2019年08月23日
裏「天気の子」(ネタバレ)
・昨日はポジティブに捉えた「天気の子」への思いを綴ってみたのだが、今朝起きてみると胸のあたりにつっかえている物が思っていた以上に大きいのを感じた。それは決して明るい物ではなく、むしろドス黒い物だった。作中意図的に避けられた言葉、それによって明らかになる監督の真意、社会の悪意と罰、半分夢の中で繋がった事を忘れないうちに書きたい、これじゃ夢日記レビューだな。
作中、陽菜は母親の看病の途中で光の階段を見つけて廃ビル屋上のお宮にたどり着く。帆高は「伝聞」としてそれを「母親ともう一度晴れた外を歩けますように」だと伝えているが、それの本当の意味はなんだっただろうか?あの場面をちゃんと覚えていないのだが、母親のバイタルはちゃんと動いていただろうか?天気が晴れますようにと祈ったのではなく、また祈りに廃ビルに登ったのでもなく、限りなくやけっぱちな死を願っての行動だったのではないだろうか?あるいは本当に死のうとした事が結果として生け贄として彼岸に行く鍵になったのではないだろうか。足下のお供え物が示すのは、これがお盆であるという事であり、立花家で彼岸に立ち上る煙で示される伝承は彼岸には階段を上り下りして死者がこの世に戻ってくるという設定だ(私はそういう話しは聞いた事がない、迎え火はあくまで死者のガイダンスであんな煙は上げない)。
その後の陽菜はバイトをしながら凪と暮らすが、それも限界になり水商売に身をやつそうとしており、それを助けてもらっても最初は怒るなど大人びている反面どこか投げやりだ。自分が無価値であるという認識が染みこんでいて、普段の気の強さに対してどこか捨て鉢な感じからやっと立ち直っていくのがアルバイトである。しかし結局もう一度自分を犠牲にする事で大多数の幸せを求める事、悪く言うと自分の価値を捨ててしまうような行動に出る。確かに幸せすぎて人生を終わらせてしまいたくなるというのも、青少年では時々ある話しだ。
さて、作中、天候神社で神主が「天気の子は人柱であり、異常気象をおさめる」と言いながら一方で「森羅万象が自然であり自然に異常という物はない、少なくとも短期間の気象変動なんかは異常ではない」という見解を示している。例えばグスコーブドリの伝記は寒冷化は異常、と定義出来る。妹のネリのために自己犠牲になって火山を噴火させたブドリはまさに「天気の子」である。しかし、天気の子の世界の異常気象は異常ではない、という認識が示される。人間世界での「異常正常」と神の、自然の「異常正常」が異なるという意味が一つではあろうが、「天気の子」は自然の方の異常を正している、という見方である。
良く考えてみると、天気の子の世界の異常気象は実は陽菜の心象の反映であった。それで自らがより困る状況になるというのもメタファーじみた物を感じるが、陽菜はあの世界では自然の神、その巫女(巫座=サニワ、よりしろ)の方に近く、荒ぶる神そのものである。両者は同一になっているので、どうしても陽菜の感性で見てしまうが。で、最後の3年続いた雨、良く考えるとあれもへんな話しではある。雨が3年続いても陸地が水没はしまい、海面が上昇したのだろう。でも伊豆諸島の帆高の街でその描写はない。でもまあ、物語的に考えればポニョのようなファンタジーでなければ、あの雨はノアの大洪水を思い出させる。「子供は何をやってもいいというメッセージを監督は伝えたいのでは」と私は考えたが、その子供が望んでいるのは人類社会への罰ではないか、監督は背後でそう考えている。あるいは神が、自然が考えているのもそうなのではないかと。雨は浄化の炎に限りなく近い。
あと、凪と陽菜の家庭環境や帆高についても考えてみたが、両者とも母親は死亡で父親が生きていてDVなのではないか?と想像してみる。陽菜の方の推理は楽で、あの世帯は元から一人親世帯であり、位牌やら仏壇やらもないので父親とは死別ではない。凪が自分のせいと言っているのは、陽菜の場合養護施設か何かに逃げる事は出来ても凪の場合離婚した父親に養育責任みたいな物があって連れ戻されるみたな恐れがあるのではないだろうか。それを杓子定規に解消しようとする警察に「自分達は誰にも迷惑かけてないのに」というセリフには、そういう響きを感じる。まあ他にもいろんな考察があるが、印象がまだリアルなうちに書きたいのは「あの世界の大人は子供をやさしく守る」ように感じていたけど、実はまったく逆で弱い立場の子供をとことん食い物にするきつい連中ではなかったか?という事だ。それに対する天罰、復讐、その権化である東京を大洪水で滅ぼすという、一種のソドムとゴモラなのではないかと。そう考えると舞台が東京なのは別に東京の子供へのアピールではなく、ただバビロンを焼きたかったかのようだ。
