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kotaroのブログ一覧

2025年04月29日 イイね!

一区切り

一区切り30年ぶりくらいに自動車雑誌の取材を受けました。

個人的にはニュースなんだと思います。
打診が来て、私でいいのか?と思ったくらいです。

取材は4月3週の月曜日で、その後事実確認のやりとりをして、もうゲラまで見て
へえーっと感心しました。

私の長い趣味人人生の、総まとめ。一区切りのイベントだったのかもしれません。

最近60代中盤から後半に向かう私は、色々と時代の針が進んで、自分のことを
時代が追い付いて、評価や認められるようなケースが、徐々に出ていることを
感じています。



SNSのあるところで、やりとりだけしている若い方(と思ってる)が
私の自動車遍歴を見て、地味な欧州車をピックアップしてきた
一つも目立とうというクルマの無い私のキャリアにびっくりして、
そういった知られないクルマ世界まで、最近の若い人は興味の触手を
広げていることにも気づきました。

もちろん私も嬉しいですが、国産車の世界が10年以上落ち込んで
新車の性能向上で、車が勢いで売れた時代は遠い過去になり、国産車から
外国車。現代の車が面白いのが少なく、過去のプロダクトの欧州車の良さとか
そういったものに、やっと目を向けられる時代が来ていると思います。

地味な欧州車こそ味があると思うようになったのは、大学時代に、周囲が
新車のターボだ、ツインカムだ、という時代に、ちょっと大人の感覚と
見識の高い「カーグラフィック」という高級な自動車雑誌に、世界の扉を
開かれた友人先輩らがいました。
私には編集長の小林彰太郎信者にしか見えなかったのは、へそまがりだったからです。

そこでどっちも、なんかなりたくなかった私は、独自の道を、洋書雑誌店に
売っていた、英国の「motor」「Autocar」といった地味なスタンド売りの雑誌を
読むことで、やっと本来の自動車というものは、主観的なインプレッション記事を
読むのでなく、こういった性能や室内長の比較から始めるものだと気がつきます。



記事を書きかけて10日以上止まってしまいました。

27日には大阪の羽曳野で行われたイベントに久しぶりに出ています。




Posted at 2025/05/10 03:55:57 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2025年04月04日 イイね!

合理性神話は正しかったのか

合理性神話は正しかったのか4月の新年度早々に、遠く離れた青森県のニュースで、むつ市の地域生活の必需のスーパーが突然潰れて、閉店会社解散。前日に八戸市で長年クリスマスケーキをイベントトレーラーで盛り上げていた複数店舗を持つケーキ店のこれも突然閉店、営業終了のニュースに驚いた。



市民に衝撃走る「市民に衝撃走る「きのうまで普通にやっていたと…」 青森県むつ市でスーパーを展開の「ファミリーマートさとう」が事業停止・自己破産申請へ 従業員140人は全員解雇 市長も「衝撃を受けていて…」再就職支援を協議する考え

従業員46人は“全員解雇”「アルパジョン」自己破産へ 負債総額は約3億9000万円か 『朝の八甲田』や『サンタ号』などで知られる青森県八戸市の洋菓子店


(写真はアルパジョンのサンタクロース号)

こういう地方の衰退と経済の地盤沈下のニュースを都会で聞くのは、辛い。
なぜと言われても、現状で打つ手のない現実だからだ。

しかし昭和の時代、36年前にはそんな社会の衰退は起きていなく、地方は地方なりに元気で、「拠点都市」の存在は準デパートのような大型スーパーが出現し、国鉄で移動すれば駅前に出て街を眺めながら歩く楽しみが、広がっていた。

なぜこうなったかを、長くくどく説明するのは大変であるが、一点見落としがちな事実について広げて書いてみたい。


地方が元気だった時代は、今のような3大都市圏に過度な集中が起きずに、日本の社会は分散とバランスが出来ていた。

東京に行くのは若い人の憧れで十分で、地方でも生活のレベルは旧態であっても、充足感や満足な暮らしは、長い時代、極端に言えば江戸から明治、大正、昭和の流れで、ほぼ卑屈にならずに送れるようになっていた。

鉄道網の完成が、それを達成して、北海道の北から鹿児島まで、自由に行ける社会が完成していたのである。



古いモノクロ写真であるが、1981年の盛岡駅。地方に活況が一番あった時代で、上野を夜に出て走って来た列車が、福島、仙台を過ぎてようやく盛岡について、下車をした。背後に見える東北新幹線盛岡駅は、翌82年にここまで開通し、東北にも新幹線の時代が来た。

