• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

kotaroのブログ一覧

2014年08月11日 イイね!

クルマの時代

クルマの時代2010年から、このサイトに記事を書かせてもらっている。
それまでこういったクルマユーザーを多数抱える自動車
ブログの集まりというのは、あまり無かったと思う。
この4年の間に、いろんな意味でクルマ社会の風向きは
大きく変わり、昔のように、予想もつかないようなワクワク
することがめっきり無くなって来たと思う。

そう、きょうはクルマの時代は終わったのか、について考える。

日本のモータリゼーションは1960年代後半から点火して
70年代に一度排ガス規制と石油ショックで、盛り上がりを欠いたが
大方80年代と90年代はまだ、「自動車の世紀」の真ん中であったと思う。

その空気は2000年の10年間も引き続き漂っていた。
それと日本は世界史にも例のない高齢化の進んだ富んだ先進国である。
この国に何か、活力を与えようと様々な取り組みがなされている。
しかし期待と反対に空気は淀むばかりである。

自動車社会は老人社会と、様相は違うが、日本のそれは先進国の
ある意味一番進化してしまった、面白くないシーンが日常を占める。
ハイブリッド車と、軽自動車と、ミニバン、あと高級輸入車の富裕層。
その4つに特化している。

よくいえば非常に近未来的だが、皮肉に言えば一番面白くない未来図だ。
あたかも、人類は自動車に未来を見られなくなったかのように。


このみんカラ以外の歴史はよく覚えているが、ここに書き始めた頃は
あちこちのユーザー間で積極的な交流が多かった。

その頃一番元気だったのは、スーパーカー乗りの方達であったと記憶する。




一番誇らしげに得意な愛車の写真と、その日常は、人生の成功を自分に褒美
するようで、まばゆかった。

その人たちが姿を消して行ったのが、2011年以降で、大なり小なり
東日本大地震という出来事があったことも大きい。
2000年代までは昭和と90年代の余韻があった。好きなことを肯定でき、
女の人が強かった良い時代だ。

日本の3.11は、価値観を変えたと言われる。私は西日本なので1995.1.17の
時の方が衝撃であったが、少し考えてみよう。

阪神の時は、まだ90年代であったので、私は亡くなった人に追悼することは
積極的に好きなことをやる。出来なかった無念を晴らす意味で、と考えた。

ところが2010年代はすべてのジ・エンドになってしまった。
もう、クルマや乱痴気で、魂は報われないだろうという観念が強い。

私はそこまでで、大体のやりたいことをやってしまった。
変わったクルマを探し出し、まだ話題にならない内から、カーライフをクリエート
して、ファッション+ライフスタイルを演出して、アバタもエクボ、
多少壊れていても、さらりと乗りこなすことを、流儀としていた。

これからの時代に、マイナーな変わったクルマを探し出して乗ることは
場面の空気が違う。
その難しさって、長く乗っていると、判ると思う。

何が変わったのだろう。お金の通用する価値も違って来ている。

少し前のロ・ハス的な考え方、これは仕組まれた概念だったが、もっと
下って、個々人の生活概念がずっと、ニュートラルで突飛なものを
遠慮するようになってきた。奇抜を避けるのである。

今や私でさえ、借りた農地で野菜を作り畑を耕している。その近くに
「オンザガレージ」、この方が格好いいのである。

できれば古いレインジローバーで、カントリーとアーバンを往復する。
時にはシティに、スーツを着て登場する場面も欲しいが、もうタキシードで
パーティーは、お呼びが無くなって来ている。




ガソリンの今年からの高騰も、自動車離れを追撃している。
きょう、久しぶりにフィルム写真のDPEを引き取りに行って来た。
外国製のカラーフィルムだが、36コマ撮りで1700円した。

昔は同時プリントで1000円くらい以下だったので倍になったが、綺麗な
紙やき写真は美しい。仕方ないかなと思ったが納得した。
それに較べると、ガソリン代も灯油代も、1年前から120%以上の値上がりは痛い。