なんでこうネガティブな裏解釈みたいなひねた見方が生じたのかと言うと、ちょうど「夜回り先生」こと水谷氏が「疲れた」とのセリフをのこして自らのブログを閉鎖されたからだ。「夜回り先生」には不当に扱われ、食い物にされた子供達が悲痛な言葉や悲惨な最期が沢山出てくる。あの中で水谷氏が繰り返し訴えてきたことがあるのだが、世の反応は「子供達が水谷氏の著書を読まずに同じ質問、過ちをしているのに疲れたのだろうが、どん底であの本を読む人がいるのか?」と冷ややかだった。あるいは、あそこで厄介になる精神をやられた子供が相移転したのだろう、とか。そういう見解を見るたびに「それは水谷氏もがっくり来るわ」と思った。あの本が訴えているのは周囲の大人が子供達を食い物にしないようにしよう、健全に育てるようにしよう、悩みを聞いてあげよう、そういう輪を広げよう、そういう事であった。逆境にある子供が本を読む訳がない、そんなの分かっている、そういう事を期待している訳じゃない。日本は今貧困化が一層進み、ドロップアウトした子供が天気の子のように犯罪に巻き込まれたり裏社会の大人に食い物にされたりする現実が本当に増えている、それを新海誠がきれい事で済ますだろうか?子供が世界を変える、それは主観の変化でありうる事だが、けっして客観の変化ではない。最後の「それから数年」みたいな部分は幻想で、やはり二人はあの時に亡くなっていたんじゃないか、そんな事をどうしても考えてしまう。人に見せる作品が全てハッピーエンドでもなくてもいい、それはロミオとジュリエットが何度も何度もリメイクされている事でも分かる。
そうそう、すごい疑問だったのは、帆高は手錠を片手かけられていて、あの状況ならもう片方を陽菜にかけるのが物語上美しいと思ったのだが、最後までそうはなっていなかった。そりゃ相手の手がすり抜けるとかそういう設定はあるにせよ、あの無駄設定はなんだったんだろう。あと、エピローグで再会前に陽菜が祈っていたシーンも、あれなんだったんだろうなって思う。街を滅ぼした事への謝罪?世界を変えてしまった事への感謝?再会への祈り?でも祈る相手っているのだろうか、あれだけ祈る事の危険と無意味さを描写しておいて。再会場所が同じなど、エピローグは全体に都合が良すぎる。
もう一つ、君の名はラッドの名曲、「前々前世」で大いにヒットした。映画を見ると、あの曲が使われた場面はそれほど多くなく、他にもいい曲が多く挿入されていたと記憶しているが、CMのイメージの他に物語りの核心に迫る歌詞のため、そして歌詞が覚えやすいため今も覚えている。一方「天気の子」のテーマソングはほぼ「愛にできることはまだあるかい」だ、他もいい曲はあるが挿入歌はラッドが作って別の人が歌っているのがあるぐらい(あとは秋元の流行歌とか雨をテーマにしたクラシックとか。雨だれはちょっと嬉しかった、私が一番好きなショパンだ)。今回はラッドメンバーが映画の製作過程から関わってお互い意見を出しながらオーダーメイドしたという話を先日やっていた。にも関わらず、この歌の歌詞や言いたい事は印象にない。歌のための映画ではないと言っても、ちょっと上滑りしちゃったかなぁって感じはする。しかし歌詞を見ると言ってる事の内容はかなり私の感想に近い、ネガティブで内省的で諦観で限定的だ。別に愛で全て解決したぜ!的な前々前世ではないし、具体的な出来る事に言及はない。あとはやっぱり歌の完成度は低いと思う、テーマと歌手の方向性とのかみ合いに齟齬がある。まあラッドがどういうバンドか良く知らないけど、私らの世代だと尾崎豊とか森田童子とか中島みゆきとかヤマザキハコとか、好き嫌いは別としてそういう事を歌う奴は沢山いた。今の歌手ってあの当時で言えばユーミンとか桑田とかドリカムとか渡辺とかTMNとか、そういう方向の発展系で、こういう歌に向いた人が残ってない、のかも知れない。あるいは知らないだけ、商業に乗ってないだけかも。
作画で今作一つだけ気になったのは表情のディフォルメが結構進んでいた事、一番端的だったのは猫のアメで、場違いなディズニーっぽい描写だった。どこか天気を連想させる名前の中でもど真ん中の名前だし。アメは猫のように気まぐれだからかな。人物も基本はリアル寄りだが、帆高の照れ表情差分は漫画的表現が多く見られてかわいかった。まあ帆高のは分かるんだが、猫だけはどうしても違和感がぬぐえなかったな。
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2019/08/24 13:05:57
今、あなたにおすすめ