• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ザクとは違うのブログ一覧

2025年08月15日 イイね!

戦後80年に寄せて

今日は8月15日。言わずと知れた「終戦記念日」です。
「敗戦」でなく「終戦」という言葉を使うことに違和感はありますが、ここではそれを論じません。

今年は戦後80年。
10年スパンで考えると戦争経験者から生の声を聴けるほぼ最後のチャンスでしょう。
しかし日本社会ではあの戦争の正式名称すらはっきりせず、若い世代に至っては何が起こったのか全く知らないという人も増えつつあるようです。
半藤一利氏、猪瀬直樹氏、司馬遼太郎氏など多くの作家は「あの戦争終結は日本が経験した最大のパラダイムシフトだった」との考え方などに基づき、深く考察されています。私も彼らの著作をいくつか読み、その思いを強くしています。
そのような大きなポイントである戦争(ここでは仮に「太平洋戦争」と呼称します)に、当時の日本はなぜ突っ込んでいったのかについて考察してみたいと思います。

ちなみに史実では日清・日露戦争の勝利した勢いで日中戦争へ突入。しかし国民感情を帝国主義へ煽ったはいいが国力がついていかず泥沼化、1937年以降、中国戦線は拡大の一方で、膨大な戦費が必要になりました(ちなみに日中戦争開戦前の陸軍は天皇に対し「半年で終わらせる」という説明でした)。
日本の動きに警戒感を強めた米英は経済制裁で圧力をかけ、日本は石油・鉄鋼など戦争継続に不可欠な資源を失う危機に直面します。
そして資源確保には南方進出しかないと判断され、「たぶん米英は気にしないだろう」と思っていた南部仏印(フランス領インドシナ)侵攻をきっかけにしてアメリカの対日石油禁輸が発動。こうなると「早期に開戦しないと戦争遂行能力がどんどん落ちていく」という切迫感が生まれ、太平洋戦争に突っ込んでいきました。

太平洋戦争での「敵国」はアメリカ・イギリス・中国などのいずれも大国で、特にアメリカは圧倒的な軍事力とそれを支える生産力や技術力があり、当時の天皇及びその側近、首相だった東条英機を始め、国の指導者たちの多くは彼ら全てを相手にしても絶対勝てないことが分かっていました。
それなのになぜ戦争を始めてしまったのか。

巷間よく言われるのは「陸軍悪者論」です。
明治憲法下では、陸海軍は首相や議会の指揮を受けず、天皇直率の「独立権限」を持っていました。これにより、軍部は内閣に従わなくても政策を推進でき、内閣総辞職や方針転換を強制する力を持っていました。
また2・26事件に象徴されるように陸軍の青年将校層(特に中堅以下)は反政党・反財閥・反英米的な国粋主義思想を強く抱き、軍部内で発言力を得ていき、その勢いは政府や軍高官のみならず、天皇ですら止められませんでした。
この組み合わせにより政治と軍部の関係性が軍優位となり、軍部が事実上拒否権を握る構造になっていたので、負けると分かっている戦争に突っ込んでいったという考え方です。
ちなみに「海軍は被害者」という考え方は誤りです。太平洋戦争は海での戦いが中心となるため陸軍が主導できず、そのため海軍に対して「勝てるか」と尋ねていますが、海軍は「1年や2年なら暴れて見せる」と回答しています。つまり「負けるから戦うべきでない」と言っていないのです。これは負けると言ってしまうと軍備予算を陸軍にごっそり持っていかれるからという政治的な側面もありますが、「海軍は弱腰だ」との批判を避けたいという組織防衛的思想が先行したのが実情でしょう。従って陸軍だけが悪者ではなく、当時の指導者全体が適切な判断能力を欠いていたと言えます。