物価が上がっても、働き手の手取りが増えると、結果はオーライで経済は
成長する。
日本と諸国が、なぜ2度の石油ショックを乗り越えたかの、最大の原因だ。

ところが今は、世界中で高齢化が進み、足をひっぱっている。
若者の給料が上がらないことの背景にもなっているだろう。

介護のような仕事が増えると、原資は増えないのだから、いきおい労働の
しんどさは増えても給料は上がらない。国が言っても、上げられる分野は
限られている。

そういう背景の中で、クルマというのは、欲望や願望をストレートに
反射してくれる夢の対象じゃないと、若い人ほど思っている。

動けば良いだけのクルマなんて。中高年は、あからさまに弱い欲の彼らを
見て、感情を奮い立てるように言うが、もうエモーションの時代ではないのだろう。

クルマはこれから飽きられる、諦められるものだろうか。

まだ路上を走る仕事車は、圧倒的に多い。
これらが使うガソリンが、安定価格であったから、趣味車も乗れていた。

健康保険と同じで、たまに高額保険を使う高齢者は、病気に滅多にならない
若い人らの後納分で生きられていることに、もっと感謝すべきである。
最近の私の持論だ。

仕事車のガソリンエンジンは、経済サイクルを超えれば他の動力源に変わる。
その時がクルマの全体のターニングポイントである。


さあ残り時間は、見えて来た。



そこまでに待てるものと待てないものがある。

今乗っておいて良かったと思えるものは、10年後は残っていない可能性は
ゼロでないが、環境が変わるし、人間の生きている世界が、通り過ぎるだろう。

これは可能性の広い特に若い世代よりも、これから収入が減り、暮らしも頭
打ちになる人たちほど、影響が大きい。

可変性のある領域が少ないからである。
その中で、何をやって行くのかは、個々人の考え方だ。
しかし若い頃の夢を、歳を取ってから叶えるというような、お目出たい話は
クルマに限って言えば、あんまりないのじゃないか。



このみんカラサイトで、スーパーカー乗りの人々の自慢話が2、3年で急速に
減って来たことの理由はそれである。
20代後半や30代で出来ている人は、昔から別だ。
ちょっとだけ、庶民が、束の間の夢を見られた時間があった。
それは需要、供給、それと経済サイクルの、タイミングがあった時である。

そうだなあ、僕が10年以上前に930ポルシェを99万で買おうか迷った頃である。
出物は何台かあった。

現実と夢との関係は、追って追われて、追い抜かれることもある。
でも、考えることを柔らかくして、今はどういうことが、面白いのか。
常に見ていると良い。

まあ、どうしようもないかもしれないが、軽自動車は今の時点で、
ニッポン的な幸福追求の、具現化モデルに一番近いのだろうか。

この辺りで脱稿して早朝から出掛けます。

Posted at 2014/08/11 09:14:54 | コメント(3) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ
2014年08月08日 イイね!

少年と鉄道模型

少年と鉄道模型今年の夏休みも8月に入った。
僕はだんだん少年時代のことを
懐かしく思える年代になった。

4年お付き合いのある少年がいる。
彼はペーパーで鉄道車両の模型を作る。
市販部品は全くに近い、使わずに全部自分で作る。
そして、小さな仕事は神の領域に近いことを
やってのける。

昔は模型少年はいっぱいいた。
私もかなり自信を持ち、細かな台車まで自作していた。
当時はキハ04系などの菱枠台車が市販されていなかった。

幻のパーツを求めて、広島や京都・大阪、東京の模型店まで出向き、
北九州から出て来た少年が、「ジャンクボックスを見せて下さい」と
店員のいるカウンター内に上がり込んで、売れ残った動輪や
ベンチレーター類を箱から書き出し、少ない小遣いで、
「これくらいの値段で売ってください」と中1くらいから行脚をして来た。

怖いもの無しには恥も無かったのである。

そんな僕は大学の鉄道サークルに入り、活動の中心になるまで模型製作を
続けた。ほかに、それほど打ち込むことがなかったからと思う。



僕は50を前にしたころ、とても道に迷っていた時期がある。
自分はサラリーマンで、会社の仕事をして、給料をもらい、家族に使い
あとは珍しいクルマを持っていることを得意になってるだけの、おやじ。

酒を飲み、ちょっと女性に持てたくらいで、うれしがっている男。
子供の頃に見た夢や、希望はどうなったんだろう。
青雲の志はどこにいったのか。

あっさり会社を辞める前に、若い人にとり、これからの社会はどう生きて
いくのがいいのか、それくらい語れるようになりたいと思った。
今はその意味が、おぼろげだったのが見えて来るようになった。

