2015年11月03日
・大工道具の有名なブログ(ニッチだなー、メジャーなんだかマイナーなんだか)で、安全装置が形骸化して使いづらかったり大手企業で強要される割に理解が進んでない問題について、「安全装置は使用者を守るのか雇用主や製造元を守るのか」という問題提起がなされていた。特に説明書で○○をしないでください、なんかの注意書きは企業の責任逃れじゃないかという話もあり、私もそう思う事は時々ある。たとえば農薬の使用方法には完全防備宇宙服でヤレみたいな感じになってるけど、実際問題それは無理だ。メーカーとしてはもちろん農薬の被曝基準なんてもん書けない(知りようがない)ので分かるんだけど、劇薬(ハンコないと使えない薬)以外の比較的安全だと思われる物までテンプレのように書いてあったりもする。PL法やモンスタークレイマーがいる世界で企業に無限責任を押しつけた結果かも知れないが、企業側も自衛するだけではなく安全性を積極的な商品力にして欲しい気もする。
たとえば自動車のABSやエアバッグなんか別に走る分には関係ないけれど、事故や事故防止に今ではなくてはならない技術だ。今はバイクですら付いてる。それは企業の広報や商品性の改良を行った結果で、もし20万円のオプションだったらそりゃためらう人も出てくるだろう。今後は自動衝突軽減システムとかスキッドコントロールがその路線で出てくるだろうな。と同時に、やっぱり安全装置に頼りすぎる事への不安もある。やっぱり刃物は使い方を間違えれば危険であるべきものであって、安全ナイフなんかで調理するもんでもないだろうから。
・自動運転について段々現実味を帯びてきた。衝突軽減装置の実用性能はメーカー間で相当開きがあるのが暴露されちゃったけど、その中でも遅れている方の日産とかが積極的だと「大丈夫かよ」って思ってしまう。少なくとも日産が出しても買う人いないんちゃうかな。本命はスバルかかえるトヨタだが、系列のダイハツもたいした事ないしな。さて、現在あるのはクルーズコントロール・車線維持・衝突安全なり前走車警告である。もし電車のように割としっかりした道を走るなら簡単で、次ぎが高速道路、最も困難なのは一般道だろう。モノレールなんかはすでに自動運転やってる。ただ、リアルワールドではどんな予期しない事が起こるかが不明である。遥かに高度な装置を発展させてきた飛行機ですらが度々事故を起こしていることを考えると、メーカーの本音としてはフェイルセイフで人間が常に監視して責任持ってくれないと出したくないって所じゃなかろうか。もちろんだが、そんな自動運転に意味はないというか、自動運転が人間様にお伺いを立てた時に、もうドライバーなんて置物に化している事請け合いである。本来的にはドライバーと共同で運転能力をあげるべきという事を自動車メーカーが忘れて技術誇示に走り出しているように思える。
哲学的な問題も一つあげておこう。AIによる殺人が起こるか否かという問題で、AIには人を殺す積極的理由もないので、そうプログラムしなければ人は殺さない訳だが、緊急回避の板挟み問題で殺人をしなければならなくなるという課題がある(まあ殺人でなくても。要はアシモフの三原則の発展命題である)。たとえばAIカーが信号待ちをしていたとする。後ろから暴走トラックが突っ込んできていて、横断歩道には歩行者がいるとする。ここで歩道に逃げたら、トラックは今度歩行者をはねてしまうだろう。また、自車が歩道に逃げる際に歩行者を死傷させる恐れもある。かと言ってただ待っていたら乗員が追突により死傷するかも知れない。
