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ザクとは違うのブログ一覧

2025年04月26日 イイね!

ろうがんず杯前の城攻め(小田原城&温泉編)

無事、石垣山城を攻略したので、次はいよいよ小田原城です。
お城と言うと多くの方は立派な天守閣とその周囲の本丸や水堀を思い浮かべるのではないかと思います。小田原城もそのような場所が公園となっていて自由に出入りできるようになっています。
しかしこの城の最大の特徴は「総構え」です。
総構えとは、城の施設の周囲を取り囲む町並みや農地など全体を堀や塀などで取り囲んでしまうという作り方。こうすることで、長期の篭城戦に耐えられるようになります。

まずはその外郭部分の堀を攻めてみます。
本丸から北西方向へ1kmちょっと行ったところにある観光用駐車場に停めて、見学開始。
すぐ近くに小峯御鐘の台大堀切があります。


これはすごい…。
現在の高さは7~8mくらいですが、これは400年以上の歳月の風雨で堀底が埋まってしまった結果で、当時は10m以上の高低差があったそうです。
しかも関東ローム層は粘土質なので、45°以上の急斜面は滑りやすく登りづらい。更には堀底にワッフル状の構造物・いわゆる障子堀が作られていたので、兵の移動範囲も限られます。

階段が作られている場所を登っていくと堀の内側に至ります。そこはこんなに広大。

これだけ広ければ、かなりの大軍を配置することか出来ます。
堀だけでも恐ろしいのに、更に大軍から鉄砲や矢、石などを打ち掛けられるのだと考えると、この城の攻略には100万の大軍をもってしても不可能ではないかと感じました。

ここ以外にもいくつもこうした堀跡が残っており、総延長9kmに及んでいたそうです。
総構え、恐るべし…






総構えの内側には小田原古城もありました。
現在の小田原城からJR線を挟んだ反対側のあたりにあったそうで、現在は城山公園とされる小高い丘の上です。このあたりは市民の使うテニスコートやグランドなどや小田原高校が立ち並んでおり、週末も高校生の声が聞こえるという環境。
そんな場所の一角に古城の跡がひっそりと残っていました。


途中、高校のグランド脇を歩いていると、高校生から「こんにちは!」と明るく声をかけられて少し怯んだのは秘密です(*^^*)
でも気持ちのいいものですね。


さて次はいよいよ城の中心部へ入っていきます。
ちなみに現在の天守閣や門などの配置や構造物は江戸時代のものであり、戦国期の小田原征伐時のものとは異なります。小田原征伐時には本丸などに石垣は使われていなかったようで、江戸時代に大久保氏が城主になって以降、関東で初めて総石垣作りとされたのだそうです。
推奨ルートは東側から。周囲には広い水堀が広がっており、頑丈な橋がかかっていますが、当時はすぐ落とせるように木製でした。その奥には大きな馬出門があります。


ここは馬屋曲輪となっていますが、まっすぐ行った正面には壁がなく、水堀がある向こう側に二の丸の壁があります。これは二の丸側から壁越しに鉄砲や矢を打ちかけられるようにするための作りです。
そこを左に折れるとまた門があり、そこを抜けると広大なエリアが広がります。



ここの角には隅櫓があったようですが、再現はされていません。
馬屋曲輪の周囲は高さ2mくらいの土塁が築かれていますが、その上にあがるための斜めの石段が作られていました。

現在はきれいに積みあがっていますが、当時はもう少し荒っぽい作りだったそうです。斜めの石段は他の城では見たことがなく、珍しいものです。

その隣には御茶壺曲輪が広がります。


さて、馬屋曲輪に戻って立派な銅門(あかがねもん)をくぐると、その先にはこれまた広大な二の丸が広がっています。




敷地内には小さな資料館(歴史見聞館)も建てられています。中には入りませんでしたが、きっと貴重な資料が数多く所蔵されているのではないかと思います。
二の丸から本丸を挟んだ反対の西側には、二の丸から一段下がって児童遊園が作られています。
小さな汽車などに乗ることが出来るので、子供達には人気でしょう。少し前に行った小牧山城にも同様の施設が作られていた時期があります。お城が市民の憩いの場として認識されていたことの証左でしょうね。遺構が破壊されてしまうという問題はあるものの、小さな子供時代からお城という世界に親しむという点では意味のあることかもしれません。