今日は新幹線を批判するのが目的でないが、効率優先という戦後の日本に住み着いた近代の魔神が、どこまで正しいものだったのか考えてみる。
1964年の東海道新幹線は、建設当時は「日本の3大バカ」とまで言われて、失敗するとか、無用論が吹き荒れた。しかしあっという間に戦後の日本の奇跡のような大成功の原動力になり、格段に便利になった東海道ベルト地帯は、工業や商業が大発展して、戦後の敗戦国からGNP2位の国に成長を達成できた。

その時代に少年だった私は、新幹線開通時は大阪にいたが翌々年から九州に移り、九州に新幹線が延伸したのは、11年後の1975年、半世紀前の出来事である。
長閑な風景の広がる山口県は、その後は置き去りになり、九州の玄関は北九州地区から博多駅の福岡市に重心が移る。



1960年代の初めに「建設不要論」も出た新幹線は、75年に山陽新幹線、82年に東北と上越。そこから東北の延伸、奥羽方面や秋田まで伸ばし、九州は2011年に先に熊本から先の鹿児島が開通した。
整備新幹線と言い、国鉄時代の開通はすごく建設に慎重だったので、国会で採決をして決まるものであったが、国鉄が解体されて民営のJR各社になると、新幹線は地方が渇望するようになって、同時に地方は人口の減少が始まって、私が見てきた意見だが、活気がなくなるのに「新幹線は是非欲しい」が、矛盾しているのに強引に建設が、国鉄時代とは別会計で、あちこちで進められた。

そのうちに海外でも新幹線があれば、という時代になり、今の中国の夢のような高速列車網は、もう当たり前のことになった。

国鉄や前身の鉄道省は、国が経営する国家統治の大事な政治機関であった。
今の時代に国の責任は、問われるのは民事の訴訟くらいで、国家経営的な分野は、誰が見ているのか。
国会と国会議員、首相と官邸、それから各大臣のいる内閣。その手先が各省庁のトップ官僚が働いて、昭和の時代は、似ているがもっと存在感が違っていた。
国鉄は運輸省が管理責任の一端を持ち、大きな事故が起きると運輸大臣の元に新聞記者が詰めかけた。

運輸省が建設省と合体して、国交省になったあたりから、国の支配は薄れ、JRも新幹線も、騒がれない程度の認可事業になって行く。

さあこの頃から、新幹線が開通すると「引き換え」に在来線は、国鉄継承のJR なんとか本線から、3セクの地方交通線に一気に格下げされて、特急急行の優等列車は走らない、ただの距離の長いローカル運輸機関に転換されるのが、当たり前のことに変わった。
当然身の丈も小さくなり、維持経営は県単位。そんな青森や秋田に大きなお金を稼ぐ力はない。公務員が稼ぐ発想は薄い。



つまり、新幹線というものは「打出の小槌」的に開通すればお金が儲かるという、地域経済の振興どころか、100年以上かけてその地域が、市と県単位で営為してきた地方自治の根底を覆して、地方衰退の加速化だけに直結する、「都会へのストロー」になっていることを、いまだにやめずに、「もっと新幹線を」ばかり合唱している。

地方出身の国会議員と、県知事あたりが。

さてなぜ彼らはそう言い続けるのであろうか。
便利になると全てが解決すると言った無批判の神話を信じ込んでしまっているのではないか。
実は新幹線が究極の合理化の象徴であることは、疑えないが、その地方と都市には、新幹線が出来るずっと以前には国鉄の拠点があった。
交通の拠点にはたくさんの複雑な交通用の車両を動かすために、多くの人が働いて従事していた。
その労働者と家族だけで、町の単位の何割かを占めていた交通の要都は、国鉄の解散で一部はJRに引き継がれたが、新幹線が頭ごなしに開通すると、何とか駅は作れても、もう鉄道運輸の拠点では無くなり、人が定住して生活することが減っていった。

それが10年、20年と続いて、今の地方の断末魔に繋がっている。

では、交通機関が速度を上げて行って、新幹線の300km/hが当然の時代に、国鉄時代を引き継いだ最高速度100km/hから130km/hの交通機関は、どんな感じで生き残ったり、存在し続けたら、うまく地方社会が続いていたのだろうか。
大変難しいテーマであるが、合理性だけ追求し続けたら、今のような社会の成長と結果が起こってしまった。
それについては、長くなったので、別の機会に掘り下げてみたい。
Posted at 2025/04/05 04:55:15 | トラックバック(0) | 回顧録 | クルマ
2025年03月25日 イイね!