ソーシャルという概念と新しい時代の社会主義を重ねてみようと思う。
だから、家の外に出た。昔の人はうまいことをいう。出家と言った。

ボランティアで自分の個性と器用さを活かせるように、第2のデビューを
するようになった。
ぎこちないのはいけないので、自分のカラを若い頃から作らなかった。

そして2010年の5月連休の青葉の下で、ある少年と知り合った。
大きな声で、怒鳴って、つっこむオッサンも何人かいて、その下で震える
小鳥のような少年だった。

一生懸命模型が好きですと言うのを聞いて、私は自分のことを重ねていた。

おれもこんな時があったし、その時に指導者も先生もいなかった。
誠文堂新光社の本と、図書館にある朝日新聞の鉄道年鑑を借りるところから
スタートした鉄道模型と実物趣味の人生。
大分の片田舎では、同じ趣味の友人もいなく、大人でやっている人と出会う
機会も無い。

DMCのロックなギャグ漫画の主人公みたいに、勘違いしてるのか、実は
本質良い線をいってるのさえ判らない。
僕はそんな時代を生きて来た男なのである。

だから都会に憧れた。情報にあこがれたから、その一番大元の仕事
マスコミに行くと、田舎を出たときから決めていた。



私は弟子を取るような男ではない。
自分の3人の子供より若い少年に、模型とは、と道を説明した。
自分の旧作の一部を見せて、こうやってリアルを追究しなさいと言ったら
立ち所に理解して、師匠以上のものを短期間で作れるようになった。

ほんとうにこういう出会いのために、会社を後にしたと思っている。

自分の潜在能力について、おじさんたちはどのくらい理解出来ているだろう。
もちろん少年野球のコーチのような判りやすい例はあるが、
単細胞が単純に教えるのはいけない。

少年の目の高さで、球筋が見えていないと、自信過剰な親が
なぜこんなこともできないの、と叱る図式と全く同じだ。

私は模型のことでは、もう教える域ではないと考えるが、良い刺激を
若い人からもらった。
ソーシャルとSNS的概念の時代は、こうやって実践すればよい。

今日はだから、この人の模型の作品展を、ご案内する。
『ペーパーモデル・クロニクル』(松山秀太郎君作品展)


会場は阪急甲陽園線の途中駅、苦楽園口駅の真向かい。
1階がローゲンマイヤーのパン屋のあるビルの3階、6cギャラリーである。
ビルの裏にある住居棟入口の階段で3階まで上がって下さい。


http://www.galerie6c.net/






会期は今日を含めて土曜と日曜まで。
時間は本日は20時まで、明日と明後日は11−18時です。

3階のギャラリーの窓からは、苦楽園口の駅がこんなふうに見えます。
最後に、作家さんは「何を見てこられました」と必ず聞くので
『ラテンでゴメン』、イエィ〜!と答えて上げて下さい。
実物作品を見ると、誰でもビックリしますと思います。
イエィ〜


Posted at 2014/08/08 14:44:06 | コメント(2) | トラックバック(1) | 鉄100% | その他
2014年08月07日 イイね!

おそロシアと80年代クオリティー

おそロシアと80年代クオリティー
最近ロシア国内のことを、よくおそロシアと呼ぶのが
流行っている。

これはロシア国内では当たり前の荒っぽいマナーや
ルールの薄い、日常風景をネット媒介で日本人らが見て、
常識の違いに仰天するのを再び面白がる、
2重のリアクションの反芻のような現代風の諧謔といえよう。


こういう現象を、もし当のロシア人が知ったら苦々しく思うだろうが
普通のロシア人はその境遇のまっただ中に居るので、想像する余裕も無い。

日本にいる日本語の深い意味のわかるインテリ外国人が、ようやくそれを俯瞰
出来ているくらいだろう。

これと似た性質のものに、「修羅の国」という、福岡県の北九州地方を刺す、違った
指す言葉がある。

荒っぽいところなので、暴力団の抗争が絶えない。殺人や暴力事件の発生件数は
昔から高かった。

私はそのエリアに長くいたので知っている。
しかしその頃は、暴力事件の件数が福岡県と東京都を比較すると、人口の何倍も
ある東京より福岡県の方が、時に上回ることを知る人は、殆どいなかった。

