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くまとっどのブログ一覧

2017年07月12日 イイね!

むかし谷田部、いま城里、もっと前は・・・?

むかし谷田部、いま城里、もっと前は・・・?日本車が急激な進化を遂げた、1960年代。

その高速性能を評価する為に完成した、テストコースがあります。




日本自動車研究所 高速周回路

通称「谷田部」です。


開設当初の1960年代。

日本車は、どこまで世界の名車達に追いつけたか。

それを確かめる手段として、谷田部は速度記録挑戦の舞台となりました。

谷田部での初挑戦は、この車です。





プリンス R380-Ⅰ 


1965年にチャレンジしています。

この時、6つの記録を更新したですが、、終了近くに左前輪がバースト!

200マイルの記録だけ未達成のまま、挑戦はあえなく終了しました。

しかも、これらの記録。

谷田部のコースが、FIA未承認だったということで・・・

国際記録に認定されずに、国内新記録に留まってしまいました。






そして1967年、今度はニューマシンR380-Ⅱで再チャレンジ。

谷田部のコースも、晴れてFIA公認となっています。

R380-IIは、前回を上回るハイペースで記録を更新し、ノントラブルでトライアル終了。

ここで達成した7つの記録は、今度こそ国際記録更新となりました。





トヨタ 2000GT

1966年に、チャレンジしています。

こちらは、丸4日間を5人のドライバーで連続走行。

その結果、13個の記録を更新しました。



そんな谷田部も、つくば学園都市再開発の為、2005年には移転。

その後の様子は、みん友のカエル好きさんのブログにて紹介されていますので、そちらをご参照のほど。

伝説のバンクは、一部だけ残っています。



そして現在、高速周回路は、ここにあります。





城里テストコースです。

同じ茨城県内にあります。

でも、あまりその名前を聞かないですね。

以前の様な、最高速トライの舞台にならない様にしているからでしょうか。



そして、話は遡りまして。

谷田部完成以前は、どこでテストをしていたのか?

それがここです。




通産省 機械技術研究所 東村山自動車試験道路

東京都東村山市富士見町、現在の東村山中央公園にありました。

写真は1974年です。

工事着工は、1940年。

途中、戦争による中断があり、完成は1953年でした。

コースの様子は、こんな感じです。





最高速は100km/hくらいだそうです。

ここは、よく雑誌社がテストに使っていました。

私がドライバー誌を読み始めた1970年代後期、テストはここでした。

このコースの横には、西武多摩湖線が走り、さらにその横には多摩湖サイクリングロードがあります。

中学生だった1980年代初め、たまたまこのサイクリングロードを走り、コースを目の当たりにして感激したのを覚えています。

おそらく、もう当時でも閉鎖後だったかと。



ここは隣を電車が走り、周りに壁もないので、中が丸見え。

これでは機密保持もあったものじゃないので、自動車メーカーは使いにくかったでしょうね。
Posted at 2017/07/12 10:07:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年07月09日 イイね!

代名詞なれど、日本初ではなかった様です。

代名詞なれど、日本初ではなかった様です。大むかしの学生時代、お掃除屋さんでバイトをしていました。

よくビル掃除とかやってますよね、あれです。

でも、お仕事はビル掃除だけではないのです。

新築店舗の引渡し、っていうのもあります。

店舗が完成すると、掃除をしてから引渡しをするんですね。


で、ある日の新築店舗の現場にて。

工務店の方から言われました。


「掃除屋さんのボンゴ、移動しといて」


へっ? ボンゴ?

うちの車は、これなんですけど・・・







日産 バネット


当時、バネットは「◯◯バネット」というのが正式名称でした。

「◯◯」には、販売していた3チャンネルのブランド名が入ります。。

「サニー」 「チェリー」 「ダットサン」という具合に。

写真はサニーバネットですが、バイト先のは、どれだったか・・・

丸目4灯のハイルーフであることは、間違いありません。

他の社用車に、ブルーバードバン(910)があったので、「ダットサンバネット」だったかな?