技術系企業の悩み

技術系企業の悩み今はテック企業という言い方もあるが、日本の会社には世界を舞台に通用した会社も多くあった。

中でもソニーの存在は日本が産んだ世界に通用する(した)スター企業だったと歴史を振り返る。

ソニーはテープレコーダー技術で、世界に飛び出して、映像を記録する装置の方式で、ベータ規格を押し出してその優位性を謳い、VHS方式と雌雄を決する戦いに長く挑んでいたことを、覚えている人はいるだろう。

最近、ソニーはMDミニディスクから、完全に撤退を決めた。
私は2000年頃からデッキを買って、カセットデッキの代わりによく録音して、自動車の中で再生するのにちょうど良いと思い、実は最近、自動車の音源をMDデッキに戻した。

レコードや、カセットテープの音をMDに録音し、自分の好みのやや旧い
音源を聴くのにちょうど良い。

しかしこのMDで聴いている音楽ソースを、年配の人が再生装置で聴きたいというと
CDに入れ直したりしないといけない。MDは普及しなかったから、そこは一つの
障壁である。

さらにパソコンで取り込むのに、実はMDはWindows系の昔のパソコンだけが
対応で、Mac派の私は今頃になって、付属ソフトの不対応に驚いて呆れた。

おそらく想像だが、MDは出た時は優位性のある方式であったが、どうやらApple社のiTuneの出現を快く思っていなかったように思える。

パソコンの普及の30年間で、最初の頃の単機能からアプリケーションの発想が広がって、写真や音楽をこの箱に取り込めるように変わっていき、今はインターネットを介在して、音楽や動画、写真を世界に発信できるように変わっていった。


そういう時代の移り変わりの中で、パソコンはWindows系とMac系の併立が悩ましかった時代もあったが、今では穏やかに共生できているように思える。


そのパソコンが社会を変える以前の1980年代にソニーはウオークマンで社会を変えてしまった。
今から見ればアナログ方式のカセットテープを小型の再生装置で、持ち歩けるようにしただけのものだったが、瞬く間にこれは世界の人の心を掴んだ。

私はあれを嫌って最初から持たなかった一人である。偏屈でなんでもアンチだった。

ソニーの80年代の成功は、80年代後半にアメリカの大手の映像産業の本体まで買収できるくらいの時価総額になり、あの頃の日本は凄い力を蓄えていた。

その日本は40年弱でこれほど冴えない状況になった話は前回書いた。

私はこんな今、もしソニーがiTuneを受け入れて、MDにも簡単にデジタルインターフェースしていたら、今でも世界のAppleショップの横にソニー製品が並んでいて、MDはCDより先に廃れずに済んだのでは、それか、次のステージの機器をソニーが共同開発したかもしれないと思った。ここは個人的な頭の想像で、テック系にもっと詳しい人は即座に否定されても構わない。

ソニーはmoraという日本独自の音楽サービスを始めて、何年維持しただろう。

私はもうMac愛用者になっていたので2000年代はソニーから離れた。
最初のプロバイダーはSo-netにするくらいソニーが好きだった。
だがCEOが技術系の人物から変わって、会社の体臭が「あれっ」と違ってきて、
当時は命の次に大事だったメールアドレスとホームページのうち、ホームページの
URLを利用者殺到でいきなり桁数字変更されてしまった。

今から見るとその程度のことであるが、私は年賀状の印刷も終えていたので
厳重に抗議した。回答が出るまで何回もメールで、いかがなものかと問い糺し
結局So-netを解約した。
その頃のCEOは最近亡くなった出井氏でGEのジャックウエルチを参考にしたのか
ソニーが保険代理業、続いて今も続けてる銀行業と言っても店舗を持たない
金融業に参入したから「あれー」そんなことよりも本体の電器の新製品や
ソニーレコードの方は?という裏切られた気分の方が強かった。



テック系企業は大半がアメリカ。後は中国という今の世界地図。台湾も頑張ってる。
日本はトランジスタ技術、次のIC、その次のLSI時代まで、もの凄く躍進を続けた。

80年代の優位から、ここまで転落した原因や理由は、いろんな記事と本を読んだ。

アメリカがソ連の崩壊で、東西対立が終わる前に、次は日本をやっつける国の方針に
なって、そこからの国際競争社会の変化。これは当たっている。
しかし武力で侵攻されたり、イラクやアフガンのようなことは無かった。

