今日は平日の町歩き行事に参加した。
ところで選挙期間である。
この2年ほどで、僕個人は世の中は一層暗くなったと感じる。
その気分と、理由について考えてみたいが、これは決して個人の思ったり
感じた程度の話なので、激しい批判や気に入らないとか、許せないと言う
意見の持ち主は、スルーして欲しいと思う。
なぜこんな日記を書こうと思ったのか。
それは、あまりに選択肢のない世の中が続いており、
若い人たちが、若気の至りで遊んだり、やんちゃをしたり、(ワル)ふざけさえ
しないような、凍った空気のことを、いつも感じるからである。
今の総理大臣が、在位して、
6年以上の月日が経った。
何がどのように変わって行ったのだろう。
その前に今回の選挙をする前から、あまり盛り上がるとは思えない。
野党与党を言う前に、選挙政治が小さな世界となり、その中でどう決めるかが
すごく狭い領域と視野に思えてしまう。
昔は与党自民の中に、戦争体験世代がおり、戦争だけは絶対してはいけないと言う
経験からものを言う議員もいたが、今は派閥型の政治家はいなくなった。
私は強固な反戦論者でもないが、意見が一つで、対論も出てこない世の空気に
不安を持つ。
日本の社会が、縮小を重ねて、今のような形になってしまったことは、
巡り合わせだと思うが、それでも周囲の目や、回りとの関係を考えて
バランスの良い社会が、多くの人にとり「生きやすい」社会なのでとは
と考えている。
なかなかこんな記事は、筆が進まないのだが、ちょっと書いておこう。
その選択肢が、選挙になると、どの党と候補者に入れるかになるのだが、
野党は荒唐無稽に思えるパーティーばっかりだし、
しゃあないから現状肯定で自民に入れとくか、の人は当然多い。
しかし昔はここまで消去法の答えに欠くことはなかったし、瞬間最大風速でも
野党が躍進すれば、政治家一個人の思いは、後回しになることが多かった。
なんとなく昔のことを思い出しながら書くのは、有権者が18歳からになり、
彼らが小学校の時から、総理大臣は同じ人で、政治はこんなものだと
思っている可能性がある。
こんなに選択肢が無くても、野党があるから、選挙は公平なのだろうか。
この記事は今の総理個人をディするものではないが、もっと広い意味で
最近の気になるけど、言いにくい世の中について書く。
子供が居ないことを今の時代に、話題にすると、イエローカードが出る。
しかし敢えて言うと、初めての例である。日本国の総理大臣では。
子供を抱いた写真は、甥や姪のものも記憶にないが、その事実でなく、
自分の代で終わりという、もしもニヒルな思想が隠れていたら、
それは今の時代が、このあとでディストピアな世界になる。
妄想談義は止めておこう。
ただ、この6年で世の中がよくなったというのは、対照評価が判定しにくく、
アベノミクスは、雇用と失業率、それと民主党時代より株価はあがった。
一方でアベノミクス批判と言うか、データ主義者の中にも、批判はあり
ネットでは不破雷蔵とかモノシリンと名乗るビュワー集めの上手い人はいるが、
なんか匿名だし、世界で通用する経済学の教授でもジャーナリストでもなく
信憑性に欠いている。
こういう人の意見にすぐ影響されるのは、ネット初心者ではないか。
でも私も、なんとなく今の世の中は「嵩上げ」されており、それを強弁したり
鼻で嗤ってるような国会中継を見ると、早く時代は変わらないかと思う。
嵩上げの根拠は今は無いが、森友や加計の事件を見ていると、世の中の
汚染された部分のシミが見えるような気がするだけである。
私が参考にする見方の持ち主は、エマニュエル・トッドが、今は面白い。
トッドは仮定法と弁証法のデータ民族学者で、個人意見は突出してるが、
正鵠はよく射ている。
日本のジャーナリズムにはウエットな湿気があるが、トッドにはない。
必要なことは、強弁しなくてよいことで、ことさらうんちゃらミクスの成果を
言うことが、逆に疑問符や、抜け切らない幼児性に似たダダを感じるのである。
もう一つの悩ましさに「やっても同じ」という今の日本の空気が強い。
これは責任の大きい無責任で、成長率も、少子化も、もしかしたらジャニーズの
芸能界支配も、NHKの料金取り立て&JASRAKも、みな、同じかも知れない。
この、もういいや的な昔の三無主義より質の悪い無気力は、それでも生きて行ける
からである。
こういった時代の背景空気の流れる中で、オレが言うのだからオレは正しいふうの
論調がどこに行っても出てくる。
この流れを崩すと、「悪夢の前時代に逆戻り」とよく強がる。
「こんなひとたち」と口を滑らしたこともありました。
そこが私は、正否以前に間違いではないだろうか。
私だって絶えず今の生き方を自問自答する。
なのに6年間の政治期間を振り返り、普通は自分で絶賛はしないであろう。
もがきながらもここまでやって来ました、なら判る。
きょうはクルマのことを全く書かなかったが、もしかしたら頻発する
オートマ車+高齢者運転の事故も、
「私は正しいことをしていたのにクルマが勝手に事故を起こした」
と思っているのではないだろうか。
これは開き直りに一見見えるが、なにか違う。
ドライブレコーダーまで着いて、クルマの運転は責任の所在をまで、
機器が管理するようになった。
機器にウソと間違いはないから、私は正しく車に乗っている。
でもこれはどこかおかしくはないか。
人間社会には、ファジーな部分があり、そこまでは演算出来ないから
人間同士が掛け合って、調整した答えを出して行く。より良い社会の
実現への前提である。
しかしこの、最近は、我故に我ありの考え方が、人間的な懊悩と迷いが
前提に少なくなり、デジタル乾燥したカラカラの社会が、おかしくさせて
いるような気がしてしまう。
トランプさんが、やってるから、私も貿易規制をかけました。
こういうことは奥の手でも何でも無くて、思慮分別でまずどうなのか。
本来なら側近に諌官が居て、道理とかあるべき政治とか、助言を挟む。
今の世の中、この5年くらいで有るが、責任放棄と言う名のシンギュラリティ
が進んでしまい、おやおや変だな。いちいち言うとうるさいヤツ。
しかしこんな無責任というより一種の幼稚化して行く社会の退行は、
選挙でも争点にならないのだろうと、諦めてしまいかけては、
まだ何とかならないのかと、思いかけている。