私は新聞のデータを見て、親兄弟や高校の友人に「これを見てくれ」と力説していた。
その時代に他府県人が、福岡県のことに興味を持つなど想像の対象では無かったろう。

これもネットの発達により、相対化と俯瞰が見えやすくなったことによる。
「北斗の拳」に出て来る、男の子は死闘を繰り返すのが運命の国と言うのが、
本来の語義だ。
これは不名誉なキツいシャレだと思うが、当の福岡県人や九州の人も面白がって
使っている。


さて少し違うんだが、80年代のことを私はよく書いて来た。

1980年代を知らない90年以降に生まれた人も今や成人になり始めて、改めて
この時代がどうであったか、パワーが本当にあったのか、説明を求められている。

若いカーマニアらが今や、80年代車、90年代前半くらいまでを「ヤングタイマー」と
呼び、好奇の目で見ている。

じゃあ80年代クオリティーとは、どういうことか。

最近クオリティー=品質と言う言葉は、反対にクオリティーの低い時によく使われ
たりする。
時間を守らなかった宅急便の事例に遭遇したネットユーザーが、「さすがは佐川
クオリティー」などと、揶揄るわけである。

本来は大真面目にIRや会社案内しているのを、皮肉って、使っているのである。

私は、仮にいま80年代のものを現代ユースに並べると、どのくらいしょぼいか、
判っている。
それを滑稽ととれるのは、大人の寛容であろう。

テレビのCMひとつでも、80年代はピンからキリまであり、キリは今では「退場」
必至のものが多い。
これは30年の間に、生活のレベルと質が、国民全員向上したことが大きい。

そのくらいまだ粗悪なものが多く残っていた。その中でファミコンが生まれ
電子ゲーム文化が始まり、ウオークマンが発明されて、今に通じるどこでも
音楽の素地が出来た。

またTDLが日本に登場して、遊園地からアトラクション文化で非日常を楽しむ
時代が到来した。
それが80年代の本質なのである。

インノベーションは多かったのである。カラオケエンタメもAV動画もこの時代からだ。


ところで、マスコミについて、専門的に語ってみたい。

80年代はマスコミがめっちゃ元気で、特に広告と消費の文化は最高潮に達していた。
新聞もテレビも元気だったが、新聞は情報企業の優等生として存在するようになり、
主役の座はテレビにとって代わられていた。

あとは雑誌がすごくたくさん作られて、売れる量が今の数倍多かったと思う。

ネットがまだ皆無だった頃は、欲しい情報は活字か電波で入手するしかなかった。
しかし活字文化が誤字脱字を、殆ど追放したのは、活版印刷が終了して、その後
のCTS時代をすぎて、コンピュータ編集の時代が来てからである。

昔の活字文化というのは、手書きやガリ版に毛の生えた程度のものも、結構残っていた。

その中に自称物書きという人々がいて、コピーライターやコラムニストが時代の
花形であった。


殆ど残っていない80年代の3流雑誌を今目撃すると、誤字脱字が想像以上に多い。
先ほど言ったコラムニストらの文章も、えっと思うくらいクオリティーが低い。
それでも、書き手が少なかったので、仕事はあった。

だからというか、80年代で高度なクオリティーのものもあったが、大体はノリや勢い
で、仕事を送り出したものが多かった。

それが緻密になるのは、もうちょっとあとの時代からだ。

今日言いたいことは、80年代的成功観をまだひきずっていては、通用しない
ということだ。

良い例と言うか悪い例がフジテレビである。
私は悪ふざけが100%駄目と言う者でもない。
しかし、あそこまで会社が駄目になった理由は、黄金時代の栄光を勘違いして
上の方に、現代センスに通用しない「立場だけ上司」が残っているからだと思う。

仕事ができない上司ほど、俺の若い頃体験を語りたがる。
おそロシアと佐川クオリティーには、共通項がある。
外に向かって、自分たちはこんなに良い会社、良いカントリーと言ってても
実情は伴わないのが丸見えなのである。

ところが言ったもん勝ち社会の悪弊で、今や謙遜より自己PRにせいを出す。
そして過去の時代の成功体験にいつまでも囚われて、抜け出せない。

時代遅れがひどいと周回になる。
今の時代の空気や、ウオンツが判ってないのに、判ったように錯覚する。
日本は高齢化も進み、その中の人の大半は、進化したくないスタンスという
ことも、影響が大きい。

