2014年10月26日
・NHKののど自慢をAMラジオで聞いていたら、「20年前から歌っていた曲です」と言う紹介から、いきなりイントロのピアノの和音のジャンジャンジャンジャンと言うリズムがはじまった。あ、この曲は堀内孝雄の「遠くで汽笛を聞きながらだな」と思って聞いていたら、”輝きながら~”と徳永英夫の「輝きながら」が流れ出して吹き出してしまった。このギャップの大きさもさる事ながら、名曲がはじまると思ったら肩すかしだなーと自然に思ったに「オッサンになったなー」と思った。あ、徳永さんのファンの方すみません、輝きながらも名曲です。ただ方向性が違うのね。
私は世代的には間違いなく徳永英明の方で、アリスは物心ついた時にはもう解散していた(と思う)。少なくとも新曲で話題になった覚えはない。「昴」が教科書にのってるぐらいだから、その良さもあまり良く分からなかった。古い男臭い歌って感じだったが、CDすら持ってない「遠くで汽笛を聞きながら」の歌詞って、YouTubeで聞けばほとんど覚えてるもんな。なんだかんだ言って名曲であり、また良さが分かるまで時間がかかった。
敢えて言えば私の時代は歌は「サビ」だった。AメロBメロサビという構成があると、サビを重視して、他がダメでもあんまり気にしなかった。でも、オッサンになってみると、AメロBメロの良さみたいなのが心に染みる。アリスとかの頃のサビって割と単調な繰り返しで、良さが分からなかった気がする。ま、それ以前にもう歌詞がね・・・今のは聞こえないよね・・・
・聞こえないといえば、ラジオで日本語の表記と発音の話を連載でやっていて、時々聞くだけだけど、刺激的で新鮮な話題だった。私は当然ながら「あいうえおかきくけこ・・・」という50音順の発音に慣れ親しんでいるが、日本でその表記が出るのはインドだかで学僧が学んできた比較的最近の導入システムであり、それ以前は「いろは歌」が表音文字のカタログ的な役割を果たしていた。日本に文字が入ってきた時は漢字であり、それらは象形表意文字であり表音文字ではなかったのね。で、漢字を音にあてた表音文字、仮名文字が出来た訳で、これで「発音がある程度分かる」ようになる訳。
ところが、初期の仮名文字である万葉仮名は様々な漢字が同じ表音文字に使われていたりしたし、50音のようにシステマチックな構成は取っていなかった(当たり前だが)。一方発音というは変遷する事が知られている。たとえば英語は『表音文字」であるにも関わらず、スペリングはネイティブでさえ間違えまくるほど一貫性がないのは、スペリング当時の発音と現在の発音がかわってしまったためというのが結構ある。問題は、「変遷はしただろうが、そもそもの発音はどうだったんだろうか?」という事ね。たとえば今は50音な訳だが、私よりちょい年上の人には「わ を ん」の列が「わ ゐ う ゑ を」だっただろう。法則性から言えばW行も子音と母音の組み合わせで「WA WI WU WE WO」な方が正しい。ま、そこらへんの国学の考古考証みたいなのをやっていた訳だ。
さて、その発音考証で使われるのには和歌が良く使われている。万葉仮名の由来が万葉集であろう事から分かるように、まず資料として入手が楽で信頼性が高いベーシックとして受け継がれてきたからというのもあるのだが、和歌の場合 57577という音節区分があるのが良いらしい。何故かと言うと、現代発音では2音節化してしまい、字余りになってしまう和歌を研究した所、特定の母音の使用だとか連続とかが必ず含まれる事が分かり、「あれ?これ当時は字余りではなかったんじゃね?」って分かったらしいのだ。ちょっと似ているのに聖書の複写があって、活版印刷が出来るまで、教会の大きなお仕事の一つは聖書の手による複写だった。しかし手描きだとミスが発生する恐れがある。んで、当時の聖書には校閲でミスを発見する係が居た。しかし、全部をそのまま読んでももちろんミスをなくす事は困難だし、人が文字を文字として認識していると、つい補完してしまってスペルミスなどを捜すのが困難になる。
なので、当時の聖書(というか今のもそうなんだろうが)は、特定行の特定順番の文字がどれそれである、みたいな現在のデジタルデーターのエラーチェックコードを仕込んである。仕込んだというか、まあそこをチェックすれば写し間違いはないだろう、と言える訳ね。ともかく、神の言葉を忠実に後世に伝えるというのは聖典の一大命題なので、そこらへんはすごい忠実。ただ、これは特に旧約聖書・ユダヤ教に関して言える事で、新約を含めたキリスト教の場合はちょっと違う。ユダヤ民族内部だけのローカルな宗教である旧約聖書では、文字もラテン語だけで良かったし、他の人が学びたければ言葉もヘブライ語習えよ!って事で言語と信仰は不可分だった。もちろん、それだとヘブライ語分からない人は学べないので翻訳が作られる訳だが、翻訳は翻訳であるという立場だったと思う。一応古代のヘブライ語なんかじゃさすがに分からないので、正典を決める会議なんかの頃はギリシャ語だったはず(そんな訳で古代ギリシャ語は割と残っていたため、ヒエログリフの対訳になっていたロゼッタストーンが出た時にはヒエログリフ解読がなされている)。一方新約聖書はやっぱり正典になった時点ではギリシャ語だったと思うが、翻訳もまた正しいってスタンスだったはず。