日本は技術力ともの作りで、戦後のカメラからテレビ、オーディオ、そして自動車と
何でも一時期は優位に立てたが、次の時代をゼロから考える力が乏しかったように思える。

日産がブルーバードP510と、初代のフェアレディ240Zを出した頃、特に後者は、当時のスポーツカー、ジャガーEタイプ、それと高価なポルシェ911(901)に比べて、驚くような廉価で高性能で、品質が良く壊れなかった。


ここまで書いてきて日本は凡庸なのか悩む。
ジョブズのようなゼロから家庭用パソコンに挑むとか、携帯電話の次、今は当たり前のスマホという日本語になったガジェットとか、それに近かったのがウオークマンだが、プリミティブな機械である。
私はあと、オートフォーカスのカメラも「日本的発想」と小馬鹿にして手を出さなかった。目先目的過ぎるのである。

その最初に出したMDがなぜ好きかというと、カセットテープに近い使用感と
CDの盤面傷が起きないから、私はアナログな自動車運転が得意なので、非常に
マッチングが良いと今も見直して、思った。
最近は老後になり時間もたっぷりあるので、レコードを日常的に聴いて録音し
クルマでも聴いている。

日本は世界をリードするようなテック国家になれなかったのは、当然のような気がするが、私のような好奇心型の人間のために、中間的なメディア方式の維持や、開発を継続して欲しい。自分は技術者になれなかったが、子供の頃から模型工作、今でも家庭内の機械を修理や日常的にやっている。
日本が立ち直るのは、少年とかの好奇心の涵養じゃないか。数十年かかるけれど
そう思う。

Posted at 2025/03/25 04:20:22 | トラックバック(0) | つれづれ日記 | クルマ
2025年03月23日 イイね!

日産ショックから見る日本凋落の歴史の流れ

日産ショックから見る日本凋落の歴史の流れ日産の合併騒動からホンダとの破談となりあれよあれよのうちに年度末の3月である。
日本の国内の景気がさっぱりになって長い。従来メディアはタワマンや人の集中する東京の話題ばかり書いて誤魔化して来たが、今、昔は交通の拠点だった国鉄時代にデパートが建ったような駅前に行くと、地方の衰退は現実を通り越して住む人が、未来に絶望したくなるほど、寂れきっている。
そういった現実は2000年からの四半世紀の間に顕著になった、現在の国土の姿なのである。

日本の舵取りの失敗は、政治と行政の二重構造的に計画がうまくいかなかったことが長い。

私は今年66歳になるが、30代だった1990年代にバブル経済の過熱が途切れて、そこからポッカリと日本の未来にブラックホールが出来て広がったように記憶する。

その90年代の10年に子供を3人作って育てた。
本題と違う話だが、少子化社会はなんとなく空気で予想したが、私は父親より子供の数が多い。これはある頃から生涯賃金は父親に負けるだろうから、子供の数くらい勝っても面白いとやってみた。
老後の今は年金でも全く負けて、とても貧乏だが、息子が時どき心配して、釣りで釣った魚を片手に遊びに来てくれる。それでも子供がいないよりいいやと自分を慰めている。



90年代途中からは日本がバブル経済の反省と言って、不良債権の存在を目の敵にし、バブル時代に乱脈経営だった企業潰しを奔走した。これは今に至る自己責任の発想で、そのときに日本を代表するような山一證券や、長銀、日債銀といった国の政策で作った金融機関も潰した。今から考えると日産のような状態と異なるが、金融経済が乱高下したのは、1985年のプラザ合意を日本政府が受け入れて、為替が暴騰して日本に大量のマネーが流入して、日本企業の時価評価額が軒並み世界のトップにいきなりなった。

競争力がついていない時代にいきなりそんな「現象」が起きて、ネットもまだ無いような時代に、国も国民も現実を理解できず、お金が湯水のようにあるので、会社の経費で高級輸入車を買いまくったような伝説が一人歩きしただけである。

それが一部の人や会社が踊ったバブルの正体である。
バブル退治と当時は言われ、本来は「退治」するような化け物ではなく、経済の急性病への対処が解っていなかった。
そのバブルがいきなり弾けたのでなく、1995年1月、関西の神戸で関東大震災以来の大地震が起きて、国民は「何かが終わった」ような気持ちになった。
同じ年の春先の今頃にオウム真理教が地下鉄で毒物テロを行った。これは流行作家の村上春樹が「アンダーグラウンド」という小説を書き、人々の心の中に急速に未来に対する不安が黒雲のように広がって行ったのである。ちょうど30年前の春はとても不安な日本の春であった。

