
“Racing was my life…For me it was essential.”
「レースこそ、我が人生。私にとってはそれは不可欠なものだった」
~ニキ・ラウダ~
「映画とは、退屈な部分を取り除いた人生である。」
~アルフレッド・ヒッチコック~
現地時間の5月29日、ウィーンのシュテファン大聖堂でラウダの国葬が行われた。
まるでオーストリア全土が泣いているかのような雨模様の中、
多くのファンが参列し、メルセデスAMGのルイス ハミルトンとバルテリ ボッタスはもちろん、ゲルハルト・ベルガー、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ジャン・アレジといった懐かしい顔もそこにあった。
76年のニュルブルクリンクでの大事故の際、ラウダを救出したアルットゥーロ・メルツァリオの姿も。(事故当時、イタリア人のメルツァリオだけがフェラーリのハーネスを瞬時に外すことができたという)
91年に離婚したマルレーン・クラウス女史が現在のラウダの妻と並んで立ってい
たのが印象的だった。
棺にはフェラーリ時代のカラーリングが施されたヘルメットが置かれた。
オレンジに近いレッドにGOODYEARのデカール。
スモークのバイザーにはMarlboroとNIKI LAUDAのロゴ。
やっぱりグッドイヤーとマルボロはラウダ時代のF1を象徴している。
ラウダ急逝以来、関連する多くのニュースを目にした。
この人のようなビッグネームがこの世を去るとき、
やはり「惜しむ声」が聞かれるけれど、今回は特に顕著に思える。
この人は多くの人々に尊敬され、
そして愛されていたんだな・・・とつくづく思った。
ラウダの経歴に関してはネットでも情報が豊富にある。
しかし私が知る限り、そこにはさらにレーシングドライバーNiki Laudaの、
実にドラマチックなストーリーが隠されている。
ラウダの名前が一躍有名になったのは74年にフェラーリで活躍してからだ。
この年、実にポールポジション8回!(全15戦)
優勝は2回に留まったけれど、トップドライバーの仲間入りを果たした。
この事実だけから判断すると、
フェラーリ入りを果たしGPドライバーとして順調な滑り出しをしたかのように見えるが、実はそうではなかった。
確かにフェラーリ1年目としては上出来だっただろう。
しかし前年までフェラーリは長い間「暗黒時代」が続いていた。
64年にジョン・サーティースがタイトルを獲得したのを最後に、
9年間も栄冠から遠ざかっていた。
だからラウダ自身もフェラーリからの話があったとき、
諸手をあげて喜んだわけではない。
「(73年まで在籍していた)BRMはもう瀕死の状態だった。でもフェラーリも暗
礁に乗り上げていたので、どうするべきか悩みぬいたよ」
結局フェラーリのほうが「まだ望みがある」と判断し、移籍を決意した。
そしてフェラーリ入りしたあと、
いかにラウダがチームの復活に向けて精力的に仕事をしたかを、
引退後のジェームズ・ハントが語っている。
「ニキは全力でフェラーリを立て直した。
疲れを知らないかのようにテストを続け、レースを続け、
フェラーリを現在のポジションまで盛り立てたのだ。」
テスト嫌いのドライバーがよくいることは知られているが、
ラウダは「技術的な興味と、自分の意見や要望を取り入れてもらえる嬉しさからテストは積極的に参加している。」と著書に書いている。
「フェラーリのラウダ」がGPシーンでメジャーになって迎えた1975シーズン。
ここから黄金時代が始まるわけだが、開幕当初は6位、5位、5位、リタイアと目
立った結果は残していない。
レジェンドの始まりは第5戦、モナコGPだと私は思っている。
しかしレース前から問題があった。
第4戦のスペインGPで大事故が発生し、公道を利用するレースが問題視された。
それはすなわち第5戦のモナコGP開催の是非に及び、
今では考えられないことだが、
ほとんどのチームがボイコットの意思を固めていた。
なんとフェラーリチームもその方向で考えていたという。
ラウダはその考えに反対し、モンテゼモロにもエンツォ・フェラーリにも
「レースには出るべき」とハッキリ伝えている。
結局全チームが出走することになるのだが、
今度は一転して御大エンツォ・フェラーリからゲキが飛ぶ。
「フェラーリはこの20年、モナコGPの勝利から遠ざかっている。
フェラーリの全社員が勝利を切望している!」
対してラウダは「これで私とレガッツォーニは余計なプレッシャーを感じざるを
得なくなる。」と。
しかし予選ではただ一人1分26秒台を叩き出し、
2位のトム・プライス(シャドウ)に0.69秒もの差をつけポール獲得。
「あんなにモナコのコースを速く走ったことはない。もう時計を見るまでもなか
った。」というほど渾身の走りだったという。
そして迎えた決勝。
「朝起きて外を見ると雨。これで0.69秒もパァだ・・・」
ウェットコンディションにすっかり滅入ってしまったいう。
ところが、実際にグリーンシグナルが点灯すると
ラウダの心配はまったくの杞憂に終わることになる。
「すべてがうまくいった。まるで地球が自分を中心に回っていると錯覚するほど
だった。」
とはいえ決して楽勝ではなかったらしい。
コクピットのちょうど膝あたりに付けた緩衝材のパッドから繊維が飛び出し、
「コーナーごとにチクチクやられて気が狂いそうになった」とか、
レース終盤にはオイルポンプのトラブルで油圧が下がり
「本能的にコーナーではクラッチを切ってエンジンを労わった」など、
信頼性が高いフェラーリ312Tでもトラブルフリーとはいかなかった。
実際、フィニッシュ直前にはマクラーレンM23を駆るエマーソン・フィッティパ
ルディに2.7秒差にまで詰め寄られていた。
「あと1周あったら、フィッティパルディに優勝をさらわれるところだった。」
ラウダ最初の著書「ニキ・ラウダF1の世界」で「もっとも苦しかったレース」
として、このモナコGPを挙げている。
レース前からのゴタゴタ、ウェットコンディション、
そしてレース中のトラブルなど、勝利を掴み取るまでのハードルは多かった。
ラウダは勝利に執着しない人で有名だった。
「もっとも重要な勝利はいつのものですか?」という問いに
「それはもっとも最近の勝利だ。」と答えている。
自身の優勝トロフィーを「1年間洗車無料」と引き換えに
ガソリンスタンドにポンとプレゼントしてしまったのは有名なエピソードだ。
しかしそんな勝利に執着しないラウダでも、この75年モナコGPの優勝は違った
ようだ。
「勝った瞬間、私は勝利の喜びに圧倒された。
レースに勝つことがこんなにも嬉しいとは思わなかったし、
その後も経験していない。」
(おそらく76年オフ時点でのもの)
あれから44年。
ラウダが天に召されたが5月20日。
それはモナコGPのレースウイークだった。
そして苦しい展開を強いられながらも勝利を掴み取ったのは
ラウダが最後に所属したAMGメルセデスのルイス・ハミルトン。
このハミルトンらしからぬ苦しい状況での勝利に、
75年のラウダの勝利が重なった。
そして2位に入ったのはフェラーリのセバスチャン・ヴェッテル。
これを偶然と言うべきだろうか。
二人ともこのレースのためにNiki Lauda仕様のヘルメットを持ち込んでいた。
私にはまるでラウダが1−2フィニッシュを決めたかのように見えた。
GPの中でも特別なモナコGPが開催される週に旅立ち、
さらにそのカラーリングを施したヘルメットを使う二人が
1−2フィニッシュを決める。
死してなおドラマチックなストーリーを展開する。
ニキ・ラウダという人は、どこまでドラマチックな人生なのか!
ラウダがブラバムアルファロメオをドライブしていた79年、マシンの信頼性は低
くはリタイア続きだった。
私が愛読していたAUTO-SPORT誌にも、
ラウダが登場することは少なくなっていた。
そんな中、1枚の写真が誌面の片隅にあった。
ネイビーのParmalatキャップにサングラスで、頬杖をついいているその写真の下
にはこう記されていた。
「やっぱり絵になる男ニキ・ラウダ」