2021年10月25日
・選挙が近づいてるが、もうどこも入れる気がしなくて困る。政見放送聞いててもどの政治家も期待出来ない。岸田は金融課税放置するの決めて再分配の社会だとか寒々しい事言ってるし、維新も野党批判してて何でも反対しているような嘘の印象操作してるし、旧民主系は反省が足りない。与党野党含めクソの出来レースだ。選挙なんて入れたい人に入れるんじゃなくて、こいつにはやって欲しくないってのを選ぶ不人気投票だと言うけれど、みんなやって欲しくないよ。ほんと落選投票を導入して欲しい。
そして地方選挙も今回あるのだが、選べない。いつも選ぶ方がいたのだが、ここ2回落選していて明らかにテンションが足りない。選挙する気がないのかな?って感じがするし、手法も政策もやる気が全く感じられない。地元で集会があったらしいが、応援に来ていた人の動画だけアップされてて、その内容がまた酷い。とあるアホしか使わない道路の拡幅とか(地元名士様老害の要求はほんとこればっかり。道路広げるコストを人にかけろや。)、公明とか相乗りで応援してて旧民主系だけど地方だとそういうの無いから!みたいなバカにしてんのかって感じ。実際、ここは政策政党で選んでないのよね。いや、ほんと嫌ならそれをそう言えばいいだけじゃんと。
だから今回は支持しないんだが、じゃあ他はどうか。候補者Aは力はあるのは分かるが、そもそもこの選挙やるのはこの人が他の選挙のため辞任したからで、また信託されようとか厚かましい。道議を通せないのでNG.ところが、残り二人は別の議席を投げ出して出馬していて、こいつらも出世欲の塊すぎて嫌い。もうさ、定数割れのままでいいんじゃないの?こいつらのために選挙開くコストがムダ。そして、こいつらに前の選挙で投票した有権者は反省して?ともかく、選挙ではっきりとこの国が悪い方向へ悪い方向へずり落ちているのを見ていると精神がすり減る。
・日産のとあるエンジンのベルトの取り回しがすごい長いの一本で無理の塊でつくづくセンスないなぁと思った。さすがプラグ交換でインマニからスロットルから外させるだけの事はある。ベルトが長くなってるのは補器類まで一本で無理矢理回そうとした結果で、一本で「オルタ、ウォポン、コンプレッサー、ジェネレーター」まで回すため、取り回しも長くなってアイドラーが5個もつくハメになってる。これ普通にベルトもう一本たしゃいいだろと。クランクプーリーを長くしたくないんだろうが、もうテンション管理やばい事になってるのが分かるし、速度要求から補記のプーリーもでかかったり小さかったり差が激しい。
・北海道へのチケット買った、はじめて地元飛んでる飛行機に乗るので楽しみだ。予定だと初日で小樽まで行って、二日目で札幌泊まって戻る感じになりそう。
・渋沢栄一の話が思ったより面白くてラジオ番組聞いたり本を読んでいるが、この人の本質は起業家ではなくて投資家というか銀行のような印象を持った。500も起業を同時並行で起こせる訳はなく、有望な社会に資する事業に広く集めた資本を投資して社会を良くするというのが理想的な合本主義・資本主義だという感じ。
そこで課題になるが、商業とか企業活動では利益増大というのが至上命題で道徳というのは存在しないため暴走して、昨今の新自由主義的勝者全取りの格差社会になってしまう。そこで渋沢は論語という倫理規範を持ち出して、算術(商業)と相補的なシステムに合本主義を理論付けしようとした。これが一番上手く行ったのが実は戦後の日本の復興期であったのではないかという指摘が面白い。明治大正の日本人の商道徳は欧米から腐ってて中国以下だと見なされていて、実際古い小説だと起業家=山師、香具師みたいな扱いなのはあれ半分は本当な訳だ。たしかに社会インフラに民間投資が進んで植民地化を避けられたという面はあるけれど、やっぱり大半の地方の庶民はその利益の外にいた。戦後の復興が本当の国民への再分配だったと言えるだろう。
