2011年10月28日
我思う、ゆれに日記あり
・新聞で日記を書くという事がブログ形式になって最初は大変だったという話が載っていた。毎日の話題に事欠くのだが、色々書いていくうちに話題探しが上手くなったという話だ。また別の記事で、「思う」「感じる」「考える」などの言葉を使わないように気をつけて書いているってな話もあった。基本的に新聞メディアは老人向けなので、きっと老人はそういう苦労やスタンスなんだろうと思いつつ、それでも気にしてします中年です。
・話題に関しては確かに最初の最初は迷いがあったかも知れない。でも、日記というのはプライベートな物であり、基本的には何を書いてもいいんだし、そう世間に問うような事を考えなくてもいいんじゃないだろうか。そりゃ炎上するような話題は避けるべきだが、基本的にネットの日記ってのはほぼチラ裏で誰も気にしちゃいない。公開しているからと言って読んでいるのはごくわずかだ。
・だから、そのプライベート日記に「思う」「感じる」「考える」を入れないという、大時代的なポリシーを持ち込む事もまたエッセイ集でも出すつもりで書いている人の意見だろう。それらは読まれる事を前提にしたマナーだろうから。でも、一方で、そういう私的感覚をすべての文章に付与していく事が、いかに無自覚に行われていたのかという問題提起にはなった、少なくとも私には。思わずには文章が書けないと言っていい。
・多分、この言葉は公的に読まれる文章の場合には、あまりにも普遍的すぎる事実なので、それをいちいち述べていく事は文章のテンポを緩慢にさせ、私性を強調しすぎるように感じらさせるのであろう。他者に何らかの説得性を持って自説を授けたい時に、軟弱な書き方だと思われるかも知れない。何より、言い換えが少なく、小学生の作文的な型にはまりきってしまう事に嫌悪感を抱かせる。もっと高尚な言い方を大人なら考えるべきだという大人の態度が背景に見え隠れする。
・そうは言っても、日記というのは「思う」「感じる」「考える」代物である。一部の言葉を排除してその本質が変わる訳ではないし、そもそも今日の日記が果たしている役割というのは、多くの場合代償行為としての記述ではないだろうか。誰もこんな駄文が後世に文化研究として役立って欲しいと思って書いているのではないのである。一日生活していた確認として、「思った事」「感じた事」「考えた事」を書いて、存在理由みたいな物としているのだ・・・と私は思う。
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Posted at
2011/10/28 01:15:45
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