そして、切磋琢磨を拒否した社会でも、ぬるま湯で案外生き残ったりする。
また、頑張って努力してると言うのが、空回りになっていても気がつかない。
こういうのは、どうしたら、リセット出来るのだろうか。
一番大きく判りやすいのは、比較と客観を練習することだ。

しかし私の文章は、あんまり固く真面目にテーマを追い掛けたくない。
やっぱりおそロシア的な笑われることって、明日は我が身だと言うこと。
そして、80年代的クオリティーって、勘違いがスタートから入っている。

今の時代がベストではないが、運がよかったので、何でも結果オーライという
ことに気がつくべきだった。
今の時代から、80年代を見ることは、懐かしく面白い。
ちょっと元気な中国に似た空気もある。

日本人はここまで、山を登って来たので、俯瞰することには長けている。
ただ、身の振り方としては、もっと高く上るのか、それとも違うアクションを
目指すのか、今は悩ましい時代なんだろう。

圧倒的な高齢者より、もうちょっと若い世代の人に、一番大切なこと、
それは、こんなふうに、時々自分らの立ち位置を見つめ直し、そこから
発想力を豊かにして、次の行動や、趣味の人なら題材を探すことが、面白く
生きるための原動力になるのでは、ないだろうか。


Posted at 2014/08/07 02:28:42 | コメント(2) | トラックバック(0) | 振り返る80年代 | クルマ
2014年08月04日 イイね!

kotaroさんドンキに行く(kotaro go to the don quijote)

kotaroさんドンキに行く(kotaro go to the don quijote)ということで、車庫の変わった雨の週末に
距離の近くなったガレージの利点を考えて
動いてみることにしました。

今度のガレージも昔の設計なので
あまり大きなクルマは停められない。

75でもギリギリかなと思う。
いま、大阪ナンバーのアルトを置いて見ている。


ところで私は長年、ライフスタイルがひじょうにややこしかった。

まずカードは嫌で、常に現金主義を長く続けていた。
それから電話はぜったい携帯は持たない。
クルマはマニュアルミッション。
レコード(CDの次の時代だよ!)は、手でトーンアームを持って行き
針を下ろすタイプ。

アンプは真空管。
カメラはフィルム式で、それも白黒写真を自家現像する。
フィルムは長尺100ftのを一缶買って来て、自分で36コマや20コマに切り
さらにパトローネに巻き取って使う。
時計もネジ巻のボンボン時計が柱に掛かっている、等々である。

アナログとアナクロの好きな、こんな偏屈な男でも、よく嫁が見つかったと
感謝するが、気の毒なのはうちの家族である。

1970−80年代には、アナログって社会の主流だった。
時代遅れもまあいいさ、野風僧って、歌えた時代だったから。

90年代ー2000年超えで社会の近代化、オートメーション化は、一気に進んだ。
97年生まれの一番最後の子供が、小学校前の2000年半ばに
「うちには何で親戚のところのような(セレナ、バネット等)ふつうのクルマが無いの?」

ああいうのが乗りたい!という末っ娘に、
「あんなんはクルマじゃねえ、『荷車』っていうんだ!!」(オーナー様、恐縮)
と強弁を吐いていたくらいである。


そういう私も、インターネットがやりたくなり、嫁のお下がりのMacLC(ローコスト、
それでも30万くらいしていた)をもらって、ダイヤル回線につないでプロバイダー
というやつに月々いくらかを払わねばならない。
その時いくら探しても、カード決済しか方法が無いことを知り諦めて作りました。

その後も、オートマのクルマに乗るようになったり(fiat131sが初)、
パワーウインドウやパワステに驚いたり感心したり、原始人も近代化し始め
4年前から息子に「ひとりになるのだから、連絡用に俺の携帯あげるわ」と言って
持たされたり、クルマにETCとナビまでもらって着けるようになりました。


このアルトが家に来た由来は、82歳になった叔母が自動車を止めると言い出し
それなら貰いますと言って、岩国市から回送して来たら、10年弱で6000kmしか
走っていませんでした。



このアルトにETCとナビを着けて雨の中、福島区の住宅街に写真展を見に行った
とき、あまりの便利さに感嘆したことを嫁に話すと「私たちの苦労は今まで
なんだったの!」となじられたエピソードがあります。

