
ちょっとメモ
東京タラレバ娘という漫画で、男のダークナイトの自慢が分からん、というシーンが出てくるが、この映画の意義を説明するのは意外に難しい。
この映画は3人の人物が対比して描かれる。
一方には、ハービー・デントというtheアメリカの正義を体現する検事が置かれる。金髪碧眼、頭は切れてスポーツマンで紳士という、アメリカという国が建国以来蓄積してきた価値観を結晶化したような存在だ。
正反対の位置には、ジョーカーという完全な愉快犯が置かれる。ジョーカーは、金銭的な欲望や政治的要求がなく、正義の堕落こそを目的としている。つまり、悪をなすという、本来であれば手段である行為自体が目的かしている(このハービー・デントとジョーカーとのちょうど中間に位置するのがバットマンになる。)。
そして、映画ではハービー・デントが、徹底的なまでに敗北する。両者の対比、つまり、アメリカが信じて疑わなかった絶対的な正義は、絶対的な悪というものが存在し、それには敵わないことが示される。
ダークナイトのラスト、ジョーカーを倒したバットマンは、悪に堕天したハービー・デントの罪を自らが被り、ハービー・デントを「悪と戦い殉職した正義の検事」というピエロにしたてゴッサムシティは秩序を回復する。正義は見せかけのハリボテであり、バットマンという「ダークナイト」が存在しなければ、もはや立ち行かないことを示したのが、このダークナイトという映画の意義だと思う(それを高いエンタメ性と高度に両立させた)。
しかし、だから何?と思うかもしれない。東京タラレバ娘の主人公もそう思ったことだろう。
この点は、絶対的な正義や、絶対的な悪といった二元論に慣れない日本人には理解しにくい気がするが、例えばグッドワイフというドラマで、主人公は旦那が選挙に出馬するとき「側に立ち、夫を支える」という「良き妻」であることを求められ葛藤する。
グッドワイフの舞台はシカゴであり、オバマの地元ということを考えておも、リベラル色が強いだろう。そのシカゴでさえ、このような保守的な、つまりアメリカが今まで信じてきた正義が息づいている。だからダークナイトという映画が価値を持つのであって、そのような正義のない日本ではピンと来ないのも無理はない気がする。
と、いう訳で下記のような、全てを無効化するチート武器みたいな感想のタラレバ娘に「ダークナイトの面白さを注入はできない」という結論になってしまった。
本当は、次のような点について整理したかったのだが、疲れたから明日にする。
1. ジョーカーと、ノーカントリーのシガーとの違いは何か?
2. ダークナイトのジョーカーと、ホアキン・フェニックスのジョーカーとの違いは何か?
3. 日本における「正義」とは何か?
Posted at 2020/03/11 01:40:04 | |
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