ふたつ目の要素として「国民の世論」があります。
日露戦争に勝って以降、日本人全体のプライドが高くなり列強の仲間入りをしたのだと勘違いしてしまいました。実際には明治維新以降の近代化はまだ不十分で、産業革命から100年以上の蓄積と進化を続けてきた欧米のレベルには遠く到達していませんでした。例えば太平洋戦争開戦時(1941年)には欧米では各家庭に冷蔵庫や洗濯機があるのが普通で、道路も舗装されていましたが、日本では一般家庭に電化製品はほぼ無く、舗装道路は都市部の主要道路に限られていました。
そうした環境にありながらそのプライドを好戦的プロパガンダで更に煽ったのが軍部です。
1930年代には新聞・ラジオが戦意高揚に寄与し、反戦的な論調はほぼ封殺されました。民間も「引き下がれば国辱」という感覚に染まっていき、世論の多数派は対米強硬策を支持する方向に傾きました。
こうして必敗確定と分かっていながら、自ら煽った世論に抗しきれずに戦争に突入してしまったという考え方です。
余談ですが、最近はファクトチェックが話題に上りますが当時はそうした意識も無く、正確でない情報で世論操作されていく時代でした。これは現代にも通じる大切なポイントだと思います。

3つ目の要素は「植民地政策の潮流」です。
当時の列強諸国は南半球などに植民地を持っており、そこからさまざまなものを収奪することにより国を豊かにしていた時代でした。しかし日本は第一次世界大戦にほとんど関わらなかったこともあって、持っていた植民地は朝鮮、台湾、南洋諸島に限られ、石油やボーキサイトなどの戦略物資が安定的に輸入できる状況にありませんでした。この状況に至るまでには鎖国明けが遅かったため、世界の潮流に乗り遅れたという要素もあるでしょう。
第一次世界大戦で敗けたドイツはその挽回を目指してポーランド侵攻を始めとして周辺諸国を蹂躙。こうした動きに日本も乗り遅れるなという意識が国の指導者たちにあったのだろうという考え方です。

もう一つの要素として「日本人の精神論偏重主義」もあります。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言われるように、日本は昔から精神論に重きを置いてきた歴史を持ちます。鎖国によって文明の発達が遅れ、自然との共存生活が文化となっていたという経緯も無視できないでしょう。
こうした歴史の中で明治維新後の文明開化で物質による豊かさが実感されるようになりましたが、いかんせん原材料が産出されない国だったため、それを精神論で補おうとし、その考え方は軍隊にも適用されています。日清日露戦争の勝利の過程で「歩兵による突撃を繰り替えせば勝利を得られる」「1回の大海戦で圧倒的勝利を得られれば、それで戦争は終わる」という成功体験をしてしまったことが、その思想を強化した側面はあるのだろうと思います。明治の成功を昭和にまでひきずって第一次世界大戦での総力戦の意味を理解しようとしなかったのは悲劇としか言いようがありません。
とはいえ、総力戦が続けられるほどの国力を持っていないがために、精神論に頼らざるを得なかった側面も否定できませんが。

こうした考察を進めていくと、太平洋戦争は半ばなし崩し的に始めざるを得なくなってしまったものであり、開戦は不可避だったのではないかと思えます。
その部分について、もう少し深堀りしましょう。
本来、開戦という重大な決断をするには、何らかの見込み(勝算)が必要です。
特に対アメリカという点では、一部の軍幹部(山本五十六、井上成美など)は駐米経験があり、日本との国力の違いを肌で感じており、「長期戦になれば負ける」と理解も出来ていました。
しかしそうした経験のない幹部は
 「奇襲成功すれば米国は講和に応じる(これによって真珠湾攻撃を立案)」
 「アメリカ軍は遊興に溺れているので弱い(根拠のない推論)」
 「欧州戦線で米国は手一杯になる(ドイツの勢い継続が前提)」
などの楽観的想定で短期決戦論に傾きました。こう考えた背景には、日本の継戦能力の低さがあったのも事実でしょう。また経済封鎖で戦力低下が不可避なら、戦えるうちに開戦して条件を有利にする、という発想もありました。
南部仏印侵攻の時、米からは「中国戦線から全面撤退すれば石油を再輸出してもよい」と言われていますが、これまでの対外政策を全否定する譲歩は、軍部・政府ともに政治的自殺行為とみなされました。「戦わずして退く=国辱」という集団心理が意思決定を硬直化させています。内部で異論を唱える者は「弱腰」とされて排除され、その結果、必敗の戦争も「全員一致の幻想」で承認されました。
このように太平洋戦争開戦直前の時期では既に選択肢が「開戦」しかない状況に追い込まれていたと言え、その当時の指導者たちの判断能力の優劣のみを論拠として「戦争は避けられた」と考えるのは早計に思われます。
これは日本だけに限らず、世界各国特に列強でも「外交で課題解決」という選択よりも軍事力行使による国家経営の安定化は一般的な認識でした。事実、米国はフィリピン、英国はマレー・ビルマ、蘭は東インドを押さえていますし、ドイツやイタリアも、資源・植民地不足の焦燥感から拡張政策を強行し、結局英米と衝突しました。その意味でも太平洋戦争開戦は必然的な流れであったとも言えると思います。「時代の国際構造に組み込まれた罠にはまった」と言えるかもしれません。