しかし50歳の峠を超えた辺りから、私は偏狭に拒んでいたものも徐々に
受け入れるようになり、今に至ります。

私のファッションも、ちょっと贅沢で、365日外出には帽子を被り、アナログ中心の
カメラを持ち、外国製のノンブランドもののクロースを身に着けてでした。

だから末っ娘が何年か前に、クリスマスのプレゼントを買って欲しいと、いうので
心斎橋か梅田に行きたいのかと思えば、なんと箕面のドンキホーテ。
一歩入り、俗悪な倖田來未かエグザイル(失礼3連発、汗)みたいな世界に
私はのけぞりました。

そんなにうちはお金持ちという意味じゃなくて、保守的な価値観、ただし
右傾化していない伝統的な生活が好き、でした。

でもすっかり暮らしも地味でコンパクトになってきました。
クルマは好きですが、外国製のレアな輸入車(私はディーラー車で、昔から
日本に入っていたものしか求めません。ヒストリーの日本に無いものを
求めるのは、ちょっと「野暮」だと感じる方なので)、を探し求めたような、情熱は
ずっと温度が下がりました。

軽自動車なんて、と思っていたけど、付き合い始めて、ミラと2台にしたり
今なら農作業用に、少し古いハイゼットあたりも良いかなと、思うようになりました。

結局筋金入りの復古主義者ならラッダイト運動でもしますが、私も人並みに
歳を取ると気力も衰えることを知りました。

しかしまだ普通の人とはだいぶ価値観が違うので、それがたまには面白く
読んでもらえているのではと、思います。

近くなった駐車場には、個室な屋根もついています。
自転車で行く距離ではありませんが、置くこともできます。






雨の週末昨日はまず、川西の加茂にある食品スーパーまでクルマに乗って
行ってみました。
池田だと対面販売の市場が複数残っています。
川西も昔はあったらしいが、駅が高架になり、高速が出来た頃に消えたようです。

兵庫県は西宮市と宝塚市が、モダンライフの見本のように、阪神大震災後に
古い生活スタイルを、一掃しました。

しかし川西の万代百貨店(スーパー)は、野菜は圧倒的に池田の市場の勝ちです。
鮮度と安さに、今は消費税を取っていないので。こちらに来たら驚くでしょう。

肉は川西の方が理由があるのか安いと思います。肉を買うのも見て買います。
カレーのルーとかの加工材料は工場出荷なので、万代は安いと思いました。

しかし、バターが雪印メグミルクしか置いていません。池田ならスーパーで3種類
普通置いているので、食生活の贅沢度が違うのでしょう。

まあ、今までなら雨の降る日と日曜は、買い物を避けていたのが、改善出来ました。
これもオートマ+エアコンの楽々・軽のおかげでしょう。
私のクルマ好きはどこにいったのか。



実際にこだわりなライフというのは、体力等に余裕があると、する良いと思います。
私は近年このジレンマに取り憑かれて、悩みました。半分苦しみました。

カッコばかり気取っていても、もう私は若くもない。妻も東京に行きひとり。
なんか50代でも不慮の事故で、大切なものも失ったらと思うと、どんどん不安が
募り、不安定な心境が続きました。


昨夜の最大の心境の変化は、雨の夜に裏の銭湯に行き、まだ飲み足らずじゃ
なく、乗り足らずに、そのまま洗面桶を持ったまま、アルトを再び動かそうと
いう気持ちになり、夜も遅い10時半過ぎに、クルマを動かして国道に出ました。
どうしたんでしょう、オイラは。

国道の大きな橋を渡り、ずいずい行くと夜間にそびえるのはアフォの殿堂(失礼
4回目。自分もアフォを認めています)DNQホーテです。
するすると軽自動車は、夜なので空いている真下の駐車場に入れて、蛍光灯に
集まる夜の虫のように店内に入ってみました。

なんか、あっかるいなあ。
夜になると火が消えて、漆黒は大袈裟だけど、数軒の飲み屋以外は闇の池田に
住んでいて、こんな世界があるなんて。

実は前にも来たことがあるのですが、その頃は私の心のツッパリが、まだ従順を
許さず、こんなとこ、と思っていたのです。

まあ私が、半パンTシャツで、真夜中(池田時間)のドンキに居るなんて!?と
思うだけで、笑いたくなりました。

元々「ラテンでゴメン」を謳いながら、いつしかコンサバな思考回路の迷路に
迷い、いろんなことがあったなあと思うこの年までの道のりも、
もう一回リセットに近いところまで、戻ってもいいのかもしれません。



軽は軽、下駄は下駄、まあそんなもんでしょ。
今度のガレージは実に渋い昭和チックなところなので、それも小型車向き。
360ccのフェローマックスか、アルファも昔入手しそびれた、プジョー205オートマの
5ドアみたいなクルマに替えた方が、似合うかもしれません。

夜のドンキ往復で、ちょっと愉快な気分になれました。

Posted at 2014/08/04 08:12:05 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2014年08月03日 イイね!