法律的には緊急回避による他者への損害は(正当だと認められれば)刑事罰の対象にはならないと聞く。正当防衛と同じ範疇らしい(結果的に殺人になったとしても)。まあ民事上の問題は別にあるとは思うけれど、リアルワールドに暮らすという事は、そういう不条理な二択を突きつけられたりする訳で、そうした時にAIカーはどうすべきかというのは哲学の課題である。でも、安全装置の正しいあり方について突き詰められない人類には重すぎる気もする。こういう課題こそAIのサポートが必要かも知れない。もっとも自動車メーカーらへんは、多分こういうのは哲学的には捉えず、統計的に処理するんじゃないだろうかな。つまり、「AIカーの全面導入」と「在来ドライバーによる運転」を統計的に比較なりシミュレートしてみて、死者数が減るからAIカーは無罪、みたいにね。実際VWのテストモード問題ですら2009なり2011あたりから手を染めていたけど判明しなかったそうで、これが高度なAIプログラムになれば何が起こったのか裁判所なんてアナクロな所が判断出来るはずがない。メーカーの言うなりだし、その予防線としてAI無罪、ドライバー有罪みたいな法律を先に作るんだろうな。
・美術館で「橋本雅邦と四天王展」を見てきた。地元出身の西郷弧月の他、横山大観、下村雅山、菱田春草ら、明治初期に日本近代化の流れの中で、西洋の影響で日本画も変化していく最先端を行った人達である。日本画というと狩野派のきらびやかな感じや幽玄な水墨画のイメージがあり、実際初期の作品は夏草図という屏風絵が飾ってあるのだが、そこから急速に西洋の風を取り入れつつも日本的な良さを持った作品になっていく様は面白い。画題も面白いし、遠近法も独特な良さがあって、今そこらへんに新作であっても違和感はないだろうなと思われる。ただ、当時はこの手の曖昧な画法は評価されなかったみたいで、四天王同士はもちろん良さもお互い理解していたようだが、評価が分かれたみたいだ。実際は習作の静物画なんかは、ボタニカルアート的な写実性もあり、決して細密画やデッサンが出来ないという事は無かったようだが。
ほとんどの作品は掛け軸か屏風絵で、かなりの大作もあり、見ていると気宇壮大にさせてくれる良い作品ばかりだった。曖昧画法はどこか印象派の趣もあるが、かならずピントが来ている対象物が一つある。スケールの大きさには遠近感の存在が欠かせないと思うのだが、日本画の場合掛け軸という細長いフォーマットを使うので西洋画のような消失点を設けた遠近法では表現が難しい。また墨という独特の濃淡を持つ画材が発達しているため、遠景・近景を墨の濃淡、輪郭線の有無で表現しており、カメラのピントのようなぼかし表現もある。色彩画もあったが、岩絵の具なのかやさしくも鮮やかで、東山魁夷などが好きな人達の気持ちがちょっと分かった。
ただ、彼ら四天王のその後の人生は明暗が分かれた、というか師である橋本雅邦が長生き、横山大観は大成、下村もまあ当時の普通までは生きたが、菱田は病弱で早世、西郷弧月も急逝している。作品は正直言って皆割と似ているので、ぱっと見で誰というのは私にはなかなか当てられないのだが、一番若い菱田が画力はありながら幼さというか純朴さがあって特徴的、遺作に近い屏風絵はまるで現代作品のような写実性と、森を俯瞰で見るセンスに素晴らしい物がある。一方の弧月は才能を認められ師の娘をめとりながら一年で離婚、放浪生活の末に菱田の死に影響を受けて台湾に出るも病死と、なかなか悲劇的というか放埒な生活が垣間見える。美術館では細かく書いてなかったが、どうやら雅邦と折り合いが悪くなったみたいで、実際山水画とか見ると一番日本画の技法を引きずってる感じがあるし、少しだが衒気な感じを受けないでもない。台湾の絵はどちらかと言うと油絵のような感じがする。放浪中に良く書いたという一匹だけ飛ぶ鷺の絵が年と共に背景が暗くなるのが暗示的である。もし、広い屋敷に住んでるなら、ああいう絵もいいんだろうなぁ。
・部屋の片付けは苦戦中、仕分けるグッズも買ってきたが、物を捨てないとな。猫がよく邪魔に来る。干しぶどうはあと少しで全部干し終わる。試験的に発色を良くする食品添加物を入れて見て様子見。コスト的にはそれほど苦しくもないけれど、どうも別の処理液成分と反応している様子もあるので、余裕があれば処理液は分けた方がいいのかも知れない。ただ発色が変わるかは分からない。元から黒いしねぇ。
Posted at 2015/11/03 21:30:11 | |
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