そして1997年後半になると企業経済の破綻が顕著になり、北海道の拓銀や、山一證券などが、救済しきれなくなり潰れて行ったが、庶民の人々は、平家物語のように栄華の終わった企業は「自業自得」と感じていたのではなかったか。



所で私は個人的な見解であるが、日本の経済が段階的に悪くなった主因は、消費税制度の段階的導入の結果で、その結果が、これほど大きいのは、日本人の国民性と真逆だからと、ずっと考えている。


まずバブルが崩壊目前のピーク、1989年は平成元年に4月から3%の消費税が加算された。
この話をするとすぐに昔は高額な買い物に物品税が付いていたじゃないかと反論される。しかし庶民や国民は、昭和の時代は高度成長期が終わった昭和50年代でも、旺盛な消費意欲があり、要らないものでも新製品に敏感に反応して、国内経済は成長の一途だった。石油ショックが1973(昭和48)年秋にあった。

自動車の値段もガソリン価格も1975(昭和50)年までに大幅に上昇したが、日本の自動車産業は魅力的な新車を開発して、1981年のトヨタソアラの登場で高級車市場のブームが起きて、黄金時代が始まる。



消費税の税率改定、アップは第2弾が1997年4月であった。
山一倒産、北拓の消滅は今に至る北海道の経済の運命を暗示したのであるが、消費税を春に上げると秋の頃から資金繰りに苦しむ企業が表面化して、97年は金融恐慌の年と言われる。私も新聞社時代の暗鬱な記憶が残っている。

ここで日産の危機と苦悩に付いて再録すれば、”コストカッター”、ゴーンが来たのは日産の業績の急速に悪化した後の1999年春である。
日産を大甘で救済すれば良いという記事を書くのが真意でないので、順を追って説明すれば、日産は1960年代、70年代、トヨタに比肩できる会社であった。
特に北米輸出で大きく売上を伸ばして、日本の商社マンのように、日産はイメージ戦略でも国際ラリーでブルーバード、フェアレディZが活躍して「技術の日産」という企業イメージも定着した。

しかし日産は民業ながらここまで大きくなったトヨタとは対照的な、組合トップが天皇と呼ばれたり、社内の抗争が本業の製品開発に影響しやすい、アキレス腱の多い会社であった。
魅力的な商品が生まれると息を吹き返す。これは自動車に限らず、1億人の国民を抱える国内市場でものが売れると、大きく儲けを伸ばすことができる、大国の長所でもある。今の中国が羨ましいのは、10倍の市場で、制限付き国家でありながら、消費をコントロールできたから、あっという間に日本を追い抜けた。これはアンチの人も解ると思う。

日本が景気が悪くなったのは、国内消費経済の動向に冷水を浴びせ続けた消費税の改定である。3%が5%になった1997年に金融恐慌が起きた。今から見るとたった2%の上昇でも国民は「ノー」と言って財布の口を固く閉ざした。

5%ショックの記憶は強烈で、その後の総理内閣は消費税アップは封印した。
しかし2回も消費税をアップしてしまったのは、安倍一強と言われた第2期安倍晋三時代である。2014年と2019年に引き上げを行なっている。
総理の支持率の高さに税率を決める国の中の財務省が、上手に一体化を演じて5年間で2度も消費税を上げた結果は、財務省解体デモまで起きるような今の社会状況と冷え込んだ消費経済である。



財務省を「解体」したって何も良いことはないが、この消費税と一緒になって国民負担の増えた、保険料や年金等の色々な問題は、みんな地下で繋がっており、問題の本質は、政府が官僚をコントロールしているように見えるのだが、どうしたらこの重苦しい空気を変えられるかである。
「官邸主導」で安倍政権時代は、目覚ましい国際的なプレゼンスを成し遂げたという言論や評価は多い。
しかしそれは参謀の存在とシナリオを書いたのを演じ切ったように私は見る。
消費税は安倍政権以前から始まっているのだし、それを廃止や別税にすることは勇気がなかったら、上げる方をことある度に言ってくる官僚の意見に耳を貸したまでである。
2度消費税を上げた総理は泉下の人になった。
戦前なら例があったが、戦後総理経験者が狙撃で死んだ例は初だと思う。
そして2020年代は半ばになって、沈み切った国内の国民消費力は、重税の前にただ喘ぎ、ものが売れない時代はまだ当分続きそうである。
Posted at 2025/03/24 03:27:53 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ
2025年02月13日 イイね!