ひとつの終わりに

ひとつの終わりに歳を取ったなあと思う。
昨夜、こういう遊びのおしまいに
ある雑誌読者の集まりのパーティーに行って来た。
雑誌の名は「昭和40年男」という。
ご存じの人もいるだろう。
1965年生まれの世代に特化した
ワンテーママガジンである。

私は彼らの6才上だ。
だから、48、9才の後輩たちの「同窓会」を横で
見させてもらっていた年上である。

「50になりたくねえなあー」
40代の終わりの彼らの本音も聞いていた。
いま、輝いている50代はいない。

昔はサラリーマンなら仕上げの10年弱を、駆け抜けていた。
私が子供の頃に見た、SL蒸気機関車が、引退を前にして力強く線路の上を
走り抜ける姿を重ねられたものである。
今は、生きているだけである。

生きることは本来、楽しくなければいけない。
10歳以上上の、昭和20年代前半の人々の50代と何が変わってしまったのだろう。
包まれている空気が全然違う。
定年後の約束や褒美もうんと少ない。
寿命が延びたと勝手に言われて、5年くらいお預けの間、いやいや働かないと
生きてはいけないとすら、言われている。

ライフ、人生について、
うんとスケールダウンしないと、ポスト団塊世代は生きてはいけなくなる。
まだ会社に残って、勤めている人は給料生活が先細りになり、
これほど無情なことは無いだろう。

アツく、ものごとを語ったり、次の夢を見ることも見ることも難しい。
それを判っていて挑戦した私も、そろそろ考え方を変えて行こうと思っている。
50代後半、何が出来るのか。前の世代の背中だけでは、夢は見られない。

友達仲間とクルマのサークル、音楽バンド、そういったものも残っているが
そろそろ時代が変わって行くように思われる。

最大の損失は何だろう。
デフレ時代の洗礼のように、自信を持てなくなることの勇気だろうか。
書いている文章が、しょぼくならないように、無理矢理、進軍ラッパを吹かねば
ならないと、何度も考えてみたが、それは出来ない。

あまりにも、1950年代前半までと、60年以降に生まれた人とでは、この大事な
10年くらいの人生の過ごし方が、変わってしまっているのである。
その時間に何も考えずに生きられるのと、考えが変わるくらい辛い現実が
待っているのとでは、違い過ぎるし、反乱も出来ない。

もっと上の世代から「嫌なら(この国を)出て行きなさい!」とまで、言われている
ようなものなのである。


そんな現実の風の中で、僕は5年間いろいろな挑戦をした。
やり足りないと言われれば、反論もできない。
加齢と、肩にかかる介護の負担と、収入源の中で、飛び出せる世界も考えた。
果実は見つからなかった。

ライフランナーの先頭を走り、現象や流行に目を向けずに、25年以上前から
旧車とかオリジナルな価値観をクリエートして来た僕でも、やっぱり苦しいなあ
この年代は、というのが感想だ。
10歳前後年上の先輩らから「お前どうしちゃったの?」と言われても
答えようは変わらない。あなたたちの時代と、違うんだ。それが言えない。
自分たちの責任のように、それがひとつの世間の空気にしてしまっているからだ。




僕らは若い頃から「責任世代」とか、やたらと責任という言葉を聞かされ続けて
きた。無責任という類義語を面白がった時代もあるが、それは真綿で首を絞める
例えだったのだろう。

学校の宿題も責任、免許を取り運転し出したのも、みんなやるから一種の責任、
受験、就職に、一斉に走り出さされたのも、生きて来た年代の責任、
なんてね。

その責任時代はとうとう自己責任といって、詰め腹を切る世の中と、追い詰められる
のも自分が悪いからと言う、ノイローゼ社会にまで、至ってしまった。
いや私は、まだ精神気分がましになった方なので、ここに悲観的すぎないように
書ける程度の力は残っている方だと思う。


