
![面倒と窮屈を抱きしめながら[完全版] 面倒と窮屈を抱きしめながら[完全版]](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/048/789/357/48789357/p1m.jpg?ct=cbaf049be78c)
むかし,誰だったか…お洒落な子が言っていた。
「お洒落って,どこか面倒だったり窮屈じゃないと始まらないの」
手ぐしも通らないほど,手間のかかるヘアスタイル。
歩幅にさえ,上品さと緊張感が同居するタイトスカート。
一歩ごとに,決死の覚悟のハイヒール───
どれも快適さとは無縁だが,結局,美しさは「面倒」と「窮屈」の上に咲くらしい。
ふと,この話をセブンに乗り込みながら思い出した。
私は閉所恐怖症ではないので,タイトなスカートコクピットは,逆に気分が上がる。
しかし,窮屈だと乗り降りに苦労するのも事実。
車庫から出発するときは,気分の暖機運転みたいなものなので,まだマシ。
ただ,ちょこちょこ買い物に寄ったり,トイレ休憩があると,面倒だから我慢して先を急ぎたくなるのだ。
セブンに乗り込むということ───
それはもう自作戦闘機でも離陸させる準備に等しい。
まず,クイックリリースのハンドルを外し,狭いコクピットに向かって深呼吸。
次にキルスイッチのレバーをオン。
この時点で,すでに他のクルマと秒針の進み方に違いが出ている。
さて,問題はここからだ。
着座する前に,シートに散乱している4点式ハーネスのベルトのねじれを取ってよけておく。
こうしておかないと,バケットに食い込んだ背中からベルトを引き出すことになり…
肩甲骨のかゆみを掻くぐらい,至難の業なのだ。
そして,片足を放り込んだ後に,体操競技の平行棒よろしく両腕を駆使して,尻を静かに落としつつ,もう片方の足を折りたたみながら滑り込ませる。
D難度トカチェフではないが,そのうち私の名前を冠した新たなE難度ができるだろう。
ここまでくれば,やっと拘束開始。
ベルト4本をバックルにカチャカチャと装着し,身動きの自由はほぼ終了。
キーを回してアクセサリーボタンを押し,イモビを解除したらスタートボタンを押して,ようやくエンジンに火が入る。
ここまでで,他のクルマはすでに2キロ先を走っている。
最後に,ハンドルをカチッと付け直し,グローブをはめれば───
やっと発進準備完了。
…なのは,春と秋の限られた期間だけ。
季節はここから牙をむく。
一見大変そうなセブンの乗り降り───
だが,あれはまだ軽い準備運動にすぎない。
セブンが本領を発揮するのは,実はここからだ。
日差しが強いとビキニトップが必要になる。
すると,乗り降りの苦行が,もうワンランク跳ね上がる。
例えるなら,クーペの窓から潜り込む格好で,もうイリュージョンの世界。
作り笑いのアシスタントが,イヤイヤ小箱に押し込められる───あの心境そのものだ。
クルマに乗ろうとしているのか,マジックのバイトなのか分からなくなる。
寒い日はハーフドア。
本来,開閉できるのがドアなのに,ハーフドアは出入口を塞いだだけの単なる当て木だ。
突然,壁が出現するので,今度はハードル選手。
乗車動作が,「跨ぐ→ひねる→滑り込む」という三段アクロバットに進化。
そして,このハーフドアにはオプションの罠がある。
ドア側のスペースが狭く,ヒジが出せないので,ジャンバーのポケットに手が入らない。
キーがポケットだと,乗った瞬間に「あっ!しまった」と気づき…
一度降りて,また跨いで,またひねって,また滑り込む。
もうこれだけで,一日分のカロリーを消費する。
更に更に追い討ちをかけてくるパーキングブレーキ問題。
セブンの旧モデルでは,パーキングブレーキがサイドではなく,助手席奥の洞窟みたいな場所にある。
4点ハーネスで拘束されると,もう腕が伸びず届かない。
だから,その前にギアがローに入っていることを確認し,パーキングブレーキは解除しておくことになる。
ここまできたらキャブ車の試練についても触れておこう。
幸い私のセブンは違うが,当事者にとってキャブレターは,発進前の最後のボスキャラ。
エンジン始動の儀式はあちこちにあるので,そちらに譲るとして…
総じて,キャブは季節を理解できないおバカな奴だ。
始動前,あらかじめアクセルペダルをパタパタ踏んで,燃料を供給するが…
エンジンが咳払いしないと,心理的にあせってまたパタパタ。
運悪く,プラグが被ろうものなら,ジ・エンド!
またまた降りて,ボンネットを開けて,プラグを引き抜き───(略)
もうこうなってくると,走りよりも,プラグ磨きを極めたい自分がそこにいる。
人は,便利さを手放したときに,それを「愚行」と呼ぶ。
しかし───
この一連の「面倒」と「窮屈」をくぐり抜け,ようやくアクセルを踏んだ瞬間…
その愚行は,静かに,美しさへと昇華する。
こんなクルマ,他にあるだろうか?
いや,この「手間の美学」こそがセブンなんだ。
だから今日もセブンはゆっくりと,しかし確実に「周回遅れで発進」する。

大前神社(栃木県真岡市)を参拝したとき,私は鳥居の前で固まった。
本来は「おおさきじんじゃ」と読むのだが…ふと,脳内で英語に翻訳してしまったのだ。
(大前)Oh My(神)God(社)Company
商売繁盛のえびす様を祀る神社が,まさかの「オーマイゴッド!カンパニー(何てことだ!この会社)」とは。
境内ではえびす様が,いかにも右肩上がりの商売を招いてくれそうに鎮座している。
一方で私の会社は,右肩が上がらず四十肩みたいな業績。
会社を託されている私は,さながら故障者リスト入り寸前のピッチャーである。
賽銭を投げ入れながら,渾身の思いを込めて祈った。
「えびす様,どうかお願いします!うちの会社にもご利益(ごりやく)を~!」
帰りがけ,誰かに声を掛けられたようで振り返ると,満面の笑みでえびす様がこう言っているではないか。
「まぁまぁ,気張らずとも,右肩なんて,布団から起きるときは,勝手に上がっているから」
大前神社───
商売繁盛を祈願しに行ったら,「心配ないから,肩の力を抜きなさい」と諭された気がした。

横断歩道で信号を待っていると,ふと後ろから声がした。
「あの風船はどこまで飛んで行くと思う?」
母親の問いかけに,小学生の男の子が胸を張って答えた。
「宇宙までー!」
その声は,ちょうど赤信号の向こうを飛んでいく,黄色い風船まで届きそうだった。
「じゃあ,宇宙まで行ったら,どうなるかな?」
母親がやわらかく重ねると,少し考えて男の子は言った。
「うーん…地球のまわりを,いつまでもぐるぐる回ってる!」
思わず,私に笑みが浮かんだ。
この星のまわりを漂う人工衛星も,きっとあの風船の仲間なのだろう。
それにしても,「いつまでも」という言葉の静謐(せいひつ)な力よ。
大人になると,「いずれ落ちる」「ヘリウムガスが抜ける」と,現実的で無味乾燥な答えばかりが口をついて出る。
だが,この子の世界では,風船はまだ夢を持って回っている。
壊れもせず,汚れもせずに,ずっと青い地球を見守りながら。
信号が青になり,親子は手をつないで去っていった。
その背中を見送りながら,私は心のどこかで思った。
―――それは多分,風船だけじゃない。
思いも,愛も,優しさも…
きっと誰かのまわりを,見えないところで,ぐるぐる回り続けているに違いないと…

枡酒を前にすると,つい息を呑む。
枡の縁まで表面張力でせり上がった日本酒。
ほんの一筋,こぼれるかこぼれないか…
その瞬間にこそ「美」が宿る。
そんな性癖を持つ男が,クルマに乗るとどうなるか?
車好きには,避けて通れぬ儀式がある。
それは,燃費を満タン法で測ることだ。
ゆえに,タンクはギレギレまで満タンにせねばならない。
ノズルがいったん「カチッ!」と止まっても,そこでやめたら男がすたる。
あれはただの肩慣らしで,本番はそのあと。
タンクの奥底に潜む空気を追い出し,数値の精度を高める…という名の執念である。
だが,継ぎ足しの世界は一種のギャンブル。
じわり,じわりと入っていくガソリン。
耳は給油口,指先はノズル,心は祈りに捧げる。
―――頼む,まだいける!
そして,次の瞬間「ゴボッ!」とイヤな音。
バリウム検査中のゲップのように,残念な思いでガソリンが吹き出し…
私の眉間には,「マジ?」のしわ。
空気が押し返したのか?タンクが反乱したのか?
理由はどうあれ,結果は一つ。
―――やっちまった。
継ぎ足し禁止?キャニスターに悪影響?
それも分かっている。
しかし,数字の魔力とは恐ろしいもので,また今日もノズルを握る手に力が入ってしまった。
最後に給油口をそっと閉じながらつぶやく。
―――あふれ出たのは,俺の器なのかも知れないな…

炎天下でラウンドするゴルファーや,厳冬に唇を青くさせ波を待つサーファー。
私はずっと,ああいう季節感のない奴らを,鼻で笑っていた。
しかし,逆の視点で捉えれば,彼らこそ季節を直に肌で感じている,真の風流人とも言える。
走る人間百葉箱セブンに乗ると,しみじみ彼らの偉大さが分かり,頭が下がるばかりだ。
とはいえ,オープンカーにとって最高の季節は,春と秋。
天国の扉が開く,あの貴重な数週間だ。
日差しは柔らかく,風は甘い。
汗ばむことも震えることもなく,ただステアリングを握っているだけで,人生に拍手を送りたくなる。
だが,そんな夢のような時期に,愛車セブンは入院生活を余儀なくされていた。
病名は「原因不明のエンジンストール症候群」。
担当医いわく,「部品は発注してあるんですが…ちょっとイギリスからの船が…」。
もうそれ,紅茶飲んでる場合じゃない。
ところが不思議なことに,病室で寝ている間に症状はピタッと消えた。
まるで「先生,もう治りました!」と入院生活に飽きてきた患者のように。
…が,エンジン警告灯だけは頑として消えない。
たぶんセブンのほうもバツが悪いのだ。
「ワタシ,まだ本調子じゃないの。ゴホン!ゴホン!」とオレンジに染めたアイシャドウでウインクしてくる。
そんなわけで,医師(ディーラー)の許可を得て一時外出許可をもらった。
仮退院?仮釈放?
とにかく,一旦セブンは出所した。
帰り道,風が少し冷たい。
見上げれば,うろこ雲が細かく空を刻んでいる。
それでも,久しぶりのセブンの鼓動は,やけに温かく感じる。
なんとか移植手術の日までは,再発して救急車で運ばれぬよう,共に祈ろうじゃないか。
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