まぁ、いずれにしても、ボンゴでもなければ、マツダでもありません。

でも、どうやら、バネットのことを言っているらしい・・・

なに故にボンゴ??


あとで聞いてわかりました。

昭和40年代、ワンボックスバンで圧倒的なシェアを誇っていたのが、この車でした。




初代ボンゴ


なんとも愛嬌のある、顔立ちですね。

真ん中にある「m」を模した旧エンブレムも堪りません。

この車は、1966年発売、800ccのRRでした。

あっ、そんなに小さかったのですね。




そんな訳で、ワンボックスバンと言えば、即ちボンゴ。

そこからいつしか、ワンボックスバンは「ボンゴ型」とまで言われる程になったとか。

もはやワンボックスカーの代名詞だった様です。

あっ、丁度これも同じ様な話ですね。




ヤマハ メイトも・・・



スズキ バーディーも・・・

ヤマハの「カブ」、スズキの「カブ」って呼ばれてしまうのと、同じですね。



ということは、日本初のワンボックスカーは、ボンゴだったのでしょうか?

実は、もっと先に販売されていた車があるのです。




日野 コンマース

ボンゴ誕生から遡ること、6年前の1960年。

800ccのFF車でした。

今では一般的なFF方式。

当時はまだ、耐久性、振動で技術が確立していませんでした。

そんな訳で、あまり数も出ず、あえなく生産中止に・・・

現在、残った車両は2台だけだそうで。

日野が自社ミュージアム、日野オートプラザに展示している1台と、個人所有の1台だけだとか。


ということは、これが日本初のワンボックスバンでしょうか?

確かに、普通車では日本初でした。

ですが、軽でもっと先に販売されたものが、あるのです。




くろがね ベビー


こちらも、コンマースと同じ、1960年発売。

ですが、コンマースは8月、ベビーは1月でした。

東急くろがね工業のベビーは、販売当初は利便性が評価され上々の滑り出しで。

ですが、翌年、スバルからサンバー誕生。

中小メーカー故の販売網の弱さで、販売数もなかなか増加せず・・

1962年、ベビーは生産中止。

東急くろがね工業も会社更生法を申請したことで、これが最後の車となってしまいました。



ちなみに、ボンゴ。

今も現役ですよ。

最近はほとんどハイエースになっているので、それほど見かけませんが・・・

Posted at 2017/07/09 13:39:54 | コメント(6) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2016年07月03日 イイね!

日産 V12エンジン なぜ GRXは「3」なの?

日産 V12エンジン なぜ GRXは「3」なの?日産R382

1969年日本グランプリの優勝車。

日本のモータースポーツ第1期の頂点を極めた車です。

この後、アメリカ Can-Am進出も目論んでいた様ですが、排ガス問題の高い壁に阻まれ・・・

搭載していたエンジンは、これです。



日産 GRX-3

V型12気筒 5954cc

580psのスペックを誇っていました。


で、ちょっと気になったのは、このエンジン名称。

GRX-3です。

なぜ「3」なのでしょう?

ということは、「1」と「2」があるのでしょうか?


確かにこのエンジンには、ここに至るまで2種類ありました。

まずは、GRX-1

これは、R381に搭載して69年の日本グランプリ参戦用に計画されていました。



ここで1つ疑問が・・・

R381は、68年の日本グランプリ参戦用です。
(結果、優勝もしました)

なのに、なぜターゲットが69年?


