
こないだのメモの続き。
こないだのメモ
タラレバ娘にダークナイトの面白さを注入したい(が難しい)
ダークナイトとノーカントリーは、ほとんど同じ世界観を共有している、というと映画を知っている人にも奇妙は印象だろう。
片やアメコミSFのゴッサムシティ、もう一方は80年代位のメキシコに近いテキサスの街。舞台は全く異なる両者だが、それぞれの登場人物の位置づけは不思議なほど一致する。
頭の切れるベテラン保安官のエドは、古き良きアメリカの正義を体現するハービーデント
ベトナム帰還兵で国家を無条件に信用はできないが、一方で家族を捨てられないモスは、闇落ちしてしまったハービーデントを秩序を維持するためにヒーローに仕立てるバットマン
そして新しい世界を体現するシガーとジョーカー。
この点は、宇野常寛の「リトルピープルの時代」で指摘されていて、私も両方の映画を観たことはあったが、この本を読んで初めて気づいた。
しかし、エドとハービーデント、モスとバットマンが対応することは疑問はないが、シガーとジョーカーは、決定的に異なっている点がある。それは「目的」の有無だ。

シガー。超怖い。
ジョーカーには目的がある。それは、正義を堕落せしめることだ。映画中ジョーカーは自分の真の目的が正義の象徴であるハービーデントを堕天させることであるとバットマンに告げる。その目的は達成するが、船の爆破の罠、ゴッサムシティから逃げようとする一般市民を乗せた船と、囚人を乗せた船の両方に爆弾を仕掛け、どちらか一つしか助からない。先にボタンを押して相手の船を爆破させた方が助かる、という二者択一で、市民の「正義」を問うジョーカーに、囚人も市民もどちらもボタンを押さず、自らが犠牲になるという道を選ぶ(実際爆破はしなかったはず)。それを見たジョーカーは自身が敗北したことを悟る。
私はダークナイトのこの点が、結局市民が正義を忘れていないという結論が、甘っちょろいようで不満だ。しかし、そうでなければ、バットマンが「守ろうとしたもの」がクズであることを露見させてしまうので、仕方がないのかもしれない。
横道に逸れたが、シガーにはジョーカーのような目的がない。一応盗まれた金を取り戻すという依頼を受ける訳だが、機械のように任務を遂行するだけで、邪魔者は躊躇なく殺すが、そこのジョーカーのような自身の快楽のためのような、目的「意思」は一切存在しない。
「シガーとは一体何者か?」
町山智浩のインタビューだったか忘れたが、何かでバビエル・バルデム自身が、「シガーは運命そのものさ」と答えていた気がする。何の関係もない個人商店の主人にコイントスを要求し、負ければ射殺する。全く無慈悲に、それが当然だと言わんばかりに理不尽に死を突きつけるシガーは確かに運命のように荒れ狂う。モスは運命に抗って命を落としたのだ。
しかし、ラストでシガーはモスの妻にコイントスを迫る。しかし、妻はそれを拒否する。金は手元にはない、モスは死んだ。あなたは私を殺す理由がない。もし私を殺すなら、それは運命などではない。あなたの意思だ。運命を拒否する妻をシガーは射殺する。
しかしそれは、世界の外に存在し無敵を誇ったシガーが、自らの意思で目的で行動したが故に、世界に取り込まれることを意味する。それが証拠に、妻を殺してすぐ自動車事故に遭遇する。
もはや祖国や家族といった既存の正義が機能した世界は失われた。しかし、自らの石を完全に消去しない限り新しい世界は開けない。我々は、進むべき道を失ったノーカントリーを生きている。
最初は、シガーとジョーカーとは違う、と言いたかったのだが、シガーが自らの意志の下に殺人を犯していることを考えると、やはり同じなのかもしれない。バットマンはまだ既存の価値観が機能しているのだと隠蔽し、エドはもう自分の居場所は無いのだと気付きながら生きる。
Posted at 2020/03/14 02:22:12 | |
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