2012年01月03日
年が明けて2日目の1月2日、とある年賀状が我が家に届きました。
ただ、普通の年賀状の配達方法と少し違っていたことが少々。
それは、書留でも無いのに玄関の呼び鈴が鳴らされたことと、年賀状に本人がくっついてきた事でした。
「やあ、おめでとさん。」
ドアの隙間から覗く、ギラギラとした鋭い目、頬がこけた青白い顔に赤い穴がポッカリと開いたような歪んだ笑顔の持ち主は、実に18年ぶりに会う、学生時代の友人だった通称タニー。
「おお、上がってくれ。」
子供達は嫁が実家に連れて行っていて、我が家は私一人。
「お邪魔するね。ほい、年賀状。」
毎年、彼宛に年賀状を出しているにも関わらず、彼からのものは全くといっていい程、受け取ったことがありませんでしたが、その年賀状を見て理由が判明。
豪快に筆書きされた宛名と差出人があまりに達筆過ぎて、ロゼッタストーンか木簡に書かれた古文書かというほど解読不能な状態になっていたのでした。
「あの郵便局の自動仕分マシーン、もうちょい仕事してくれたらええのに。」
と全く悪びれることなく、すでに一つの言語として独立できるほどオリジナリティ溢れる筆書きこそ、年賀状のタクティクスと信じて疑わないタニーは、頑としてPCを使用しようとしないため、現在も50%以上が宛先に届くことも差出人に戻ることもないとか。
よれよれのダウンジャケットをぞんざいに脱ぎ捨てて、リビングのソファーにふんぞり返り、
「本当に久しぶりだな~」
タニーのでっかいキャリーバッグから出て来たのは、フォアローゼスのバレル。
「いきなり!?」
「そう、再会を祝して。」
ニタァと嬉しそうに無精ひげがうっすら覆う口角を上げ、勝手にグラスを持ち出して、琥珀色の液体を並々と注ぎ始めたのでした。
彼との出会いは、入学したての頃、人数あわせで連れて行かれたナンパなテニスサークルの新歓コンパ。
そこにいた細身で小柄な体、目鼻立ちが整い、聡明でいてどことなく神経質そうな表情を浮かべ、茶色の巻き髪が毛穴すらない白い頬にハラリと懸かる横顔。
ヘリウムガスが頭に充満した女子大生達から、「王子様~」と言われる度、ひときわ迷惑そうに顔をしかめていた蒼顔の美青年、それがタニーでした。
女の子のウケが良いからと請われて来たタニーは、ただの人数合わせで連れてこられたメタル崩れの私とは、会費免除など待遇からして違っていまして、
コンパだというにも関わらず、場の空気を全く無視し、カバンからおもむろに本を取り出し、広げて読み始めた彼を誰もとがめようともせず、
「なに読んでんだよ?」と興味半分に聞いてみると、
「君なんかには理解できない本や。」
そう関西弁で、蔑むような冷たい眼差しを向けたのが彼とのファーストコンタクト。
それ以来、口下手、人付き合いが苦手で、常に厭世的な雰囲気を纏いながらも、不思議と気が合い、下宿を行き来していたのでした。
美しい文書で書かれた彼のレポートは常に完璧、模範解答職人としての評価も高く、そして、下宿や食堂でシュールレアリスムや本の話になると途端に饒舌になり、独演会となること度々。
電話を持っていなかったため、下宿に行くか学校でつかまえる以外にコンタクトが取りようもなく、さらに、水戸黄門のうっかりハチベエが番組で紹介した名所に、一人旅に行ってしまうほど旅好きな一面があり、消息不明になることしばし。
それが講じて、『なるほどザワールド』で気になった外国に、片道チケットだけもって飛び、そこで仕事をして帰りの航空券を稼いでくるという無茶を繰り返した挙句、トルコから戻ってきた時には、1ヶ月入院し、半年間通院していたことも。
イタリアでは、高級娼婦の若いツバメとして寵われ、帰国後、しばらく抗生物質のお世話になり、
西海岸では、可愛い顔が禍して屈強なブラザーに襲われ、肛門科に通い、今度は歌舞伎町で失禁したまま気を失い、親切な大男に拾われて、再び肛門科に通うはめに。
同級生たちがリクルートスーツに身を包んでいた時期、睡眠薬と咳止めシロップに嵌ってコディン中毒者と化し、目に下に真っ黒い隈を作って時々学校に現れては、行き場の無い感性を呪詛のようにこぼしながらクダを巻いていたタニー。
この頃になると、彼の下宿の部屋は寝るところが無いほど本が溢れ返り、柱や梁を軋ませていた。
政治経済学部だったにもかかわらず、哲学に傾倒し、形而上学に没頭した挙句、計画的にちっとも卒業しなかったタニーとは、私がUターンすると音信不通となり、最近、本を一冊書いたと知り合いより情報があったきりだったのが、年末、知らない番号からの着信が携帯に入り、スピーカーの向こうから告げられたのは、2日の夕方に、こっちに来るということ。
家に招き入れてから、20分が経過したところで、すでに半分空いたボトル。
消えた半分は目の前のタニーの胃袋の中へと経口移動している。
18年という年月よりもさらに深い皺が刻まれ、セルロイドのような美青年だった面影が残るも、学生時代よりも幾分血が通った表情を浮かべて、私が今何をしているのか全く聞こうともしない代わりに、先月、彼が2度目の離婚をしたことと、腹違いの息子がそれぞれ居ること、現在、東京でアダルト関係の出版社の取っ払いの仕事で糊口を凌ぎ、執筆活動をしていることをぼそぼそと話してくれました。
学生時代、夜明けまで飲み明かした早朝の新宿で、仕事に向かう背広に身を包んだ大勢のサラリーマンを網の中の鰯の群れだとはき捨て、円山町のホテル街ではドブに向かって精子供養をしていた20代のタニー。
繊細さゆえに才気と狂気の間を微妙なバランスで往来していた彼から受けた影響は計り知れない。
『一体、この18年間、なにをしていたのか、もっとお前の話を聞かせてくれ。』
そう思いつつ、1時間が経とうかというところで、次に行くところがあるからと、ボトルの最後の一滴を口の中に垂らして、タニーが立ち上がったのでした。
ダウンジャケットを持ち上げ、そのポケットから
「そうや、これ、お子さんたちにお年玉。」と出てきたのがぽち袋が2つ。
「いいよいいよ、そんな気を使うな。それよりもうすぐ子供も帰ってくるから、ゆっくりしていけって。」
「俺なんかおったら迷惑かけるし、ぼちぼち行くわ。」
「ちょっと待て。これ、お前の息子さんにもお年玉。」
「ありがとな。」とダウンジャケットにうやうやしく仕舞い込むと、
「そうそう、さっきな、ここ来る途中、Vと一緒に食ったら美味いやろなぁと思って。すっかり渡すの忘れとった。」
と取り出してきたのは、わさび漬け。
「なぜこれを一緒に食おうと。。。。」
「さあ、、、俺にも分からへん。あとな、辰年でふと思い出したんやけど、いつか教育委員会が、お○んちんだけ愛称があって不公平だ言うて募集しとった、オメ○の可愛らしい言い方、、、、」
「な、なんだいきなり、、辰年関係あるのか!?」
「アホ、オートマティスムや。」
「ほう。」
「でな、おぱんぽんって言うんや。」
「ふーん。」
「なんかピンとけえへんよな。」
「うん。」
「もうちょっと、こう視床下部がくすぐったくなるような耽美的な響きというか、、、、」
「うん。」
「ていうか、ジェンダー思想、教育委員会おちょっくんとんのかって。」
「うん。」
「俺やったら、、」
「うん。」
「そうさなぁ。」
「うん。」
「あんな。」
「うん。」
「行くわ。」
「うん。」
こうして玄関から、酔っ払って足元が若干怪しくなった平成の内田百間となるべく人物の後姿を見送り、今朝、彼が乗ったと思われるバス停近くで、空になったぽち袋が落ちていたのでした。。。
書棚からブルトンの『狂気の愛』の新訳が消えていることに先ほど気がついたばかり。
とまあ、みんカラで紹介するには、まっこと不謹慎でアナーキーな旧友との邂逅で始まった2012年。
皆様、本年も宜しくお願いします。
Posted at 2012/01/03 22:36:01 | |
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