そしていよいよ本丸へ。
本丸の周囲は大きな堀が築かれており、中に入るには木橋を渡っていく必要があります。


立派な木橋ですが、大正13年の関東大震災で崩れてしまったそうで、現在あるものは当時より2mほど低い位置に架けられているとのことでした。
その先には桝形が作られ、そして巨大な鉄の門・常盤木門(ときわぎもん)があります。



たいそう立派な門で、よく見ると鬼瓦には三つ葉葵があしらわれていました。

徳川の時代に作られたということがよく分かりますね。
その先にはこれまた広大な本丸があります。


これほど広い本丸の敷地になっているということは、天守閣手前のエリアに賓客対応用の御殿が作ってあったのでしょうね。当時を思い起こさせるような風景です。
そして天守閣。




舐めまわすように見てしまいました(笑)
巨石を積み上げた豪壮な石垣、その上に立つ3重4層の建物。地面からの高さは国内で2番目なのだとか。石垣だけで相当高さを稼いでいるとは思いますが(汗)
普通の人ならこの勢いで天守閣内部を見学し、最上階から小田原市街を眺めるという流れになりますが、私はここで退散。
私の場合、天守閣や櫓などの建物よりも、総構えのような大規模土木工事に興味を引かれる性質でもあるし、防衛拠点であるお城が攻められたという状況の中で、本丸や天守閣にどんな防御施設を備えていようが、そこまで攻め込まれている時点で敗北確定なので、そこに興味がわかないのです…。へそ曲がりでスミマセン<(_ _)>

その後、少し東へ移動して総構えの土塁へ。
新玉小学校脇に当時の土塁が残っているのですが、実はその一か所に太平洋戦争末期の米軍空襲による弾着跡が残っています。



差し渡し10m以上はあろうかという広範囲にわたって大きく土塁がえぐられており、その威力の大きさをまざまざと実感させます。そしてこの空襲により数名の方がお亡くなりになっています。やはり戦争は恐ろしい。

さて、2か所の城攻めをがっつりと行って一汗かいた後はやはりお風呂!
弾着跡からほど近い場所に地元で愛される銭湯があるので、そこへ立ち寄りました。


入湯開始時刻すぐに行ったのですが、既に満員で入れず、少し待ったあとにようやく脱衣場へ。
番台は昔ながらの男女脱衣場の真ん中にあるタイプ。昭和感バリバリの世界にちょっとほっこりします♪
決して広くない浴室内には蛇口が8か所程度あり、ケロリン桶で流します。
浴槽も4~5人入ればいっぱいになるような小さなもので、その壁には富士山や松の木が描かれていました。昭和~♪
こうしたお風呂には地域のお年寄りばかりが集まっているのが一般的ですが、ここはそうした人たちに加え、30~40代の若い人たちが多く利用しており、その人たちが体の不自由なお年寄りが立ち上がる際に手助けするという姿さえ見かけました。なんと暖かい人たちなんだろう…。小田原、いいところですね(^^)

この日は少し東に走ったとある公園駐車場で車中泊。
翌日はいよいよ「ろうがんず杯2025」本選です!


★小田原城の画像の数々はこちらに保存しました。
小田原城(神奈川県小田原市)
Posted at 2025/04/26 11:40:27 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域
2025年04月22日 イイね!

ろうがんず杯前の城攻め(石垣山城編)

4月に入って年度も切り替わりかなり多忙な日々。一日の仕事を終えて帰宅後に夕飯を食べ終わるともうぐったりで、以前のように模型工作に勤しむ気力すら残っていないほど。
私も歳取ったなぁ…と感じます。
そんな中ですが、単なる参加のみというつもりだったはずの「ろうがんず杯」の1次予選を通過し本戦出場が決まって会場への召集令状が届きました。
どうやら今回の応募数は過去最大だったらしく、その中でヘタレモデラーである私の作品が
選ばれるなど有り得ないはずですが、それでも本戦出場の栄光を頂けたなら参戦しないわけにはいきません(^^)

本線は4月20日(日)に神奈川県横浜市のたまプラーザで行われます。
よし、せっかくの機会だから、小田原城を攻めるか!
全国的に有名なお城はだいぶクリアしていますが、実は大阪城と小田原城は未攻略なのです。
ということで、前日の土曜日に行くことにしました。

豊臣秀吉による小田原征伐では、小田原城近くの山間にある日突然巨大な城があらわれたことで、守備側の北条氏の戦意が大きく下がって無血開城に至っています。
その巨大な城が石垣山の一夜城。まずはそこを攻めます。
小田原城から少し西の山に城跡があり、大きな駐車場がいくつも整備されているので、車でのアクセスは抜群です。
駐車場の目の前に早速野面積みの石垣がでーんと!

いきなり圧倒されます。

そこから石段を登っていくと上下2段に分かれた東曲輪があります。
途中で見かけた石垣と桜。

それぞれがかなりの広さ。20万の大軍を率いての攻城戦であったことを想起させるに十分です。

その上段には二の丸がありますが、これがまた広い!

二の丸の東端からは小田原城が望めます。


秀吉はこの石垣山城に淀殿などを呼んで日々大宴会を催したそうです。
広大な二の丸から小田原城を見下ろしながらの宴はさぞ楽しかったのではないでしょうか。

二の丸東側の少し下りた場所には井戸曲輪があります。相模湾とのコントラストが絶景!


井戸曲輪はその最低部に湧き水があり、そこに至る通路が螺旋状に石垣が組まれていることから「サザエ曲輪」とも呼ばれます。
降りてみました。




すごい迫力です。
これを見るためだけにでもココに来る価値があると思えるほどです。
石垣でよくあるのは、一辺が数メートルもあるような巨石(鏡石)があったり、天守閣を配置する場所の周囲に急角度できっちり組まれていたりすると大迫力を感じますが、ここの井戸曲輪はそのいずれとも異なる迫力。
遥か低い場所まで丹念に石が組まれ、しかもそれが曲輪と呼べるほどの大きなスペースであり、底部に立つとその囲まれ感は特別なものだと感じます。

年寄りの冷や水的に言えば、別にそんなところに石垣をきっちり組む必要はありませんが、そういう場所ですら手を抜かずに施工したことに設計者の執念のようなものを感じます。

石垣山城の設計者は諸説あり、主には黒田長政や加藤清正とされていますが、いずれも小田原征伐に参陣していないため、参陣した黒田官兵衛ではないかという説があるそうです。
官兵衛と言えば、本能寺で信長が亡くなったと聞いてうろたえる秀吉に「ご武運が開けましたな」と耳打ちして秀吉を天下人に導いた逸話が残っています。つまり官兵衛は秀吉をいかに持ち上げるかという視点を持っている人。
石垣山城が小田原城を守る北条氏に対する示威行為だとすると、小田原城から見えない井戸曲輪に必要以上の施工をする必要がありません。よって井戸曲輪の石垣は対北条氏ではなく、対秀吉であったと言えます。
井戸曲輪の底で汲んだ水は秀吉と淀殿が飲む茶に使われたでしょう。そんな大切な水汲み場はしっかりと作る必要があります。こうしたことに配慮が行き届くのは誰か?
やはり真っ先に浮かぶのは、秀吉のことを考える官兵衛ではないでしょうか。

閑話休題。
二の丸北?の急斜面にも巨石がゴロゴロ転がっています。その下には帯曲輪も広がっていました。



そしていよいよ本丸へ。

なかなかの広さです。
さすが秀吉。いや、官兵衛。
しかし天守台はかなり狭いです。およそ100㎡前後といったところでしょうか。

この広さだと大きな天守閣はなく、少人数の寝泊まりや食事が出来る程度の小さな建物があったのだろうと思われます。
山の斜面には多くの樹木が立っているので、天守台から小田原城は見えませんでしたが、当時は木を切り倒していたはずなので、きっと小田原城を見下ろしていたことでしょうね。

さて、これで小田原城攻略の前仕事は終わりました。次はいよいよ小田原城です!

★石垣山城の画像の数々はこちらに保存しました。
石垣山城(神奈川県小田原市)
Posted at 2025/04/22 21:17:48 | コメント(1) | 城めぐり | 趣味
2025年03月26日 イイね!

急遽出発 その2

2箇所目に立ち寄ったのは岐阜城。
でも金華山の頂上にある本丸や天守閣には行かず、その麓にある施設を見学します。
そこには信長がこの地を治めた際に作った「信長居館庭園」があり、近年その発掘が進んだとのことなので、その見学に行ってきました。
庭園入口は山の南寄りにあります。


冠木門をくぐると当時の様子を再現したCGイラストがありました。

かなりの規模であることが分かります。

奥へ進むと両側を石垣で固められた通路がくねくねと続きます。



その先にいくつもの居館が現れるという配置で、それら建物同士が廊下で繋がっていたそうです。


ちなみに建物は再現されていませんが、現地の立て札にあるQRコードをスマホで読み取れば、VRで当時の建物などが再現された状態を見ることが出来ます。

居館前には滝が流れる庭園も作られていたり、敷地内を横切るように川が作られています。



その奥には美しく朱塗りされた三重塔がそびえ立ち、その脇には巨大な岩石の絶壁がそそり立ちます。


ここに塔を配置したのは高名な日本画家の川合玉堂だそうです。

こうした光景はこの時代にはなかなか見られるものではなく、訪れた人たちをさぞ驚かせたことでしょう。
この頃の信長は尾張を統一し美濃に手を伸ばし始めた頃。斎藤道三の領有する稲葉山城を攻め落とし、その名前を岐阜城に変えたことは有名ですが、岐阜の名前は中国の岐山から来ているとのことから、この時既に信長は天下統一を明確に意識していたと言われています。

実は先々週、小牧山城を見に行きました。
ここも信長が攻め落とした城ですが、ここの最大の特徴は大手門から本丸に向けた直線の大手道。普通の城は攻め手が一気に押し寄せないように通路は何度も屈曲させるのが一般的です。
そこをあえての直線。

これは城を軍事拠点としてだけでなく政治的な象徴として存在させるという信長の意図であるとされ、同様の作りが岐阜城の前の信長の居城だった小牧山城にも見られます。
信長はこの時点で「政治」を意識していたわけですが、同時に「天下統一」まで意識していたかを城の作りから推察することは困難です。しかし岐阜城下に造られた居館庭園は、来訪者へのおもてなしが意識されていること、更には信長の力を誇示するという意図が伝わってくることなどから、天下という「その先」を意識していたことが明確に感じられる施設と言えます。

この居館跡は現在も工事中です。
どこまで復元するのか不明ですが、建物まで復元されれば岐阜城天守閣とセットでの一大コンテンツとなって多くの観光客が訪れる目玉スポットになると思います。

「その時」を待ちましょう。

さて、お城でお腹いっぱいになった後はキャンプ場へ。
設営後にちょっと読書してから昼寝しました。
夕飯はコンビニ無料クーポンでもらったホタテ蒲鉾スティックとじゃがりこマッシュポテトと竹輪。


この日は月の出が遅かったので、晩酌後に外へ椅子を出して星空をまったり眺めました。この時期はまだまだ冬の星座が天頂近くにあり、多くの一等星が見られます。
ぼんやり眺めていたその瞬間、流れ星が!
願い事を唱えられるほどの長さではありませんでしたが、流星群でない日では久々に見ました。
この瞬間、嬉しすぎてガッツポーズまで作ってしまいました(笑)

よし、星に願いを込めつつ、信長ばりに大志を抱くか。
って、この歳で持つ大志って何?(笑)

今回撮影した写真はフォトアルバムに収めました。
小口城(愛知県大口町)・岐阜城下信長庭園(岐阜県岐阜市)
Posted at 2025/03/26 10:23:38 | コメント(2) | 城めぐり | 旅行/地域
2025年03月26日 イイね!

急遽出発 その1

土曜日のハモン様との会話。
ハモン様「あれ、この土日はキャンプ行かないの?」
ザク違「あ、うん、今のところ予定してないよ」

と言ったものの、その直後からソワソワ…
年が明けてから既に8回行っていますが、昨年は3月までに10回行ってました。

よし、行くか(笑)

そそくさと準備を進め、と言っても近所の薬局で食材を揃えるだけ。道具一式は常にイフリートカスタムに常備してあります(笑)

今回の行先は岐阜。
日曜日のお昼前に出発し1箇所目に行ったのは愛知県大口町にある小口(おぐち)城。


ここは1459年に初期の織田氏である広近によって築城されました。現在はその遺構のほとんどが消失し本丸付近のみが残りますが、周囲には東に大きな公園、南に小学校が建っており、恐らくそのあたりも二の丸や三の丸などの城のエリアだったと感じられ、当時の縄張りの壮大さを偲ばせるに十分な環境です。
城全体としては周囲に二重の堀と土塁を備えた堅固な造りだったそうですが、今は本丸周囲の東西と南に堀跡が見られます。