R381には、V12エンジンの他に、革新的な技術を盛り込んでいます。



エアロスタビライザー

可変式2分割リアウィングです。

それまで使われていた空力パーツは、これでした。



ダックテール

後端についている、壁の様な部品です。

ここに走行風を当てて、後輪にダウンフォースを発生させます。

コーナーでは有効な、このダックテール。

ストレートでは、ただの抵抗になってしまいます。

何ぶん、壁ですから。

理想は、コーナーリングで必要な時だけ効果が出る、空力パーツです。


そこで誕生したのが、このエアロスタビライザー。

サスペンションのストローク量に応じて、角度が変わります。

ストレートでは、抵抗にならない程度に寝かせて、

コーナーでは、ダウンフォースを出す為に立てているのです。

しかも、このパーツの凄さは、ウイングが2分割になっていること。


コーナリング時、車はロールするので、内側のタイヤが浮きます。

エアロスタビライザーは2分割なので、イン側のウィングをより立ててタイヤの浮きを抑えているのです。

最初のR381の写真を見ると、左右別々動きをしているのが、よくわかります。

しかも、このエアロスタビライザー。

ブレーキング時には立てて、空気抵抗を利用したエアロブレーキにもなるのです。


R381はこちらの開発に重点を置いた為、エンジンは既成品を購入となったのです。



なので、68年優勝車は、シボレー(ムーンチューニング)のV8エンジンが使われました。

エアファンネルが8本になっています。


68年グランプリ後、GRX-1が完成。



V型12気筒 4963cc

520ps

ドライバー後ろのエアファンネルが、12本になりました。


翌69年、フジスピードカップでは優勝。

しかしNETスピードカップでは、新型V8 5000ccのトヨタ7に敗れました。

この頃、大きなレギュレーション変更があったのです。



FIAによる可変ウィングの禁止です。

F1では、一足早く1967年頃から使われ始めていました、可変ウィング。

ですが可変式故に、強固に固定出来ない為、走行中に破損するトラブルが多発しました。

その為、1969年よりFIAにて可変ウィングは禁止されました。

JAFもそれに倣い、可変ウィング禁止となったのです。


元々、可変ウィングありきで設計されたR381。

それを外してしまえば、ダウンフォースが不足するのは必至です。

また、新型トヨタ7は、排気量が同じ5000cc。

車体をウイングなしの新型にしても、もう少しアドバンテージがほしいところです。

そこで誕生したのが、GRX-2

GRX-1の5000ccをベースに6000ccにしています。



このGRX-2をベースに、各部品を6000cc用専用設計にしたものが、GRX-3です。

余談ですが、写真は日産のエンジンミュージアムにあるものだそうです。

これの説明板には「GRX-2」と記載されています。

資料によっては、GRX-2は開発過渡モデルの為、テスト終了後は廃却されており、現存していないとありました。

これは、あるいは「GRX−3」?

メーカー自身が間違えるとも思えないですし・・・

機会を見つけて、確認したいと思います。


今回調査するまで、R381にはシボレーV8しかないと思っていました。

ですが、2012年、劇場以外では公開しないとされていた「栄光への5000km」がテレビ放送されまして。

そこに映し出されたR381を見て、驚愕しました。



ファンネルが12本ある!

すなわち、12気筒のR381が存在する、ということを初めて知ったのでした。

石原プロの意向で、テレビ放送もDVDもしないと言われていた「栄光への5000km」。

まさかテレビの無料放送で見られるとは・・・

感動でしたねぇ。
Posted at 2016/07/03 08:55:49 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2015年12月11日 イイね!

群馬なのにスバルじゃない町

群馬なのにスバルじゃない町12/5〜12/13まで、「前橋昭和展覧会」が中心商店街で開催中です。

今回が1回目となる、このイベント。

取りあえず、思いつくものは全部突っ込んじゃおう!的に数々のイベントが展開されています。

その数や16個!

その中の1つで「昭和の自動車展」が12/13に行われます。


群馬でノスタルジックカーのイベントがあると、一押しなのはやっぱりこれです。



スバル360

それは当然ですよね。

群馬生まれで、日本最初の国民車ですから。

今見ても、徹底的な合理主義設計には感服です。

例えば、この丸いデザイン。

決して可愛らしらを狙ったものではありません。

設計の思想は、最大の容積で最小の表面積。

大人4人を乗せられる容積、鉄板の使用量を最小にして軽量化させる表面積。

それらを高度にバランスさせたのが、あのデザインなんです。

昨今のアイキャッチの為に多用するギミックの様なものとは、雲泥の差です。


ですが、群馬県でありながら一押し車がスバルでない町があります。

それが、前橋。

過去2回、前橋でのイベントを見学に行きましたが、2回とも一押し車はこの車でした。



ダイハツ ミゼット

あれっ? 