では、いつ決断していれば太平洋戦争は回避できたのでしょうか。
いくつかの仮想を検証していきます。

仮想ルート①「日中戦争を早期に終結させる」
想定:1938~39年あたりで停戦し、満州以外から撤退。米国の経済制裁を回避する。
なぜ無理か:
満州事変以降の軍部・国民世論は中国市場・資源を死守すべきと考えており、撤退は「国辱」。
膨大な戦死者・戦費を費やした直後の撤退は政治的自殺行為。軍内でも容認されず、政府は機能不全。
仮に撤退しても、長期的には資源不足が再発し、再び拡張衝動が起こる可能性が高い。

仮想ルート②「南方進出を諦め、米英との衝突を避ける」
想定:蘭印・マレー・フィリピンの資源地帯に手を出さず、平和貿易で資源輸入を継続。
なぜ無理か:
米国の石油禁輸は日中戦争の継続そのものをターゲットにしていたため、中国から撤退しない限り制裁は解除されない。
制裁下では半年~1年で軍備も経済も立ち行かなくなるため、「戦わずして詰み」という状況。
軍部は「戦えるうちに戦う」方がまだマシという判断に傾く。

仮想ルート③「満州も中国本土も取らず、列強の経済圏に組み込まれる」
想定:英国型の半従属国として、米英の保護下に入る。安全は保障されるが自主性は制限される。
なぜ無理か:
日露戦争以来の「列強並み」という国家アイデンティティを捨てる必要があり、政治・国民感情的に不可能。
軍部・政界・財界すべてが「自主独立」を至上命題としていた。
英米の庇護下に入れば、軍備削減・関税制限などで国内勢力の利権が失われ、強烈な反発が起きる。

仮想ルート④「徹底した内需型経済・小国路線への転換」
想定:スイスや北欧諸国のように軍備を最小限に抑え、外交中立で生き延びる。
なぜ無理か:
資源ゼロの日本が外部貿易を断たれれば即死状態。スイスや北欧は周囲との交易で資源を得られたが、日本は海上輸送依存。
世界大恐慌以降はブロック経済化が進み、中立国であっても資源確保は困難。
軍部・国民とも「縮小均衡で満足する」発想がほぼ存在せず、世論支持も得られない。

仮想ルート⑤「ソ連と同盟し、米英との衝突を避ける」
想定:日ソ中立条約をより早く、より強固にし、中国・南方を諦めて北方協調することでソ連の石油を得る。地政学的にも優位。
なぜ無理か:
満州・北支の利権を巡って日ソは根本的に利益が対立。
ソ連は対独戦に備え、東アジアでの影響力を弱める気がなく、完全同盟は非現実的。
国内的にも「反共産主義」が国家理念レベルで刷り込まれており、国民・軍部の受け入れは困難。

こうして見ると、開戦を避けるシナリオは理論上存在しても、国内政治・世論・軍事構造・国際環境のいずれかで必ず破綻します。つまり「当時の構造に置かれた国なら日本でなくとも同じ道を辿る」ということとなります。
回避可能な分岐点があるとすれば1931〜37年初期まででしょう。満州事変や日中戦争初期で撤退すれば、外交的孤立や経済制裁は軽減可能です。しかし国民感情・軍部構造がすでに硬直化しており、現実には不可能に近いですね。
以後は中国戦線拡大 → 資源消耗 → 南進不可避 → 米英と衝突、という一方向の袋小路化。1939年の通商条約破棄時点で対米対立は不可逆的に確定します。1940年以降は制裁下で資源枯渇が迫り、外交交渉は相手の最大要求(中国全面撤退)を受け入れない限り成立しない構造で、開戦か屈服かの二択に追い込まれ、時間との戦いです。