北側には小さな公園とトイレがあり、小高い場所の本丸跡に立てられた資料館が見えます。


本丸跡に入ると1段上がった場所に資料館があり、その下にこんな石碑がありました。


多くの人の名が刻まれています。
愛知岐阜三重だと陸軍歩兵第6連隊が編成された地域なので、その関係かもしれません。
合掌。

資料館前には井戸跡と思われるものや野鍛治炉跡があります。


無料で入場できる資料館内には古文書など、城にまつわる資料が多数展示されており、大変勉強になります。


小口城は後に信長にも攻められましたが容易に陥落せず、調略によって落とされたそうです。また小牧・長久手の戦いでは秀吉方の拠点とされて、その際に縄張りが修築されたことなども語られていました。

城の西側にはモダンな作りのコミセンがありますが、元は尋常小学校だったようです。

その隣には小口神社があり、奥まで行くと土塁らしきものが見られました。


織田広近について、信長との関係をググると…


お、マヂか!?
と思って更に調べるとこれは誤った情報のようで、事実は「竹中工務店の始祖・竹中藤兵衛が信長の普請奉行だった」ということのようです(笑)
織田家は清洲織田氏と広近の岩倉織田氏の2家ありました。広近は室町幕府管領・斯波氏に仕え、越前朝倉氏に従って上洛までしたそうで、かなりの権勢を誇っていたようです。
こうしたことは今回初めて知りましたが、なかなかの人物のようですね。

ということでその1はおしまい。
その2に続きます。

小口城の写真はフォトアルバムに収めました。
小口城(愛知県大口町)・岐阜城下信長庭園(岐阜県岐阜市)
Posted at 2025/03/26 09:39:36 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域
2024年10月17日 イイね!

2024年、34回目のキャンプ

今回もちょこっとキャンプです。
その前に久しぶりの城跡巡り。
今回訪れたのは愛知県設楽町にある田峯城。けっこうな山奥にあるので、道中はずっと上り坂のワインディング。漸く到着するとそこそこの広さの無料駐車場があります。


駐車場から少し降りたところには早速空堀と橋があります。

この大規模土木工事感が山城の魅力の一つですね(^ ^)
頂上の本丸までにいくつもの曲輪が配置され、なかなかの堅城。
そして本丸へ。



そこには他で多く見られる模擬天守(当時には無かったニセモノ)ではなく、書院造などの建物がありました。
内部には城や城主一族の悲しい歴史が綴られています。
ここには菅沼氏が居ましたが、武田、今川、松平(徳川)、織田といった有力大名の狭間で常にどの勢力に付くかで内輪揉めを繰り返し、その度に一族内部で争い殺し合うことの繰り返しがありました。
なんと悲しい歴史でしょう…

城内の様子はフォトアルバムに収めました。
田峯城(愛知県設楽町)

ところで私の城跡巡りもかなりの数になってきました。大小合わせてざっと400くらいでしょうか。愛知岐阜三重に加え、静岡県の西半分あたりまでは概ねローリング出来ています。
そうなると今後どうするか。
 ①さらに遠方へ足を伸ばす
 ②既に行った城を再訪し深める

どちらも楽しそうですが、年齢的にもあまり遠出を繰り返せなくなるだろうと思うと②の方が現実的かな。

その後はキャンプ場へ。
この日の夕飯はピーマンとサバ水煮を加熱しポン酢醤油をかけたもの。

ピーマンは庭で採れたものです。

そして星空。
話題の彗星は雲で見えませんでしたが、夏の大三角はまだまだバッチリ見えます。
翌朝4時半に起きて見た星空には巨大なオリオン座が輝いてました。
そうそう、ベテルギウスはまた少し暗くなっているような…。いよいよ超新星爆発か???などとテキトーなことを考えてしまいました(笑)
Posted at 2024/10/17 21:59:30 | コメント(1) | 城めぐり | 趣味

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「重巡鳥海の製作(船体の修正その4) http://cvw.jp/b/488285/48472648/
何シテル?   06/07 13:55
模型工作とキャンプが大好きなヘタレをやぢです。 私がフォローする方には2種類あります。 一つは「以前からのみん友さん」 もう一つは「ちょっと興味を持っ...
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