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半ねりのブログ一覧

2020年03月29日 イイね!

[本の小並感 No. 111]「電機・半導体」大崩壊の教訓 営業利益率0.061%からいかに脱却するか

[本の小並感 No. 111]「電機・半導体」大崩壊の教訓 営業利益率0.061%からいかに脱却するか111. 「電機・半導体」大崩壊の教訓 3点

今から思えば2012年は電機・半導体にとってメモラブルな年だった。

日本DRAM最後の砦エルピーダが4,480億円の負債を抱えて倒産し、ルネサスは経営危機が表面化しKKRや産業革新機構による出資交渉を進めることになった。パナソニックは7,542億円の赤字を計上、シャープは3,700億円の赤字で世界の亀山モデルは、その実日本だけのガラパゴスモデルだったことを露呈し、ソニー・東芝・日立のディスプレイ部門がJDIに統合された。本書は日本「半導体」敗戦に続いて、そんな2012年に執筆された。

かつて世界市場を席巻していた日本半導体が凋落した理由をバリューチェーンの変化に対応できなかった、もはや典型的なイノベーションのジレンマであるという。それまでのDRAMの需要がメインフレームと呼ばれる大型の産業用コンピュータであり、日本の半導体メーカはそのために・その顧客の求めるまま持続的な改良を進めていた。

ところが、日本の半導体メーカーが我が世の春を謳歌していた1980年代、DRAMの市場は産業用PCから個人用PCに移っていく。そこでは、これまでのような高性能・高機能、そして高価格なDRAMは不要であり、低スペックでも安価なDRAMが求められる。顧客ニーズを重視するあまりバリューチェーンの変化を見誤る、クリステンセンが指摘するイノベーションのジレンマに典型的に嵌ってしまったのだ。

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パラダイムシフトに対応できなかった日本メーカー

一方、マイコンはそうでなくても低収益な事業構造を強いられている。マイコンの世界シェア1位(30 %)、車載用マイコンに限れば42 %のシェアを持っているルネサスは、そのシェアに関わらず営業利益率は0.061 %と極めて低い。同じマイコンメーカーであるインテルが36 %もの営業利益率を叩き出しているのとは対照的である。
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恐ろしく低収益なルネサス

安全に直結する車載用マイコンは個人用PCのそれとは全く異なる品質基準が要求される。さらにそれに加えて不良率ゼロの「絶対安全」を車メーカーから要求されるという。そして値段は底の底。なぜルネサスはこんな割りに合わないECUを製造しているのか、本書でははっきり示されないがルネサスの技術者は「どの半導体メーカーもECUを作りたがらない。しかし、ルネサス那珂工場はラインの稼働率を上げるためにも利益のでないECUですら作らざるを得なかった。」と答えている。
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車載用ECUは誰も作りたがらない

業績が悪化すれば付け込まれる。私は(絶対安全の思想はどうかと思うが)車メーカーが悪いとは思わない。ビジネスの世界では当然だ。問題はどのように価格支配権を獲得するかだ。他社が真似できない高度な技術があれば別だろうが、そのような独占的地位の獲得は難しい。

筆者は、蛸壷の中で自己満足な技術開発に引きこもり、マーケットを無視した過剰品質・過剰技術を追求するのをやめ、マーケティングを強化せよという。マーケティングの本質は「変化を捉え、それに応じて自らも変わること」。それに加えて、ルネサスような価格支配権を獲得できるような戦略も必要だろう。言うは易し、行うは難しだろうが、半導体の教訓を活かさなければ。
Posted at 2020/03/29 19:04:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年03月21日 イイね!

