
関西舞子サンデーに、月初の日曜日に行って見た。
その前に、居場所ということについて考えてみようと思う。
最近、仕事で、居場所やコミュニティーの問題によく関わる。
私が現実にいまやっている仕事を列挙すると、
マンション掃除がひとつ。
おばあちゃんの認知症が進まないように遊んであげる仕事がひとつ、
ものを書いたり雑誌の記事取材が、たまに入る。前回の投稿がそれ。
夜学の起業型の勉強会の司会とまとめ役、月に一度の大きなイベントの記録、
そんなことを複数入れながら、まだ生活費に足りないが、工面しながら生きている。
社会の問題で、人間の関係が希薄になったというより、現実が変わり
繫がりの問題が、いろんなところに出てきた。
2010年頃から、孤独死や、帰属する組織の無くなってしまった人びとへの
現実的な対処を、公務員役所では、社会テーマとして、扱うことに限界があり、
民間にも、営利目的の会社だけでなく、NPOやいろんな組織の必要性が生まれ、
実際には高齢化社会の進行で、介護や老人のケアと言った様々なニーズができ、
目の前の社会は、20世紀の憶えている時代と、大きく変わるようになった。
で、クルマ社会も、売るだけや、普通の人が維持する程度の「お世話」を
メーカー関係と民間のカーショップが、やっているだけでは、「先が見えて」
きたように思える。
クルマ好きは、コアな存在となり、一般クルマ社会の全体の中で、ミックスされた
ジュースのような状態であったところから、沈殿分離が進み、上澄みと、
下に沈殿した部分に分かれて来た。
これが自動車好き問題だと思う。
みんカラなどに漂流する、クルマ好き難民が集まってきているが、
実際、ここだけが「居場所」なのか、すごく悩んでいると思う。
そんなことを、ジャーナリスティックに、誰も考えて来なかったのではないか。
雑誌はあまり見なくなったが、体裁はずっと変わって無いように思われる。
関西舞子サンデーの噂は、前から聞いていたが、実際に足を運んだのは
初めてである。今年で3年目になるらしい。
私は、10年前までは、“盛りがついた”ように各種の自動車イベントに
休みがある度に行っていた。子供や妻と同居していたのに、それに関わらずと
言って良い。
今は子供がいなくなり、妻とは離れてしまって、老後前の哀歓を感じることもある。
自動車のミニイベントが出没し始めたのが、2000年前後だから、イベントの季節は
一巡したのではないか。
隆盛を誇ったJCCAのニューイヤーミーティングも、今は客が離れて、今後の役割が
懸念されている。来ている関係者は往年の有名雑誌の卒業者では、
新しい時代感覚に乏しいだろう。
関西在住が長い私だが、可能な範囲で、御殿場や、富士SW、鈴鹿、また九州の
故郷から行けるイベントにまで、出没していたのは、今思うと懐かしい。
その頃の私にとり、珍しいクルマに乗ってそういう所に、「突然」現れることが、
ちょっとした得意な生き甲斐だったのかもしれない。
今思えば、
であるが、過ぎた日々のことは、振り返っても戻って来ない。
それから10数年が経ち、今の私は孤独な方になったが、クルマイベントに
日参することは、なんとなく、足が遠ざかってしまった。
大きな高いイベントにまで、友達を誘った私が、この現実では申し訳ないと
前までは思っていたが、私自身の心境や、環境が変わり過ぎたこともある。
クルマが売れない、若者のクルマ離れ、といった問題の一方で、
実際にクルマに乗り、好きな人にとり、よそ事でないのは、クルマ社会の縮小だ。
だから、今回のタイトルは非常に意味を持つのだろうと思う。
関西舞子サンデーは、朝から夕方手前までやってくれている。
京都の高雄の旧車ミーティングは、どちらかというと敷居が高い。
その上、有料であり、有料道路での開催だから、二重に料金がかかる。
高速で往復することに、負担を感じないレベルの収入の人も減ったのではないか。
場所が風光明媚な嵐山奥地の山あいだから、その見物代と思えば納得できるが、
それは「京都商法」のありがたみで、関西で頻繁に通っている人は、イベントが
終わると、風光を眺めることもなく帰って行く。
クルマ好きの脳なんて、そんなものだろう。
一方関西舞子は、西神の球場近くのただの駐車場である。
ただ、高雄のように冬の初めでも朝集合、午前中解散のようなことはない。
私は朝起きるが、ゆっくり朝食は食べたい。洗濯と掃除もしてから出て行きたい。
クルマ好きは、ファナティック、ややクレイジーといった「80年代感覚」はやや薄れて、
今は多様性の時代だから、他の趣味や、生活時間もある。
それで、クルマ好きが一部での「顔」くらいなのが、いまの時代ではないか。
私は昼前に、「まだ行けるなら」の気分で、暑い陽射しの下を、
ノーエアコン、ノーパワーアシストのクルマで出発した。
行きだけは、それでも高速を使った。
初参加なので、会場を見つけるのに迷ったり、少しの戸惑いもあった。
だが、何となく緩い雰囲気に、ゆっくりと溶け込もうと、のんびりすることに努めた。
朝一組は帰ってしまい、私は誰とも知り合いに会わなかった。
後で判ったことだが、SNS時代のキンチョウを避けることは大きい。
ユルい空気の中で感心したのは、ケータリングが来ていて、まともな食に
ありつけることである。
これも高雄は、無理に近いし、ホスピタリティは私はけっこう気にする。
NYMのお台場はケータリングが不便なところに停められて、高い上によくない。
場外のコンビニも使いにくい。
また関西舞子は、貧給の人に向けたのか、本部でカップ麺を売っていた。
これは良いことだろうと思う。
私はコーラのボトルと、パニーニを求めて、腹もすかさず夕方まで、のんびり
過ごすことが出来た。高架下に停めれば、夏の気候でも、なんとか過ごせた。
普段ノーエアコンで生活していることも、大きいのだろう。
今回のテーマと、日曜日のことと、直接関係があるのか、断定はできない。
しかしクルマ好きの居場所とは。
それも居場所つくりから始まったような、舞子サンデーには、
従来型の発想のイベントにも、考慮の余地を与えるのではないか。
今後は、ドライブショップや、喫茶カフェ等に、サードウェーブ系が出来るのか
トヨタ辺りがやりそうだが、ぎこちない気もする。
結局、クルマ好きが、新しい提案型イベントや、スポットをどれだけつくれるかに
生き残りの道があるように思われる。
フランスのレトロモービルの展示なんかを、写真で見ていると、
1960年代の自動車のあるシーンの再現とか、実に芸が細かい。
今はカフェ流行りの一方、1950年代から70年代の「純喫茶」詣でのブームも
起きている。
私はこのあたりに、旧いクルマ好きの生息できる場所の、可能性が高いと思う。
「あのコルトを狙え」のブログを知っている人は、これも判るであろう。
ビオトープは湿原などの環境再現で貴重な生物が生き残れる環境合成の
発想なのだが、こういうのも、実はクラシックカー大国、イギリスの文化なのである。
私は、サンクチュアリまで行かなくとも、旧車やクルマ好きが自然と集まれる
場所の必要性や、空間が、街の端にひとつくらいあった方が良いと思う。
それがこれからの時代のクルマ好きが、「共生」できる環境つくりではないか、
そのぐらいの推進に、いろんな力が集まって、「優しい目」をして生きていたいと思う。