
半世紀くらいに渡り、私はいろいろな遊びを取り組んできた。
それは大した航跡ではないが、その時代とか、いろんなことを知り、覚えて、さらに時代が歩むことも知って来た。
自動車の興味と並んで、長い時間携わって来たことに、鉄道への興味があった。
そのテーマは、同時代的な社会変化から始まっている。
僕が5歳の時の1964年に、「夢の超特急」と呼ばれた東海道新幹線が開業し、「ひかり号」が東京ー新大阪を4時間で結ぶようになった。
一方で5年後の1969年頃より、蒸気機関車の存続が数年内に全て廃止が決まり、急速なSLブームが起きた。
全国各地でまずは東京といった都市の近郊から、石炭の煙が消えることへのノスタルジックな郷愁が、大衆社会の興味を喚起し、大変な撮影ブームになったのである。
1970年に11歳になった僕も、当時住んでいた大分市で、時々駅裏で入換えに従事するSLを見に行き、翌年にカメラで撮影するようになったのである。
その頃のことを回顧するのがきょうのテーマではない。
1969年という年は、自動車の世界でも大きなテーマなのである。
この年にあった大きなことと言うと、5月26日の東名高速道路の全通である。
それと10月10日の富士スピードウェイで行われた日本グランプリでNISSAN R382が優勝し、R380以来の伝統の歴史を飾るとともに、これがトヨタ・日産対決の2大メーカーが覇を競うと言った歴史興行の最後の年となり、日本のモータースポーツの転機の年となったのである。
今日は本論から書いていくことにする。
鉄道の話をするときはいつも、あのとき(時代)のあのことは、その時代とその後に、どんな影響があったのか、を必ず考えるようにして、現代に通じる考え方を下敷きに、話を繋ぐようにする。
特に21世紀が20年近くになり、鉄道は進化と衰退を同時に進行するようになった。
70年代、80年代から現代までの30年間の変化は激しい。
国鉄が分解されて、JR各企業になって今年は30周年である。
盛業の所もあれば北海道のように倒産の噂も出る地域会社もある。
それで言いたいことは、自動車の趣味やジャーナリズムに、歴史を俯瞰して書ける人物がいるのだろうかということである。
短篇的な知識は、おたくと言わないが、今や誰もが詳しい。
関西でも高雄の山に行けば見たこともない車が来ていて、ヒストリーでこれは195X年のイタリアの有名な競技に出ていて、云々とワインの値段がつかないようなヴィンテージな歴史を披露してくれる。
でも私はそれは有難いことなのだろうけれど、日本のモーター史、モータースポーツ史、趣味の時代史的に全体像を見ながら、その頃の日本人はどう働き、どういった自動車を買って乗り、どんなことに夢を描いていたかの方が、ずっと大切ではないかと考える。
その先に、こんな輸入車があり、どこのディーラーで売られて、どんな有名人が乗ったのかとか、その頃の物価はこうで、すぐ横の山手線を走っていた電車は103系で、東横線には5000系や7000系が走っていた。
東急7000系は青森の弘南鉄道に行けば、今でも見られるよと、いったことを聞いている方が楽しく思える。
自動車雑誌を今は殆ど買っていず、判ったようなことを書いているのは、内心心苦しい。
しかし長年雑誌を読んで来て、昔はもうちょっと全体像が見られていたのも確かである。
あと、私は欧米の自動車社会と雑誌の関係は、好意的に思っている。
日本のモータージャーナリズムといったものは、いろいろな時代のうねりの中で成長もしたと思う。しかし全体像の無さはとても頼りなく感じることが多い。
批判精神の欠如があるし、ライターに過ぎない人が、自分を可愛いと言ってくれる人を捜している自動車メーカーと、いっしょの輪で踊っているのに過ぎず、だからモーターのイヤー賞も、今や誰も話題にしなくなった。
音楽のレコード大賞の行事も同じように廃れているが、歴史を感じさせる重みのようなものは、なぜ欠落していったのだろう。
もう一度1970年代を迎える前に何があったかと言うと、自動車事故死10000人問題と公害である。
これは、デフレ20年の自殺30000人を想起させるシリアスなテーマで、日本人の所得が倍増し自動車社会が一気に来たための、弊害でもあった。
それを沈静化させるために、鈴鹿と富士が相次いで完成して以来、10年足らずのうちに最高潮をもたらした、日本の興行的レース試合開催に、お上がまったをかけたのだろう。
純粋に子供たちはアニメの「マッハGoGoGo!」から現実のNISSAN R381や382に夢中になれたが、勝てなかったTOYOTA7の嫉妬もあったのか、70年の新年を境に、国民は万博に夢中になればよく、モータースポーツは欧米のようなレースシーンから急速に離れて行ったのである。
こういうことは後年に述壊し整理しておくべきことだと、私は思う。
日本の自動車産業は1990年代前半まで、空前の成功ドラマが続く。
途中の公害問題と、マスキー法の日本翻訳の排気ガス規制を乗り切ったことも、忘れられない出来事で、これは多面的に書き手は書いているが、一般人の理解は低い。
こんなことも面白い興味分野ではないが、自動車雑誌はサイドコラムくらいで、5年10年後に検証を続けるべきであった。
日本人にとり「栄光の80年代」が到来し、生活水準が一気に向上する1980年代。
プアだった国産車は、生活質に合わせてレベルが上がり、乗り味まで、評論家、クルマ好きの一般人も語るようになる。
このあたり、約30年前からのことの記憶は結構残っているだろうと思う。
国産車がプアだった70年代に、輸入車(外車)の個性と本当のクルマの味わい方を語っていた徳大寺有恒や高踏な小林彰太郎とカーグラフィック、かなり早い時期に日本人にとり幻的存在のクルマたちを語った伊丹十三(旧名一三)などレジェンドに近い人びとの功績があったから、ようやく日本人はクルマを語れる時代が来たのである。
私もこういった人びとの著作を読んで、「理解する」という行為に夢中になり、やれる努力をやってみたから、ひとかどかどうか判らないが、クルマ好きになれたのである。
今回は長くなって二日かかって書いてしまった。
もう少し考えていることがあるので、間を措いて続きのようなことを考えて行きたい。