[本の小並感 110]日本「半導体」敗戦 全体最適を拒否する民主的人事の弊害

[本の小並感 110]日本「半導体」敗戦 全体最適を拒否する民主的人事の弊害110. 日本「半導体」敗戦 3点

日本の半導体産業が世界を席巻していたなんて、今からはとても信じられないが、DRAMは1980年代は日本メーカが世界シェアの80 %を占める自動車と並ぶ基幹産業だったのだ。

筆者は日立のエンジニアだったが、業績の悪化でリストラにあう。「40歳、課長以上は全員責任をとって退職してもらいたい」という退職勧告。提出した辞表は「撤回はなしだよ」と留意のかけらもなくもぎ取られたという。このような経験から「なぜ日本の半導体産業はグローバルな競争に破れたのか」を究明している。

なぜDRAMは凋落したのか

はっきりと結論から書いている。「日本半導体産業が凋落した真の原因は収益率が悪いことに真の理由がある。」そしてその原因を「日本半導体産業には深刻な病気がある。それは過剰技術で過剰品質、過剰製品の性能を作ってしまう病気である」としている。

「そんなの当たり前やんけ」、「なんでそんな馬鹿なことをしてしまうのか」という声が聞こえてきそうである。実際、筆者が「インテルは原価から逆算して利益が出るように工程フローを開発している」というと、自動車業界の研究者からは「そんなの当たり前じゃないか」と一蹴されたという。

日本企業はデバイスの性能をトッププライオリティにおき、80点で優秀な製品を120点で設計し、コストは全く考えない。そして量産体制に入ってからコスト削減に動き出すが、構造的な高コスト体質が設計段階で宿命付けられているので焼け石に水である。

なぜこのような構造になってしまうのか、筆者はいくつか指摘しているが(4つのジレンマという章がある)、私が本質的だと思うのは日本組織の問題だ。「日本半導体メーカーは、組織の分業化、縦割り化が進み、さらには階級意識があり、コストまで含めた全体最適ができない組織構造になっている。」。原因が馬鹿らしいと思っても、この指摘はサラリーマンなら誰しも思い当たる部分があるのではないか。

意思決定が麻痺する「民主的な」人事

自部門の業務を囲い込み蛸壷化して、それぞれが局所最適を目指すが、全体を統括する部長クラスは両者を否定しないような無難な決断しかできない、事後的に正当化するための記号として機能する弱いリーダーであるため、全体最適を実現して利益を上げることはできないのだ。このような弱いリーダーの下では、M&Aでの利点を生かすこともできない。

そのほかにも、過剰性能はユーザからのニーズを受けたものだったり、政府主導のプロジェクトが失敗したりともはや同意しかない。この教訓を活かせるのか。
Posted at 2020/03/21 21:13:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年03月14日 イイね!

[本の小並感 109]2000年の桜庭和志 格闘技界のトリレンマへの解

[本の小並感 109]2000年の桜庭和志 格闘技界のトリレンマへの解109. 2000年の桜庭和志 4点

プロレスが好きだった父親の影響で、私も小学校からプロレスを見ていた。当時は猪木の新日本プロレスとジャイアント馬場の全日本プロレスとで人気を二分しており、獣神サンダーライガーが好きだった私は、必然的に新日ファンになり、新日の興演が千葉公園体育館にきたときは、父親に連れて行ってもらった。

プロレス行って初めて牛丼を食った

そんな私にとって桜庭は当初は「高田の子分」といった印象で、PRIDEで勝つのはうれしかったが、彼の強さは玄人好みの渋い技術で、私のようなライトは格闘技好きにとっては、熱心にフォローしていなかった。しかし、この本を読むと「桜庭が格闘技界全体に果たした役割が」歴史の流れの中で見えてくる。彼はその功績を讃えられてUFCのHall of fameを受賞している。

「日本のプロレスファンが、アントニオ猪木やUWFのレスラーたちに求め続け、ついに得られなかったリアルファイトのプロレス。UFCが希求して止まない、優れたスペクテクタースポーツとしてのMMA。桜庭和志はその二つを、魔法のように一つにしてしまったのだ。」

日本ではプロレスがショウであることが公然の秘密となり、そこから離脱した UWFも作りのある試合であることに幻滅したファンは「ガチでやったら誰が強いのか」というシンプルで強烈な欲望が渦巻いていた。

一方、アメリカのUFCは、反則は噛みつきと目潰しのみで、金的への蹴りも、顔面への頭突きも、後頭部への肘打ちも許されるというまさになんでもありだった。UFC2を見た平直行(範馬刃牙のモデル)は「俺、こんなのやらなきゃいけないんですよね」と震えながら筆者に言ったという。UFCはその後ボクシング業界の意向を受けたマケインのネガティブキャンペーンもあり、その残酷さから人気を失っていく。

1. ガチでやったら誰が一番強いのかという、最強を求めるリアルファイトへの欲望
2. 野蛮や残酷とは異なる、洗練された技術を競うスポーツとしての格闘技
3. ファンが見て楽しい、応援したいと思わせるエンタメ性

桜庭は、この格闘技の永遠とも取れるトリレンマに一つの回答を提示したのだ。

それ以外にも、あの時何が起こっていたのかを、歴史的な流れを踏まえて書かれていて大変良かった。Numberの連載当時から断片的に知っていたが、単行本で出ているので買った。良かった。
Posted at 2020/03/14 20:45:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年03月14日 イイね!

ダークナイトのジョーカーと、ノーカントリーのシガーは何が違うのか

ダークナイトのジョーカーと、ノーカントリーのシガーは何が違うのかこないだのメモの続き。

こないだのメモ
タラレバ娘にダークナイトの面白さを注入したい(が難しい)

ダークナイトとノーカントリーは、ほとんど同じ世界観を共有している、というと映画を知っている人にも奇妙は印象だろう。

片やアメコミSFのゴッサムシティ、もう一方は80年代位のメキシコに近いテキサスの街。舞台は全く異なる両者だが、それぞれの登場人物の位置づけは不思議なほど一致する。

頭の切れるベテラン保安官のエドは、古き良きアメリカの正義を体現するハービーデント
ベトナム帰還兵で国家を無条件に信用はできないが、一方で家族を捨てられないモスは、闇落ちしてしまったハービーデントを秩序を維持するためにヒーローに仕立てるバットマン
そして新しい世界を体現するシガーとジョーカー。

この点は、宇野常寛の「リトルピープルの時代」で指摘されていて、私も両方の映画を観たことはあったが、この本を読んで初めて気づいた。

しかし、エドとハービーデント、モスとバットマンが対応することは疑問はないが、シガーとジョーカーは、決定的に異なっている点がある。それは「目的」の有無だ。


シガー。超怖い。

ジョーカーには目的がある。それは、正義を堕落せしめることだ。映画中ジョーカーは自分の真の目的が正義の象徴であるハービーデントを堕天させることであるとバットマンに告げる。その目的は達成するが、船の爆破の罠、ゴッサムシティから逃げようとする一般市民を乗せた船と、囚人を乗せた船の両方に爆弾を仕掛け、どちらか一つしか助からない。先にボタンを押して相手の船を爆破させた方が助かる、という二者択一で、市民の「正義」を問うジョーカーに、囚人も市民もどちらもボタンを押さず、自らが犠牲になるという道を選ぶ(実際爆破はしなかったはず)。それを見たジョーカーは自身が敗北したことを悟る。

私はダークナイトのこの点が、結局市民が正義を忘れていないという結論が、甘っちょろいようで不満だ。しかし、そうでなければ、バットマンが「守ろうとしたもの」がクズであることを露見させてしまうので、仕方がないのかもしれない。

横道に逸れたが、シガーにはジョーカーのような目的がない。一応盗まれた金を取り戻すという依頼を受ける訳だが、機械のように任務を遂行するだけで、邪魔者は躊躇なく殺すが、そこのジョーカーのような自身の快楽のためのような、目的「意思」は一切存在しない。

「シガーとは一体何者か?」

町山智浩のインタビューだったか忘れたが、何かでバビエル・バルデム自身が、「シガーは運命そのものさ」と答えていた気がする。何の関係もない個人商店の主人にコイントスを要求し、負ければ射殺する。全く無慈悲に、それが当然だと言わんばかりに理不尽に死を突きつけるシガーは確かに運命のように荒れ狂う。モスは運命に抗って命を落としたのだ。

しかし、ラストでシガーはモスの妻にコイントスを迫る。しかし、妻はそれを拒否する。金は手元にはない、モスは死んだ。あなたは私を殺す理由がない。もし私を殺すなら、それは運命などではない。あなたの意思だ。運命を拒否する妻をシガーは射殺する。

しかしそれは、世界の外に存在し無敵を誇ったシガーが、自らの意思で目的で行動したが故に、世界に取り込まれることを意味する。それが証拠に、妻を殺してすぐ自動車事故に遭遇する。

もはや祖国や家族といった既存の正義が機能した世界は失われた。しかし、自らの石を完全に消去しない限り新しい世界は開けない。我々は、進むべき道を失ったノーカントリーを生きている。

最初は、シガーとジョーカーとは違う、と言いたかったのだが、シガーが自らの意志の下に殺人を犯していることを考えると、やはり同じなのかもしれない。バットマンはまだ既存の価値観が機能しているのだと隠蔽し、エドはもう自分の居場所は無いのだと気付きながら生きる。

Posted at 2020/03/14 02:22:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年03月11日 イイね!

タラレバ娘にダークナイトの面白さを注入したい(が難しい)

タラレバ娘にダークナイトの面白さを注入したい(が難しい)ちょっとメモ

東京タラレバ娘という漫画で、男のダークナイトの自慢が分からん、というシーンが出てくるが、この映画の意義を説明するのは意外に難しい。





この映画は3人の人物が対比して描かれる。

一方には、ハービー・デントというtheアメリカの正義を体現する検事が置かれる。金髪碧眼、頭は切れてスポーツマンで紳士という、アメリカという国が建国以来蓄積してきた価値観を結晶化したような存在だ。

正反対の位置には、ジョーカーという完全な愉快犯が置かれる。ジョーカーは、金銭的な欲望や政治的要求がなく、正義の堕落こそを目的としている。つまり、悪をなすという、本来であれば手段である行為自体が目的かしている(このハービー・デントとジョーカーとのちょうど中間に位置するのがバットマンになる。)。

そして、映画ではハービー・デントが、徹底的なまでに敗北する。両者の対比、つまり、アメリカが信じて疑わなかった絶対的な正義は、絶対的な悪というものが存在し、それには敵わないことが示される。

ダークナイトのラスト、ジョーカーを倒したバットマンは、悪に堕天したハービー・デントの罪を自らが被り、ハービー・デントを「悪と戦い殉職した正義の検事」というピエロにしたてゴッサムシティは秩序を回復する。正義は見せかけのハリボテであり、バットマンという「ダークナイト」が存在しなければ、もはや立ち行かないことを示したのが、このダークナイトという映画の意義だと思う(それを高いエンタメ性と高度に両立させた)。

しかし、だから何?と思うかもしれない。東京タラレバ娘の主人公もそう思ったことだろう。

この点は、絶対的な正義や、絶対的な悪といった二元論に慣れない日本人には理解しにくい気がするが、例えばグッドワイフというドラマで、主人公は旦那が選挙に出馬するとき「側に立ち、夫を支える」という「良き妻」であることを求められ葛藤する。

グッドワイフの舞台はシカゴであり、オバマの地元ということを考えておも、リベラル色が強いだろう。そのシカゴでさえ、このような保守的な、つまりアメリカが今まで信じてきた正義が息づいている。だからダークナイトという映画が価値を持つのであって、そのような正義のない日本ではピンと来ないのも無理はない気がする。

と、いう訳で下記のような、全てを無効化するチート武器みたいな感想のタラレバ娘に「ダークナイトの面白さを注入はできない」という結論になってしまった。



本当は、次のような点について整理したかったのだが、疲れたから明日にする。

1. ジョーカーと、ノーカントリーのシガーとの違いは何か?
2. ダークナイトのジョーカーと、ホアキン・フェニックスのジョーカーとの違いは何か?
3. 日本における「正義」とは何か?
Posted at 2020/03/11 01:40:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「ビート、手放しました。13年ありがとう! http://cvw.jp/b/410066/45136597/
何シテル?   05/23 22:55
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」
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