
今回で、このブログ(井川線と天浜線)は
最終回になります。
乗り鉄、撮り鉄を楽しんだ井川線と違って、天浜線では
天竜浜名湖鉄道(株)の本社がある天竜二俣駅に行き
転車台&
鉄道歴史館見学ツアーに参加しました。
何れの画像もクリックで
拡大します。
まずは、天浜線の始発駅でもあり、適当に宿を見つけて泊まった
掛川市内を早朝から
駆け足で観光しました。
市のステンドグラス美術館が開館する9時までの時間に、
掛川城を外から観ました。新幹線から望むことはありますが、落ち着いて眺めたのは初めてかも知れません。次回は登城したいです。
お目当ての
ステンドグラス美術館には、
19世紀にイギリスとフランスで制作された古典的な作品が収集されており、早朝ということもあって、見学者は当初、我々二人のみでゆっくりと観ることが出来ました。


続いては、天竜二俣駅を目指します。時間に余裕があるので、オール下道でアクセスします。その間、天浜線の線路の近くを行ったり来たりしていましたが、タイムリーに撮り鉄をする機会はありませんでした。
こちらが
天竜二俣駅の正面です。駅舎、ホーム(上屋込みで)は
登録有形文化財に指定されています。

駅前には
C58が、そして駅構内には
キハ20と
ナハネ20が佇んでいました。どちらも少々くたびれています。

キハ20色塗装列車が入ってきました。
TH2102です。右奥にはこれから見学に行く
扇形の機関庫が写っています。
駅構内を横切った所から、機関庫の方を見たところです。一旦構外に出て機関庫にアクセスします。
再び構内に入って、本社社屋裏を通って
機関庫に来ました。奥から
4本が車庫、次の
2本が洗車場、一番
手前の1本がピットです。
その洗車場 そしてピットです。

ここで、先ほど天竜二俣駅に到着した列車(
キハ20色に塗られたTH2102)を転車台に載せて転回、そして降ろすという
デモンストレーションを見せてもらいました。
現役の転車台です
! これは動画で撮りました。
転回して降りるところです。
転回中の動画は
こちらを参照下さい。
しばらく転車台周辺で撮影タイムが設けられましたので、転車台を中心に、天竜浜名湖鉄道株式会社の
本社社屋とTH2102を絡めて撮ってみました。冒頭の写真もこの時間に撮りました。

一番奥に見えている門型の機械は、
自動洗車機です。この機関区の自慢のひとつです。
この見学ツアーもうひとつのウリは、
鉄道歴史館です。その中には、
1987年3月14日まで国鉄だった二俣線が、
天竜浜名湖鉄道株式会社の天浜線となる瞬間を捉えた記念品も展示してありました。


因みに、国鉄民営化によりJR7社が発足したのは、
この直後の4月1日でした。
駅標、柱用駅標も沢山展示してありました。
二俣線当時の終点(起点)だった
新所原駅の駅標もありました。二川は今でも東海道本線の隣駅として在りますが、現在の天浜線では新所原駅の
隣駅は知波田駅ではありません。知波田駅との間に2駅が新設されており、隣駅はアスモ前になっています。もとより、
会社が異なる二つの新所原駅が存在する現在では、
この表記の駅標は存在しないものではありますけど・・・


ご参考:現在の駅標は
こちら。
天竜浜名湖鉄道株式会社の本社社屋裏の通りです。裏の通りの奥に見える給水塔が、裏通りの昭和感を増幅させてくれています。
通りを挟んであった洗濯室は実際に使用されており、干してあるツナギの作業着も演出ではなく実際に使用しているものだそうです。洗濯室の隣の浴室は流石に(SLも無いので)使用されていませんでしたが、そこには、各種ヘッドマークが飾られていました。

こちらは帰り道で撮ったホームです。駅舎と共に
登録有形文化財となっています。
柱や梁には、1911年に米カーネギー製鋼会社や、1929年に八幡製鉄所で造られた古レールを転用したものがあり、貴重な遺構をなっています。
大河ドラマに登場する
瀬名(家康の妻)と信康(家康の長男)が、この地(二俣城)に居を構えていた時に
自害させられたことが、この春、話題になりました。恐らく、それを意識してのことだと思われる天竜二俣駅の最新版駅標がありましたので、最後にこれを撮っておしまいとしました。
二俣線の成り立ち、歴史が気になったので、少し調べてみました。
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明治時代の鉄道創成期、東海道本線の鉄道敷設計画では、地形の特徴、コスト等を勘案したのでしょうが、
軍部も含めて現在の天浜線に相当する
東海道迂回線の構想は無かったようです。
然しながら、
満州事変を契機として、浜松近傍の海岸路線が
艦砲射撃を受け東海道本線寸断という事態を想定するようになった模様で、昭和の初期から迂回線の整備を開始し、
昭和15年には掛川~新所原に至るルートが完成しています。
このように戦時対応策として完成した二俣線ですが、結果的に、東海道本線が寸断され
二俣線を迂回路線として運用したのは、昭和19年の東南海地震時の
約1週間、そして終戦直前の空襲での損壊時に走らせた
迂回列車5本、という実績しか残っていないようです。
従って、二俣線を東海道本線の迂回線という目的に限定するならば、新線を敷設した意味は殆どなかった、と考えられています。
出典:竹内正浩著 ふしぎな鉄道路線 NHK出版新書
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- 完 -
【関連のブログ】
◇
井川線と天浜線(その1:千頭まで)
◇
井川線と天浜線(その2:井川線で奥大井湖上駅往復・・・プラス)
Posted at 2023/11/27 15:58:33 | |
ドライブ | 日記