なんと救いのない展開でしょう…
このように見てくると、あとは「始めてしまった戦争をいかに終わらせるか」に焦点を移さざるを得ない気がします…。


長い文面をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
そのような高い意識を持った皆様方には、太平洋戦争は「過去の出来事」ではなく、「今後の日本に示唆を与える貴重な史実」と捉えて頂きたいと考えています。
いつの世にも戦争は尽きません。しかしなぜそうなったのか、そこで何が起きるのか、そしてどう終わらせるのかといった一連の流れを意識していくことは、人の命を守っていくために大切なことなのだと思います。

繰り返しますが、今日は戦後80年の日。
この機会に少しだけ考えてみてはいかがでしょうか。


本ブログについて様々なコメントが寄せらせると想定しています。
コメントは自由に入れていただいて構いませんが議論する気はありませんので、悪しからずご了承ください<(_ _)>
Posted at 2025/08/15 20:44:05 | コメント(0) | ダークツーリズム | その他
2024年03月04日 イイね!

激戦地ソロモン諸島 残された戦争の爪痕

備忘ブログです。
先日、ブログタイトルの番組をNHKでやってました。既に放送内容は見られないので、概略を記しておきます。

太平洋戦争の激戦地・ソロモン諸島。
ここでは未だに戦争当時の不発弾がたくさん見つかります。
中には、友人を呼んでのパーティー中に突然爆発し、数名が亡くなったことも。こうした事件により毎年20人以上が亡くなっており、住民の方々は常に怯えて暮らしています。
その一方で不発弾の火薬で作った手製の爆弾で違法な(危険な)漁業をする人も。
こうした状況でありながら、現地には不発弾処理の技術もそのための人員も予算も乏しい状態。原因者たるアメリカや日本による支援は一昨年あたりに始まったばかりです。
ソロモンのような途上国支援には中国も乗り出しており、事態は更に複雑な様相…

といった概要でした。
国内の不発弾発見は今でも時折ありますが、自衛隊や警察消防などの活動により安全に対処されていますし、発見の頻度もさほどではありません。むしろ「まだ残っているのか」とか「もう爆発なんかしないだろう」などと思っていました。
しかしソロモンに限らず、特に戦地となった途上国では同様の状況なのだろうと思います。

しばらく前から国内の戦争遺産を見学してまわっていますが、その対象は日本軍の作った施設がその殆どです。
しかしどの国が作ったにせよ、現在にまでその脅威を感じさせ続ける不発弾は、紛れもなく戦争遺産。

日本国内で発見されるアメリカが落とした不発弾の処理は、日本がやっています。アメリカは人も金も出しません。
何故か。

シャア「坊やだからさ」

違いますw
日本が他国を侵略したペナルティ?
敗戦国だから自己責任?
不発弾処理技術を持っているから援助の必要が無い?
日本やドイツの場合、そうした考え方が当てはまるのかもしれません。
しかし勝手に他国が自国を蹂躙してきたという国々は純粋な被害者ではないでしょうか。ならば蹂躙した側に責任があるのではないでしょうか。
日米による援助は戦後80年近く経って漸く始まりました。時既に遅いとは感じますが、中国などとの争いとは切り離して更に積極的に進めるべきだと思います(様々な事情で難しいとは思いますが…)。

今回の番組は、いつまでも人々を苦しめる戦争の愚かさを改めて感じさせてくれる報道であり、その制作意図を心に刻み付けなければならないと思いました。
Posted at 2024/03/04 20:58:29 | コメント(2) | ダークツーリズム | 趣味
2024年02月14日 イイね!

