存在はどのようになっていくかということが、最大のことかと
思う。

自動車趣味のサイトで荒れることは少ない。
2011年の震災と、その後のことを思い出す。

ここより広い話題が活発に出ているFBであるが、思想信条と表現の自由、
それから右派と左派が、やっていること。
ここのところの経済回復基調と、相変わらずの同じ単語で政府批判を
くりかえす人の存在。

私は悪くない、正しいというのは何に拠るのであろうか。

私は「新自由主義」とか「レイシズム」の言葉をかざす人は、どの時点で
そうなったのかを考える。
実は「敵」はアベシンゾーではないのに、と考えている、彼らにとっての。

ほんとうは、コンピュータと現実社会の動きが、反対運動派の人にとり
脅威なのではなかろうか。

幕末の尊王攘夷とか、そのあたりの日本人は目まぐるしく思想や考えが
振り回された。その時の人々も、真面目に世の中を良くしようと
考えていたのである。



話題をもう一寸前向きなものに変えて行こう。

いろんなことが起きている現在、抵抗したり反対する人の「お気持ち」
は判る。
それを「正」とか「善」と思うことは自由だが、絶対的に欠けているのは
フレキシビリティだと思う。

人間は生きていかなきゃならないのだよね。どんな時代になっても。
その管理社会、仮にそう言うとするが、その中で自由が奪われて
国家(暗黒だと思っている)に統制されて、人間らしさがどのくらい
失われていくのだろうか。

案外私は、違うように最近は考えて来ている。
わからないよ。どう転ぶのかは。
悩ましい問題であるが、自動車に乗るのだって、統制と束縛と
様々な金銭的負担を強いられている。

だけど、それ以上の自由と楽しいと、経済的な恩恵が計られている。
甘っちょろいかもしれないが、世の中はそのように変わって行くと
信じている。



旧車に乗るのは、環境か維持現実で無理になるかもしれない。
たとえ走れる状態のものであっても。
ただそこで悲観と絶望で孤立してはいけないと思う。

それから最後に、今の時代はちょっとしたことが残ってしまう。
会話レベルのものでも、ネットを経由する便利さ故にいちばん
気をつけたいことでもある。

またさらにネガな言動の多いところには、負の力が集まりやすい。
それを出来るだけ避けるしかない。

なんとなく判って来たのは、世の中に迎合するのではなく
自律して合わせていく。批判批評は自由であったが、言動の傾向は
分類されてしまうので、かなり責任が伴うようになる可能性がある。
そんなところであろうか。

私は「前向き」ということに今後は絞っていこうと考えている。
多様な価値を認めるし、自分のやり方も古い物が好きだけれど
できるだけ嫌な感じにならないように努めている。

2日間の旅から帰って来たばかりであるが、本を集中して読めたことと
いくつかの身辺の出来事の感想でもある。
ふりかかった煩わしいことを、アウフヘーベンすることは実に難しい。
Posted at 2014/05/09 12:32:33 | トラックバック(0) | 思うこと | 日記
2014年05月07日 イイね!

穏やかなる連休ラスト

穏やかなる連休ラスト今年のGWはエルニーニョの影響か、寒かった。
雨は5日くらいだったが、まだ半袖で歩けない。
最終日は六甲アイランドの南端で、古い仲間らの
集まるオフミに75で行ってみた。

時間の経過が15年くらい昔に遡り、その当たりからの
顔見知りが何人かいて居る。

90年代は、まだ活気があった。

自分を中心に時代を語るのは普遍性が無いと思うが、
当時の30−40代の車好きは上昇志向も強く、より速いクルマや
高級車を買うことが、ひとつの行き方であった。

だからフェラーリとポルシェは、わかり易いシンボリックな“ごちそう”で、
ある程度の収入や生活を達成できた人の「ご褒美」みたいなところがあった。
昨日来ていた人の大半がその当たりのクルマが好きなグループである。

私は本来、その当たりの人たちと付き合うには、少し落差もある。
子どもが多いとかそういう理由は負け惜しみだが、別次元のクルマ趣味
でずっとやって来た経験と、スタート段階でのクルマ体験なら
いくらでも話題は尽きないし、世代的に重なることも多い。

「金持ち喧嘩せず」の集団だなと、昔から思っているし、反対に
初めから妙なコンプレクスを感じて、遠くから的外れな批判をするのは、
嫌だ。
しょっ中一緒の遊びはしないし、たまに顔を出す程度のことなら疲れない。
だから昨日は軽自動車ではなく、アルファ75に乗り換えて行ってみた。

