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勝とう常時のブログ一覧

2008年01月30日 イイね!

“キンコ~さん”との思い出③

続き

岡本さんはちょっと照れくさそうな感じで「あ~どうも」とご挨拶されました。
私が来店の経緯を話すと「実は今は、お店はちょっと休業しているんですよ」とおっしゃい「ですが、まぁ良かったらゆっくりしていって下さい」とカウンターの椅子を指し示しました。
店内にも盾やポスターの類が飾ってあり、その中でも一番目を引いたのは、岡本さんが71年に、事故車のロータス・エランのフレームをベースに最初に作ったオリジナルマシン「OKAMOTO・G7」のパネルでした。
岡本さんは私の隣に座り、私の問いかけに対し一つ一つ丁寧にお答え下さいました。
カウンターの奥に陣取った奥様は、私にアイスコーヒーを出して下さると、私達の話しを黙ってニコニコしながらずっと聞いていらっしゃいました。
ヘルメスで岡本さんとお話ししたおよそ1時間半は、私にとってかけがえのない宝物の時間となりました。
とても興味深い内容ばかりでしたが、秘密にする訳ではありませんが書き込むのが大変なので、簡潔な文章にしてちょこっと書き出しますと、

・まだ1台GCマシンを持っており、レストアして富士でもう一回走らせてみたい。
・私には師匠と呼べる人はおらず、溶接からファイバーの成型まで全部独学。アルミの溶接は自信ありますよ。
・GCが終わってしまい、ならばF3000をやろうと思いオリジナルのカウルまで製作したんだけど、資金面等で結局参戦は出来なかったね。

その他にも、くるまばかにとっては本当に魅力的なお話しをたくさん聞かせて頂きました。
お話しの最後に「どうして19年間も、大変なご苦労をされながらもGCを続けてこられたんですか?」とお尋ねしたところ、岡本さんはすぐに「好きですからねぇ。それだけですよ」とお答えになりました。
簡単な言葉ですが、私もモータースポーツが大好きだという自負がありますが、だからといって岡本さんと同じことは死んでも出来ません。

帰り際に、愛車のトランクにサインを書いて頂きたい旨を伝えると、とても照れながらもOKして頂き、黒マジックでちょっとだけ書いたところ、線が細すぎるのがご自分で気に入らず、シンナーで消した後わざわざ二階まで戻って極太のマジックを取って来て書き直して頂いたのに、えらく感動しました。
近くでコンテッサのレーシングを製作していることを話すと、大変興味を示され、今度遊びに行きますとおっしゃってご夫婦二人で見送って頂いたのが、結局私と岡本さんとの最初で最後になりました。

翌年の夏のとある日、岡本さんが二日前にお亡くなりになったというのを知ったのはあるネットの記事でした。
その週末、Yモータースに行く前にヘルメスにそっと立ち寄り、最初に伺った時と同様に周囲に人影もないしんと静まった中、ガラス戸の前に立ち一人手を合わせ、暫し、岡本金幸氏の人生に思いを馳せました。

終わり
Posted at 2008/01/30 22:51:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2008年01月29日 イイね!

“キンコ~さん”との思い出②

続き

岡本さんは、GCが終焉を迎えた後も、十勝24時間レースにスポット参戦したりとちょっとの間はたま~にレースに参戦しておりましたが、90年代半ばからはとんと、どういう活動をなさっているか分からない状況でした。
2000年に発刊された、「むかし、狼が走った(井出耕也著・双葉社)」というノンフィクションの中に、著者が最近の岡本さんにインタビューしている記事がありました。
本を読んで、第一線を退かれてからも、モータースポーツへの深い愛情と情熱の火がまだ消えていないことが分かりました。ヘルメスは場所を近くに移転し、まだ営業されているとのことでした。
そしていつか、来店しお会いしてみたいという気持ちが、当然の如く沸き起こりました。

時は2005年の春だったかと思います。
静岡のYモータースに、コンテッサのレストアに通い始めて1年半位。
休日のその日も、静岡に向けてくるまを走らせながらふと、脳裏に去来したあること・・
「ヘルメスって、確かYモータースと同じ静岡市内だったような・・」
そう、実はその日帰宅してから104で詳しい住所を調べると、通い慣れたYモータースと、くるまで7~8分というとても近い距離にあったのでした。
「これは行くしかない!」
次のレストア作業日の前に時間を作って、ヘルメスにアポなしで行ってみようと決め、ちょっと道に迷いながらも、川沿いの、反対側にタミヤのラジコンコースがあるヘルメスに着くことが出来ました。
時間は朝の9時くらい。
住宅街の中の、こじんまりとした小さなお店です。2階部分が住居のようです。正面のガラスケースの中には、レースのトロフィーやポスターが飾ってあります。
ガラス戸には流れるような文体で「ヘルメス」とあり、戸は開け放たれていました。付近に人影はなく、とても静かです。
もう開店しているのか?ちょっと早かったかな~と恐る恐る店内を覗き込むと、狭い店内の奥に、奥様と思われる女性が掃除をしていました。
こちらを見て、「何でしょう?」と話しかけられ、もう開店しているかを尋ねると、何と、今はお店は休業中とのお返事でした。
それでは失礼するしかないかとお詫びして帰ろうとすると、「どちらから来られたんですか?」と問われました。
そこで、実は岡本金幸さんの大ファンで、一度ヘルメスに行ってコーヒーでも飲みながら、色々とレースのお話しを伺いたかったんですと伝えると、「あ~そういうことですか。じゃあ、上にいるんで呼びますよ」と明るくおっしゃられ、階段の下から、「お父さ~ん!お話ししたいっていうお客さんよ~!」と呼ばれますと、ほどなく階段を降りて来る音が聞こえ、私の目の前に現れたのは、写真でしか見たことがない、89年のGC最終戦の時とほとんど変わらない風貌、頭がきれいにはげ、身長は150ちょっとと小柄の、岡本金幸氏に間違いありませんでした。

更に続く・・・



Posted at 2008/01/29 22:37:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2008年01月28日 イイね!

“キンコ~さん”との思い出①

前のブログで田中健二郎さんがお亡くなりなったことを書きましたが、その訃報を聞いて、一昨年にお亡くなりになった岡本金幸さんのことを何となく思い出しました。

タナケンが60年代を先頭グループで突っ走って注目を浴び続け、70年代に入ってすぐにスパッと引退したのに対して、“キンコ~さん”こと岡本さんはその対極と言ってもよく、GC(グラチャン)をメインに70年代から80年代を常に下位グループ(というかほとんどどべ)で、それでも地道に闘い続けてきた方です。
彼はコアなモータースポーツファンには良く知られた存在でしたが、ご存知ない方に簡単にご説明します。

静岡市在住で、「ヘルメス」という屋号の喫茶店のマスターが本職ですが、自ら独学でマシンを製作し、GC開幕年の71年から終焉を迎える89年までずっとオリジナルマシンで参戦しました。
本職の合間を縫って裏のガレージにこもり、常に資金面で厳しい状況にありながらも、“オリジナル”のマシンを製作しそれで参戦することに強いこだわりを持っておられました。
71年当時のGC参戦ドライバーの中で38歳と最年長。89年のGC最終戦で56歳と最年長。ということは、最初から最後まで最年長ドライバーだったということです。
彼はGCでは常に最下位近辺を走り、優勝はおろか表彰台すら上ったことはありません。ですが、他の参戦ドライバーやレース関係者,オフィシャル,観客まで、サーキットにいる全員が岡本さんを尊敬していました。
彼は、自ら製作したマシンを自らトラックに積み富士まで運転していき、降ろしてメンテをしてそれからレースに挑み、終ればまたご自分でマシンをトラックに積み、ヘルメスに着いたら降ろしてガレージに戻し、次のレースまでにマシンをああすれば速くなるか、それともこうしてみようかと、本業の傍らそれは、19年間続きました。
星野一義や長谷見昌弘や中嶋悟と同じラップで走ることは、例え同じマシンを与えられても岡本さんには無理だったでしょう。ですが、岡本さんと同じことをやれと言われても、星野も長谷見も中嶋も、ついでにシューマッハでも出来ません。サーキットにいる人達は、そのことを良く分かっていたのです。

名著「日本モーターレース史(桂木洋二著・山海堂)」のレーシングカーコンストラクターの一覧の中に、「コジマ」「シグマ」「ノバ」「ベルコ」らと並んで、「オカモト」があります。
「ローラ」がエリック・ブロードレイ,「ロータス」がコーリン・チャップマン,「シェブロン」がデレック・ベネット,そして「オカモト」が岡本金幸です。
彼はレーシングドライバーであり、エンジニアであり、メカニックであり、トラックの運転もし、レーシングカーコンストラクター「オカモト」の代表兼設計・製作担当者です。

続く・・・
Posted at 2008/01/28 23:06:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 往年のレーサー | 日記
2008年01月27日 イイね!

「JCCAニューイヤーミーティング」に行って参りました

「JCCAニューイヤーミーティング」に行って参りました寒かった~・・・

朝の7時前に青海の会場に到着。今回は初めて無料の関係者駐車場に止めることが出来ました。
所属する「日野コンテッサ・クラブ」は毎年ブースを出展しており、大事なクラブ員さん相互の、新年の顔見せの場でもあります。
3台の展示車両は、昨年はコンペティション色が濃かったので今年は逆にほんわか癒し系ということで、ほぼオリジナルのルノー,900,1300セダンを展示。

個人的に気になった展示車両では、サンビームと同じルーツグループの“ハンバー・セプター”がありました。これもかなりレアですね~。
ボンネットが開いており興味深々で覗き込むと、どうやらエンジンは一緒のようです。
オーナーさんと部品やメンテのお話し等してみたく、何回か寄ってみたんですがいつもタイミングが悪いようでお会い出来ませんでした。残念。
今年も、レイピアとコンテッサの部品を探しにショップとフリマを散策したのですが、やはり何もありませんでした。ははは・・・。
2008年01月24日 イイね!

今一番行きたい場所:むつ湾スピードウェイ跡地

数年前まで三栄書房の「オートスポーツ」誌に連載されていた“レース史・私の報告書”を読んで以来、塩澤進午氏の大ファンです。
「日本オートクラブ(NAC)」や「デルレーシングモーターカンパニー」の代表として、国内モータースポーツ界の黎明期からご活躍されてきた氏のヒストリーがご自身の筆で綴られています。
その連載の中で、JAFの圧力により主催するレースをFISCOで開催出来なくなったNACが、本州の北の果て、青森県下北半島の付け根の野辺地というへんぴなところに、突貫作業でメインストレート2キロ(!)、全長4.5キロという広大なサーキットを建設し、数万人の観客を集めてストックカーレースを開催するまでの顛末が書かれています。
それに加筆訂正した文章が、三栄書房刊「日本の名レース100戦 72むつ湾ストックカー」にも掲載されていますが、たった2年で閉鎖されたその伝説のサーキットは、その後打ち捨てられ荒れ放題になりながらも、現在でもコースやスタンドの一部が残っているそうです。
今は苔むして草が伸び放題になっているその場所に、三十数年前確かに、耳をつんざく轟音と共にたくさんのレーシングカーが疾走したのです。そして、そのサーキットに夢を託した、たくさんの人達の情熱もまた、そこにありました・・・。

チャンスがあれば黄金週間かお盆休みにでも、“そこ”にいってみたいと思っています。
行って何をするという訳でもありませんが、暫しの間そこに立ち、もしかして少しでも残っているかもしれない夢の残り香でも嗅ぎわけることが出来れば充分でしょう。

ちょっとでも興味をお持ちになり、この塩澤氏の連載を全て読んでみたいと思われた方は、バックナンバーが残っていないので個売等で地道に揃えるしかないでしょう。

私の知る限り、モータースポーツに関するノンフィクションの読み物で、最高傑作だと思います。
Posted at 2008/01/24 23:48:40 | コメント(4) | トラックバック(0) | むつ湾スピードウェイ | 日記

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「[整備] #ロードスター 購入後初のギア・デフオイル交換 https://minkara.carview.co.jp/userid/335937/car/3547031/7684700/note.aspx
何シテル?   02/21 19:10
2007年よりみんカラを始めて、2019年途中で飽きてしまいブログを休止しておりましたが、ぼちぼちマイペースではありますが、2022年より再開していきます。se...
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