愛知県内戦跡巡り(知多半島編)

愛知県の知多半島に散在する戦跡めぐりもしてきました。
まず訪れたのは半田市。
ここには赤レンガ倉庫があります。



戦時中は中島飛行機の衣糧倉庫だったそうです。
外壁にはこんな破損部が。

これは昭和20年の空襲時に米軍戦闘機P51の機銃掃射を受けたものだそうです。
建物は住宅展示場の一角で物販と飲食の店舗として使われていますが、戦後はカブトビールの工場として利用され、復刻版のビールも売ってました。

戦争の遺物もこうした平和利用をしながら戦争を伝えているんですね。

ここから少し東には旧中島飛行機半田製作所の滑走路がありました。
当時の写真と比較してみます。

それぞれの右上にあります。GoogleMapでは緑色の旗が立っている場所です。
現在、その痕跡は全く残っておらず、広い平地に古い住宅や田畑が広がっていますが、当時はこのあたりに兵舎や工場などが立ち並んでいたのでしょう。


更に南下した先には河和海軍航空隊の跡地があります。
ここは前回ブログで記載したように、水上機の搭乗員や整備兵の養成所でした。
現在でも海へ伸びるスロープが3箇所残っています。
第2と第3は東向きで、第2は幅数百mもあり、国内最大規模なのだそうです。


北向きに設置された第1は下に降りられます。


浸食によりかなり破損していますが、形はまだ十分に残っています。
終戦間際にはここでも特攻兵が養成されたようです。悲しい歴史ですね。

そして最後に行ったのは師崎。知多半島の先端です。ここにはお城もあったのですが、駐車場が満車で入れずorz
少し引き返した所に、特攻専用モーターボート震洋の格納庫が残っています。


金網が設置されていて中には入れないので、腕だけ伸ばして内部を撮影。


震洋は木製で、船首に大量の爆薬を積み込み、そのまま敵艦に突っ込むというもの。突入までに撃沈されることは誰の目にも明らかですが、当時の軍部はそういう常識的な発想が出来ないほど狂っていたのでしょう。
ここには説明板などもなく、薮に覆われているので道路脇ではありながら人目にも付きづらいです。

いつも思うことですが、こうした戦争の遺産はきちんと保存し、後世の私たちが戦争について考える機会を作るというのは大切なことだと思います。
お金や手間ひまがかかるのは分かりますが、なくなってしまう前に保存されるといいのですが…。

さてその後はキャンプ場へ。
今回は半田市内にあるとあるキャンプ場で、いつものようにまったり過ごしました。





場内には梅もちらほら。
そうだ、次回は梅キャンプにでも行こうかな~♪
Posted at 2024/02/14 22:43:15 | コメント(1) | ダークツーリズム | 旅行/地域
2024年02月14日 イイね!

愛知県内戦跡巡り(岡崎の戦艦長門編)

今年のキャンプは例年よりペースが早く、既に6回目を数えます。ペースが上がると高速代やガソリン代もバカになりませんが、愛知県内なら近いし、場所によっては下道でも行けます。
ということで、道中はいつもの城跡めぐりに加え、戦跡めぐりもしてきました。
まずは岡崎市の東公園。
ここにはなんと戦艦長門の副錨が置かれています。




その脇には日清戦争で活躍した「三景艦」の主砲弾も置かれていました。

建てられている説明板では、長門の副錨はビキニ原爆実験時の遺品と書かれていますが、昭和9年の大改装時に撤去した右舷艦首のものという説もあるようです。
ビキニでの長門は最初の爆撃ではビクともしなかったため、どうしても沈めたい米軍によって機雷を装着されました。それでも2度目の爆撃(一回目より爆心地に近かった)後、まだ浮いていたそうですが、4日後に沈みました。
この状況で副錨を持ち帰ろうとすると、ビキニ回航前に外しておくか、沈没後に引き揚げるかのいずれかと思われますが、どちらもあまり現実的とは思われません。
とすると、やはり大改装時の撤去?
このあたりは新たな証拠が出てくるのを待ちましょう。

しかしなぜ海の無い岡崎に長門?
これには岡崎に海軍航空隊が置かれていたからという説もあるそうです。
ちなみに岡崎空は主に航空機整備兵の養成を行っていました。岡崎は設立がミッドウェー敗戦後で、その前身は同じ愛知県内の河和海軍航空隊。河和では水上機を扱い、その整備兵に加え搭乗員も養成していました。
Wikiによれば二式水戦や強風などが配備され、B29を墜としたこともあるとか。
●二式水戦

●強風

ここから先は根拠の無い推測。
河和から分派された岡崎も水上機整備要員を養成していたと思われます。
時は戦争終盤。人材不足の海軍は航空隊の教官をフネに乗せるようになり、岡崎の教官は長門に乗り組むことに。
そして終戦。
その教官が戦後、防衛省に勤めることとなり、思い出の長門の副錨が保管されていると知り、その人の力により地元・岡崎へ譲ることになった…なーんて。
事実は関係者に聞いてみないと分かりませんね。

文章も長くなってきたので、続きは次のブログで。
Posted at 2024/02/14 22:02:22 | コメント(2) | ダークツーリズム | 旅行/地域
2023年12月05日 イイね!

