
「エモい」という言葉を乱用すると、語彙力は低下すると思います。
であるので、使用においては抑制的でなければなりません。
感性については知りませんが。
こんな記事を読みました。
2018流行語「エモい」は感性も語彙力も低下させる|BUSINESS INSIDER
この記事で筆者が言いたいことの全体的な趣旨については了解しており、まあまあ賛同もするわけですが、ちょっと個人的に感じることがあったので、頭の整理も兼ねてちょっと書いてみます。
(余談ですがマツダが国産車で唯一、美意識を前面に押し出したプロダクトデザインにこだわっているのも、筆者が記事後段で指摘している「時代の流れ」と絡めて理解することもできるかもしれませんね。)
まずもって、「エモい」が10代女子の流行語としてトップを獲得するほど彼女たちの間で流通している言葉だというのは知りませんでした。
僕も30を過ぎた大人であり、その世代との交流など皆無なのでその辺りの事情に詳しくないのはまあ当然だと思います。
しかし記事の記述を信じるとすれば、彼女たちは「嬉しいときも、悲しいときも、切ないときも」なんにでも「エモい」と言うのだそうです。
しばしばブログ内で写真に「エモい」と添える僕だって、それはどうかと思うのです。
僕は「エモい」をそんな多義的な意味で使用してはいません。
そしてそれは僕に固有の事情ではなく、「エモい」をインターネット空間で使用しているいい歳した大人の使用法を見ても、そんな多義的な用法で使っている人はあまり見かけない気がします。
つまり何が言いたいかというと、いい歳した大人の言っている「エモい」は発言者の言っている意味がちゃんと理解できる用法において使われているということです。
実はそのくらい、限定的に使われていると感じます。
まずここに断絶があると感じました。
ところでその意味が理解できる「エモい」ですが、これは万人に理解できる意味を為しているでしょうか。
矛盾しているようですが、僕はそうは思いません。
おそらく、その「エモい」を発した人とかなり事情を共有している人でないと理解できないだろうと思っています。
言い換えると「エモい」という言葉は非常にハイコンテキストな言葉なのです。
ここに2つ目の断絶があります。
つまり、「エモい」という言葉は、分脈を共有した相手(お互いに通じ合った相手と言い換えてもよい)とのコミュニケーションにおいてしか、有効な意味を為さない言葉なのです。
言葉というのは意味が常に万人に理解されるものでなければならないとは、僕は思っていません。
もちろん言葉がコミュニケーションの道具である以上、相手に正確に理解されないようであれば、それは言葉として失格であると言わざるを得ません。
その意味で、筆者が何にでも「エモい」という言葉を発する若者の態度を批判することについては正当性があるでしょう。
あるいは例えば役所や、企業や、新聞が使う言葉が意味不明だったり多義的であったりして受け取る人や言う人によって様々な意味を持つようであれば、社会は混乱します。
そのことを考えれば、正確な意味が伝達できる言葉というのは非常に重要であり、言葉の意味や用法を軽んじるというのは厳に慎むべきものであると個人的には思っています。
しかし、我々が生きている社会は、単一のサイズではありません。
世界、国、都道府県、市町村、地区、家族、、、、
そしてサイズの異なる社会、コミュニティでは、文脈の共有度合いが違う、というか、往往にしてコミュニティのサイズが小さければ小さいほど、ハイコンテキストになりがちだと思います。
例えば夫婦やカップルの間で共有している文脈、親子で共有している文脈、地域社会で共有している文脈、市区町村で、都道府県で共有している文脈・・・
夫婦やカップルの間で交わされる言葉が、あるいは親子の間で交わされる言葉が、都道府県単位で、あるいは全国で、正確に理解されるべきであるとは、僕には到底思えません。
個々の人間が所属する個々のあらゆるサイズのコミュニティにおいて、そこで同じ分脈を共有している間柄においてしか通じない言葉があって然るべしだと思っています。
件の記事の中で筆者は「若年層の文脈読解力の低下が危ぶまれている」と指摘し、「エンゲージメント(関係性)とコンテキスト(文脈)の時代に「ヤバい」や「エモい」を多用するのは自殺行為である」と警鐘を鳴らしています。
若年層の「エモい」が多義的すぎてほとんど意味を為していない実態は、「若年層の文脈読解力の低下」という傾向に照らして考えれば、なるほど理解できます。
文脈を共有していない相手が発した「エモい」という言葉を理解しないまま、なんとなく見よう見まねに使っているので、いろんな意味を持ってしまっているのです。
また、「エモい」を多用するのが自殺行為であるとの指摘は、間違いではないでしょう。
何の考えもなしに乱用するのは「エモい」という言葉の意味の希薄化を招き、それはひいてはコミュニケーションの希薄化を意味します。
しかし上で述べた通り、「エモい」というのは実は、ハイコンテキストな、文字通りの「エンゲージメント(関係性)」に依って立つ言葉なのであり、自分と文脈を深く共有している少数の、限られた相手に対して使われている言葉なのです。
月並みな指摘ですが、ITの進歩によって全人類が様々な人とコミュニケーションを取る機会ができました。
一方でその反動なのか、自分の気心が知れた相手とだけ濃密なコミュニケーションを取りたい、という欲求もまた強くなっているのではないでしょうか。
例えば、若手社員を中心に会社の飲み会や社員旅行を忌避する傾向があるのも、割と他人に近い存在である人間との関係よりももっと親しい人との時間を大切にしたいという気持ちの表れとして理解できます。
分脈を深く共有している相手とのコミュニケーションは非常に一体感が高く、濃密で、快感が強いというのは誰しも経験があると思います。
相手がハイコンテキストな言葉を使ってきたとき、その人は自分と分脈を共有できる相手との濃密なコミュニケーション、あるいは感情の共有を望んでいるのであり、もしもそのハイコンテキストな言葉の意味があなたに分からないのだとしたら、それはあなたがコミュニケーションの相手として選ばれていない(あるいは想定されていない)のだ、ということかもしれません。断言はできませんが。
話がやや逆説的になるのですが、上で企業が意味不明の言葉を使っては正しいコミュニケーションができないとの旨を書きました。
一方で、企業はたまに意味不明の言葉を使います。
それはつまり「走る歓び」だったり、「人馬一体」であったり、「カラーも造形の一部」であったりするわけですが、それらの言葉はなんの目的で発せられているかというと、非常に一部のごく限られた、当該企業と文脈を共有しているファンであるところのユーザーに向けた発信であり、双方向のコミュニケーションであると理解できます。
世の中の多くの人には理解ができない。だけどそれが理解できる下地(文脈の共有)がある人には深く刺さり、ロイヤリティを築くに至る。
写真なり映像なりなんなりに「エモい」という言葉が添えられていて、その意味が理解できた人は発話者と相当程度の文脈を共有しているし、そうでなかった人は「意味わからねえよ」と目くじらを立てるのではなく「この情景になんか心が動かされたんだな」「情緒を感じたんだな」程度に捉えてもらえたらと思います。
そんなわけなので、件の記事の筆者には、もう少し深掘りして「エモい」が使われている
文脈について探索し、その言葉が交わされている人々の間を取り持つ
関係性についてもう少し考察してみてほしかったな、と思ったのでした。
再度言えば、記事の全体の趣旨については了解しています。
ただこれだと筆者が中学生の時に「ヤバい」の意味が分からなくて歯がゆい思いをした、その思い出を引きずったまま記事を書いちゃった、っていうような風に見えちゃいます。
ちなみに思考停止ワードとして同記事に紹介されている「ヤバい」ですが、僕は思考停止してしまった様子をブログ内で表現するために「ヤバい」を使っていますw