
F1界から訃報が届いた。
F1の名門ウイリアムズの創立者であるフランク ウイリアムズ氏が26日、天に召された。
ウイリアムズというコンストラクターについて、今さら説明するまでもないだろう。特に日本ではホンダエンジンでタイトルを獲得したことで、知名度は高い。
1980年代、ホンダ第2期のF1参戦で、エンジンを供給したのはスピリットだったけれど、いわゆるトップチームとしてホンダのエンジンを使ったのはウイリアムズが最初だった。
恐らくこの頃からF1を観始めたファンにとって、ウイリアムズは既にトップコンデンターでありマクラーレンやフェラーリ、ロータス等と肩を並べる「強豪」という印象だったと思う。
しかし、私がF1に熱狂し始めた70年代、ウイリアムズというチームは
まったく成績のふるわない弱小チームそのものだった。
TOP画像は1976年のFW05で、
ドライバーは途中解雇されたジャッキー イクスに替わり、
ステアリングを握ることになったアルットゥーロ メルツァリオ。
ハーベイ ポスルスウェイトがデザインしたヘスケスを改良したマシンだったが、
その外観からも速そうには見えない。
ただ、このときは実質ウォルター ウルフのチームであり、
フランク ウイリアムズとチーフデザイナーのパトリック ヘッドは
このFW05を走らせた翌年の77年、
ウイリアムズグランプリエンジニアリングを設立する。
そして1978年から徐々に成績は上向きになっていく。
この78年から、それまで使っていたヘスケスやマーチのシャーシから、
パトリック ヘッドがデザインした完全オリジナルのFW06を投入。
このカラーリングに注目していただきたい。
当時のF1においてグリーンは珍しい色だった。
そしてスポンサーのロゴはFLY Saudia、ALBILAD、AVCOなど
いわゆる「アラブマネー」の企業が目立つ。
ウイリアムズがこのアラブマネーの潤沢な資金を得て、
79年第4戦から投入したのがヘッドのデザインによるウイングカーFW07である。
このFW07はF1に強烈なインパクトを与えた。
第9戦のイギリスGPでクレイ レガッツォーニが優勝すると、
アラン ジョーンズが第10戦のドイツからオーストリア、オランダと3連勝を果たす。
今では3連勝といってもあまり驚く人はいないが、
当時のF1で3連勝というのは圧倒的な強さと言える。
ちなみにこの年のチャンピオンはフェラーリのジョディ シェクター。
そのシェクターでさえも年間3勝だったにもかかわらず、
ウイリアムズのジョーンズは後半7戦で4勝している。
つまり79年の年間最多勝は、シーズン途中から投入されたFW07をドライブした
アラン ジョーンズということになる。
そして翌80年、ジョーンズは頭角を現したブラバムのピケとの接戦を制し、
自身そしてウイリアムズ初のチャンピオンに輝く。
カーナンバー27が、あの伝説のジル ヴィルヌーヴのナンバーになったのは、
チャンピオンナンバーの1がフェラーリからウイリアムズに移ったことによる。
80年のタイトル獲得によって、ウイリアムズは正真正銘トップチームとなった。
ドライバーは80年からレガッツォーニに替わり
ブラバム、フェラーリ、ロータスというトップを渡り歩いてきた
カルロス ロイテマンが加入。
ところが、このロイテマンの加入により
ウイリアムズではトップチームにありがちな内紛が始まる。
上の画像は81年ブラジルGP。
トップを走るロイテマンに対し、チームからは「アランを先行させよ」の指示。
しかしロイテマンはそのオーダーには従わず、トップでチェッカーを受ける。
「あの場面でトップを譲るようなら
オレは荷物をまとめて国へ帰るだけだ。」
この81年、前年同様ブラバムのピケとウイリアムズの一騎打ちとなった。
ただ、タイトルを争ったウイリアムズのドライバーは
ジョーンズではなくロイテマンだった。
結局、最終戦でジョーンズが優勝したものの、
ロイテマンは下位に沈みチャンピオンは1ポイント差でピケが獲った。
さて、話は変わるがウイリアムズを一躍トップチームにまで持ち上げた
このFW07は何故ここまで強かったのかということである。
当時はAUTO-SPORT誌などもよく読んだが、
FW07の「強さの秘密」というのは今ひとつよく分からなかった。
しかし最近になって読んだRacing ON誌に興味深い記事があった。
ウイングカーとして、特に目立ったようなギミックなどはなかったが、
FW07はパトリック ヘッドらしくシャーシ剛性が高く、
サスペンションなども質実剛健な設計だったという。
これはすなわち、当時の空力最優先の中においても
基本に忠実なレーシングマシンだったということが伺える。
ゴードン マレーやジョン バーナード等と比べて、
生涯ウイリアムズだったということもあって
日本での評価はもうひとつという印象だが、
間違いなくパトリック ヘッドというデザイナーは歴代屈指の名デザイナーである。
激戦の82年も、最後は年間1勝のみのケケ ロズベルグが獲った。
稀代の名機フォードコスワースDFV最後のチャンピオンマシンはウイリアムズだった。
その後もピケ、マンセル、プロスト、ヒル、ヴィルヌーヴとチャンピオンを輩出していった。
最後に、ウイリアムズといえばやはりセナのことは書いておくべきだろう。
当時、ウイリアムズのマシンは唯一無二、他を圧倒するパフォーマンスだった。
一方、ホンダの撤退に伴いセナのマクラーレンは下降線を辿っていた。
プロストが93年にタイトルを獲得し、
セナと同じチームで走ることを望まなかったため引退。
これでずっと相思相愛だったセナとウイリアムズは結ばれることになった。
ここで面白いエピソードを紹介したい。
クレア ウイリアムズ(フランクの娘 のちのチームオーナー)がまだ幼いころ、
遠征先のホテルでの出来事。
「寝る前にパジャマに着替えて、
パパ(フランク)におやすみなさいを言いに部屋まで行ったの。
ドアを開けると、なんとパパの向かい側の椅子には
あのセナが座っていた!
私はパジャマ姿!
もうどうしよう~!って感じだったわ!」
なんとも微笑ましいエピソードだが、
セナはウイリアムズへの加入を渇望していたし、
フランクにとってもそれは長年の夢だった。
しかしこの「熱愛」は最悪の結末となった。
不世出の天才ドライバーが最後にステアリングを握ったのは
ウイリアムズのマシンになってしまった。
若いころは極貧を経験し、そこからF1のトップチームにまで躍進し、
大事故に遭い車椅子の生活を強いられながらもチームの指揮を執った。
セナの死、チームの低迷、そして引退。
波乱万丈の人生と言えるだろう。
思えばウイリアムズのような、一人の情熱ある人物がチームを作り、
頂点にまでのし上がっていくようなことは、今後もう見ることはできないだろう。
フランク ウイリアムズという人を思うとき、
その情熱とモータースポーツへの愛情に、敬意を抱かずにはいられない。
心よりご冥福をお祈りいたします。