過激なクルマが減ったのが、第一印象。それとクルマ好き平均年齢は
50歳を超えたのではないか。
これは社会の方に照らしてみても、通じる。
昨日の印象はポルシェは911よりボクスター、ケイマンが多かった。
フェラーリのスパイダーはグループでは若い方の1台くらいであった。



想像以上に日本の社会は円熟という方向に向いている。
これを見て、社会はふたつに分かれて来たという見方、格差問題を論う
のも間違いではないが、私は微妙にずれているという意見だ。

それから私の文章を、お会いしたみんカラメンバー内外の人が、
多く見ていただいており、嬉しい感想を頂く。
いい加減な記事は書けないと気持ちを締めるとともに、予想以上の
読者の数に、有り難いと再認識した。
ページビューは少ない日で200。多い時は600以上ある。

ロケは気持ちの良いところだったが、食事の質と値段と従業員のレベル
など、いまの神戸はこんなものかという感想だったが、人が薄くなって
きている今の関西で贅沢は言えない。

こういったマイルドなクルマ志向、趣味のベクトルをどう見るかである。

東京辺りでは、活発なオフミが続いており、旧車、珍車、ヴィンテージ
何でも来いの集会、イベントが月に複数は行われている。
関西は活気が無くなったのかという、分析はあるだろう。
でも参加者層の、クルマに対する好みやこだわりは深い。

相対的収入の低い関西で、選ばれた人たちと言うより頑張ってる
人々と言えるのではないか。
絶対的なインカムで今は勝てない私も顔を出しているのは、情報や
人間に付加価値を求められており、私にもいろんな質問がくる。

私は成熟や祭りの過ぎた日本で、これからどういう世相が広がり
可能性や達成のある分野を探して、そこに力を入れて行こうと思う。

車齢10年以内のエキゾティックカー達の横で、紺色アルファは懐かしい
時代の空気を連れて来たマシーンのように受け取られた。
バブルと言われた80年後半と90年頭の方の高級車であり、それでも
今のクルマから見れば質素すぎる。

大沢商会に行った思い出や、此処に居る人の中にも新車は買えなかった
という思い出を語る人もいた。
結局こういった中程度の旧車は、ネタにのぼることで生き返れるか、
どうかが評価の対象だ。

関西は想像以上に成熟文化のところなので、前のめりなホビー(オタク)
感覚は敬遠される。そこは突き放して、一見醒めたような道具選びと、
自分を中心に語るのはセンスの無い野暮だと思われている。




一般的に「こてこて」と思われている関西文化圏であるが、実は枯淡な
趣の好きな人は多く、実際にギラギラしているのは東京の一部だ。
町の場のどこを取り上げるかで、比較は簡単には出来ないのである。

しかし関西は活躍の場が小さくなっている。
参加の人たちは普段の暮らしを持っているが、東京から帰って来た友人が
一人来てくれたが、みんな普段は高級車を格納しているのだろう。

ランチも駐車場のクルマ談義も、長過ぎない程度に引き上げはじめる。
一番淡白な集団だから、クルマは脇役で近況のことと馬鹿話が済むと解散。
私は久しぶりに六甲山に登ってみた。



表六甲をケーブル下駅から登って行く。



いつも下り専門が多かったので、上りはなかなかタイトであったが、
75らしい動きをしながら、連続ヘアピンを縫うように走ってみた。

かつて90年代に山上で集まり、若き日の熱情で通った道々も懐かしく
我らはもの思う年齢になった。
思い出の交差点、道路脇の風景、一瞬山の間から見える海。

こんな神戸の風景が、東京でいくらお金があっても味わえないことに
再びみんなが気が付いて、神戸の価値を見直して欲しいと思う。

縦走路を貫いて西宮方面に下りて、宝塚市の長男の所に立ち寄った。
バイト中にケガをしたと言うので、見舞いと、自転車の不具合を
点検してブレーキゴムを一緒に買いに行き交換。
晩飯は友人と食べると言うので、長居はしなかったが大学4年、
もう最後の年は自由なテーマを持ち、過ごすようである。

先日私が開いた勉強会に、実は一番若い参加者として来てくれて
その感想も聞かせてくれた。
私の退職後の4年の変化を、うまく言いまとめてくれたのには
嬉しかった。私は経営者ではないが、これなら跡継ぎを育てることにも
繋がるのではないかと思った。

最後に家に戻ると、北摂の奥から大阪市内に戻る友人が到着。
立ち話と家の中で茶を一杯飲んで軽い雑談をして、この連休は終わった。
私は5年後には、どんな60歳になっているので、あろう。

Posted at 2014/05/07 03:14:24 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ

プロフィール

「「自動車趣味人」38号に取り上げていただきました。」
何シテル?   06/14 14:37
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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趣味とかその対象はどうなっていくのか 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

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中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
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