日産と松下パナソニックの危機に思う

日産と松下パナソニックの危機に思う
昨日の朝に別の場所に書いたが、日産や松下が潰れかける時代が来るとは思わなかった。これを基に独自で書いてみようと思う。それがジャーナリストの仕事だと思うので。


世間の空気の趨勢というものを作っていくのは、一方で政府や国家が。一方で大新聞や全国キー局のテレビの仕事だった。昔からと言っても戦後の昭和の40年代以降だと思う。テレビの方は。

最近ではネットがこれらの地位を揺るがせるようになった。だからさっきの空気のことを作るのが醸成と呼ばれるまで、市民が冷静になってきたと思う。
日本国内の消費経済の平均購買力が落ちに落ちて、日産もパナソニックも1億2000万も人口がいる国民の国内需要で食っていけなくなった。私がトッドやピケティならそう分析をするであろう。


なんとなく、このトップ企業2社の落日は自己責任で仕方がないって、多くの国民は思わされて、思い込んでしまっていないであろうか。これは完全に政府の政治のミスである。消費税を上げ続けて、今や10% 1割昭和の時代より余計に取られる。
また会社員や働いて暮らしている人の保険料、税金、公的年金等の負担が、昭和末期の景気の良かった頃に比べて、正確なデータをとっていないが2倍以上だと思う。老人医療が無料でやっていけたから当時は。それが社会福祉と堂々と謳われて、厚生省は「いい仕事をやってくれるいい官庁」の代表みたいな顔をしていた。


今泡を食っているのは、政府の税調と、税金をセッティングして取り立ててきた大蔵省や後裔の財務省であろう。まさか国内消費がここまで冷え込んで、松下や日産が潰れるなんて。彼らにとっても大量の税収入が見込める日本の一番上にあった巨大民間企業である。その影響たるや大変な恐慌が出現するかもしれない。


ではなぜここまで国内消費が冷え込んだのか。それは匙加減のミスである。
一方でマスコミの大罪は、なんでもかんでもバブル経済の破綻やそのツケと、嘘を言い過ぎてきた。実際はバブルの反動は10年もない。その後の不況は、政府の金融ミスや、政治上の舵取りで、日本はミスをし続けて繰り返したからである。特に特定世代を放置した、就職氷河期世代問題の長年の置き去りで、少子化が進み、老後の希望も持てない大量の国民を産み、ライフプランを全く無策にしてきたことは、政治の大ミス以外に他ならない。


高齢者が激増する、団塊世代の60歳到達や75歳到達が、どれだけ喧伝されてきただろう。マスコミも罪が重い。

これだけ国債を発行して一時調達して国家を維持でき、新幹線も3、4本で終わりにしなくても国が破綻してないのなら、団塊世代対策は、国債発行と償還期間設定で乗り切れた筈である。
消費経済が低迷していなかったなら。


とにかく今の財務省のお粗末に尽きるのではないか。国の活力を奪い続けた結果は。
団塊世代のうねり、ショックは、彼らがもうすぐ死に絶えたら、それを収斂したら良いだけである。しかし団塊世代、と言っても10歳下の僕らの1.5倍程度の人口が多い人たちのことで、政府はずっと危機が来ると言い続けて、消費税を導入しパーセンテージを上げ続けてきた。1987年から安倍政権時代に2度も。
その結果がどうなったであろう。この生活苦である。

で、悪い事がチエーンリアクションになって、保険料も、各種の税金も増え続けたのは、うまくいっていた昭和戦後の逆進に完全になっている。政府と自民党政治の無能は、もう誰の目にも明らかになった。
今日はこういうことをみんなに気づいてもらいたくて、どうやったら、口先だけでない良い政府や良い国家になれるだろうか、考えて欲しくて書いた。野党のどこかが政権奪ったらなんてレベルの話題ではありません。
日産や松下が消えるって「国家的危機」だということを、見逃して欲しくないのである。兵庫県の知事やフジテレビと芸能人の話題なんか、全くどうでもいいと私は思っている。


Posted at 2025/02/13 07:14:09 | トラックバック(0) | 思うこと | クルマ

プロフィール

「参院選の行方と自動車社会 http://cvw.jp/b/176891/48551942/
何シテル?   07/20 05:33
車は殆ど処分して、1971年登録のフィアット850クーペに 1987年以来、乗り続けています。 住居は昭和4年築の、古い日本家屋に、現状で住んでいます。
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