
テンションをもたせた一枚の小さな鋼材をハメ込みで組み上げ、勘合保持のための要所に使用する。
ここ、脱着のときによくハズれて、ぴょーんと飛んでいっちゃうんですよね。
で、探し出してまた組み直し。
日本人はそこそこ器用な人種ではあるとおもうけど、ご多分に洩れずわたしなんかですら、こういうのはちょっと工夫してサッサと組み上げてしまうのです。
ですが、もともとの設計上はこれすら、小手先でサッサで済むはずもなく、おそらくは、この部分のための専用工具とか存在することでしょう。
というか、仮に日本人がこういう部分の設計をするなら、そもそもこうした強度的に脆弱な構成を嫌うでしょうし、のちのちの利便を考えて樹脂の靱性に依存するはず。
どうにも、考え方の違いがあらわれるところですね。
むかし、オーディオ取付の諸般の部分でも似たような構成をみかけたとき、玄人からは「本国ではこんなところそもそも脱着なんてしないしね」と説明をうけ、なるほど、と思ったものでした。
でもいまは、それはウソだなあと思っています。
いろいろイジってみて、実感するのですね。
エンジン部位近くのカバー類なんかも、かなり強めの勘合で仕上がっていて、そこらへんをはずすときも、そもそもどの角度からどの程度のチカラ加減でアプローチし、どこを養生して事後はどこらへんにシリコンを塗布してなどなど、いろんなことに細かなルールをもうけた前提が、つまり、ドイツ車の組み立てにはすべて某かの「方法」が置かれてるんだということに気付くのです。
そうなるとこれは、利便の問題だったのではなく、そもそもの「考え方」の違いが産み出した結果ということにほかなりません。
もちろん、日本のクルマのような「合理」のほうが、わたしたち日本人には馴染みやすいことにかわりはなく、そういう「妥協」をゆるさない発想は、わたしたちにはまず、あきれた「頑固さ」だと見えてしまうことでしょう。
一方で、日本人でありながら、ここらへんに文句を謳わないばかりか、同調してこれを「当然だよ」と強調するひとたちも、むかしからたくさんいるのも事実です。
でもこの「頑固さ」に共鳴するそういうひとたちの事情背景には、つまりコレが「飯の種」になるたぐいの関わりをもつという、そのヒトたちの前提があったりするのも事実で、ちょっと斜めに聞いておかないと危ない場合もあるのです。
お金持ちで自分がこの手のことに直接は携わらないから、誰かがかわりに済ませて、その対価の高額を認める糧、という流れのことですね。
これ、払うほうも受け取るほうも過分であったことを認めるために、相互に「擁護の念」が生れるのはしょうがなくなり、そうなればそれはもう尋常普通ではありませんから、公平感も客観性も希薄になります。
つまり、外車は割高、の、方程式です。
なので、こらへんの人種のことはまあ、どうでもいいですし、また、こういうヒトたちを認て憧れたり、雑誌のフェラーリ特集とかの類にかぶれるひとたちの浮かれた言い分にも興味はありませんので、引き合いにはしません。
で、そういうひとたちの外車への「あたりまえ」崇拝を差し引いてもなお、なのですが、わたしは、ここらへんの考え方、つまり、クルマはメーカーが発信するコンテンツであり、その責任はメーカーにある、とするモノツクリの態度は、その実、すばらしいことだった、とは思っていたのです。
いた、と、過去形になるのはほかでもありませんが、もういまのフォルクスワーゲンには、こういう姿勢はなくなってしまったなあ、と感じているからにほかなりません。
こうなってしまうと、野に放たれた「合理」は、ただの「偏屈」にすぎないモノに化けてしまって、救いようもなくなってしまうのですね。
屋根落ち、液晶故障、レンズの異常劣化...
抱いていた崇高な合理の精神が貫かれているのなら、いまのような欧州車のいろんな問題点、放置されて済まされているはずもない、という現実が、彼ら側から真の「合理」が失せてしまったなによりの証拠です。
わたしは、いまのフォルクスワーゲンに(限らないのですけれど)、ほんとうの意味での顧客視点でのモノツクリが復活することを願う一方で、いまの現状を軽蔑もするのです。
Posted at 2017/03/24 08:11:29 | |
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