もっとも、それはバブル期以降の金融市場の暴走で銀行が調達して庶民の預金を元手に社会活動に投資するより、金融市場でマネーゲームで増やしたり、それを個々の会社が資産運用と称して行って銀行、ひいては庶民の倫理審査を無視できるようになって廃れた。そもそも銀行がそこまで高邁な存在であったのかは疑わしいし、渋沢の理想も後から美化されているんじゃないかという疑いはある。ただ渋沢本人は知行合一というか障害者施設とかに一番金を突っ込んでおり、社会活動家としての側面は間違いない。なんか渋沢家は多数の企業の創立に関わったが、それの株式で得た元手で次の起業に投資する操業をしていたので、相互にグループ化したり利益を継続的にもたらしてはいない。そこが岩崎三菱や三井と言った財閥系と違う所だ。なんなら化学肥料をはじめたのも渋沢の投資あってからだそうだが、そこは日産系でまだ残ってるけど当然渋沢と資本的な繋がりはもう無い。
見ていて思ったのは、論語という倫理だけに甘えず、それを商業活動と結びつけた点はルターの宗教改革に近い物を感じる。カルヴァン派とか世俗勢力の活動を常に聖職者が下に見ていたのは、ちょうど農民や町民が侍に搾取されていた江戸時代と構造が似ている。渋沢は農民生まれで後に幕府に仕える事にはなるのだが、本質的にはえらぶってるだけの士族を嫌悪していたようだし。ただ、士族が新政府に倒されてみれば、結局新政府も官僚制度を使いこなせず内部抗争していたので見限って下野して民間から日本を助けたという形になっている。きっと官僚は「俺は500どころじゃない数の起業に関わった」と思ってるだろうが、渋沢も財務省高官で後に銀行という制度を創設してやってるので、スタートしては似ている。ま、官僚がちゃんと起業に関わる事なんてまずないけどな。
さて、渋沢の功績はいいとして、彼の再評価は新自由主義の暴走をどうにかしないといけないという世界各国政府の思惑の一つの回答であったからだとは思う。しかし、これはかなり危険な感じがする。都合がいい答えのために引用されたり美化されているんじゃないか?って部分と、倫理を持ち出して「美しい国にする」とか先にほざいた奴にロクなのはいないからだ。倫理に従った奴ほど食い物にされるのが現在だし、資本主義が暴走した背景には倫理自体が発達してこなかった面がある。それが過去の論語を取り上げて良くなるとは思えない(もっとも、論語自体が過去の堯瞬政治の焼き直しではある)。渋沢自体も銀行機能と自信の知見で相克したのであって、直で論語を経営者が読めと言っている訳ではない。
そうは言っても今の起業の本で最初に「社会こうあるべしという志からスタートしろ」ってのは無いから、あるいはそういう起業家に期待すべきなのかも知れない。渋沢で面白い話として、貧困者施設を作った話をしたが、彼は事業が成功したから毒抜きとして寄付をした訳ではなく、事業と並行してやっていた点がビルゲイツとは違うと言っていた。結局、ビルゲイツがいくら社会活動に投資しても、それは儲かる構造を作ってえげつない戦略でライバル追い落として社会から資本を搾り取ったのの毒抜き再分配、もっと言うと偽善とか免罪符な訳だ(すごい悪く言ってます)。別にゲイツは社会活動したくて企業した訳じゃないと言われるとその通りで、そういう所が勝つのも自然で、逆に言うとCSR活動とかがいかに重要なインジケーターなのかという所かね。
・あとは日本の高齢化を感じる日々。上は政治家、企業トップから下はそこらへんで危ない運転してるおばあちゃんまで高齢者のしぼんだ脳味噌で社会の変革はおきないなって思う。ぼやきだらけになった。
Posted at 2021/10/26 13:49:59 | |
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