だから、中世の教会は文字をそのまま残すとともに、言語もそのまま残す必要があり、ラテン語というのをネイティブで話せる人がずっといたんだったかな?しかし暗黒時代にそこらへんが段々失われていく様は、もの悲しいというか怖い物がある。現在のラテン語、あるいは復元されたヘブライ語は、そこらへんをベースに作られた人工言語であって、間に自然言語としては途絶があったはず。インディージョーンズでジョーンズパパ(ショーンコネリー)がジョーンズ(ハリソンフォード)にラテン語教育を施しているシーンが最後の聖戦で出てくるんだが、ショーンコネリーはバラの名前という作品で中世の僧侶もやってる訳で、そこらへんはニヤリとするサービスだ。
大分大分脱線というか迂遠な話をしたけれど、私が気になるのは「さて、じゃあ今の日本語の歌にそういう記録的価値、忠実性、資料的意味があるんだろうか?」って事である。もっと言うなら「現世日本人である私でも大変聞き取れねえような野蛮な歌だか呪詛は資料的に有害なぐらいじゃないのか」という主張である。いやね、言語の乱れは過去から何度も年寄りになると言うからいいの。言語は変遷するものだし、それが生きた言語であるのだから。しかし、歌がさ、今もうわっかんないじゃん。正直堀内孝雄もメロディーに完全には乗ってない歌詞もあるんだけれど、今ほどではない。現在は記録媒体も多いから、恐らくデジタル化されたデーターは文明崩壊でもなければ消えないから、ある意味デジタル化の時代でもって上で書いたような文化の消失と復元問題はなくなったかに思われる。しかし、一方で当時の聖書すらデジタル化したが言語側が変質して意味変化なども起こしている。ぶっちゃけサルがデジタル化されたデーターを再生出来たとしても意味が分からないと思うのね。その端的な例が「歌」ではないかと。ちなみに、聖書は文字で聖典、あるいは部族の記録を残す事に成功したが、文字文化がない文明での記録は語り部による言語記録であり、その記録を確実にするために何をやっているかと言うと音節と音程をつけて「歌」にしている。たとえばアイヌは文字はないがユーカラだのカンナカムイだのは「歌」という形で受け継がれてきたと聞く(そして、その正確性は実は結構高い。多分文字データーにするより簡易で確実だったと思われるが、横の伝達に問題があるし、トータルとしての人間が受け皿だから、保存性には問題がある)。今の歌は単なる娯楽に身をやつしていて、全然ひかれる物がない。その背景には、歌がもつ記録性、言語的な人間への関与が失われているからではないだろうか?
遠くで汽笛を聞きながらに関して言うと、イントロのピアノの入りは、もう曲というより一種のリズム把握のためのリハなんかでやる奴と一緒というか、定番を超えた何か、である(元曲はもう少し入ってる。多分のど自慢で簡略化したんだろう)。それだけに普遍性があり、また多くの曲が使っていて、名曲もあればそうでないのもある。イントロドンをやると十人十色の曲を出しかねない。
・ようつべ見ると剃刀の広告が多いのだが、最近頻繁には顔洗わないので一つ気になっている事がある。剃刀が長い髭で詰まりやすいのだ。毎日ツルツルに剃ってればいいけど、2日に一度、3日の一度になるとよく詰まって切れなくなる。原因は3枚刃で、刃と刃の間隔が狭いので、間のヒゲの抜けが悪い。というか、これ根本的に抜けない構造じゃないか?って思う。これだといくら刃の耐久性があっても頻繁に刃を交換する事になるので、2枚刃に戻ろうかとも考えている所。まあ、間隔が狭い方が二枚刃であってもそり残しが少ないような気もするので難しいんだけど。
・自転車のフリーハブが壊れた。壊れてはじめて「スプロケの歯飛びにしちゃおかしいと思ったらここか!」って分かった。20年ぐらい使えたので、もう耐久性に関しては充分満足だけれど、それだけに壊れる物という認識がないので分からなかったのだ。そういえば逆転時のカチカチ音が結構弱くなっていた気もするなぁ。シマノはフリーハブは非分解指定なのだが、工具さえあればちゃんと分解出来るようです。修理も破損がなければグリスアップでなおるようですが、さっすがにぼっろぼろなのでホイールっさら8S化して交換したい所。
・仕事は巨峰の出荷と収穫、腰が痛いっす。
Posted at 2014/10/26 18:20:56 | |
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