なんで大阪のダイハツ?


・・・ですよねぇ。

いやいや、前橋にもちゃんと理由があるんですよ。

それが、これ。



ダイハツ車体株式会社

元々は、1960年にダイハツ前橋製作所として設立されました。

戦後10年余りが過ぎ、少しずつ復興のきざしが見えてきた日本。

そんな中、移動手段もオートバイから軽自動車へと移り変わってきました。

とりわけ安価だった3輪軽トラックのミゼットは、その波に乗り爆発的大ヒット!


増大する需要に、大阪、池田の工場では全然追いつけません。

そこで、関東甲信越向けとして群馬に工場が建設されました。



そんなダイハツ車体も、2004年に本社を大分へ移転。

それに伴い、前橋工場は閉鎖となってしまいました。

そして、社名もダイハツ九州株式会社になりました。


現在のダイハツ車体跡地です。



けやきウォークという名の、ショッピングモールになってます。


工場閉鎖から10年余り。

以前は「ダイハツ跡地のけやきウォーク」という看板が目につきました。

ですが、現在買い物に来る多くの人は、このモールの前に何があったか、忘れてしまっているかもしれません。


そんな理由で、前橋の人はミゼットに並々ならぬ愛着を持っているのです。

実は、現在関東甲信越にある車両は、大阪生まれではなく群馬生まれかもしれませんよ。
Posted at 2015/12/11 01:05:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2015年09月03日 イイね!

消えた日本グランプリ優勝車

消えた日本グランプリ優勝車1969年に開催された、グループ7では最後となる日本グランプリ。

この年を境に、日本の前を環境問題、オイルショック等の壁が立ちはだかり、なんだか60年代熱狂祭りの清算みたいな70年代に突入することになります。


そんな、いわば祭りの集大成的な69年日本グランプリの優勝車が、この日産R382。

6000cc, V12, 600ps以上を叩き出すモンスターです。

実はこの優勝車、一時期行方不明になっていました。

ですが、それから30余年後、アメリカで発見されています。

今はレストアされ、座間のヘリテージ・コレクションに展示されています。


当時、そもそもこの車をアメリカに送ったということも曖昧だった模様。

なのに、なぜアメリカへ?

実は設計時より、日本グランプリ優勝の先として、アメリカCan-Am参戦も視野に入れていたそうで。

その事前調査として現地に送り込んだらしいのです。

ですが、程なく1970年、日産 レース活動凍結・・・。

R382は、渡米の目的を失ってしまいました。



そんなある日、たまたま見ていたYoutube動画に、私は驚愕しました!

映像は、アメリカ日産 1970年代のCMです。

アメリカも同様、当時はオイルショックに直面しています。

「Datsun Saves」とばかりに、低燃費性をアピールしています。

注目は3本目のCM。






一瞬映りましたね!

日本グランプリ優勝車のR382!!


当時アメリカ日産では、日本のレース結果が報道されないのか、その価値が理解出来ていなかった為、手に余っていたそうです。

そうは言っても、巨大な6000cc, V12エンジン。

只者ではないってことは、感じ取れた様です。

あるなら使ってみない手はないだろうと、きっとこのCM出演と相成ったのでしょう。


これを見て、ほんとびっくりしました。

もしも、R382行方不明事件を知る人が、当時このCMを見ていたら、もっと早く発見出来たことでしょうに。
Posted at 2015/09/04 00:09:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

プロフィール

「@中島乗り さん UDの意味、時代と共に変わりますね。私が学生の頃、先生からは「ユニフロー ディーゼル」の略だと教わりました。」
何シテル?   05/30 12:53
クルマ、バイク、自転車と、自分でコントロール出来る乗り物が好きです。 それも日本製が好きです。 (自分で買えそうもないものには、興味が持てなくて) ...

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