結局は、踊らされ続けて、見続けた夢は何だったのだろうということだ。

空を見上げて、宇宙へ飛ぶロケットを見て、国土に建設される、新幹線と高速道路。
都会へ都会へと、就職や大学進学に出て行き、豊かさを追い求め、消費を追い掛け
家の中に増えて行った家財にリア充を満喫した。

平行して異性と交際したり、家族や家庭を作ったり、束の間の人間らしい時間に
俺は生きていると感じたり、それはみんな疑似幸せ装置の中であった。
音楽コンサートに行って熱く共鳴して、夜が明けたディスコの帰りに心地よさを
感じたりも、みんな幸せになりたいと強く願ってきたから出来たのだろう。


てなことを、考えてみたが、やっぱりこれ以上のことは出来ない。
上の世代から「80まで生きなきゃ」と言われることの重さ、重苦しさは
どうしようもない。
わっと、世の中が変わってしまうことは、あり得ない。

考えただけで、危険思想の罪になる。
この国は1000兆円の借金で回っている。その債務保証は高齢者が持っている
莫大な資産価値のあるものが、抵当物件なのかもしれない。
そしてどんどん、高齢化と平均年齢が上昇し、人口も減少して、下の世代の
負担が増えて行く。

本当にそれでいいのだろうか。
高齢者は75歳を過ぎると、健康保険が1割になると喜ぶ。
自分の親がそうなると、子供が喜んでいる。やれやれ楽になったと。
残りの9割はタダになったのではない。
その他の人たちで、分担して負担しているだけなのである。

私の親でさえ長期入院しているし、その面倒を見ていた親族も今は入院だ。
しんどい人は病院へ。高額な医療費は、保険に年金が賄っている。
生き銭、死に銭と言えば、後の方であろう。
頑張れば、もっと負担の軽い特養と自宅療養で不可能でないが、お金があるから
それができる。

お金があるから、無い人のことや、入院したくても空きがないから待っている人の
ことは想像もできない。私たちもしんどいから、何も言わないで下さい。
私たちは悪いことをしている人たちではありません、である。



これからの僕らの生きられるゾーンは、もっと狭い。
その狭き間から、光を照らすのが、僕の仕事なんだろうと思う。
社会福祉でもない。篤志家でもないが、責任に代えて貢献が良いのか。

在野の若い人たちにもっと光を当てたい。それはずっと続けて来て、今の
ライフワークになりつつある。
ただし収入が伴わないと、生きて行けない。
社会貢献は儲からないものだし、巧妙なレトリックを駆使する人も見て来た。
私はひとまず、勤めに戻り、ブログを書き続けるかは、今後の生活時間次第で
判らない。

ただ今が暑い季節だということだけは、窓に溢れる蝉時雨で、わかっている。


Posted at 2014/08/03 07:26:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | オンザカー | クルマ

プロフィール

「やっぱり。言わんこっちゃない。「トヨタ、センチュリーを独立ブランドに クーペ開発でラグジュアリー市場拡大」https://x.com/i/trending/1977788758218219921
何シテル?   10/14 09:32
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2014/8 >>

     1 2
3 456 7 89
10 11121314 1516
171819 2021 2223
242526 2728 2930
31      

リンク・クリップ

趣味とかその対象はどうなっていくのか 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/01 18:15:22
タイ製L70ミラ・ピックアップのすべて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/02/22 10:52:34
春の1200kmツーリング・中国山地の尾根を抜けて 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/05/11 05:49:46

愛車一覧

ホンダ スーパーカブ50 プロ ホンダ スーパーカブ50 プロ
中古のスーパーカブを買いました。 原付に乗るのは40年ぶりです。
フィアット 850 車の色は空のいろ。 (フィアット 850)
2016年10月、三年半かかった車体レストアが完了し戦列復帰、その後半年、また以前のよう ...
プジョー その他 26インチのスポルティーフ (プジョー その他)
高校の時から乗っているプジョーです。1975年購入。改造歴多数。数年前に自力でレストアし ...
シトロエン ベルランゴ ゴールデン林檎 (シトロエン ベルランゴ)
還暦過ぎて、最後の増車?!。 見たこともなかった人生初のRV車を、九州生活のレジャーのお ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation