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2016年08月01日 イイね!

『F-1ドライバー列伝』Vol14~Jim‐Clark

『F-1ドライバー列伝』Vol14~Jim‐Clark 私の周囲にはいろんなスポーツの専門家がいる。
野球しかりサッカーしかり。
そういう人たちに必ずする質問がある。

「歴代最高の選手と思うのは誰?」

一方でクルマ好き、モータースポーツ好きが集まって「では最高のF-1ドライバーは誰?」という話題になったとき、私はこの人の名前をあげることにしている。

 久々の『F-1ドライバー列伝』で取り上げるこの人、ジム‐クラークである。

 ただ、私が歴代最高のドライバーとしてジム‐クラークの名前をあげると、
多くの人は意外だという表情で「え?ラウダじゃないの?」と言う。
ラウダは私があらゆるスポーツを通して「もっとも好きな人物」である。
 
 クラークの活動期間は1960~68年までのわずか8年である。
しかし数字に表れるその実績は驚異的と言える。
出走回数72回に対してポールポジション33回、優勝回数25回。
もちろん1963年と65年にはワールドチャンピオンに輝いている。
数字的なことや、天才的なエピソードは他のサイトを参照していただくとして、
私はチャップマンのコメントを引用したい。


クラーク(左)とコーリン‐チャップマン。60年代F-1を象徴するワンショット。
ドライバーの才能を見抜く天才だったチャップマンをして史上最高と言わしめた。


 私が小学生のときに読んだAUTO‐SPORT誌の「C‐チャップマンインタビュー」には
’思い出の中で生き続けるジミー’という見出しで次のような記事があった。
そのインタビューは1975年のオフに行われたものらしい。

 チャップマンからすれば、73年に3度目のタイトルを獲得し、
当時「最高のドライバー」と言われたジャッキー‐スチュワートでさえも
「スチュワートはひとつのチーム全力投球した最初のドライバーだった。
金の掘り出し方もうまかったが、ドライバーとしてはジミーの足元にも及ばない」と言っている。

 さらに・・・
「ジミーはどんなマシンに乗せても速かった。
一日にスポーツカーレース、F-2、そしてF-1の三つのレースを走ることも珍しくなかった。
そしてときにはその三つすべて勝つこともあった。
今のF-1のヤツらは、プラクティスが終わるとモーターホームの中に隠れてやがる。」
となかなか辛辣である。


こちらも実は象徴的な一枚
ナショナルカラーのロータス49、フォードコスワースDFVエンジン、
そしてジム‐クラーク・・・すべてが「古き良き時代」か・・・


 しかし良き日は長く続かなかった。
1968年、7月4日、クラークは帰らぬ人となった。
ホッケンハイムの森を抜ける高速コーナーでロータスのF-2マシンはクラッシュ。
車外に放り出されたクラークは即死だったという。
(当時、シートベルトのせいで逃げ遅れて焼死するという事故が多発したため、
シートベルトは義務付けではなかった)
この事故は未だに原因が明らかになっていない。
「子供がコースを横切った」などという説もあるが、
半世紀たった今も解明されていないということは、永久に真実が明らかになることはないだろう。


私がF-1に興味を持ち始めたころ、
クラークは既に故人となっていたので、その走りはリアルではない。
しかし死後も語り継がれるその天才ぶりは
今も色褪せることはない。
 
 そしてクラークを語る上で欠かせないのは
その天才的なドライビングとは裏腹に、マシンを降りると実に素朴で愛すべき人柄だったこと。
フライングスコット(天駆けるスコットランド人)の異名そのままに、
ジム‐クラークという人は神の化身なのかも知れない。
Posted at 2016/08/01 21:36:45 | コメント(6) | トラックバック(0) | F-1ドライバー列伝 | 日記
2012年11月24日 イイね!

『F-1ドライバー列伝』Vol.13~Patrick-Depailler

『F-1ドライバー列伝』Vol.13~Patrick-Depaillerスカイドッグさんに刺激され、久々の『F-1ドライバー列伝』
今回は「職人的ドライバー」の典型、パトリック-ドゥパイエ(Patrick-Depailler:デパイエ、デパイユなどの表記もある)である。

この人は私がF-1に興味を持ち始めたころから、既にレギュラードライバーとして定着していた。
ティレルのNo2ドライバーだったものの、既に実力は認められていた。
その証拠にそれまでエースドライバーだったロニー‐ピーターソンがロータスに移籍したあと、
チームオーナーのケン-ティレル(故人)は若手のピローニ(故人)を獲得し、
デパイエをエースとしてレースに臨んだ。
フルシーズン参戦5年目にして、ティレルという名門チームで晴れてNo1ドライバーとなった。

話は飛ぶが、このドゥパイエとほぼ同年代で、ヨーロッパF-2で武者修行をしていた生沢徹氏が以下のようなことを著書に書いている。
「ヨーロッパの市街地レースは道が曲がりくねっている上に、路面が恐ろしく滑りやすい。こんなコンディションで日本人が勝つのは絶対に無理だと思った。しかし向うの連中、特にパトリック-ドゥパイエなどのフランス人ドライバーは神業のような走りだった。」

そしてこの生沢氏の言葉はドゥパイエの初優勝で真実であることが証明される。
1978年モナコGP。
鬼神の走りで追い上げるブラバム-アルファのニキ-ラウダを振り切って
見事GP初優勝を上げる。

「勝てそうで勝てない」という印象が自他共にあったらしく、
初優勝のコメントは「こんなにも簡単なことだったのか」というものだった。
それにしてもモナコGPで、しかもモナコを得意とするラウダを振り切っての初優勝というあたりがこの人らしい。

ピーターソンやヴィルヌーヴのような爆発的な速さはなかったが
玄人受けする堅実な走りの人だった。
マシン開発にも定評があった。
1979年のリジェが開幕2連勝でスタートしたにもかかわらず
シーズン後半になって失速したのはドゥパイエがハングライダーで怪我をして
テストができなくなってしまったからと言われている。

リジェからアルファロメオに移籍したのも、そのドライビングはもとより
開発能力を高く評価されたからであろう。
しかし、F-1に復帰したばかりのアルファロメオは
デパイエの力をもってしても上位入賞はおろか完走さえも困難だった。

そして迎えた1980年8月1日。
翌週に控えたドイツGPに向けてのテスト走行。

運命と言うにはあまりに残酷な結末だった。
テスト走行だったために最低限のオフィシャルしかおらず
事故の瞬間は誰も目撃していなかったという。
享年35歳。

今、この歳になってドゥパイエの画像を見ると、
この人はかなりカッコイイと思う。
当時まだ30代だったにもかかわらず、貫禄があってしかも渋い!
以前good-eyeさんからいただいた70年代F-1のダイジェスト版(BBC放映)に
くわえタバコで愛用のGPAヘルメットを磨いているドゥパイエの姿が映っている。
ピットでタバコを吸うドライバーなんて今では考えられないが
当時はこんな「男臭い男」がF-1ドライバーだったのだ。


ドゥパイエがこの世を去って2年後、アルファロメオはポールポジションを獲得するまでになる。
もしドゥパイエが生きていたら、なんらかのカタチで歴史にその名を残しただろう。
決して主役になることはなかったが、
ときに主役を食うほどの名脇役であり、
70年代を語る上でなくてはならないドライバーだったことは間違いない。
Posted at 2012/11/24 09:42:46 | コメント(3) | トラックバック(0) | F-1ドライバー列伝 | 日記
2010年10月09日 イイね!

F-1ドライバー列伝Vol.12~Ayrton-Senna

F-1ドライバー列伝Vol.12~Ayrton-Senna映画『アイルトン-セナ~音速の彼方へ』を観て来た。
私は特にセナファンというわけではなかったのだが、この映画を知った瞬間から「観たい!」と思った。きっとあの時代には今のF-1にはない何かがあって、それをまた観たくなったからだろうと思う。

というわけで今回のF-1ドライバー列伝は、あのアイルトン-セナ。

日本でも大人気となり、F-1ブームを巻き起こしたのは間違いなくセナのおかげだ。
その輝かしい経歴は今さらここで語るのは野暮というもの。
紛れもなく今や伝説のドライバーだ。

そこで今回はセナのドキュメンタリー映画を観た感想などを書いてみようと思う。

結論から言えば良い映画だった。
セナファンならば是非とも映画館に足を運ぶことをお奨めする。

しかし悲しい映画でもある。
寂しいとも言える。
セナファンではない、むしろどちらかと言えばアンチなほうであった私が観てもそう思うのだから
ファンであった人はそれなりに覚悟はしたほうがいい。

ロータス時代の映像も観ることができる。マシンがホントにカッコイイ!
思えばセナはJPSロータス最後のドライバーということになる。



ただ、この映画が良いと思えたのはセナを神格化していない点だった。
「神」という言葉こそ出てくるが、少なくとも私にはどこぞの国のメディアのように
いたずらにセナを神格化しているようには見えなかった。
お宝映像も満載で、特にあまり我が国では放映されなかったJPSロータス以前の映像は圧巻だ。
今でも語り草になっている1984年のモナコGPの映像を観るにつけ
やはりセナは天才中の天才であることが分かる。

では何故、この映画が悲しく、そして寂しいのか。
それはセナという稀代の天才ドライバーが
果たして幸せだったのかと疑問を抱かざるを得ないからだ。
あまり具体的に書くと映画の核心に触れるので省略するが、
その輝かしいキャリアとは裏腹に、アイルトン-セナという一人の人間は
我々凡人が思うほど幸せではなかったように思えてならない。

映画の中でも明らかに精神的なバランスを崩していると思われるインタビュー映像もある。
私の知り得る限り、セナという人物はF-1ドライバーには珍しいくらい純朴な人柄だったと思う。
それ故、傷付き、悩み、もがき苦しんだのではないだろうか。
その類稀なる才能も、F-1という巨大ビジネスの荒波も
すべて一人の若者が背負い込んでしまったようにも見える。

映画の終盤はセナが亡くなった94年のサンマリノGPの映像が流れる。

初めて観るものだった。
しかし、まるでセナがタンブレロで命を落とすのが決まっていたかのような印象さえ受ける。
あの日、セナが天国へ行くのは誰も止められなかった。
稀代の天才ドライバーの最期は神様が決めたのか。

最期にステアリングを握ったウイリアムズ時代。
マクラーレン時代と一転して白の面積が多いスーツになった。
私はなぜかこのスーツの色にセナの運命が決まっていたかのように思えてならない。



当時、私にとってセナの事故死は驚きに他ならなかった。
ひと昔前と比べて大幅に技術が進歩していたあの時代に
セナのようなチャンピオンクラスのドライバーが命を落とすことなど有り得ないと。

しかし現実にセナは帰らぬ人となった。

そしてその現実はF-1の安全神話の崩壊も意味していた。

セナの事故以来、F-1では死亡事故は発生していない。
歴史的に見るとこの事実は大きな皮肉めいたものを感じるが
それについては不特定多数の人が見るネット上では控えることにする。

あの94年以降、F-1の安全性は大幅に向上した。
しかし一方でラフファイトは増える傾向にある。
今シーズンもテレビを見ていて「あっ!」と声が出てしまうケースが何度もあった。
果たしてこのままでいいのだろうか、などと考えてしまう。
それは今私が走っているシリーズにも言えることだ。
F-1とサンデーレースを同列に考えることはいささか勘違いだろうか。
いや、安全性にF-1もサンデーレースも関係ない。
安全に「やり過ぎ」はない。
参加者全員で安全を図った上ではじめてレースは魅力あるものになるのではないだろうか。

そう、レースは魅力溢れるスポーツなのだ。

映画のオープニングとエンディングに流れるセナの言葉がまさにそれだった。
それがどんな言葉か知りたい方は、映画館へ足を運んでいただきたい。
Posted at 2010/10/09 23:41:14 | コメント(11) | トラックバック(0) | F-1ドライバー列伝 | 日記
2010年02月22日 イイね!

F-1ドライバー列伝Vol.11~Jochen-Rindt

F-1ドライバー列伝Vol.11~Jochen-Rindtgood-eyeさんがご親切にケーブルTVで放映された70年代F-1の番組をDVDにダビングして下さった。「オレは観てると眠くなってくるけどHataさんなら楽しめるかと思って」とのことだったが、私にとっては眠くなるはずはなく、何度でも観てしまうほどのお宝映像満載だった。

その中で昨日いただいたDVDにあった1970年というシーズン。

この年は長いF-1の歴史の中でも、恐らく忘れることのできないシーズンだったと思う。その理由は長くなるので今回は割愛するが、このF-1史上屈指の印象的なシーズンにタイトルを撮ったのが今回『F-1ドライバー列伝』で取り上げるヨッヘン-リントである。

F-1にそれほど興味のない人でもリントの名前はご存知かも知れない。
「死後チャンピオンが決まった史上唯一のドライバー」なのだから。

ただ、私も昔のF-1通を気取っているが実のところリントのことはほとんど情報がない。
F-1に興味を持ち始めたころにはリントは既に故人となっており
80年代のF-1雑誌などでも不思議と話題になったこともなかった。

そんなわけだから、今回のDVDは非常に興味深いものだった。
なんたってリントのロータスが走っているわけだから。
確かにダイジェスト版でその走りを観たからといって、そのドライバーのすべてが分かるはずもないが、1970年のシーズンにおいてGOLD LEAFロータス72とリントのコンビネーションは最強だったと言える。
余談ではあるが、あのニキ-ラウダにとってもリントはアイドルであり英雄だったという。
そのことはラウダの著書にも記されており、まだレーサーとして駆け出しだったラウダは
同じオーストリア人ということもありリントとは面識があり
事故の知らせを聞いたときは「とても悲しかった」と書いている。

恐らくモンツァでの不幸な事故に遭わなければ
リントは数回チャンピオンになっていたのではないだろうか。
当時のロータスは他チームを一歩も二歩もリードしており
その後の10年間でも一時的な不振はあったものの常に上位に名を連ねていたのだから。


現在のF-1の原型とも言えるロータス72。GOLD LEAFカラーが美しい。

何かの本で読んだ記憶があるのだが、「歴代最速のドライバーは誰か?」という話題になったとき
必ずと言っていいほど挙がる名前がヨッヘン-リントだという。
確かに一度でもワールドチャンピオンになったのだから名前が挙がるくらいは当然だが、
活躍したのは1シーズンにも満たない(シーズン途中で事故死)ということを思えば驚異的だ。
ワンラップの速さなら、あのジム-クラークをも凌ぐとさえ言われている。

しかし現代と比べて恐ろしく信頼性が低く、シャーシ性能の劣るマシンで勝つのは
ただ一発の速さだけでは到底為し得ないものだろう。
速さだけではなく、卓越したマシンマネージメント能力も兼ね備えていたに違いない。

映画「POLE POSITION」の中でもリントの映像がある。
優勝したあと大勢の人達が彼のロータスに群がるが
リントはそれを険しい表情で掻き分けて行く。
視線の先にはリント夫人の姿があった。
ようやくリントは喜びに満ちた表情になり、二人は抱き合う。
何度観てもこのシーンは切なくなる。

ヨッヘン-リント
1970年9月5日没
享年28歳
Posted at 2010/02/22 21:31:54 | コメント(7) | トラックバック(0) | F-1ドライバー列伝 | 日記
2009年10月02日 イイね!

F-1ドライバー列伝Vol.10~Didier-Pironi

F-1ドライバー列伝Vol.10~Didier-Pironiフェルナンド-アロンソのフェラーリ入りが正式に発表されたらしい。

今回の移籍はアロンソがルノーに加入する前から決まっていたらしく、
公然の秘密のようなニュアンスがあったのも事実だろう。
どうも「ああ、やっぱりね」という空気がある。

「アロンソ、フェラーリへ移籍」のニュースを見て、真っ先に思い出したのが今回の『F-1ドライバー列伝』で取り上げるディディエ-ピローニだ。

1978年、名門ティレルからデビュー。
しかしマシンの戦闘力不足もあってティレル在籍の2年間はそれほど目立った成績は挙げられなかった。

そして80年からリジェ入り。
そこからピローニの才能が開花する。
ベルギーGPで初優勝を挙げ、モナコGPではリタイアに終わったもののポールポジションを獲得した。
確かに多少ドライビングは荒っぽいところはあったが
3年目でここまでの走りをすればフェラーリからオファーがあっても不思議ではない。

当時トップチームだったリジェに移籍し才能が開花した80年。
グラフィック的にも最高にカッコ良かった。



そして翌年の80年、F-1挑戦4年目にしてフェラーリ入りを果たした。
ところが・・・
当時誰もが驚いたことがあった。

それはリジェ入りする前から既にフェラーリとの間に「密約」があったというのだ。

ということは、まだ1勝もしていなかったピローニに、
フェラーリ陣営はその才能を見出していたことになる。
最近知ったことなのだが、実はこれには裏話があって、
本当はリカルド-パトレーゼが「内定」していたというのだ。
パトレーゼ自身にもそのことは伝えられていたが
直前になって「内定取り消し」の憂き目に遭う。
そのときパトレーゼは「自分はフェラーリと縁がない」と悟ったという。

移籍した81年はチームメイトのヴィルヌーヴと比べて成績は振るわなかったが
翌82年はヴィルヌーヴと互角の速さを見せた。

そして運命のサンマリノGP。
「チームオーダー無視事件」、「ピローニ裏切り事件」などと言われた一件。
これについてはwikipediaをはじめ、多くのサイトに書かれているので割愛するが
ピローニもヴィルヌーヴも既に故人となった今、真相は永遠に分からないだろう。

1982年のワンショット。
第12戦以降は出走できなかったにも関わらずランキング2位でシーズンを終えた。
もしドイツGPでの事故がなかったら・・・。



私個人としてはピローには類稀なる才能を持ったドライバーだと思っている。
生きていたら恐らくプロストの前にフランス人初のチャンピオンになっていただろう。

しかし運命に翻弄された人だったように思う。

1982年というシーズンは長いF-1史の中でもっとも「血塗られたシーズン」だった。
ベルギーGPでヴィルヌーヴが壮絶な死を遂げ、
そのあとのカナダGPではリカルド-パレッティが事故死している。
さらに後半戦に突入したドイツGPではピローニ自身が大クラッシュに遭ってしまう。
このシーズンに起きた三つの大事故は間接的な部分も含め
すべてピローニが関わっている。

パレッティの事故ではポールのピローニがスタートミスで止まってしまい、
後方からスタートしたパレッティはそれに気付かずフルスロットルで追突した。
ピローニ自身の事故は豪雨の中、プロストのルノーに追突し大破したものだった。
プロストが引退するまで雨のレースを嫌っていたのは
この事故がトラウマになっていたからとも言われている。

82年ドイツGPでの壮絶な事故現場。
ピローニは一命を取り留めたが、二度とGPの世界に戻ることはできなかった。
当時カーボンモノコックを採用していたのはマクラーレンだけだった。



その時点でポイントリーダーだったにもかかわらず、
この大事故でピローニはドライバー生命を絶たれることになる。
その後ピローニがレーシングマシンでレースに出ることはなかった。
(F-1マシンのテストは何度かしていた)
それでもスピードに対する情熱は衰えることはなかったらしく、
数年後AUTO-SPORT誌の片隅にピローニがパワーボートレースに転向したというニュースがあった。

しかし血塗られた運命はピローニを執拗に追いかけた。
パワーボートに転向した数ヵ月後、ピローニ最後のニュースは
「ピローニ、パワーボートで事故死」というものだった。

70~80年代の名門チームを渡り歩き、才能溢れるドライバーだったピローニ。
伝説となったヴィルヌーヴの影に隠れる存在だったかも知れないが
そのドライビングは紛れもなくトップクラスだった。
しかしこの人ほど波乱万丈の人生を歩んだ人もいないかも知れない。
ヘルメットのカラーリングと共に、私にとって忘れられないドライバーの一人である。
Posted at 2009/10/02 21:29:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | F-1ドライバー列伝 | 日記

プロフィール

「@ぼうんのう さん、バッテリーとエアコンまでやれば、走り出してすぐに効果を体感できますよ(^^)」
何シテル?   06/04 11:05
アルファ156 2.5V6で走ってます。 家内用にGTV3.0V6。
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