
3月30日からフェリーボートに愛車を積んで
九州を回ってきました。
帰って来た翌日から転職した新しい職場に出勤して、
一ヶ月は目が回るような時間でした。
このGWはありがたい骨休めの時間ですが、もう一つ天気が良くなく
このところ肌寒い夜が続いていました。
<北九州の実家の前にて>
あっという間に4月が過ぎて、今日は元号が31年ぶりに変わりました。
昭和とか、1980年代、その前の70年代が遠くなったことを感じます。
雨の中粛々とお祝いを行う人もいれば、今日も仕事に出る人もいるでしょう。
様々な時代です。
最近は、一番考えるようになったことは、セブンイレブンの24時間営業に
社会の風が「ノー」を突きつけたことで、一店長の反乱は、結果的に経営幹部の
交替と、フランチャイズ商法のありようや、限界も露呈させました。
また地獄の特訓のように厳しい営業スタイルだった旧住友銀行の流れをひく
三井住友銀行からノルマの達成の“義務”が消えたと言うニュースも目を引きました。
こうやって平成の30年は短いようで様々なライフスタイルの変化を促し、
ブラック労働とか、心を病んだり、自殺多発の社会を減らして行かないと、
どうにも人類社会に明るい未来が無いことが、判って来たと思われます。
私はずっと前から、「うつ」についての考察をしてきましたが、
脳内物質の伝達の理由に、貧困やお金がないことの絶望が原因するのでないかと、
最近は考えを絞りつつ、その出口について再考するようになりました。

<みやこ町犀川の風景>
平成の30年は最初は昭和最後の好景気のなごりで、まだ贅沢なものが好まれて
いました。
何回か書きましたが、自然災害で、1995(平成7)年に阪神淡路大震災があり、
戦争を体験しない戦後の日本で、6000人の命が奪われて、もう昭和と好景気の
時代が完全に終わる予感がします。同年の地下鉄サリンとオウム真理教の
犯罪は、日本人が同じ国民同士を信じることの限界。無辜の人でも殺傷テロや
被害者になることの可能性など、様々な影を落としました。
このテキストは令和の予測ですが、平成の分析を続けましょう。
1997年に四大証券の一角、山一証券が倒産して誰も救済出来ずに消え去ります。
同じ頃に北海道拓殖銀行、日本興業銀行、日本長期信用銀行などが次々と破綻。
それまで安定した大きな会社に勤めていたら、終身雇用と老後の年金が
一生の充分な暮らしを守ってくれると言う社会保障に翳りが見え始めます。
同時に介護保険制度がスタートして、老後は社会の中でどのように生きられるか
これまで長男の妻らを犠牲にしていた親の面倒を社会全体でみるようになりますが
様々な側面も浮かび上がることになりました。
<美しい野峠の山桜、3月末みやこ町帆柱にて>
さて平成の後の時代、令和がどのような時代になるのか。元号ですから、
続くと言っても一定の時代を指すことになります。
日本はあとしばらくは当分高齢化社会を続けることになるでしょう。
少子化は、高齢化と本来別のマターです。
これは社会が産めなく育てなくさせている、一番良くないのは若い世代に
明るさと若者特有の気楽さを奪ってしまいました。
就職氷河期が平成の途中、1997年から2012年くらいまで続いて、日本は
自由主義(リベラリズム)から新自由主義(ネオリベ)の国に変化しました。
自己責任という考え方が誤っていたことに気がついたのは、ごく最近です。
これは若い子どもを持つ私も大いに憂慮しました。私も早期退職して
社会を変える方の活動に加わりましたが、不安定な雇用と、資産の消失で
見事に貧しい方の階層に転落して、今に至っています。
その間に、昔よりも深刻な問題、心の問題がこれほど広がっている現実と、
社会の混乱に出合います。
2012年の東北の大地震と津波の被害、続いて起きた原発の大事故で
日本は世界の信頼を失い漂流しました。
そこで起きたことは、国民同士の罵りあい、ネオリベに繋がる国民分断、
自分さえ良ければ良いと言う逃げ、そして最後が他人を他人を監視して
ネットなどで徹底的に叩くと言う現象でした。
これは、令和の時代に無くなっていくのでしょうか。
今、一番ぐらついているのは、「正しさ」の定義とよりどころです。
これまでは正しく生きようとか、絶対化された価値観は美意識でした。
ところが流動化する社会と、社会現実の前に、アメリカと闘う異国民とか、
価値観の異なるイスラムの人々、彼らは悪なのでしょうか。
「私が正しいのだからお前は間違っている」という勧善懲悪と似た言い方は
近年随分と、問い直されるようになりました。
フランスなどに多い、反語的な「だけどそれで良いのか?」という人間性に
対する問い掛けは、今後ますます世界的な共通テーマになって行くと思います。
アメリカが変わって行き、北朝鮮もしたたかに世界の舞台に出て来て、
もしかしたら、イスラム社会とキリスト教世界が、奇跡のような平和的な
相互を認めあうと言った、歴史の転換が、この10年以内に起きることも
予想されます。
またコンピューターが可能にした、金融工学といった演算の果てにある
極端な富や資本、お金の偏重も、どこかでブレーキがかかり、抗うことが
不可能になる。ノーベル賞的な発明があるかもしれません。
そうならないと21世紀はこのままディストピアに突き進み、SFや、アウトロー
ヒーローの映画、劇画みたいになってしまいます。
私がきょう書いたことは、単なる途中経過と、これからへの展望に過ぎません。
本日今上天皇になられた人と、私は学年が同じです。
ついに私の同学年の方が、この国のどう言ったらいいのでしょう、一番上に
立ったと言うのは、おかしいし、国民的象徴になられたと言っては英訳が
思い付きません。
それでも重い立ち場になられたことを考えながら、これからの私は生きて
行くでしょう。
そんな歴史の始まった一日に、普通の暮らしをして、心が痛まない程度の
生活を続けて、そして自分より下の世代の人々の幸せも願う。
今日はそんな日だったと、この日記が、いつか消えるまで、読まれることが
あったら良いなと思いました。
新しい時代と言うのは、そういうものなのです。