「戦なき世」は作れるか(前編)

もう2週間もキャンプに行っていないザクとは違う。ぼちぼち禁断症状が出てくる=心が疲れてくる頃です。
これはいかん。
日曜出発月曜帰りならキャンパーも少なかろうということで、その行程を組みました。
まず訪れたのは愛知県安城市にあった明治航空基地跡。
太平洋戦争も後半になると飛行機パイロットが不足してきたため、その養成が急務となりました。このため横須賀海軍航空隊により建設されたのが、明治航空基地。
現在は田畑や工場などのある広大な平地に多くの滑走路があったようです。
八剱神社のすぐ近くには基地があったことを示す石碑が立てられています。


基地の遺構は殆どが破壊されてしまいましたが、一部残っているものも。
こちらは特別養護老人ホームの敷地内にある燃弾庫。


当時から構造物の上には隠蔽用の土が被せられていて、扉以外はほぼ完全な形で残っており、正面には説明板も立てられています。

ここにはドラム缶に詰めた航空燃料や機銃弾などを保管していたようです。
決して大きな構造物ではないので、こうしたものを周辺に幾つも作ったのでしょう。

その奥に入っていくと…

天井に空気取り入れ口の跡がありました。
外に出て上に登ってみましたが、煙突らしきものは見当たらなかったので撤去されているようです。

この他、周辺にはレンガ積みの建物跡?などがいくつか残存しているようです。
しかし↑の燃弾庫以外の保存状態はかなり悪いようです。
戦跡巡りをする度に思いますが、不戦の誓いを立てるにあたってこうした遺構が身近にあるかないかは大きな違いになると思うので、今からでも保存に向けた取組みを進めてほしいものです。

こちらの基地で養成されたパイロットは、昭和20年になると鹿児島の基地へ移動し、4月7日の天一号作戦に出撃した方もいらっしゃったそうです。
4月7日と言えば、戦艦大和を旗艦とする計10隻の艦隊が海上特攻として沖縄に向かっている日です。
その日は航空機による特攻などによる大和艦隊の側面支援を行っており、その一部に明治航空基地の隊員が入っていたんですね。
そのうち何名が生還できたのでしょうか…。

時々言われるのは、戦争で亡くなられた方々の尊い犠牲の上に今の平和があるのだと。
そのこと自体を否定しようとは思いませんが、そうした犠牲を払わないと戦争のない世の中を作ることは出来ないのでしょうか。


この日はもう少しドライブが続きますが、文章も長くなってきたので、残りはまた次のブログで。

★フォトアルバム:明治航空基地跡(愛知県安城市)
Posted at 2023/12/05 21:26:17 | コメント(0) | ダークツーリズム | 旅行/地域

プロフィール

「重巡鳥海の製作(煙突の工作その1) http://cvw.jp/b/488285/48625038/
何シテル?   08/29 07:11
模型工作とキャンプが大好きなヘタレをやぢです。 私がフォローする方には2種類あります。 一つは「以前からのみん友さん」 もう一つは「ちょっと興味を持っ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3 456789
1011121314 1516
171819202122 23
2425262728 2930
31      

リンク・クリップ

エアコンパイプの断熱 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/09/22 18:04:47
耐熱ホースカバー取付(冷却効果UP) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/09/22 18:02:04

愛車一覧

ホンダ シャトルハイブリッド イフリート (ホンダ シャトルハイブリッド)
イフリート初号機です。 前車・プレマシーに比べ排気量が△500CCなので、若干の非力さは ...
その他 キャンプ その他 キャンプ
我が家の行ったキャンプ場をまとめておく場所です。
その他 その他作業記録 その他 その他作業記録
1/700を中心とした艦船模型についてのまとめです。
その他 その他作業記録 その他 その他作業記録
ガンプラ製作の記録です。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation