かなりの長文になるので興味の無い方はスルーして下さい
m(_ _)m
長文ゆえ2本立てで逝きますw
※富樫ヨーコ氏の著書「ポップ・吉村の伝説(上・下)」(講談社X文庫刊)を参考にしております。
先日、みん友の「ゆうz」さんの記事を読んでて刺激されちゃいましてw
尊敬するオヤジ(POP)さんの事を少しでも多くの方に知ってもらおうと思い立ったワケです。ハイ。。
ただひたすら情熱に生きた熱い漢のストーリー! はじまりはじまりw
1995年3月29日一人の偉大なバイク乗りがこの世を去った。
その人の名は、吉村秀雄。
レースに携わる方ならもちろん、ある一定の年齢以上のバイクに乗りならばこの名を知らない人はいないと思う。また知らなくてもカタカナの「ヨシムラ」や英字の「YOSHIMURA」を見たり、あるいはそのロゴが付いたバイク・パーツを使っている方は多いと思う。
吉村氏は戦後日本のバイク界においてエンジン・チューナー、レース・コンストラクター、そして数々のアフター・パーツ開発において偉大な足跡を残した人物。
その職人気質溢れる確かな技術から「ゴッド・ハンド」の異名を持ち、気さくな(時には厳しい)人柄は「POP(ポップ)=オヤジさん」として親しまれた。
吉村秀雄氏は1922年(大正11年)福岡県福岡市に生まれた。
幼少の頃より機械いじりが好きで、特に飛行機に強い興味を持っていた。尋常小学校を卒業した14歳の時、当時の多くの少年達がそうであったように軍隊への憧れと飛行機への思いから横須賀にある海軍少年航空学校(予科練の前身)に入校する。パイロット(つまり戦闘機乗り)になるべく勉学と厳しい訓練を続けるが、落下傘訓練中に事故を起こしやむなく除隊。福岡に帰省し家業(材木屋)を手伝うが飛行機への思いは捨てきれず、航空機関士の国家資格を独学により最年少18歳で取得。大日本航空(現、日本航空)に勤務するが、おりしも太平洋戦争勃発。航空機関士として海軍に復帰し、東南アジア方面への物資移送の任に着く。シンガポールに赴任した後、戦況芳しくない日本に帰国。終戦間際には神風特攻隊の先導を行なうという、辛い任務も経験した。
(吉村氏が、2ストのチューンをしなかったのは、飛行機のエンジンが4ストだったからと言われている。)
戦争が終わると家業に復帰するが、その時の仕事の足としてオートバイを使用したことで、これに興味を持つ。おりしも福岡にも米軍が駐留しており、海外赴任の経験から英語が堪能だった吉村のもとに闇市の物資調達で知り合った米兵らが多く集まるようになる。
この兵の中には、自国からオートバイを持ち込む者もおり、氏に修理を依頼するようになる。
バイク屋「ヨシムラ・モータース」を設立したのは1954年。修理とあわせて基地内で行なわれていた「草レース」へも誘われ、バイクで自らも参加するようになる。草レースは基地内の滑走路を使って行なわれており、飛行機の加速とバイクのそれは非常に似ていると感じ、負けず嫌いの吉村は本格的にバイク・チューニングに取り組むようになる。
吉村のチューンしたバイクは早く、基地内のレースだけではなく、九州地方のレースでも数々の優秀な成績を上げる。1964年にオープン間もない鈴鹿サーキットで開催された「MFJ鈴鹿18時間耐久レース」にホンダCB72/CB77で参加し優勝。「レースの吉村」が全国的に知れ渡るようになる。
1965年、吉村氏は九州から東京福生市に拠点を移し「ヨシムラ・コンベンション・モータース」を設立。同年7月、鈴鹿で開催された「MFJ鈴鹿24時間耐久レース」に参戦。スタートからトップで飛び出すも、途中でリタイヤ。10月には「日本グランプリ」に参加。ここでもライダーが転倒したが、この時レースを観戦していた本田宗一郎氏が自社製作のマシンより吉村チューンのCB72が早かったことから、部下に命じてエンジンを見せてもらうように依頼したことは有名な話(当然、吉村氏は快諾した)。このことで、ホンダは自社のレーサー・チューンを依頼するようになる。
ホンダから部品供給を受け、二輪・四輪(S600、S800)のチューニングを開始する。また、今やバイクの世界ではスタンダードである「集合マフラー」を発明(1971年頃)。当時発売になったCB750のチューンに合わせ、これを装着しアメリカのレースで数々の好成績をあげる。

その効果はすさまじく、以降「集合マフラー=ヨシムラ」としてその名を内外に轟かせることになる。しかし、ここで吉村最大のピンチが訪れる。ホンダのレース担当者が高度な吉村のチューニング技術を妬み、部品供給をストップさせる。このことは吉村みずからが本田宗一郎氏に自家談判したことで発覚するが、本田の関係者への怒りにも係わらず、改善されることはなかった。
吉村はこれを切っ掛けに、アメリカ進出をこころみる。米兵のバイクを修理・チューニングした頃より続き、集合マフラーを装着したCB750のアメリカでの活躍により部品の需要・輸出量が大幅に増加していたためだ。
海のものとも山のものとも分からぬ彼の地への進出に家族は猛反対したが、頑固一徹の「オヤジ」は1972年アメリカ人出資者を信じロサンゼルスに赴き「ヨシムラ・レーシング」を設立。しかし、ここでも大きな局面にぶち当たる。アメリカ人出資者が「ヨシムラ・レーシング」を乗っ取り私物化、吉村氏を追い出してしまう。
1975年、無一文となり失意で帰国。しかし長女夫婦ら(氏の長女 南海子さんとその夫 森脇護氏。森脇氏は現モリワキ・エンジニアリング社長。)家族の助けを借り、再び渡米。「ヨシムラR&D」をつくり、婦人の直江さん長男の不二雄氏(現ヨシムラ・ジャパン社長)とともに、失墜した「ヨシムラ・ブランド」の回復をはかるため奮闘。しかし、またしても悲劇が。1977年2月、工場内で作業中に火災が発生し全焼。吉村氏も全身に大火傷をおう。「ゴット・ハンド」と呼ばれた両手が痺れ、動かなくなる。またも失意のどん底に。しかし、それを救ったのは、やはりオートバイだった。
レースを通して知り合ったスズキの横内悦夫氏(元スズキ取締役二輪設計本部長=KATANA、ガンマ、油冷エンジンの生みの親)から市販車GS750のチューニングを依頼される。大火災の発生から4ヶ月後の6月、吉村のもとに2台のGS750が届く。GS750のチューニング・マシンは、9月のアメリカAMAスーパーバイク選手権に参戦し6戦目のラグナセカで優勝する。時を同じくして横内氏はGS750のパワー・アップ版、GS1000の開発を進めており、このマシンで翌1978年に開催予定の第一回鈴鹿8時間耐久レースに出場し、当時のレース・シーンで「無敵艦隊」と言われたホンダRCBに対抗しようと持ちかける。
かつて、辛辣を舐めたホンダを打ち負かすチャンスを得て帰国。
1978年7月30日、運命の鈴鹿8時間耐久レース決勝がスタート。ウエス・クーリー、マイク・ボールドウィンの乗った吉村チューンのGS1000は、幾多のアクシデントを克服し、みごと優勝する。
スズキとヨシムラの関係は、吉村氏と横内氏との出会いから現在まで続いている
エンジンはヨシムラ、車体はスズキという不文律があるとのことだか
両者の間には「契約書」なるものは一切無いそうだ
“本当の信頼関係”とは、そういうものなのかもしれない。
つづく
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2013/02/02 11:41:31